ひとり娘
一 出会い
滋賀県長浜市 余呉町川並(よごちょう かわなみ) 四方を山に囲まれた、この小さな村に湖がある。その湖の名前は余呉湖。そして別名を鏡湖(きょうこ)と言った。
その理由は静かな湖面に周囲の景色が、まるで鏡を見ているようにはっきりと映し出されているからだ。湖の大きさは一、八平方キロ、周囲六、四五キロの小さな湖で、この湖は古来より伝説が伝えられている。それは【はごろも伝説】と名付けられていて、言い伝えによると(天から羽衣を纏(まと)った一羽の白鳥が舞い降りてきて、湖で水を浴びながら白鳥の姿から人間の美しい女性の姿に変わっていく。そしてその女性の行動を見ていた一人の男は女性を天に帰すまいと、木に掛けてあった羽衣を盗んでしまう。天に帰れなくなった女性はその男と結婚をするが、やがて隠してあった羽衣を見つけ出して天に帰ってしまう)という伝説だそうである。ほかの地方にもある羽衣伝説とは内容が少しばかり違うそうだが、余呉湖ではそう伝えられている。
そんな神秘的な湖の近くに、一人の女性が住んでいた。名前は、桐野 麻衣(きりの まい)年齢は二十一歳で、地元の会社に勤めている。身長は百六十二センチで、体重は五十二キロのスリムな女性だ。顔立ちはやや卵型で、二重瞼をした大きめの目が印象に残る。特に美人と言えるタイプではなく、どちらかと言えば少し幼く見えて、可愛い感じのタイプと言えた。髪はストレートで肩付近まで伸ばしている。麻衣は子供の頃からこの湖が好きで、暇な時はいつも湖畔に来て湖を眺めていた。
平成二十五年の秋も深まった十一月のある土曜日、麻衣は会社が休みの今日も湖を眺めながら、ひとりで湖畔に立っていた。だが今日の麻衣は今までのように、好きで湖を眺めているわけではなかった。それは最近になって、彼女に深い悩みができてしまったからだ。悩みと言うよりも、むしろ悲しみと言ったほうが正しいだろう。
麻衣は高校を卒業すると、すぐに今の会社に就職をして、その半年後に同じ会社に勤める三歳年上の男性と恋に落ちた。だが二年ほど続いた交際も、とうとうピリオドを打たなければならない時がきたのだった。それも自分のほうからではなく、相手から終わりを告げてきたのだ。他に好きな女性ができたからという別れの理由では、もう何をどうしようと彼との仲は元に戻ることはない。麻衣は大好きな湖を見ることによって、そんな悲しみが少しでも癒えるならと思っていた。
月日は流れ、新しい年が明けた。春の三月になり、傷ついた麻衣の心も時の流れと共に癒されていった。しかし新しい恋をしようとか、新たな出会いを求めようとは思わなかった。今はまだそんな気分になれなかったのだ。だが出会いというのは麻衣の気持ちとは裏腹に、こちらから求めなくても向こうから勝手にやって来る。
麻衣はいつも湖を納得するまで眺めた後、近くの喫茶店・羽衣(はごろも)に寄って、コーヒーを飲んでから帰るのが習慣となっていた。
三月半ばの良く晴れた日曜の昼下がり、麻衣はその日も湖を見た後で、羽衣に寄った。
「こんにちは」
「いらっしゃい。今日も湖を見てきたの?」
「ええ」
「よく飽きないね」
「好きだから」
「何か飲む?」
「ホットを」
この喫茶店は、十年ほど前に会社を退職したマスターが、奥さんと二人でオープンしたと聞いている。麻衣は就職してからここへ来るようになり、もう三年ほど通っている。マスターの年齢は四十台の半ばで、温厚そうな顔をしていた。ママは美人で愛想が良く、お似合いの夫婦だと感じた。麻衣が半年余り前に失恋したことも、二人はよく知っている。失恋後に落ち込んだ顔をしてここへ来た麻衣が、マスターから理由を聞かれて話したからだ。そして何かと元気づけてくれたのも、マスターとママなのだ。
麻衣がコーヒーを飲みながらマスターと話をしていると、ドアが開いて一人の男性客が入って来た。マスターが「いらっしゃい」と言うと、その客は「こんにちは」と挨拶をして、カウンターの椅子に座った。麻衣が座っている椅子から、ひとつ空けた隣の席だ。麻衣にとっては初めて見る客だが、マスターとママは知っているようだった。
「コーヒーを」
「山ちゃん、今日も一人かい?」
「ははは、いつものことですよ」
「たまには彼女と一緒に来なさいよ」
「そんな人はいませんから」
山ちゃんと呼ばれたその客は二十台半ばと見受けられる年齢で、やや細身だが背は高かった。おそらく百八十センチ前後だろう。特に男前とかハンサムと言えるような顔ではないが、優しそうな顔立ちをしていた。マスターは出来上がったコーヒーを山ちゃんに差し出しながら、麻衣に話し掛けた。
「山ちゃんと会うのは初めてだったかな?」
「ええ、存じていません」
「彼がここへ来るようになってから、もう一年近くが経つけど、今まで会わなかったのだね」
するとその山ちゃんが話し始めた。
「僕の仕事は交代勤務なので、ここへ来る曜日も時間もばらばらだから、会わなかったのでしょう。マスター、せっかくだから紹介してください」
「そうだね。麻衣ちゃん、こちら山中さんといって高月町の方だよ」
「山中徹(やまなか とおる)と言います。よろしく」
「山ちゃん、この子は桐野麻衣さん、この村の子です」
「桐野です、よろしく」
マスターからの紹介が終わると、徹が麻衣に話し掛けた。
「僕は高月町に在る日本硝子という会社に勤めていて、実家が宮城県なので会社の寮に入っています。歳は二十五歳です」
「私は余呉町の余呉電子という会社に勤めています。歳は二十一です。東北の宮城県から来られたのですか、どうしてそんな遠い所からこちらに?」
「特に深い訳はないのですが、一度関西に住んでみたかっただけです」
「そうですか、それでこちらはどうですか?」
「関西弁が柔らかいというか、親しみがあって良い所ですよ。桐野さんは、まだ二十一歳ですか。若くていいですね」
「二十五歳だって、まだ若いと思いますけど」
「いやいや、そう言っている内にすぐ三十になりますよ。でもここには一年通っているけど、会うのは初めてですね」
「今まですれ違いで来ていたのでしょうね」
「この時間に来ることが多いのですか?」
「私の勤めている会社は土曜と日曜が休みなので、どちらかの午後に来ます」
「僕は先ほど言ったように交代勤務なので、土曜日と日曜日は月に一度か二度しか休めなくて、ここへ来るのも午前中が多いので会わなかったのですね。じゃあこれからは桐野さんと会えるように、午後に来ます。迷惑じゃなければですが」
「ここで話すくらいは別に迷惑じゃありませんけど」
「そうですか、良かった。また話し相手になってください」
「私なんかで良かったら」
マスターとママさんは二人の話を聞いていて、ニコニコと笑いながら仕事をしていた。
二 空からの贈り物
家に戻った麻衣は先ほど知り合った、山中という男性のことを思い出していた。決してハンサムとは言えないが、優しそうな顔立ちからして悪い人には見えなかった。もし悪い人だったら喫茶店のマスターが教えてくれるだろう。もっとも良い人だろうと悪い人だろうと、店で会った時に話をするだけの仲なのだ。麻衣はそう思いながらも、ちょっぴり彼のことが気になっていた。
一方、寮に戻った徹も麻衣のことを思い出していた。歳は二十一と言っていたが、それよりも若く見えて幼さが残る彼女を可愛い子だと思った。特に二重瞼で少し大きな目が印象に残り、またあの店で会えることを願っていた。しかし土曜日と日曜日の午後に限られているから、仕事の性質上あまり行けないので会う機会は少ないだろうと思った。たとえ行けたとしてもその曜日、その時間を狙って頻繁に会いに行けば嫌われそうな気もしたので、たまにしか会えないほうが却って良いのかもしれない。それにそのことを知っているマスターとママにも(また麻衣ちゃんに会いに来たな)と、心の内を見透かされるのも嫌なので、その時間に行くのは月に一回か二回で、あとは今までどおり午前中に行くことに決めた。それで会えなかったら仕方がないと、割り切って考えていた。
それから二週間後の日曜日、徹は昼食を済ませた後、喫茶店(羽衣)へと向かった。車を停めて中へ入ったが、彼女の姿は見えず(今日は会えないな)と思いながら、コーヒーを飲んでいるとドアが開いた。徹は開いたドアを見なかったが、マスターが「いらっしゃい、麻衣ちゃん」と言ったので、彼女が来たことが分かった。そしてその途端、徹は自分の胸の動悸が早くなったのを感じた。麻衣は入って来ると、先日の徹が座ったように彼の座っているカウンターの椅子から、ひとつ間を空けて座った。
「桐野さん、こんにちは」と徹が挨拶をすると、麻衣も「こんにちは」と返した。徹が「また会えましたね」と言うと、麻衣は「ええ」と言って、にっこり笑った。
ただ、そのあと話すことが思い浮かばず、しばらく黙ったままでいるとマスターが気を利かせたのか、二人に話し掛けてきた。
「二人とも、今日はうまく会えたね。一日ずれていたら会えなかったかもしれないよ。これは神のお導きかな」
「マスター、たまたまですよ。でも僕にとっては嬉しいですけど」
徹がそう言うのを麻衣は笑いながら聞いていた。マスターは続けて徹に聞いた。
「山ちゃん、まだ今の会社に勤めるの?」
「はい、僕のわがままで家を出たけど、兄が後を継いでくれているので問題ありません」
麻衣は二人の話を聞いていて、何の話なのかさっぱり分からなかった。するとマスターが言った。
「麻衣ちゃんは知り合ったばかりだから、彼のことは何も知らないよね。実は山ちゃんの実家では、お父さんが会社を経営なさっているんだよ。それで本当なら実家の会社で働くのが普通だけど『次男だから自分の好きなようにさせてほしい』と言って、家を出て今の会社に入ったそうだよ。そうだったね、山ちゃん」
「そうです。父の会社も大会社というわけでもないので、次男の僕までいる必要はありません。いずれ父が社長を退いたら兄が社長になるでしょう」
「そういうことだよ」
話を聞いた麻衣は(へぇーそうなんだ)と思いながら徹の横顔を見た。
「確か大学を卒業してから、こちらへ来たと言ったね?」
マスターが徹に聞くと彼が答えた。
「はい、今ちょうど丸三年になりました。大学では電気関係を専攻していたので、会社でも電気の仕事をしています。それに実家の会社が電気関係の会社ですので、大学も電気を専攻したのです」
「じゃあ電気関係には詳しいから、会社以外でも役に立つというわけだね」
「マスターの店でも何かあれば言ってください」
「それは助かるなあ、そのときはよろしく頼みます」
「分かりました。任せてください」
麻衣は口を挟むこともなく、ただ二人の会話を聞いているだけだった。するとマスターが麻衣に言った。
「麻衣ちゃん、ごめんよ。私が山ちゃんと話すから、二人が話せなくなってしまったね」
「いえ、構いません。私の知らないことばかりなので、聞いていると色々と分かってきますから」
「山ちゃんは真面目でいい男だよ。この店に来るようになって、もう一年以上経つから性格も分かるよ。昔のことは知らないけど、こちらへ来てから三年の間、一人の女性とも付き合っていないそうだ」
そこで徹が口を挟んだ。
「単に僕が女性にもてないだけですよ。強いて言い訳をさせてもらうと、会社には女性が少ないのと、交代勤務なので知り合うきっかけがない、ということもあります」
「私は山ちゃんが女性にもてないとは思わないよ。いやむしろ好かれるタイプだと思っているよ。今までは、そういう女性に巡り合わなかっただけだよ」
「マスター、お世辞でも嬉しいですよ。ありがとうございます」
「ははは、決してお世辞じゃないよ。本当にそう思っているからね。麻衣ちゃんだってそう思うだろう?」
マスターは麻衣に話を振ってきた。
「いえ、私は山中さんのことをまだよく知らないから」
「そうだね、まあいずれ分かるよ」
そんな話をしながら時間は過ぎていき麻衣が店を出た後、徹も帰宅した。その後の麻衣は、毎週土曜と日曜の午後は必ず羽衣へ行った。そのほうが徹と会えると思ったからだ。
一方、徹は勤務の関係で行けない日が多かったが、行ける日は必ず行った。それで徹と麻衣は少なくとも、月に二回は羽衣で会って話すようになった。
そのようなことを繰り返しながら、四か月ほどが過ぎたある日のこと、二人はその日も羽衣で会って、たわいない話をしながら一時間ばかりが過ぎた頃だった。それまで晴れていた空が急に暗くなり、突然の雷とともに雨が降り出したのだ。半時間が過ぎても雨は止みそうになく、おまけに風も吹いて傘を差しても帰れないほどの天候だった。夏の午後は、こんな天候になることもよくあるのだが、これでは帰りたくても帰れそうにない。それからも店内で外の様子を見ていたが、雨は止みそうになかった。そこでマスターが徹に言った。
「山ちゃん、麻衣ちゃんを車で送ってやってよ」
「そうですね。この風雨だと歩いて帰るのは無理ですよ、麻衣ちゃん家まで送るよ」
「じゃあ山ちゃんのお言葉に甘えます」
二人はマスターが呼んでいる「山ちゃん」と「麻衣ちゃん」の呼び方に感化されて、いつしか愛称で呼び合うようになっていた。
「マスターそれじゃ僕も麻衣ちゃんを送った後、寮へ帰ります」
二人は代金を払うと店を出た。車に乗って走り始めると、それまで降っていた雨が急に止んで、空が明るくなってきた。それはまるで徹と麻衣の二人を外で会わせるために、空が仕組んだ策略のようだった。
徹が麻衣に話し掛けた。
「急に晴れてきたね」
「もう少し店の中で待っていれば、迷惑を掛けなかったのに」
「僕はこれで良かったと思います。麻衣ちゃんと二人で車に乗れたからね、あはは」
「まあそんな冗談を」
「本当ですよ、これは僕に対して空からの贈り物なのかな?・・・あの、もし良かったら、少しドライブでも付き合ってもらえない?雨も上がったことだし。嫌なら無理にとは言わないよ」
「別に嫌じゃないけど、私なんかに時間を使ってもいいの?」
「いいから誘ったんだよ」
「じゃあ付き合うわ」
「ありがとう」
二人は雑談をしながら、二時間ばかりして帰宅した。麻衣はあらかじめ携帯電話で家に連絡をして「夕方には帰るから」と言っていたので、徹はそれに合わせて麻衣を家に送り届けた。帰りに携帯電話の番号を聞きたかったが、その勇気がなくて聞かずに別れたのだった。
徹は寮に帰ると麻衣のことを、思い出してばかりいた。彼女と知り合って半年、今では麻衣に対して好意を通り越して好きになっていた。しかし彼女の気持ちが分からず、告白などする勇気はなかった。断られた時の辛くなる気持ちを味わいたくなかったからだ。
一方、麻衣も家に帰ってから徹のことを思い出していた。彼は車の中でこう言った「麻衣ちゃんと二人で車に乗れて良かった」と、そして「これは空からの贈り物かな」とも言っていた。そんな彼の言葉が表す意味は何だろう?私のことを好きだと言っているのではないけど、それに近いニュアンスに聞こえる。少なくとも好意は持っていてくれるのだろうと感じた。でも自分は一年前に交際していた男性から、ふられるという辛く悲しい経験をして、そんなことはもう嫌だと思っていたので、もし彼から「好きだから付き合って」と言われても、すぐに「はい」とは言えそうになかった。
三 交際
それから約二か月後の土曜日、徹と麻衣は羽衣でいつものように話していた。徹は彼女に会ったら言おうと決めていたことがあった。ただ店内では言いにくいので店外で言おうと思い、麻衣が帰る時に一緒に店を出るつもりをしていた。
一時間余りが過ぎた頃、麻衣が店を出たので「あっ、そうだ」と、わざとらしく言ってから、席を立って麻衣の後を追った。外に出て「麻衣ちゃん」と呼び掛けると、彼女が振り向いた。
「麻衣ちゃん、呼び止めてごめんよ」
徹はそう言いながら、ポケットから携帯電話のストラップを取り出して、麻衣に言った。
「これ、友達と遊びに行った先で、君への御土産にと思って買ってきたよ。店の中で渡そうと思っていたのに、うっかり忘れてしまって」
「あら、私に御土産を買ってくれたの。ありがとう、じゃ遠慮なく頂くわ」
「それと明日の日曜日だけど、もし良かったらどこか遊びに行かない?」
「えっ、私と」
「うん、ダメかな?」
「明日は別に用事も無いけど・・・いいわ、行きましょうか」
「オーケー、そうこなくちゃ。じゃあどこか行きたい所はあるかな?」
「特にないわ」
徹と麻衣は明日の待ち合わせ場所と、時間を決めて別れた。徹が店に戻るとマスターが聞いてきた。
「山ちゃん、急にどうしたの?」
「このまえ友達と遊びに行った時、麻衣ちゃんに御土産を買ってきたのですけど、渡すのを忘れていて思い出したから急いで渡してきました」
「そうだったの、彼女喜んでいただろう?」
「さあどうでしょうね。受け取ってはくれたけど」
「そりゃあ嬉しかったと思うよ。私が思うには麻衣ちゃん、山ちゃんのことを少なからず好意を持っているように見えるから」
「ええっ、それは本当ですか?」
「恋愛感情まではいっていないと思うけど、君と話している時の彼女の目を見ていると、きらきらと輝いて見えるから、まず間違いなく好意は持っていると思うな」
「だったら嬉しいけど」
「山ちゃんが麻衣ちゃんを好きなのは、すぐに分かったよ。口に出さなくても彼女に対する君の顔と態度が、全てを物語っていたからね。あはは」
徹は寮に帰ると、先ほど羽衣のマスターが「麻衣ちゃんは山ちゃんに、好意を持っている」と言ったことを思い出していた。それが本当なら、どんなに嬉しいか。明日「遊びに行こう」と誘って受けてもらえたことも嬉しかったが、それに加えて好意まで持っていてくれるとしたら、彼女との交際も夢じゃないと思った。そして明日遊びに行った帰りにでも、雰囲気が良ければ交際を申し込んでみようかと考えていたのだった。
そして翌日、麻衣は自分の車で待ち合わせ場所の木之本町へ向かった。徹の住む高月町と麻衣の住む余呉町の間に木之本町があるので、ちょうど中間付近で待ち合わせることに決めたのだ。麻衣が着くと徹はすでに来て待っていた。車を停めると、麻衣は徹の車の助手席に乗った。
「おはよう、今日はよく晴れたね」
「九月半ばになったけど、残暑厳しいって感じね」
「まだしばらく暑い日が続きそうだなあ。さてどこへ行こうかな?」
「どこでもいいわよ」
「じゃあ取り敢えず走りながら、いい所があれば寄っていくことにしようか?」
「そうしましょう」
そう決めて徹は車を発進させた。行先など、どこでも良かったのだ。麻衣の顔を見ながら話をして、車に乗っていればそれで良かった。徹と麻衣は取り留めのない話をしながら、途中で昼食を挟んで琵琶湖を一周した。それでも帰るにはまだ時間が早かったので、長浜まで帰って来て港に車を停めると、徹は麻衣に話し掛けた。
「麻衣ちゃん、今日は付き合ってくれてありがとう」
「私のほうこそ誘ってくれてありがとう。色々と話せて楽しかったわ」
「僕もだよ。こうやって君と出掛けるのは初めてだからね。羽衣の中だと個人的な話は中々できないけど、二人きりだと誰にも聞かれずに話せるから。それでその個人的な話を少しばかりしたいのだけど、いいかな?」
「いいけど、なあに?」
「うん・・・実は僕、君のことが好きなんだ。それで僕と付き合ってもらえないかな?」
麻衣は徹の申し込みに、しばらく考えてから返事をした。
「・・・・山ちゃん私ね、今から二年ほど前に付き合っていた人がいたの。でもうまくいかなくて、別れてしまったの。別れたと言うと聞こえがいいけど、私がふられたのよ。そしてその時以来、男の人と付き合うのが臆病になっているの。山ちゃんがそう言ってくれるのはとても嬉しいし、私も山ちゃんのことは嫌いじゃないわ。ううん、どちらかと言えば好きよ。でも、また前のようにふられて辛い思いをするのは嫌なのよ。ふられるのが嫌だから誰とも付き合わないと言っていたら、うまくいくものもいかなくなってしまうのは、もちろん分かっているわ。ただ私は今でも過去の嫌な思い出を引きずっているの。だからどうしても新しい恋に対して、臆病になってしまうのは分かってね・・・それで山ちゃん、しばらく考えさせてほしいのだけど、構わないかな?」
「もちろんだよ。今すぐ返事をもらおうなんて、最初から思っていないよ。急がなくていいからね」
「じゃ、そうさせてもらうわ。気持ちが決まったら必ず言うから」
徹は時計を見ると、車のエンジンを掛けて帰路に就いた。
それから一週間後の土曜日、麻衣は午前中に羽衣へ行った。徹に申し込まれた交際の件を、彼の居ない所でマスターに相談しようと思ったからだ。
「こんにちは」
「いらっしゃい麻衣ちゃん、この時間に来るとは珍しいね」
「ちょっとマスターに相談したいことがあるの」
「仕事をしながらでもいいかな?」
「ええ、もちろんです」
「じゃあ聞くよ」
「実は山ちゃんのことだけど、彼に交際を申し込まれて、それでどうしようかと迷っていて返事をしていないの。その迷う理由というのはマスターも知っているとおり、私が二年前に付き合っていた人にふられたでしょう。それで辛い思いをしたから、もう二度とそんな思いを味わいたくないという気持ちがあるからなの。彼と交際しても、またふられるんじゃないかと思うと、自分の気持ちに素直になれなくて。でも山ちゃんは優しいし真面目だし、いい人だから付き合いたいという気持ちもあるから、それでどうしたらいいのか迷って、マスターに相談しようと思って来たのよ」
「そうだったの、交際を申し込まれたんだ。彼は悪い男じゃないから、そういう意味では問題はないけど、麻衣ちゃんが迷う気持ちは分かるよ。二年前のことが今でもトラウマになっているのも、よく分かるよ。でも中々難しい相談だね、麻衣ちゃんが僕の言葉に左右されて、交際を受けるかどうかの結論を出した結果、あとで後悔をするようなことになってもいけないからね」
「そうね、マスターの言うとおりだわ。自分で考えて自分で結論を出せば、その結果があとで間違いだったと気付いても、仕方がないと思えるかもしれないわ」
「でも麻衣ちゃんがこうやって相談しに来てくれたのだから、何か良いアドバイスくらいはしてあげたいと思っているよ。たださっきも言ったように他人の意見は参考にしても、それに左右されずに結論を出してほしいな」
「はい、アドバイスだけでもしていただけると嬉しいです」
「それじゃひとつだけ。僕は思うけど、人は誰でも辛いことや悲しいことを何度も経験しながら、生きているよね。まあ一部の人はそんな経験もなく、順風満帆な人生を送っている人もいるだろうけど。しかし、ほとんどの人は一度や二度は、辛く悲しい経験をしていると思う。それでも人は新たな幸せを求めて前を見て、前に進んで生きているんだよ。後ろばかり振り返っていても、何も生まれるものは無いからね。自分が幸せを求めて行動をした結果が、不幸な結果に終わるかどうかは最初から分かるものではないし、先に悪い結果を考えてしまうと、何も行動を起こすことができないだろう。例えば山ちゃんだって、麻衣ちゃんに交際を申し込むことを考えたとき(もし断られたらどうしよう)などと考えて、申し込んじゃいないと思うよ。断られるかもしれないとは思っていても、そのときは仕方がないと思って、申し込んだと思う。悪い結果を先に考えていては、交際を申し込むなんてできないよ。彼だって麻衣ちゃんに断られたら、すごく辛い思いをすると思う。麻衣ちゃんが辛い思いをしたのと同じくらいにね。でも勇気を出して申し込んだのは、自分の今の気持ちを大切にしたかったからじゃないかな。だから麻衣ちゃんも、後の結果より今の自分の気持ちを大切にすればどうかな。人はどんな辛いことがあっても、前に進まないと何も生まれてこないと思うし、前に進んだことによって辛い思いをしたとしても、そういう経験を積み重ねることで、自分を成長させてくれると思うよ。僕の言えることはそれくらいで、たいしたアドバイスにもならないけど、参考にしてもらえばいいよ」
「ありがとうマスター。もう一度よく考えるわ」
四 婿養子
徹から交際を申し込まれて三週間が過ぎた。麻衣は羽衣のマスターからもらったアドバイスと、自分の気持ちを考え併せて結論を出そうとしていた。どんな結論であろうと、やはり一か月以上も返事を待たせるわけにはいかないから。
そして麻衣が出した結論は申し込みを受けようと決めたのだった。過去のトラウマが無くなったわけではないが、申し込みを受けたことが良かったのか悪かったのかは、いずれ必ず結果がでるだろう。もし悪い結果が出ても今回のことが自分にとって、良い経験になればそれでいいと思った。色んな経験をたくさん積んで、自分という人間が成長できればそれでいいと思う。流した涙は決して無駄にはならないだろう。とにかく今は自分の気持ちに対して、素直な行動をしようと決めた。麻衣は携帯電話を取り出し、徹から聞いた番号を押した。
「もしもし山ちゃん、麻衣です」
「徹です」
「こんにちは、実はこの前の交際の件だけど、返事をしたいから会ってもらえないかしら?」
「うん分かったよ。いつがいいかな?」
「今度の土曜か日曜はどう?」
「土曜の午前中なら大丈夫だよ」
「じゃあそうしましょう」
そして約束の土曜日、木之本のスーパーの駐車場で待ち合わせ、麻衣は徹の車に乗ると、すぐに話を始めた。
「忙しいのに呼び出してごめんね。今日は仕事なの?」
「午後からだから大丈夫だよ」
「そう・・・それでこの前、電話で言った交際の件だけど、返事が遅くなってしまってごめんね。・・・・。わたし色々考えたのだけど、山ちゃんの申し込みを受けようと思っているの」
「えっ、それは本当」
「本当よ、でもひとつだけ最初に話さなければならないことがあるの」
「話さなければならないことって、何?」
「私ね、一人っ子なの。だから親は婿養子をもらってほしいと言っているから、そのことを前提にしての交際じゃないとダメなの。それで山ちゃんが『婿養子には行けない』と言うのなら、交際はできないわ。山ちゃんのことは好きだけど、育ててくれた両親も大切にしなければならないし、悲しませたくないから一人っ子の私がお嫁に出るわけにはいかないの」
「そうだったの、一人っ子だったとは知らなかったよ。でも僕は次男で家を継ぐ立場じゃないから、そういう意味では問題はないよ。もし君と交際が続いて結婚の話になったら、僕は養子に行ってもかまわないと思っているよ。どんな形であっても、愛している人と一緒に居たいから」
「山ちゃんありがとう。そう言ってくれて、とても嬉しいわ。確かにこの先、いつまで交際が続くかどうかは分からないけど、結婚の話が出てから婿養子に来てほしいと言うのは、騙したようで悪いから最初に言っておくのが礼儀だと思うの」
「そうだね、後になって聞くよりは初めに聞いておいたほうが、僕もそのつもりで付き合えるからね」
「本当にそれでいいのね」
「もちろんいいよ。麻衣ちゃんのことは大切にするし、もっと好きになってもらえるように努力するよ」
「うふ、そんなに頑張らなくてもいいわよ。今の山ちゃんで充分だから。でも本当に裏切らないでほしいとは思っているわ」
「麻衣ちゃん、僕は君を裏切らないと百パーセント約束はできない。そんな何年も先のことを、約束できるほうがおかしいと思うよ。それも人の気持ちだからね。明日遊びに行こうという約束ならできるけど、人の気持ちというのは、いつ変わるか分からないからね。僕が今言えることは、そんな約束はできないけど、君に愛され、信頼される男になれるよう常に努力をすると、それだけは約束するよ」
「私の気持ちだって、いつ変わるか分からないのに山ちゃんにだけ、そんな約束をしろと言うのは間違っているわ。だから私も山ちゃんに愛される女になれるように努力するわ」
「ありがとう。僕は麻衣ちゃんに申し込みを受けてもらえたことだけで、充分に嬉しいよ。断られることも覚悟はしていたから」
そして二人の交際が始まった。羽衣に行く時も、必ず会えるようにと日時を決めて行った。
交際を始めてから二人で羽衣へ行った時に、徹がマスターに報告をした。
「僕たち付き合うことに決めました」
「本当かい、そりゃあ良かった。おめでとう」
「ありがとうございます」
「麻衣ちゃんを大事にしてやってよ」
「ええもちろんです。大切にします」
「山ちゃんにひとつだけ聞きたいことがあるのだけど、いいかな?」
「はい、何でも」
「麻衣ちゃんに交際を申し込もうと決めた時だけど、申し込んで断られたらどうしようとか思わなかったかい?」
「それは思わなかったですね。断られるのは僕が麻衣ちゃんに好かれていなかったということですから、きっぱりと諦めるつもりでいました。悪い結果を気にしていたら一生申し込みなんかできません」
「そうだね、君の言うとおりだと思うよ」
麻衣は徹の話を聞いて(羽衣のマスターが言っていたとおりだ)と思った。彼は交際を申し込んで断られた場合、諦める覚悟でいたのだ。悪い返事だったらどうしようなどとは、最初から考えずに申し込んだのだった。麻衣も何か月か先、何年か先に徹との交際が終わることがあったとしても、その時はきっぱりと諦めて別れようと思った。たとえ恋人だろうと、人の気持ちまで束縛はできないのだから。彼から別れを告げられたとしたら、それは自分が一生彼に愛されるだけの魅力が無く、それと愛されようとする努力が足らなかったからだと思って、相手を恨むことや責任を押し付けることは止めようと思った。
五 麻衣の家
二人の交際は順調に育まれ、半年が過ぎた平成二十七年の春、二人でドライブに行った帰りに麻衣が徹に言った。
「山ちゃん、一度わたしの家に来ない?両親に紹介したいの」
「それはいいけど少し緊張するな」
「ふふふ大丈夫、最初だけよ。帰ったら話しておくわ」
「じゃあ日時の連絡を頼むよ」
それから一週間後の日曜日、徹は麻衣の家を訪問した。応接間に通されると、すぐに両親が顔を見せた。徹はソファーから立ち上がって挨拶をした。
「初めまして、山中徹といいます。今日はお忙しいところ、お邪魔しましてすみません」
「麻衣の父で、麻夫(あさお)と言います、よろしく」
「母の妙子です。いつも娘がお世話になり、ありがとうございます」
「とんでもありません。僕のほうこそ仲良くしていただいて、喜んでいます」
「さあ、座ってください」「麻衣、何か飲み物を持って来て」
母はそう言って自分も腰掛けた。
それからは徹の身辺話や実家の話、世間話などをした。徹が次男坊で高月町にある、会社の寮に住んでいることを麻衣から聞いていた両親は、脳裏に婿養子に来てもらえるかもしれないとの思いがあったので、徹に対して常に和やかな雰囲気で会話をしていた。
二時間ばかりして徹は桐野家を後にした。両親と話すのも長時間は気疲れするので、早くお暇(いとま)したいのが正直な気持ちだった。
徹はそれからも麻衣の家に何度か訪れては、両親を含めた四人で話をして、徐々に親交を深めていった。
そうして半年余りの月日が流れ、平成二十八年の年が明けた。年末に麻衣と相談をして、両親に結婚の許しをもらえるようにお願いをしようと決めたのだった。
徹は新年の二日の日に、麻衣の家に年頭の挨拶に訪れた。挨拶はあくまで形の上であって、訪れた理由は結婚の許しをもらう話をするためにだ。
挨拶を終えた徹と麻衣の両親は、座敷でお茶を飲みながら世間話をしていたが、麻衣が徹に目配せをしたので(例の件を今から話せ)と言っているのだと思い、改めて座り直すと両親に向かって話し始めた。
「お父さん、お母さん話したいことがありますので、聞いてください」
「何でしょう?」
「実は麻衣ちゃんのことですが、僕たちが知り合ってから二年近くが経ちました。付き合うようになってからはまだ一年ちょっとですが、最近では二人で結婚の話もするようになりました。それでお父さん、お母さん、僕たちの結婚を許していただけないでしょうか?」
徹は話し終わると、両親に向かって深々と頭を下げた。
「山中さん、頭を上げてください」
父はそう言ったあと、徹に話し掛けた。
「あなたもご存知のように、この子は一人っ子です。それで私も家内も(麻衣がお婿さんをもらってくれたらいいが)と思っていました。それで私は娘から、あなたが次男坊だと聞いていましたので、もしかしたら婿養子に来てもらえるかもしれないと期待していました。先ほどあなたが言われた、娘との結婚は婿養子に来ていただけると、捉えても良いのですか?」
「そうです。僕はそのつもりでいます。ですから麻衣ちゃんとの結婚を許していただけませんか?」
「私は今まで、あなたとは何度か会って話もしました。家内も同じです。私の目から見て、あなたは優しくてしっかりしているかただと思いました。そんなあなたと娘が結婚するのに、反対をするつもりはありません。まして婿養子に来ていただけるのですから。ただ私も家内も婿養子に来ていただける人がいれば、誰でも良いというわけではありません。やはり娘が気に入った男性をと、願っていました。山中さん、今後ともよろしくお願いします」
麻衣の父も色々な思いがあったのだろう。養子はほしいが娘を不幸にはしたくないとの思いで、娘が好きになれないような男性を婿養子にもらうことは、絶対にしないでおこうと思っていたのだ。
「許していただき、ありがとうございます。麻衣ちゃんを幸せにできるように、努力します」
「結婚はいつ頃する予定でいるのかな?」
「出来れば、今年中にと思っています。今からだと秋ぐらいにどうでしょうか?」
「それくらいならいいね。おまえはどうだ?」
父が母に尋ねた。
「私もそれでいいわよ。麻衣はどう考えているの?」
「私はいつでもいいから、みんなに任せるわ」
父は嬉しそうに笑いながら、母に言った。
「いや、これはめでたいな。新年早々に娘の結婚が決まるとは」
「そうですね。お父さんどうですか、祝杯を上げましょうか?」
「おおそれはいいね、早速用意を頼むよ」
「分かりました、少し待っていてくださいね。じゃあ麻衣も手伝って」
「は~い」
そう言って二人は立ち上がると、キッチンへ向かった。徹と父が世間話をしていると、母と麻衣が「お待たせ」と言って、酒と料理を持って部屋に入って来た。
「じゃあ山中さん、一杯いきましょうか」
「ありがとうございます。でも車で来たので、あまり飲むわけにはいきませんけど」
「そうだったね。じゃあ今日は家(うち)に泊まりなさい。汚くしていて悪いが」
父の言葉を聞いた徹と麻衣は、驚いて顔を見合わせた。父は続いて言った。
「酔いが覚めたからと言っても、体の中で完全に分解されるのは時間が掛かるから、万一何かあれば私にも責任が生じるよ。飲酒運転は絶対にしてはいけないのは勿論だが、事故でも起こせば幸せの絶頂から一気に不幸のどん底に落ちて、結婚どころではなくなるからな」
父の言うことは尤もだ。飲まないのが一番良いのだが、今の雰囲気では父の相手をしてあげたいとも思う。自分が泊まっていけば全てが丸く治まると思い、徹はそうすることにした。
「じゃあ泊めていただくことにします」
「そうしなさい。さあ改めて一杯どうぞ」
徹は父の酌を受けると、父にも注いだ。そして母も「今日はお祝いだから少し飲む」と言ったので、麻衣が注いだ。
その夜、徹は麻衣と二人で話した。
「麻衣ちゃん、君を僕の両親と兄に紹介したいから、近い内に僕の実家に来てほしいのだけど」
「もちろん行かせてもらうわ。まだ一度もあなたの御家族とは会っていないのだから。それなのに私たちや私の両親だけで、勝手に結婚の話なんかして申し訳ないと思っているの。もしあなたの御家族が私たちの結婚を反対したら、どうしようと思って」
「ははは大丈夫、反対なんかしないから。事後承諾になるけど、きっと喜んで祝ってくれるさ」
「だったらいいけど」
「心配無用だよ」
六 徹の実家
宮城県の仙台市に在る徹の実家は、山中電機設備という電気設備業を営んでいる。従業員は約百名で、この業界では多いほうだ。主に工場の新築時や増設時の設備を請け負っている。また家を建てる会社とも契約しており、新築時の電気設備も行っていた。
社長は徹の父で、山中徹雄(やまなか てつお)という。年齢は五十八歳。妻は美知子(みちこ)という名前で五十五歳だ。それと、いずれは社長になるだろう二十八歳になる長男の昭雄(あきお)が居る。昭雄はまだ独身なので、徹が家を出たあとは三人家族となった。家業は順調で営業利益も年々、上昇していた。
一月の半ばになり、麻衣は徹の実家を訪れた。朝早く家を出発したのだが、着いたのは夕方の四時だった。
座敷に通された麻衣は、買ってきた手土産を徹に渡しながら話していると、そこへ両親が入って来た。
「初めまして桐野麻衣といいます。よろしくお願いします」
麻衣は正座をして深く頭を下げ、挨拶をした。すると最初に徹の父が挨拶を返した。
「初めまして、徹の父で徹雄といいます。よろしくお願いします。今日は遠い所をよくいらっしゃいました。向こうでは徹が大変お世話になっているそうで、ありがとうございます」
「とんでもありません。徹さんには私のほうが、お世話になりっぱなしです」
次に母の美知子が挨拶をした。
「初めまして、母の美知子です。徹から『結婚したい人がいるから、会ってほしい』と、いきなり言われまして本当に驚きました。」
「相談もしないで勝手に決めてしまい、申し訳ありませんでした」
「それはいいのですよ。家同士が遠いので、そうそう何度も行き来するのは大変ですから」
「ありがとうございます。それと徹さんにもお願いをしましたが、私は一人っ子なので婿養子に来ていただきたいのです。それも合わせて許していただけるでしょうか?」
麻衣の問いに、父が返事をした。
「徹が大学を卒業した後、私はうちの会社で兄の昭雄と一緒に働いてほしいと思っていたのですが『世間を見て色々勉強をしたい』と言うものですから、家を出るのを許しました。だけどいずれは帰って来てくれるだろうと思っていました。正直言いまして、婿養子の件は私の想定外でした。それも遠い滋賀県ですから、そうなれば今後は滅多に会えなくなるでしょう。だから反対したい気持ちもありますが、反対したからといって『はい分かりました』と、素直に親の言葉を聞き入れる徹ではないでしょう。私たちの知らない間に、あなたの家に住んでいると思いますよ、はははっ。私は滋賀県にある、あなたの家まで徹を引き戻しに行く元気はありません。家(うち)には長男の昭雄がいますので、次男の徹は好きになった女性と結婚させてあげようと思います」
「では許していただけるのですね」
「そうです。美知子もいいな?」
「仕方ありませんね」
「ありがとうございます」
麻衣はお礼を言って、頭を下げた。
「それより昭雄はまだ帰って来ないのか?」
父が、そう母に聞いた。
「仕事がまだ終わらないようですね。桐野さん、今日は徹の兄もあなたにお会いするのを楽しみにしていたのですが、急に仕事が入りましてね。何時に帰って来るのか分からないのですよ」
「そうですか、残念です。私もお会いしたかったのですが」
「今日はどこかに泊まられるのでしょう?」
母が麻衣に聞いた。
「はい、市内のホテルを予約しました」
「じゃあ、家(うち)で晩御飯を一緒に食べてから、行かれたらどうですか?」
「いえ、ホテルで食事はできますから」
「それはそうかもしれないけど、それでは私の気が済みません。もう用意はしておきましたので、是非食べていってください」
「そうですか、じゃあお言葉に甘えて頂きます」
それから一時間ほどして、兄の昭雄が返って来た。すぐに麻衣の居る所へやって来ると挨拶を始めた。
「遅くなってすみませんでした。徹の兄で昭雄といいます。よろしくお願いします」
「桐野麻衣です。こちらこそよろしくお願いします」
「あなたが徹のお嫁さんになられる桐野さんですか。いや、とても美しい方だ。徹が好きになったのも頷けます」
「とんでもありません、婿養子に来てほしいなどと無理を言ってしまい、申し訳ないと思っています」
「いえいえ、徹はそれほどあなたのことが、好きになったということでしょう」
六時になり、母の美知子が「そろそろ食事にしましょう」と言った。食事中は五人が賑やかで、楽しく話ながら食べたので箸も進んだ。
麻衣は食事が終わると、一時間ほど両親や昭雄と話をしてから、山中家を後にして徹にホテルまで送ってもらった。
麻衣はその翌日、もう一度徹の家に寄り、両親に挨拶をしてから徹の車で家に帰った。家に着くと彼と一緒に中へ入り、両親に今日の報告をした。
「徹くん、遠い所を車の運転で疲れたでしょう?ありがとう」
「いえ、慣れていますから大丈夫です」
そこで麻衣が両親に言った。
「お父さん、お母さん、彼の御両親に結婚の許しをいただいたわ」
「そうかい、それは良かったね」
母がそう言うと、父も言った。
「婿養子のことも許してもらえたのか?」
「ええ、本当は養子に行ってほしくなかったようだったけど、仕方がないなという感じで許してもらえたわ」
「そうか、徹君には無理を言って済まないね」
「それは気にしないでください」
「ありがとう、娘ともどもよろしくお願いします」
「はい、こちらこそ」
七 事故
平成二十八年二月のある日の夜のことだった。社長の徹雄が家族の前で話を始めた。
「あと二年もすれば私も六十になる、六十になったら社長を昭雄に譲ろうと思っているのだ。徹も家には帰って来ないだろうから、遅かれ早かれ昭雄に社長をしてもらわなければならないからな。もちろん会長という肩書で仕事は続けて行くが、昭雄と美知子は私のこの考えを、どう思うか聞かせてくれないか?美知子はどうだ?」
「あなたの思ったようにすればいいわ」
「うん、昭雄はどう思う?」
「僕はお父さんが社長を退くのはまだ早いのではと思うけど、お父さんも充分に考えた末の話だろうから任せます」
「分かった。じゃあそうさせてもらうよ。昭雄、二年後には社長になるつもりで勉強をしてくれよ」
「はい、頑張りますので色々と教えてください」
こうして徹雄の話が終わり、二年後の青写真が出来上がったはずだった。
徹と麻衣の結婚も順風満帆に話が進み、半年が過ぎた。それは結婚式まで残り三か月になった八月のこと、徹の携帯に実家の父から電話が入った。
「徹か、今から話すことをしっかりと聞いてくれ」
「うん、何?」
「実は昭雄が・・・昭雄が死んだよ」
「えっ、父さん何を言っているの?」
「だから昭雄が・・・昭雄が死んでしまったんだ」
「・・・嘘でしょう、どうして?」
「車の事故だったんだ。正面衝突をして、助からなかった。とにかく早急に戻ってくれるか?」
徹は父の話が信じられなかった。だが夢ではない、父がわざわざそんな嘘をつくはずもない。
その二日後、山中家では家族、親族の深い悲しみの中、昭雄の葬儀が執り行われた。
忌引休暇が終わった徹は会社に戻った。それから毎週行われる法事の日は、家が遠いので帰れなかったが、四十九日の法事だけは帰った。
その間に徹と麻衣は、それぞれの両親を含めて結婚式のことを相談していた。昭雄が亡くなった今は当然のことだが、三か月後にする予定だった挙式も延期すると決まり、それもいつまで延期するのか、その予定も決められずにいたのだった。
喪が明けて半月ばかり過ぎた十月末のある日、徹は父の徹雄から掛かってきた電話に出た。
「もしもし徹か」
「父さん、何か?」
「実は折り入って話したいことがあるんだが、近い内に一度こちらへ帰って来られないか?」
「それは構わないけど・・・じゃあ今度の土曜日はちょうど休みだから、その日でいいかな?」
「済まないけど、そうしてくれるか」
「分かった、必ず帰るから」
そして次の土曜日、徹は実家に戻った。
「遠い所を済まないな」
「いいよ、それは」
徹雄は徹に謝ってから話し始めた。
「実は会社のことで、おまえに頼みがあるんだ。・・・どうだろう、今勤めている会社を辞めて、うちの会社を継いでくれないか?」
徹は兄の死後、当然そうなるだろうと予測はしていた。他に家を継ぐ者がいないのだから、自分が継ぐより仕方がない。まして会社を経営しているとなれば尚更だ。父は続けて話した。
「昭雄が生きていれば、そんなことは言わないのだが、そうしてくれないか?」
「父さん、僕も兄さんが亡くなってから、そのことは考えたよ。今までは僕の勝手にさせてもらったし、家の後継ぎは僕しかいなくなったんじゃ、そうするのが当然だと思う。でも桐野さんとの結婚はどうすればいいのか、それを困っているんだ」
「それは私も考えたが、婿養子に行くという話は断れないのか?うちに嫁に来てもらうのはかまわないから」
「でも一人っ子の彼女を嫁にもらうのは、両親が許してくれないと思うよ」
「そうだろうな、何か良い方法がないか、一度あの子と相談をしてみては」
「もちろんそうするけど、僕の考える限り何も良い案は浮かばないよ」
「とにかくおまえは戻ってくれるのだな?」
「そうするよ」
翌日、高月へ戻った徹は喫茶店・羽衣へ行った。
「こんにちわ」
「山ちゃん、いらっしゃい。どう家のほうはもう落ち着いたかな?」
「はい、何とか・・ただひとつだけ困ったことができました」
「どうしたの?」
「兄が亡くなったあと、父が『実家に戻って家業を継いでくれないか』と言って、僕に頼んできたのです。それは当然のことで仕方がないのですけど、麻衣ちゃんとのことがあるので困っています」
「お兄さんが亡くなった今、山ちゃんが跡を継ぐのは当然だよね」
「そうです。麻衣ちゃんの両親には婿養子に行くとの約束で、結婚を許してもらったので、それがダメになったから困ってしまって。麻衣ちゃんが養子取りじゃなければ、結婚して仙台に来てもらえばいいのですが、養子となるとそうはいきません」
「難しい問題が起きたね。何か良い案はないかな?」
「今のところはありません」
「麻衣ちゃんには話したの?」
「まだですけど、今からここで会う約束をしているので、その時に話します」
「じゃあ、その話を聞いたら麻衣ちゃん、がっかりするだろうな」
マスターと話していると、そこへ麻衣が入ってきた。しばらくは雑談をしていたが、徹は場所を変えて話をしようと思い、麻衣に言った。
「麻衣ちゃん、今日は君に話したいことがあるから、ちょっと外へ出ようか」
「分かったわ」
二人は店を出てから車に乗ると、徹は父から頼まれた後継ぎの話と、自分の考えを麻衣に話した。
「徹さん、宮城に帰るのね」
「こればかりは仕方がないから」
「私たちの結婚はどうなるの?」
「そのことでどうすればいいか、相談をしようと思って」
「そう簡単に結論が出るような話ではないわ」
「とにかく二人で何か良い案がないか、考えようよ」
「困ったわね。跡を継がなければならなくなったあなたと、一人っ子の私じゃ結婚は無理だわ」
「だろう、家が近いと何とかなるかもしれないけど、宮城とここではね」
「私たち、別れなければならないの」
麻衣はそう言いながら、ハンカチで目元を拭った。
「何か別れずに済む、良い方法はないだろうか?」
「分からない、何も思いつかない」
その言葉を最後に二人の会話は途切れた。
八 親の想い
それから一か月余りが過ぎた十二月の半ば、徹は会社に辞表を出していたのが受理されたので、実家に戻った。麻衣には帰ることを電話で伝えたが、会わずに帰ったのだった。帰るまでに会いたいという気持ちはあったが、会ったところで暗い話しか無いのは分かっているので、会わずに帰ったのだ。実家に戻ってからも電話をしたかったが、何も良い話が無いので電話も掛けることができなかった。そして麻衣からも電話が掛かってくることはなかった。
実家に戻ってから三か月が過ぎ、平成二十九年も三月になった。しばらくは仕事に追われて気持ちに余裕がなかったが、それなりに仕事も覚えて余裕ができると、思い出されるのは麻衣のことだった。結婚をする寸前までいきながら、延期している状態の中で、どうすればいいのかも分からず、辛い日々を過ごしていた。もし今度会うとすれば自分が何か吉報を持っていき、二人が笑顔で結婚の話ができる時だろう。
一方、麻衣もこの三か月の間、徹とのことを考えていた。いくら考えても良い方法は浮かばなかったが、それでもつい考えてしまう。何度も両親に相談してみようかと思いながら過ごしていたが、できずにいた。もし相談したら「嫁に行ってもいい」と言ってくれるかもしれないが、決して本心からそう言っているわけではないだろう。
そんなある日の夜、両親が麻衣に話があると言って呼んだ。
「徹君との結婚をどう考えているんだ?」
父がそう聞いてきた。
「私・・・できれば結婚したいと思っているわよ。でも一人っ子の私が嫁に行くことはできないから、諦めているわ」
「そうか、辛い思いをさせて済まないな。麻衣、母さんとも相談したのだが、もう父さんや母さんのことは気にしないで、嫁に行ってもいいよ。私たちは今まで充分、幸せだった。次はおまえが幸せになる番だ。好きでもない人を、仕方なく婿養子に迎えても、幸せにはなれないだろう。いくら養子がほしいと言っても、麻衣に嫌々結婚させるわけにはいかないよ。だから徹君と結婚しなさい」
「でも私が遠い所に行ってしまったら、お父さんとお母さんは二人きりになってしまうわ。何か起きても、すぐに帰れないからダメよ。近い所だったら、もしお嫁に行ったとしても、すぐに帰れるけど」
「そんな心配はいらないよ。近くには親戚も多いし、近所の人だって仲良くしているから、困った時は助けてもらうよ」
「お父さん、お母さん・・・・ありがとう。私うれしい」
麻衣はそう言うと、目から涙が溢れて落ちたのだった。
話が終わると自分の部屋に戻り、さっそく徹に電話を掛けた。
「徹さん、元気にしている?」
「うん、麻衣ちゃんも?」
「元気よ。実はね、お父さんとお母さんが『宮城に嫁に行ってもいい』と言ってくれたの。それでさっそくあなたに言おうと思って、電話をしたの」
「えっ、それは本当かい」
「本当よ、そんな嘘はつかないわよ」
「でも、君が嫁に行ってしまったら御両親はどうするの?」
「それは私も思ったけど『自分たちは今まで幸せだったから、次はおまえが幸せになりなさい』と、言ってくれて」
「じゃあ本当にいいの、僕たち結婚できるんだね」
「ええ、できるわ」
「それじゃあ、延期している式の日取りや場所を相談しないと」
「一度どこかで会いましょうか?」
「そうだね、近い内に会いたいけど、一度君の家に行こうかと思うんだ。御両親に会って、御礼とか話もしたいから」
「分かったわ、じゃあ来る日が決まったら連絡してね」
「それと車で行くから泊めてもらえるかな?」
「いいわよ、両親に言っておくわ」
徹は三月最後の土曜日に桐野家を訪れた。
「お父さん、お母さんお久しぶりです。このたびは大変迷惑をお掛けしまして、申し訳ありませんでした」
「いや、気にしないでください。私たちも色々考えましたが、やはり麻衣には好きな人と一緒になってほしいし、それが一番幸せになれると思ったから決断しました。徹君、どうか麻衣を幸せにしてください」
「分かりました。お父さんとお母さんのお気持ちを、決して無駄にすることなく、麻衣ちゃんを幸せにできるように精一杯努力します」
「じゃあ、さっそく式の日取りを決めなくちゃ。いつがいいかな?」
「そうですね、今年の秋はどうでしょうか?」
「うん、それくらいがいいだろう。十月ごろにするか?」
四人で相談をして決めたあとに、麻衣の母が言った。
「徹さん、遠い所から車で来て疲れたでしょう?」
「大丈夫です。途中で何度も休憩しながら来ましたから」
「向こうを何時に出発されたの?」
「朝の六時です」
「こちらに着いたのが夕方の四時ごろだったから、十時間ほど掛かったのね」
「そうです」
そこで父が言った。
「そろそろ晩御飯にしようか。妙子、用意はできているのだろう?」
「できていますよ」
「じゃあそうしよう。徹君、泊まるのだから一杯やろう。改めて結婚の祝い酒といこう」
「ありがとうございます」
「結婚してからも、こうやって飲みたいからたまには来てくれよ」
「はい、御両親には寂しい思いをさせますが、麻衣ちゃんには少なくても一年に二回は、帰ってもらえるようにします」
「いやいや、そんなに気を遣ってもらわなくてもいいんだよ。それよりも早く孫の顔が見たいな、はっはっはっ。三人で帰って来るのを楽しみにしているよ」
九 子の想い
結婚式を翌日に控えた麻衣は、いつもと同じ時間に目覚めるとキッチンへ行った。そこでは母が朝ご飯を作っていた。そして父は椅子に座って朝刊を読んでいた。それはいつもの見慣れた光景のはずだった。だが今朝の光景は何かが違っていた。何が違うのだろう、分からない?しかし何かが違う。
起きてきた麻衣に気付いた母が言った。
「用意ができたから朝ご飯にしましょう。早く食べて出掛ける準備をしないと」
三人は今日中に仙台へ行き、ホテルで一泊した後、明日の結婚式に出席するという段取りになっているのだ。
麻衣は椅子に座ると、両親と一緒に「いただきます」と言って食べ始めた。そして食べながら、ハッとした。(そうか、三人でこうやって御飯を食べるのは、これが最後なんだ)お父さんもお母さんも、それに気付いていたから・・・うまく言えないが、なんとなくキッチンの中の空気が違っていたのだ。いつもと微妙に違う両親の表情が、この場の空気を変えているのかもしれない。結婚式が終わった翌日から、お父さんとお母さんは、この場所でいつものように食事をする。今まで三人でしていた食事を、二人だけでするのだ。その時、二人は何を考えながら食事をするのだろう?寂しいと思いながら?それとも嫁に出したことを悔いながら?
両親にそんな思いまでさせて、私は嫁に行ってしまってもいいのだろうか?
この歳まで育ててもらった恩も忘れて、この家を出て行ってもいいのだろうか?いくら「嫁に行ってもいい」と言われたとはいえ、その言葉に甘え過ぎているのではないか?
徹の家では、四人で楽しく話しながら食べるだろう。少しの寂しさも感じずに、笑顔で食べるだろう。寂しい思いをしながら食べている両親と同じ時間に、私だけが楽しく食べていてもいいのか?
麻衣は、そう自問自答しながら朝食を食べていた。そして食べ終わった時(やはりそんなことをしてはいけない)と思い、箸を置くと両親に話し掛けた。
「お父さん、お母さん、私・・・・結婚しないわ」
「えっ、麻衣いまになって何を言っているんだ?」
父が驚いて麻衣に尋ねた。
「私、この家に居る。お嫁には行かないわ」
「おい、お前どうかしたのか?」
「どうもしない。これからもずっと、お父さんとお母さんのそばに居たいの。こうやって三人で御飯を食べたいから」
「麻衣・・・」
「麻衣ちゃん・・・」
麻衣の言葉に感極まったのか、父と母の目は潤んでいた。
完