序章
一 序章
ここは滋賀県の湖北に位置する長浜市高月町、人口はおよそ一万人の比較的小さな町だ。滋賀県は琵琶湖を中心にして、主に「湖東」「湖西」「湖南」「湖北」の四つの地域に分類されている。そして長浜市は琵琶湖の北部にあるので「湖北地域」に入る。中でも高月町は長浜市内より、さらに十五キロほど北になり冬は降雪量の多い町だ。
湖北地域一帯には多くの観音像があり、この高月町にも渡岸寺(どうがんじ)という集落にある、向源寺(こうげんじ)というお寺に、十一面観音像が祭られている。ただし実際は少し離れた所に建てられている、渡岸寺観音堂と呼ばれるお堂の中に安置されていて、一般的には(渡岸寺の観音様)と呼ばれている。その観音像は国宝に指定されており、全国に七体ある中で最も美しいと言われている。
そんな町に山岡春男という男が住んでいた。春男の年齢は三十歳。ごく普通の会社員で今から二年前に、同じ会社に勤めていた三つ年下の純子という女性と結婚をして、一歳になる息子の夏樹と三人で暮らしていた。平凡だが幸せを地でいくような三人の家族だった。
時は平成十年の五月。ある日曜日の午後のこと、春男が息子の夏樹と二人で妻の帰宅を家で待っていると、リビングに置いてある電話が鳴った。春男が出ると湖北警察署からだった。
「もしもし、私は湖北警察署の山下といいますが、山岡春男さんのお宅でしょうか?」
「はい、そうです」
「山岡純子さんのお宅で間違いありませんか?」
「そうですけど、純子がなにか?」
「ご主人さんですか、今から話すことを落ち着いて聞いてください」
「分かりました」
「実は一時間ほど前のことですが、純子さんが交通事故に遭われまして病院へ運ばれました。しかしながら・・・誠にお気の毒ですが、お亡くなりになられました」
妻の純子は私用のため、午前中から出掛けていて午後の三時までには帰ると言っていたのだが、三時を過ぎても帰ってこないので(遅いな)と心配していたところだった。春男は夏樹を連れてすぐに病院へ向かい、妻の亡骸と対面をした。警察官から事故の詳しい状況など聞いたが、その時は耳に入らなかった。一歳の息子を残して先立つなどと誰が予想できたであろうか。あまりの突然の出来事に呆然とする春男だったが、夏樹には母の死が分かるはずもなく、ただ無邪気にはしゃいでいるのが悲しく思えた。
妻の死から二年が過ぎて春男は働きながら息子を育てていたが、両親や親戚の強い勧めもあって息子のためにも良かろうと思い、お見合いをして再婚をした。その女性は雪子という名前で年齢は三十歳、一度結婚をしたが別れて実家に戻って来たとのことだった。そして一年後、春男と雪子の間に娘が生まれて山岡家は四人家族となった。この時、息子の年齢は五歳になっていた。今では妻の雪子を本当の母親と思っている。しかし春男は前妻の純子のことが忘れられずにいた。息子のためとはいえ、雪子と結婚したことに対して後悔もしていた。一言で言うと彼女を愛せないのだった。ただ決して悪い女ではなく、家のことも子供の世話もきちんとしている。近所付き合いも普通にしている。だが、これは男にも女にも言えることだと思うが、根本的に好きになれる異性と好きになれない異性がいる。雪子には悪いが彼女は春男にとって、何年経っても愛せそうにない女だった。そんな彼女とは一生を共にしていく自信もなかった。雪子はどう思っているのか分からないが、春男に対して特に不満を言うわけでもなく、ただひたすら家事と育児にいそしんでいた。
そんな暮らしが二年余り続き、春男が雪子と結婚をして四年目に入った時のことだった。間もなく小学生になる息子、夏樹の教育方針をめぐって雪子と衝突してしまったのだ。ただでさえ愛せそうにない妻との衝突は春男にとって致命的だった。それからというもの、他のことでも些細(ささい)な言い合いをするようになり、もはや二人の関係は修復できず半年後に妻は娘を連れて家を出た。春男にとって娘は自分の子供であり可愛かったが、雪子もたった一人の我が子をとても可愛がっており、息子のいる春男はそんな二人を引き離すことができなくて、雪子が娘を連れて出ることに対して、拒むことはしなかった。
二 出会い
春男は次男に生まれたので家を出て両親と別居しているが、その両親の協力もあり、息子の夏樹はすくすくと育っていった。
年月の流れというのは早いもので、それから十六年が経ち、夏樹は大学を卒業して就職をした。就職先は滋賀県に何店舗もある地方銀行だったが、家の近くではなく滋賀県の県庁所在地である、大津市の支店に配属された。いずれは転勤により、家の近くにある支店に帰って来る可能性もあるそうだ。今は親元を離れ、銀行が借りているアパートに一人で住みながら通勤をしている。銀行では得意先係として一日の大半を外回りで過ごしていた。
そんな日々が一年ばかり過ぎた四月のある日のことだった。いつものように取引先の会社を順番に訪問しながら次の会社に入り、受付に行くと初めて見る女性が座っていた。挨拶をした後、聞いてみると、この春に高校を卒業して入社し、受付勤務になったとのことだった。その子は目がぱっちりとしていて髪は肩付近まであり、笑うと頬にえくぼができて、とても可愛い女の子だった。彼女は座っているので身長は分からないが、やや細めのスリムな体型に見えた。夏樹は初めて見るその子に対して、まるで今日初めて会ったという感じがしなくて何故かは分からないが、どこか懐かしいような感覚にとらわれたのだった。
その後も、彼女の会社には月二回の決まった日に訪問していたが、行くたびに会う彼女に夏樹は惹かれるものを感じるのだった。彼女の名札には佐伯と書いており苗字だけは分かった。何とかして一度誘いたいと思っていたが、誘う手段もなく数か月が過ぎてしまった。しかしそんなことでは何も進展はしない。色々と考えたあげく、ダメもとで思い切って彼女を誘ってみることに決めた。
そしてある日その会社を訪れた時に、いつものように受付へ行くと彼女に言った。
「佐伯さん、こんにちわ。びわこ銀行の山岡です」
「こんにちは、いつもご苦労様です」
彼女は今日も可愛い笑顔で山岡を迎えてくれた。
「少し話があるのですが、構いませんか?」
「はい、何でしょうか?」
「先日映画のチケットを貰ったのですが、二枚あるので一緒に見に行きませんか?」
その映画は恋愛映画で、公開前からかなりの人気がある映画だった。夏樹はチケットを貰ったと言ったが、本当は二枚買ってきたのだった。そして一枚のチケットを見せると、彼女はそれを見て言った。
「あら、この映画は私も見たいと思っていました。でも山岡さんは私なんかでよろしいのですか?」
「もちろんです。だからお誘いしたのです」
「ありがとうございます。それではお言葉に甘えさせていただきます」
彼女はお礼を言って、にっこりと笑った。
「じゃあこのチケットを一枚渡しておきます。始まる十分前に映画館の前で、待っていますので」
「分かりました。必ず行きます」
佐伯との話がうまくいって、会社を出た夏樹は嬉しさのあまり飛び跳ねそうになった。すんなりと誘いを受けてもらえるとは思っていなかったので驚きもあった。
十日後の日曜日、約束どおりに二人は映画館の前で落ち合って中へ入った。映画は悲恋の物語でラストに近づくにつれ、佐伯は持っているハンカチで目頭を押さえながら見ていた。映画館の中で話すことができないのは仕方なかったが、見終わってから外へ出た二人は少し遅い昼食を食べにレストランへと向かった。
夏樹の運転する車で郊外のレストランへ行き、食べたいものを注文した後、彼は彼女に話し掛けた。
「今日は付き合ってくれてどうもありがとう」
「いいえ、私のほうこそ見たかった映画に誘っていただき、ありがとうございました」
「映画館の中では話せなかったので、改めて自己紹介をします。山岡 夏樹といいます。年齢は二十三歳です。勤務先は御存じでしょうけど、びわこ銀行の大津支店です。今は大津市内のアパートに一人で住んでいますが、本籍は長浜市の高月町という所です」
「私は佐伯 冬美です。家はこの大津市内です。今年、高校を卒業したばかりで十八歳です」
ひととおり自己紹介が終わり、映画の感想など話していると注文した食事が運ばれてきたので、二人は食べながら仕事の話や家族の話などをして店を出た。夏樹は(今日が初めてのデートと言っても良いのか分からないが、初めてだから彼女をあまり遅くまで引っ張るのはやめて、早めに帰そう)と思って、彼女に言った。
「今から家まで送ります。道を教えてください」
「はい、家の近く迄で構いませんからお願いします」
夏樹は彼女を送り届けた後、自分もまっすぐにアパートへ帰った。そして(彼女の電話番号を聞いておけば良かったかな)と、少し後悔をした。本当は聞こうと思っていたのだが初めて外で会った彼女に対して、いきなり携帯電話の番号を聞くのも気が引けたのだ。それに聞いても教えてもらえるか不安だった。せっかくの良い雰囲気が気まずくなる可能性もある。また仕事で彼女の会社へ行けば会えるし、誘おうと思えばその時にでも誘えるので、今日は電話番号を聞かなかったほうが正解だったかもしれないなと思った。
一方、家に帰った冬美に母が聞いた。
「お帰り、映画はどうだった?」
「とても良かったわ」
「そうだろうね、見たいって言っていた映画だから、見られて良かったわね」
冬美は母と二人暮らしだった。母は冬美の小さなときに離婚をして実家に戻ったそうだが、それ以来は再婚もせずに娘を育ててきたとのことだった。だから冬美は父を知らずに今日まで生きてきた。全く覚えてもいない父に会いたいとも思わなかったし、母も父のことを語ろうとはしなかった。母には夏樹と見た映画のことは「友達と行って来る」と話しただけで、男性と行くとは言わなかった。母も特に「誰と行くの?」などとは聞かなかったし、初めて外で会う夏樹のことを母に話すのは面倒だった。それに彼のことはまだよく知らないので、聞かれても話せるほどの仲ではないと思った。
そこで冬美に新たな疑惑が生じた。(それにしても彼はなぜ私を映画に誘ってくれたのだろう?)と。確かに見たかった映画ではあったが、彼は私が(その映画を見たい)と思っていたことは、知らないはずだ。彼は銀行員なので映画のチケットを二枚持っていたら、誘おうと思えば同じ銀行にも若い女性は何人もいると思うのだが。もしかしたら私に対して、少しは好意を持っていてくれるのかな?もしも本当にそうだったら・・・冬美の顔から自然と笑みがこぼれた。
彼は見るからに銀行員らしく髪は短めで中肉中背、身長は百六十三センチの冬美より十センチ以上は高く、百七十五センチは下らないだろう。おっとりとした優しい顔立ちをしていた。今日は映画という性質上、多くを話すことはできなかったが、昼食時と帰る車の中で話した範囲では好感が持てる男性だった。そしてその好感とは別だが、初めて会社で彼を見た時に、何か惹きつけられるものを感じたのも事実だった。それが何であるのか具体的には分からないが、ずっと前にどこかで会ったような、そんな気がしたのだった。彼とは次に会う約束をしたわけでもないし、もう一度誘ってくれるかさえも分からない。お互いに勤め先を知っているだけで、ほかに連絡を取り合う方法は何もない。冬美はしばらくしてから、今日初めて外で会った男性に対して、そんなことを考えている自分に気付き、勝手な妄想はやめようと思った。
三 二回目のデート
彼女と映画を見に行ってから十日ばかりが過ぎた頃、夏樹は仕事で会社を訪れた。冬美は相変わらず受付に座っていたので、まっすぐに彼女の元へ行き、先日のお礼を言った。
「先日は映画に付き合っていただいて、ありがとうございました。とても楽しかったです」
「いいえ、私のほうこそ見たかった映画が見られて嬉しかったです。ありがとうございました」
「あの~、もし良かったらまた付き合っていただけますか?」
「はい、私のほうこそ映画のお礼を何かしなければと思っていますので」
「いえ、そんなことは構いません。気を遣わないでください」
「いいえ、そんなわけにはいきません」
「そうですか、じゃあお言葉に甘えて、食事でも奢ってもらおうかな」
「分かりました。ではいつがいいでしょうか?」
「いつでもいいのですが、基本的に銀行の仕事は終わる時間が決まっているようで決まっていない仕事なので、出勤日の勤務終了後は時間が分からないのでダメなんです。それで出来れば休日の土曜か日曜のほうが良いのですが」
「それじゃあ、今度の土曜日でどうでしょうか?」
「大丈夫です。じゃ、会う時間と場所を決めましょう」
こうして二人は二回目のデートが決まった。
その日、仕事を終えた夏樹はアパートに戻ると冬美のことを考えていた。今日、彼女の会社を訪問することは決まっていたので、もう一度誘ってみようと考えていたのだが、誘う口実が見つからず具体的な言葉では誘えずに、抽象的に「また付き合っていただけますか」としか言えなかったのだった。しかし彼女が言った「映画のお礼を」の、ひと言で一気に話が進展したのは幸いだった。それにしても随分と律儀な女性だなと感じた。他の女性のことはよく知らないが、男性が女性に対して何かを奢(おご)ったとしても、言葉でお礼を言う程度だと思う。もちろん二人の間柄にもよるが、何か物品を返す女性は少ないだろう。それは性格なのか、それとも親の教育なのか・・・まさか自分に対して好意を持っていてくれるなんてことはないだろうな?ただいずれにしても、また会えることはとても嬉しいことだった。
同じ頃、冬美は家で山岡の言った言葉を思い出していた。「また付き合っていただけますか」彼はそう言ってくれた。その言葉にどんな意図があるのかは分からなかったが、少なくとも私に対して少しは好意を持っていてくれているのだと思った。それは冬美にとって嬉しいことでもあった。そう言われて咄嗟(とっさ)に「映画のお礼を」と答えた自分の性格の中に、結構大胆な部分があるのを知ったのだった。そしてこれから先、(どうなるのだろう)と思ったが、女の自分からどうこうすることはできないので、彼の出方をただ待つだけにしようと思った。
約束の日が来て、待ち合わせた場所で会った冬美は夏樹の車に乗ると、彼はすぐに話し掛けてきた。
「さて、どこへ行きましょうか?お昼にはまだ早いので、どこかドライブでもしましょうか?」
「お任せします」
「じゃあ、琵琶湖をぐるりと回りましょう」
夏樹はそう言うと車を発進させた。車の中で二人の会話は弾んだ。何気ない会話なのだが、ただお互いの顔を見て話しているだけで二人とも楽しかった。
「じゃあ、そろそろお昼でも食べましょうか?」
時計を見ながら冬美に聞いた。
「十二時を過ぎましたね」
二人は道路沿いのレストランに入った。夏樹は椅子に座るとメニューを見ながら、今日の昼食は冬美の奢りなので高いものはやめようと思った。妥当なところでは千円前後かなと思って注文をした。彼女は働いているとはいえ、まだ入社して半年ばかりの新人だ。そんなに多くの給料を貰っているはずはない。それをいうと自分も同じだが、奢ってもらう立場として少しは気遣いをしなければと思った。二人はそれぞれに注文を済ませたあと、夏樹が彼女に話し掛けた。
「今日はお母さんになんて言ってきたの?」
「お友達と遊びに行って来るって言っただけです」
「それで誰と行くのとか、どこへ行くのとか、深くは聞かれなかったの?」
「ええ、母はいつもそんなに突っ込んでは聞かないわ」
「それは君を信じているからかな?」
「それもあると思うけど、母の性格でしょうね。大雑把というか、寛容というのか」
「君のお母さんは、娘をしっかり育ててきたという自負があるのだろうな。だから君がどこで何をしていようと、悪いことは決してしないと分かっているから、何も聞かずに出掛けさせているのだと思うよ」
「そうでしょうか、それじゃあ母の期待に沿わないといけませんね」
冬美はそう言ってにっこりと笑った。またその笑顔は山岡にとって、すごく愛らしくて可愛く感じた。
昼食を終えた二人は店を出ると車に乗り、国道百六十一号線を北へと向かった。そして滋賀県の湖北地方に入ると、西浅井町から木之本町へ、次に夏樹が生まれ育った高月町に着いた。
「ここが僕の住んでいた町だよ」
「そうですか、静かそうでいい所ですね。実家には帰らないのですか?」
「月に一度は帰りますけど、今日は君と一緒だから帰りません」
「ごめんなさいね、大切なお休みに付き合わせてしまって」
「いえ実家に帰るより、君と一緒にいるほうが嬉しいですから」
そう言った夏樹は、いま自分の言った言葉を彼女がどう受け止めたのかと気になった。そのまま車を走らせ国道八号線を長浜市から彦根市、近江八幡市を通り過ぎると、少し疲れてきたので喫茶店に寄った。そこでは飲み物だけを注文して「代金を払う」と言った彼女を制止して夏樹が払った。冬美は今日の費用を全て自分が払うつもりでいたのだった。なぜなら彼はお金を直接使わないにしても、車のガソリン代は彼のお金から出ていることが分かっていたからだ。その金額がいくら掛かるのか冬美には分からないが、決して安価ではないだろうと推測はできた。店を出ると時間は三時を過ぎていて、今から帰ると四時前には大津に着くだろうと思い、彼女に聞いた。
「そろそろ、帰りましょうか?」
「ええ、母が心配するといけないので帰ります」
先日と同じように家の近くまで送り届けた夏樹は、そのままアパートへと帰宅した。前回のデートの時も同じだったが、別れて一人になると、どうしても彼女のことが思い出されるのだった。今日話した内容や笑った顔、ちょっとした仕種まで思い出される。そんな自分は、もう彼女を愛し始めていることを疑う余地はなかった。
一方、家に帰った冬美も彼のことを考えていた。こうやって誘ってくれるけど、私のことをどう考えていてくれるのだろう?いくら暇だといっても、好きでもない女性を誘うことはしないだろうと思う。たとえ好きになってくれたとしても、わずか二回のデートで「好き」と告白はしないだろう。だから気持ちは分からないが、もしもそうだとしたら・・・告白されたら返事はどうしよう?誘いを断らずに受けているし、今日だって自分から誘ったようなものだ。それが何より論より証拠だ。彼に対して好意を感じているのは否定できないなと思った。
四 交際の始まり
それからも月に一度か二度は、夏樹のほうからデートに誘う日々が続いた。冬美も断ることなく誘いを受けた。そんな付き合いが半年ばかり続いたある日、夏樹が冬美に言った。
「改めてこんなことを言うのはおかしいかもしれないけど、話を聞いてくれるかい?」
夏樹はいつの頃からか、佐伯の名前を冬美ちゃんと呼ぶようになっていた。また冬美も山岡を夏樹さんと呼んでいた。
「ええ、何かしら?」
「僕たちはこうやって一か月に一・二度のペースで会っていながら、まるで友達のような関係を続けているよね。それは冬美ちゃんに何も言わない僕の責任だけど、僕には僕の考えがあったから、今まで何も言わなかったんだ。僕が誘うのは君のことが好きだから、いや今は愛しているからだよ。じゃあ、なぜ今まで何も言わなかったのかと言うと、僕の君に対する気持ちが一時的なものなのかどうかを、確かめる時間がほしかったからだよ。好きになったからすぐに「好きです。交際してください」と言って、またすぐに「気持ちが覚めたから別れよう」なんてことにでもなったら傷つけるだけなので、それは絶対にしたくなかった。それで今までひと言も告白しないで、ただ誘って会っていたという訳だよ。僕が何も言わないから不安だったと思うけど、それは謝らなければいけないな、ごめんね」
「いいえ、そのことはいいの。私だって夏樹さんの気持ちを聞こうと思えばいつでも聞けたのだし、聞かなくてもあなたを信じていたからこそ、こうやって付いてきているの。あなたが私のことを本当に真剣に考えていてくれたから、告白してくれるまで時間が掛かったのがよく分かったわ。だから何も謝る必要なんてないわ」
「そう言ってくれると気が楽になるよ。それで改めて正式に交際を申し込みたいのだけど、受けてもらえるかい?」
「もちろんよ。あなたが『今では私のことを愛している』と言ってくれたように、私も今では夏樹さんを愛しています」
「ありがとう。きっと大事にするからね」
「よろしくお願いします」
今日という日を境に、愛し合う二人の交際が正式に始まった。その後は会う頻度も多くなり、週に一度は必ず会う二人だった。
やがて夏樹は二十五歳になり、冬美は二十歳の誕生日を迎えて大人の仲間入りをした。夏樹は彼女の誕生日を祝うべくレストランを予約して、その席で言った。
「冬美ちゃん、成人おめでとう」
「私もとうとう二十歳になったわ」
「いよいよ大人の仲間入りだね」
「これからは何もするにしても、全て自己責任でしないといけないわ」
「そうだな、まあそんなに深く考えることはないけど、親の許可をもらわなくても自分の考えで何でもできるので、何かをする時は十分に考えて行動することだね」
「はい、そうします」
「話は変わるけど、君と知り合ってから一年半が過ぎたよね。それで一度君のお母さんに挨拶をしたいのだけど、どうかな?本当はもっと早くしたかったのだけど、二十歳になっていない十代の君との交際を、お母さんに反対されるのが恐かったから、二十歳になってから御挨拶に伺おうと考えていたんだ。それと僕の父にも、一度会ってほしいと思っているのだけど」
「私もあなたのことはまだ母に話していないわ。母は決して反対しないと思うけど、もし話してすぐに別れることにでもなると、今度は別れたという話をしなければならなくなるのが嫌なので、言わなかったの。ただ母は、私が誰かと付き合いをしているのは知っているでしょうね。一緒に住んでいて嬉しそうに出掛けていくのを見て、気付かない親なんていないと思うわ。でも母は何も聞かないの。私から言うまでは、きっと何も聞かないと思う。今までもそうだったけど、それが母の性格だから。それと夏樹さんのお父様には、いつでも構いませんから会わせてください」
「そうしてくれるかい。お互いの親に僕たちのことを話して、認めてもらおうよ。君のお母さんは知っていても知らないふりをしているだけで、心の中では心配しているだろうから、きっと知りたいと思っておられるよ」
「そうね、それじゃあ母には今晩でもあなたのことを話すわ」
「僕も父に連絡しておくよ。それで家に伺う日を決めておいてほしいのだけど、先に僕の家に来てもらってもいいかな?その後、君の家に伺うよ。だから予定として次の日曜日に僕の家に来て、その次の日曜日に君の家に行くというスケジュールで、お母さんに話してくれないかな?」
「分かったわ、母と相談して決まったら連絡するわ」
その日の夜、冬美は母に彼のことを話した。母は素直に喜んでくれて、彼の訪問を「楽しみにしている」と言ってくれた。一方、夏樹もそのことを電話で父に話すと「昼食を用意して待っている」と弾んだ声で言ってくれた。
五 両家への訪問
一週間後の日曜日、夏樹は冬美を連れて高月町の実家に帰ってきた。玄関先で父に紹介した後、中に入って応接間の椅子に腰掛けた二人に父がお茶を出した。
冬美は立ち上がり改めて自己紹介を始めた。
「佐伯冬美といいます。よろしくお願いします。また夏樹さんには、いつもお世話になりありがとうございます」
そう言って、持ってきた箱菓子を渡した。父はお礼を言いながら受け取ると、自分も自己紹介をした。
「夏樹の父の春男です。こちらこそよろしくお願いします」
挨拶を終えた父は夏樹に向かって言った。
「こんな可愛い子をどこで見つけて来たんだ?」
「ははは父さん、いきなりそんなことを言うから彼女が照れているよ」
「いやいや、私は本当のことを言っているつもりだが」
そこで夏樹は彼女との出会いを、ひととおり話した。
しばらく三人で話していると玄関のチャイムが鳴り、父が昼食にと頼んでおいた御寿司が届いた。寿司を食べながらも三人の会話は弾み、時間が経つのが早かった。午後の二時を過ぎ、そろそろ帰ろうかという話になり二人は立ち上がった。父は車の所まで見送りに来て、夏樹には「安全運転で帰るように」と、しつこく言った。彼女には「手土産を」と言って、何やら袋を渡して挨拶をしていた。見送る父を背にして、走り始めた車の中で冬美が話し掛けた。
「お父様、私の印象をどう思われたかしら?」
「そうだなあ、いきなり可愛い子なんて言っていたから、好かれたと思うよ。父はお世辞でそんなことを言う人じゃないからね」
「そうかしら、そうだったらいいけど。あなたのお父様には嫌われたくないから」
「決して嫌われることなんかないよ。君は二十歳と若いけど言葉も丁寧で、しっかりしているから」
あれこれ話している内に、冬美の家の近くまで帰ってきた。
「今度は僕が君のお母さんに会う番だね」
そう言うと冬美が答えた。
「母にあなたのことを話したら、楽しみにしていると言っていたわ。予定どおり、今度の日曜に会ってくださいね」
「分かったよ。お母さんには何かおいしい物を持って伺うよ」
冬美の家に着いたので二人はそこで別れた。
一週間後、夏樹が冬美の家に伺う約束の日曜日がきた。冬美は時計を見ながら、そろそろ彼が来る時間だと思い、母にお茶の準備を頼んでいると玄関のチャイムが鳴った。母に「彼が来たわ」と言って小走りに玄関へ行くと、やはり彼だった。「はーい」と返事をしながら玄関を開けると、夏樹は持ってきた四角い箱を冬美に渡しながら言った。
「こんにちは、これお母さんと食べてください」
夏樹は家に来る前にケーキ店に寄り、ショートケーキを買ってきたのだった。
「どうもありがとう、遠慮しないで頂きます。さあどうぞ入ってください。汚くしていますけど」
夏樹はそう言う冬美に玄関先から家の中を見て言った。
「いいえそんなことはありません。とても奇麗ですよ。それじゃ、お邪魔します」
彼を居間に通すと、キッチンでお茶の用意をしていた母に言った。
「お母さん、彼に入ってもらったからすぐに来てね」
「はいはい、分かりました。お茶が入ったら行くわよ」
娘の嬉しそうな顔を見ながらそう答えた。
ほどなくお茶を持った母が居間へ入って来たので、夏樹は改めて座りなおすと頭を下げて挨拶をした。
「初めまして、山岡といいます。よろしくお願いします」
「こちらこそ初めまして、冬美の母です。いつも娘がお世話になりありがとうございます」
母は、冬美の彼が山岡という名前だと初めて知った。そういえば娘に彼の名前を聞いていなかったのだった。山岡と言えば今から二十年ほど前になるが、自分が再婚した相手も確か山岡だったなと思い出した。
「それで山岡さんはびわこ銀行にお勤めだそうで、とても優秀なのね」
「いえ、そんなことはありません。その時は銀行の募集人員が多かったので、運が良かったのだと思います」
「そんなに謙遜をしなくてもいいのですよ。今はアパートにひとりで住んでおられるそうで、食事とか洗濯とか大変でしょう?」
「まあ何とかやっています」
「御実家はどちらですか?」
「本籍は滋賀県の湖北のほうです。御存じないかもしれませんけど、長浜市の高月町という所です」
そう聞いて、自分が再婚をして住んでいた所も高月だったので、苗字といい住所といい、偶然が重なるなと思って聞いてみた。
「山岡さん、下のお名前も教えてください」
「申し遅れました。夏樹といいます。山岡夏樹です」
彼に名前を聞いた母は急に顔をこわばらせて立ち上がり、部屋を出た。それを見ていた冬美は急いで後を追った。そしてキッチンにいる母を見て聞いた。
「お母さん、急にどうしたの?」
聞いても黙っている母に対して、娘はしつこく聞いた。
「ねえ、母さんったら。一体どうしたのよ?」
娘の声で我に返ると、険しくなっていた顔を取り繕(つくろ)って娘に言った。
「冬美ごめんね。母さん急に気分が悪くなってしまったの」
「そうだったの、急に部屋を出たから何かあったのかと心配したわ」
「もう大丈夫よ。しばらくここで休んでから部屋に行くわ」
「そうして。私たち待っているから」
冬美がキッチンから出ていくと雪子は、まだ冷静になれていない自分の気持ちを抑えようとしていた。しかしそれはどう頑張ってもできなかった。やはり山岡という苗字も高月という住所も、単なる偶然ではなかったのだ。夏樹という名前を聞いて確信した。夏樹は自分も四年ばかり育てた、間違いなく再婚相手の山岡春男の子なのだ。これはもう言葉に表せないくらい、大変なことが起きてしまったと思った。娘が愛している男性が、まさか腹違いの兄だったとは。雪子はもうどうすればいいのか判断できる精神状態ではなかった。今から居間へ戻って彼に何を話しかければいいのか、三人で何を話せばいいのか、何も思いつかなかった。いや、今はもう何も話したくないと思った。しばらく時間が経ち、待っても来ない母を心配した冬美が、再度キッチンへとやって来たので母は言った。
「母さんどうも気分がすっきりしないから部屋へ行って休むわ。彼には悪いけど、おまえから事情を説明して今日はもう話せないからと言っておいてね。お前たちは二人でどこか出掛けたらいいから」
「お母さん、本当に大丈夫なの?お医者さんに行かなくてもいいの?」
「大丈夫よ、少し眠れば良くなるわ」
「だったらいいけど。じゃあ私たちは出掛けて来るから。治らないようだった携帯に電話してね。遠くには行かないから」
冬美がそう言ってキッチンを出たので、雪子は自分の部屋へ行き座り込んだ。そして色々と考えた末、山岡春男と連絡を取ることに決めた。十八年前とはいえ、自分が何年か住んでいた所だ。電話番号も覚えてはいないが、控えを残してある。雪子はすぐに立ち上がり電話の前に行くと、アドレス帳を見ながら山岡家の番号を順番に押していった。呼び出し音が三回ほど鳴ると男の声がした。
「もしもし、山岡です」
「山岡春男さんですか?」
「そうですが、どちらさまでしょうか?」
「私、佐伯といいます。以前あなたと再婚をして、離婚しました佐伯雪子です」
春男は佐伯という名前を聞き、最近どこかで聞いた名前だなと一瞬思った。
「ああ、雪子さんでしたか、御無沙汰しております。今日は何か?」
「実は山岡さん、あなたに話さなければならないことがあります。その前にひとつだけ聞きたいのですが、あなたは佐伯冬美という二十歳の女の子を知っていますか?」
春男は少し考えた後、思い出した。
「ああ、その子だったら知っていますよ。一週間ほど前に息子が家に連れてきて、私に紹介してくれた女の子ですね」
「そうですか、すでにあなたには会っていたのですか。だったら話が早いわね。それじゃあ今から話すことをしっかりと聞いてください。とても重要な話ですから」
春男は佐伯雪子が何を言おうとしているのか、全く分からなかった。ただ電話で話す雪子の声は何かを恐がっているかのように、少し震えているのが分かった。そして雪子は話を続けた。
「あなたが会った佐伯冬美という子は私の娘です」
「えっ、そうだったのですか」
「そうです。間違いありません。そしてその冬美はあなたの娘でもあります」
そう聞いた春男は、雪子が話していることに対してすぐに頭の中が整理できなかった。それで黙っていると雪子が言った。
「もしもし、聞いていますか。あなたの息子さんと付き合っているのはあなたの娘ですよ」
春男は、そこでようやく全てを理解した。夏樹が紹介してくれた時に名前は佐伯冬美だと聞いたのだが、佐伯という雪子の旧姓をすっかり忘れていたので、冬美という名前を聞いても気が付かなかったのだった。そして昔の記憶を辿りながら、雪子と再婚してから生まれた女の子の名前を、冬美と名付けたことを思い出した。(じゃあ息子は自分の妹の冬美と交際していたのか、先週家に来たあの子は私の娘だったのか、これは大変なことになってしまった)と今更ながら動揺をした。すると雪子が電話口で言った。
「やっと思い出したようですね。事の重大さを分かってくれましたか?」
「ええ、はっきり分かりました」
春男は振り絞るような声で答えた。
「それじゃあ、どうするおつもりですか?」
「どうするって、いま聞いたばかりで驚いてしまって何も思いつきません」
「そうですか、だったら少し日をおいてから、あなたと話し合いましょう」
「分かりました」
「では早いほうがいいので次の日曜日はどうですか?出来ればあなたに大津まで来ていただきたいのですが?」
「そうします。その一週間の間にどうするべきか考えてみます」
「そうしてください。こちらに来る前に待ち合わせの時間と場所を電話で知らせてくださいね」
雪子はそう言って電話を切った。そのあと、春男は体の力が抜けていくような虚脱感に襲われた。一体、何をどうすればいいのか全く分からなかった。とにかく何か対応を考えなければと思ったが、すぐには何も思い浮かばなかった。
一週間が経ち、雪子に会う日がやってきた。車で大津まで行こうかと思ったが、考え事をしながら運転をして事故でも起こせば大変なことになるので、電車で行くことにした。雪子とは大津駅で待ち合わせの約束を交わした。
六 別れさせる方法
大津駅を降りると改札口の近くで雪子が待っていた。実に十八年ぶりの再会だ。お互いに年相応に老けたとはいえ、四年ほど一緒に住んでいた相手の顔を忘れることはなかった。形ばかりの挨拶を終えた二人は落ち着いて話ができる場所をと、雪子の案内で料亭の一室に入った。こんなことがなければ会うこともなかっただろうに、悪いことでの再会となってしまった。
机を挟んで向かい合って座ると、雪子はすぐ春男に話し掛けてきた。雪子も相当焦っているのだろう。もちろん春男も同じだったが、お互いにこの一週間はこの件の対応をどうするべきか、じっくりと考えた結論を早く聞きたいと思っているのだった。
「春男さん、それでどうするのか良い案は思いつきましたか?」
「いやそれがどうしたものかと?ただとにかく一刻も早く二人を別れさせなければなりません。何も知らずにこのまま付き合っていって、もし肉体関係にでもなったら取り返しのつかないことになります。いや、もうすでに手遅れかもしれません」
「それは大丈夫だと思います。私は毎日娘を見ているので、そういうことであの子に変化があれば気付くと思います。だからといって、のんびりと構えているわけにもいきません。そうなる前に、なるべく早く二人を別れさせるのです。だけどどう言って別れさすのか、それが問題です」
「そうだなあ・・・本当のことを言うべきか、それとも別の理由をこじつけて言うのか?別の理由だったら何を理由にするのか?難しいな」
「そうね、じゃあこんな理由はどうかしら?夏樹さんは一人息子で冬美は一人娘だから、婿養子に来てくれる男性じゃないと困るからって」
「それもいいね。実際に私も嫁に来てくれる人じゃないと困るよ。よしそう言おう」
二人は取り敢えず、その案で子供を説得することに決めた。そして春男が雪子に提案した。
「じゃあ私たちは、お互いに自分の子供に言うことにしようか?」
「そうしましょう。私は今日帰ったら娘に言うわ」
「私はどうするかな?すぐに会えないから電話で言うことにするか」
「いずれにしても早いほうがいいわね」
「今晩でも電話するよ」
二人はそう決めて料亭で昼食を食べたあと、帰路に就いた。
家に帰ると娘はいなかったので、今日も彼とデートをしているのだと思った。そして夕方近くになり娘は帰宅した。いつもそうだが、遅くても六時までには帰って来るのだ。夏樹さんは決して悪い人ではないと思う。母の私に心配を掛けまいとして、娘を夜遅くまで引っ張り回したりはしない人だ。そんな良い人なのに別れさせなければならないとは・・・・もし兄妹でなければ、どんなに良かっただろう。そう思うと雪子は悲しくなった。
二人で夕食を済ませた後、娘に言った。
「少し話があるの」
食事の後片付けを済ませて、キッチンの椅子に座ると冬美に話し掛けた。
「なあに?」
「実は山岡さんのことだけど・・・」
「夏樹さんがどうかしたの?」
「少しばかり言いにくいのだけど・・・彼と別れてほしいの」
「えっ、お母さん突然どうしたの?」
雪子は春男と打ち合わせたとおり、婿養子の件を言った。すると冬美は少し考えて母に言った。
「お母さん、私だってそれは考えたわ。でも彼を愛しているの。今さらどんな事情があっても、別れるなんてできないわ。それに彼とも話したのだけど、お母さんも彼のお父さんも一人身よね。それでいずれは四人で住んだらどうかなって、話していたの。そうすれば体が弱っても病気になっても、面倒を見られるからって」
雪子はそう言われて、どう切り返そうかと迷った。そして言った。
「その話は一理あるけど、それをすると佐伯という名前が私の代でなくなってしまうのよ。それは困るの」
「でも母さんだって、一人娘だったのに家を出たのでしょう。もし母さんが結婚した相手と別れずに、この家に帰らなかったらその時に佐伯という名前はなくなっていたのよ。なぜ母さんだけ良くて私はダメなの?」
確かに娘の言うとおりだ。雪子は自分も初婚の男性を愛して親に背いて家を出たのだった。娘にそう言われると、もう返す言葉もなかった。
「確かにおまえの言うとおりだよ。母さんが悪かったわ。今の話はなかったことにするよ」
雪子はこの理由で別れさせるのは無理だと思った。
一方、山岡春男も息子の夏樹に雪子との打ち合わせどおり、電話で別れ話を遠回しに話し始めた。
「確か冬美さんは一人っ子だと言っていたよな。お前が嫁に貰うと、あの子のお母さんが困るだろう」
「それは僕も分かっているよ。そのことは冬美ちゃんと充分に話し合って、解決する方法を考えているから心配いらないよ」
「解決する方法って一体なんだ?」
「簡単に言うと、いずれは父さんと彼女のお母さん、そして僕と冬美ちゃんの四人が一緒に暮らすってことだよ。うまくいけば父さんも彼女のお母さんも、孫の顔を毎日見られるよ」
「それは嬉しいが、その話はあの子の母親が了解してくれるかな?」
「返事はまだ聞いていないけど、必ず説得するから大丈夫だって言っていたよ。何かは分からないけど、冬美ちゃんはお母さんを説得できるだけの材料があるんじゃないかな、かなり自信に満ちた顔をしていたから。それに好きな子と別れるなんて、そんな簡単にできないよ。それだけは父さんも分かってくれるだろう」
春男は息子にそう言われ、現実として嫁にもらうことは不可能だが、嫁にもらう立場として話をしているので、これ以上の反論はできないと思った。雪子と同じように、春男もこの理由で二人を別れさせるのは無理だと悟った。
七 波乱の幕開け
翌日、春男と雪子は電話で話をして(子供を説得したが失敗だった)と報告しあった。それで改めて二人で会って相談しようということになり、次の日曜日に先日と同じ料亭で会う約束を交わした。その日に会った二人はどうしたものかと相談をしたが、どうにも良い案は浮かばなかった。そして悩んだ末に、こうなったら仕方がないので子供たちに本当のことを言おうと決めたのだった。
「じゃあ、いつどこでその話をしようか?」
春男は雪子に聞いた。
「そうね、どうしましょう?私の家でしましょうか?三人は大津に住んでいるので、あなたが家に来てくれるのならそうしましょう」
「じゃあそうするよ。今から家を教えてくれるかい?」
「分かったわ、あとは日と時間ね。今度の日曜日の十時頃でどうかしら?」
「それでいいよ。十時迄に大津駅に着く電車で来て、タクシーで君の家に行くよ。それじゃあ子供たちに、今度の日曜の十時に家に来るように言ってくれるかい。私から息子に『彼女の家に行け』とは言えないから」
「分かりました。必ず来てもらうように娘から伝えてもらいます」
相談が終わって帰りのタクシーを呼んでもらうと、雪子は春男と一緒に乗って自宅まで送ってもらい家を教えた。二人はそこで別れて春男は高月に帰るべく大津駅へと向かった。
いよいよ約束の日曜が来た。十時前に雪子と冬美が自宅で待っていると玄関のチャイムが鳴り、冬美が出ると夏樹が立っていた。それから約十分後に再度玄関のチャイムが鳴った。今度は母の雪子が出た。それは夏樹の父が来たと推測できたからだ。すると予想どおり春男が立っていた。これで四人とも揃い、いよいよ波乱の幕が切って降ろされる時が来たのだった。それも大波乱の幕が・・・
春男は雪子に案内されて、夏樹と冬美が居る部屋に入った。そして父の顔を見た夏樹が驚いて言った。
「あれっ、父さんどうしてここへ?」
「ああ夏樹、その件はもう少し後で話すよ」
夏樹は父がこの家に来た訳を、早く聞きたそうな顔をして父を見ていた。そして冬美も訳が分からず、二人の顔を交互に見るのだった。そこへ四人分のお茶を持った雪子が入って来た。春男はお茶を受け取りながら雪子に言った。
「それじゃ一緒に座ってください」
「はい」と返事をして隣に座った。春男はお茶をひと口飲み、こわばった表情をしながら話を切り出した。
「夏樹、そして冬美さん、今日は二人に話さなければならないことがあります。しっかりと聞いてください」
春男は茶碗を手に取ると、今度は一気に飲み干して話し始めた。
「実は話というのは、ほかでもない二人の交際についてのことなのだが、その前に夏樹が私に聞いた『父さん、どうしてここへ』という質問の答えから始めるよ」
春男の話に子供たちは耳を澄ませ、固唾を飲んで聞いていた。
「夏樹、おまえの母さんが事故で亡くなったのは話したよな。私はおまえの母さんが亡くなってから、しばらくして再婚をしたのだが、その再婚相手というのが、この私の隣にいる雪子さんなのだ」
夏樹はそれを聞いて、思わず「えっ、それは本当ですか」と叫ぶように言った。冬美も驚いて母の顔を凝視していた。父は話を続けた。
「もちろん本当の話だよ。だから雪子さんもこの家も知っていたんだ。ただ、この冬美さんが、まさか雪子さんの娘さんだったとは知らずにいて、おまえがこの子を家に連れて来た時も全く気が付かなかったよ。だから冬美さんを紹介されて大変うれしく思っていたのだが、後日この子が雪子さんの子供だと知って、その喜びが逆に悲しみに変わってしまったのだ。それはなぜかと言うと・・・・・驚かないで聞いてほしい、とは言っても無理だと思うが、ここは何を聞いても取り乱さないように、冷静に聞いてくれることをお願いするよ。先ほども言ったように私と雪子さんが結婚をして、雪子さんはお腹の中に子供を宿した。そして生まれてきた女の子というのが、私の前にいる冬美さんなのだ。生まれてからしばらくは山岡家で育ったのだが、雪子さんと私が別れる時に二歳になっていた冬美さんは、雪子さんに連れられて私の家を出て行ったのだよ・・・・。
二人とも、もう分かったと思うが、はっきり言うと夏樹は私の前妻の子供で、冬美さんは私の後妻だった、この雪子さんの子供なのだ。つまりおまえたち二人の父は同じ私なのだ。だから夏樹、おまえと冬美さんは異母兄妹の関係になる。こんなことは言いたくないのだが、異母兄妹と分かった以上、二人がいくら愛し合っているとしても結婚はできないよ。おまえたちに別れろとまでは言わないが、それを承知してこれからの付き合い方を考えなさい」
春男はそこまで話すと、ふぅーと大きな溜息を漏らして茶碗を持ったが、お茶が入っていないことに気付くと、隣の雪子の茶椀を取り一気に飲み干した。その行動を見ているだけでも春男の緊張の度合いが伺える。雪子は隣で黙って下を向いていた。そして話を聞いていた肝心の子供たち二人は、まるで金縛りにあったように微動だにせず、ただ目を見開いたまま互いの親の顔を見ていた。二人は混乱した頭の中を整理しているのだろうか?それとも話の内容に大きなショックを受け、話すことすらできない状態なのだろうか?話が終わってから五分以上が過ぎたというのに、誰も話そうとはしなかった。その場の雰囲気が皆をそうさせていたのだった。
そこでようやく春男が口を開いた。
「雪子さん私の話は全部終わりましたので、これでお暇(いとま)したいと思いますが」
「はい、その前にお茶をもう一杯飲んで帰ってくださいな」
雪子はそう言うと立ち上がり、春男を促してキッチンへと連れ出した。そしてお茶を入れながら話し掛けた。
「あの二人、あなたの話を聞いてこれからどうするつもりでしょうね?」
「それは私には分からないよ。ただ結婚ができないということだけは、分かっただろう」
「それはそうだけど・・・私、あの二人が結婚できないと分かって何か無茶をしないか心配なの」
「そうだな、自暴自棄にならなければいいのだが。私も近くで見ていられるといいが、仕事もあるので家に帰らなければならないから雪子さんの見える範囲で、あの子たち二人を見ていてくれないかい?」
「それはもちろん見ています。しかし四六時中、二人の後ろをくっついて歩くわけにもいかないので見るのにも限界があります」
「仕方がないな、今は二人を信用するとしなければ」
頼んだタクシーが迎えに来る時間なので、礼を言って立ち上がると雪子も一緒に表に出て、迎えに来た車に乗る春男に「また電話をするから」と言って、走り出した車を見送っていた。
春男を見送って家の中へ入ると、二人はどうしているのか心配になり居間へ行った。すると先ほどと変わらぬ姿勢のままで座っていた。特に何か話していた様子でもなく、黙り込んで座っていたが、入って来た雪子に気付いた夏樹が重い口を開いた。
「お母さん、先ほど父が話したことはよく分かりました。お母さんもすでにご存じだったのですね。その話を聞いてから今まで色々と考えましたが、頭の中では理解できても心の中が付いていけません。その話を聞いたからといって、冬美ちゃんに対する愛情が無くなるわけでもありません。ただ結婚ができないという事実は避けようがないので、それは諦めます。しかし一緒に住むことに問題はないはずです。今はまだ一緒に住もうとは思っていませんが、お互いの気持ちが変わらずにいたら、いずれはそうしたいと思います。兄妹が一緒に住んでいたとしても不思議でもなんでもありませんよね」「冬美ちゃんはどう思う?」
冬美の母に一気にまくし立てると、冬美に聞いた。
「私も夏樹さんと同じ考えよ。今さら自分の気持ちを偽ることなんてできないわ」
そう言うと雪子が答えた。
「二人の気持ちはよく分かったわ。本当は他の誰かと結婚をして子供を授かるのが理想だけど、そんな簡単に愛情が変わるわけではないのだったら、思ったようにすればいいわ。ただ思ったようにと言っても、決して無茶なことだけはしないと約束してほしいのだけど、どうかしら?」
「それはもちろん分かっています。だからお母さんは心配しないでください」
夏樹がそう言ってくれたので、雪子はひと安心だと思い部屋を出た。それから二人は何かを話していたようだったが、夕方になり夏樹は帰った。
それから一か月という日が流れた。二人はお互いに仕事が土曜日と日曜日が休みなので、週に二日は必ず会っていた。その中の一日は冬美が夏樹のアパートに来て掃除や洗濯、それに食事を作ったりして過ごしていたのだった。今までは銀行に勤める彼に悪い評判が流れるのを心配してアパートには行かなかったのだが、もう誰に見られても困ることはない。大きな顔をして「私たちは兄妹だ」と言えばいいのだから。そんな生活が一年ほど続き、父の春男と母の雪子は時々電話で話をして、子供たちが兄妹として仲良くしていることを確かめ合いながら、安心して過ごしていたのだった。
八 転勤
夏樹が就職をして四年が経ち、転勤の話が持ち上がった。大津支店から地元の長浜支店に行ってくれとのことだった。もちろん断れる話ではないので、その命令を受け入れて長浜支店に行くことに決まったが、そこで困ったのは冬美と離ればなれになることだった。大津と長浜といえば、特に遠い距離ではないので今までどおり会えないわけではない。休みのたびにどちらかが、どちらかへ行けば良いだけのことだ。それは造作でもないことだと思ったが、もうひとつ考えていたことがあった。それは冬美と一緒に住めないかという考えだ。長浜支店に配属となれば、当然自宅からの通勤となるからアパートではない。もし一緒に住むとすれば自宅で父と一緒に住むのか、それとも別にアパートを借りて二人で住むのかだ。しかしそうすると今度は冬美の母が一人になってしまう。そこで以前父に話していたことを思い出した。四人で一緒に住んだらどうかという話だ。父にその話を提案したところ「少し考えたいから時間をくれ」と言われた。
その後、父は電話で冬美の母に夏樹の話を伝えると、雪子は「自分も仕事があるから、簡単に辞めるわけにはいかない」との返答だった。春男もたとえ息子の頼みでも結婚生活がうまくいかなかった雪子と、籍は入れずともまた一緒に住むのは気が乗らなかった。その返事を息子に伝えると、夏樹はがっかりしたような顔をして言った。
「父さん、それじゃあ僕たちは長浜でアパートでも借りて二人で住むよ」
「そうすればいいよ。私は今までどおり一人でやれるから。雪子さんも健康な女性だから一人でも大丈夫だろう」
夏樹にそう言いながら、雪子もこのことに関しては反対しないだろうと思った。娘が家を出て行くことに反対すれば、子供たち二人が無茶な行動をする恐れもある。だから喜んで賛成とは言えないが、それも仕方がないと思うだろう。
一か月後、夏樹は長浜支店に移動した。事前に借りていたアパートに、会社を辞めて家を出た冬美と一緒に暮らし始めたのだった。冬美は月曜から金曜までの間、一人でアパートに居るのが嫌で、この長浜で就職先を探してパートで働いた。
そんな日々が一年ほど続き、お互いの愛情も変わることはなかったように思われたのだが・・・しかし日が経つにつれ、二人の心の中には何をどうやっても決して埋めることができない、ぽっかりとした穴のようなものが少しずつ開き始めたのだった。最初は小さかったその穴が、徐々に大きな穴に変わっていくのを二人は感じていた。それはやはり、いくら愛し合っていても結婚はできない、子供も作れないという悲しい現実があったからだ。愛し合っているという気持ちは他人の異性を愛しているのと何も変わりはないのに、兄妹がゆえにそれを形として表すことができないのだ。お互いにそれは分かっているつもりなのだが、それで辛く悲しくなる日々が増えてきたのだった。そして会話も以前と比べて少なくなってきているのを、二人とも気付いていた。
九 旅立ち
師走に入った十二月初めの土曜日、夏樹は冬美に言った。
「近い内にどこか旅行でも行かないかい?」
「いいわよ、どこへ行きましょうか?」
「そうだなあ、一泊二日で行ける所にしようか?」
「私はどこでもいいから夏樹さんが決めて」
「うん、考えておくよ」
そう言うと、パソコンを開いて行き先を調べ始めた。
二週間後、十二月中旬の土曜日に夏樹と冬美は旅支度をして、午前中にアパートを出た。向かった先は日本海の美しい景色が見られる石川県の能登だった。
長浜駅から電車に乗り能登へやって来た二人は、予約をしておいたホテルにチェックインしたのが、午後の三時を過ぎていた。ホテルマンの案内で部屋に入ると、窓から初冬の日本海をじっと見ていた。海は風が強いせいか荒れていて、大きな波が白くうねって見えた。
六時になると頼んでおいた夕食が届き、一緒に頼んだワインで乾杯をした。そのワインを飲みながら二人はひと言も話すことなく、ただお互いの顔を見つめあうだけだった。何も話さなくてもすでにお互いの気持ちは分かっていた。
ゆっくりと時間を掛けて夕食を摂った夏樹と冬美は、食事が済むとどちらからともなく立ち上がり、着ていた洋服を脱ぎ始めた。
脱ぎ終わった二人は手を繋ぐと、傍らにあるダブルのベッドへと、歩を進めた。ベッドの中に入っても繋いだ手は離すことなく、握り合ったままだった。
翌朝、チェックアウトの時間になってもフロントに現れず、電話を掛けても応答がない客を不審に思った従業員が、マスターキーを使って部屋へ入った。するとベッドの横にある小さなテーブルの上に、空になった睡眠薬の瓶と一枚の便箋が置かれていた。そしてその便箋にはこう書いてあった。
「私たち二人が、この世で結ばれることはありません。しかし天国では、必ず結ばれると信じています」
夏樹・冬美
完