最終話
それからの朝廷の政治は、あまり褒められた内容ではなかったが、宦官が支配していた時より何十倍も良いと評価できるだろう。
董卓はまず勧められた通り「王允」「蔡邑」を始めとした人材を重職につけ、名士と呼ばれ名声の高かった人物達に洛陽以外の主要な土地を治めさせた。その名士の中で張バクは筆頭として名前があり、土地も豊かで民も多い「陳留」を治めることとなる。
袁紹は、自分の手柄を全て横取りされた様な現状にプライドが大きく傷つき、董卓と激しく口論の後、洛陽を出た。
曹操は張バクの勧めもあり、側近として董卓の補佐にあたることに。
幾日が過ぎただろうか。気候も穏やか、悪政の払拭に奔走する毎日。そう長い月日はかかってないように思う。
「…孟卓、董卓は、殺さなければならない」
張バクの屋敷に飛び込んできたのは、髪も乱れ、やつれて蒼白となった曹操であった。
曹操は屋敷につくなり安心したのか気を失い、数日間石のように眠り続けた。事情は全て、曹操と共にここまで逃げて来た「陳宮(ちんきゅう)」という気が強そうな男が話してくれた。
「張バク殿は、今の洛陽の現状を知らないのか?そんなはずはない。忠臣は忠義故に処刑され、小帝弁陛下並びに何皇太后様は毒殺された。宮殿の女官は全て召し上げられ、民は衣食や金のみならず血肉まで絞られる有様だ。全て、董卓の手で行われた惨劇だ」
「…小帝弁陛下は、ご病気で崩御なされたと、知らせが来ている。皇太后様は、その後を追われたと」
「ハッ、名士と名高い貴殿がまさかそんな話を信じていると?」
「曹操は、どうしてこのような」
「董卓をその手で殺そうとしたからだ。直に手配書も届くであろう」
度々、洛陽の現状は耳にしていた。そしてその度に、にわかには信じられないと、深く考えなかった。考えたくなかったのだ。
董卓には、理解者が圧倒的に少なかった。元々の身分も低く、政治経験もなく学も高くはない。さらに、黄巾の乱での敗北の印象も大きかった。そして、彼の抱える夢は、あまりにも人々の反感を買うに値する内容である。だからこそ張バクは洛陽を離れる際に、名残惜しむ董卓へ、波長が合うだろうとして曹操の抜擢を勧めた。
つまり、逃げたのだ。世間体を保つ為に、董卓から離れ、責任を曹操に押し付け、逃げてしまった。その結果がこれだ。張バクが洛陽に残っていたら、また結果は違ったのだろうか。だからこそ「逃げた」という事実が、より一層自らの胸を締め上げる。
「董卓殿は、どうなされている」
「急に肥え始め、軍人の面影すら残っていない。少しでも逆らう人間がいたら激しく怒鳴り散らした後に斬り殺し、その肉を焼いて、宮中の臣下達に無理やり食わせていた。常に周囲には美女十数人をはべらせ、天下一の猛将と『呂布』を従えており、下手に近づく事さえ出来ない」
正義心の熱い男だ。声の端々に怒りが見え、強く握られていた拳は震えている。
その時だ。先ほどまで寝息を立てていたはずの曹操は飛び跳ねるように起き上がり、張バクの両肩を掴んだ。痣でも出来そうなほどに、その力は強い。
「孟卓、よく聞け。各地に檄文を飛ばし兵を集めろ、群雄の力を合わせて董卓を討つ。盟主は兄貴がふさわしいだろう、逆にかの袁紹本初に反論できる者などいない。直ちに兵を集めるぞ、力を貸してくれ」
これが逃げた者の責任の取り方なのか。
張バクは不意に出そうになった涙を堪え、一つ頷いたのだった。
「その反董卓連合軍がどうなったのか、それはもうお前も知っているだろう。結果は、敗色濃くなり解散となった。集まった群雄達は、名目上集まっただけという者ばかり。袁紹に戦わせて、損をせず良い思いだけをしようという者が多すぎた。袁紹もまたそれを感じ、出し抜かれない為にも兵を積極的に出すことはなかった。本気で戦っていたのは、負い目を感じていた私と、曹操。名を上げたかった『孫堅(そんけん)』。そして、最後の最後まで董卓を信じていた、敵の『呂布(りょふ)』だけだ。いくら変わっても董卓は董卓、直属の兵達は心から董卓を慕い、命がけで呂布の指揮の元で抵抗してきた」
「でも…董卓は、その呂布将軍に」
「あぁ、裏切られ殺された。誰よりも忠義に厚かった呂布が手をかけたのだ、もうすでに董卓は、元に戻ることなど出来ないくらいに狂っていたのだろう。本当はこの役目、私がすべきだったのかもしれないな…」
正直、黄嘉の手前で董卓を擁護するようなことをいうのは心苦しかったが、どうしても伝えたかった。彼は、最初から悪魔ではなかったのだと。これも一つの罪滅ぼしなのだろうか。既にもう本人は居ないというのに。
もうそろそろ出発しますか?黄嘉はそう述べ腰を上げるが、張バクは首を横に振る。
すると、遠くから馬の重い蹄の音が聞こえてきた。音からしてその馬は、旅ではなく戦場に出るような馬のそれだと分かる。
巨大で雄々しい馬に乗るのは、軽装だが鎧を身にまとった、筋骨隆々の男であった。張バクはゆっくりと腰を上げる。
「久しぶりだな『典韋(てんい)』、曹操配下で最も勇猛な武将という噂をよく聞くぞ」
「お久しぶりです。張バク殿がゴロツキだった俺を、曹操様に推挙して下さったから、今の自分があるのです」
会話は実に穏やかだ。だがどうしてか、黄嘉は胸騒ぎを抑えられない。張バクの笑顔が、悲しく映るのだ。
何があっても張バクの命だけは助けたい。そう思った時だ、黄嘉はふっと意識が曖昧になり、その場に膝をつき、体を横に倒した。
「すまない、水に眠り薬を混ぜたのだ。典韋、さぁ、私の首を取れ。だがこの子は助けてほしい。私亡き後、屋敷に暮らす孤児達の世話を年長の黄嘉に任せたいのだ」
張バクは、数日前に曹操を裏切った。
曹操は「徐州」という地で、そこを治める陶謙に父親を殺されたのだ。父の死を大いに嘆き、張バクですらその姿を見るのが忍びないほどであった。
父の敵を討つ名目で、曹操は徐州に出兵。張バクは陳宮と共に曹操の留守を守っていたが、戦線から届いた知らせに愕然とした。
曹操軍は関係のない民や動物に至るまでを殺し、川が堰き止まる程の死体の山を築いたというのだ。曹操は誰よりも情に厚いが故に、大切な者の為ならいくらでも残酷になれる。張バクは、それを失念していた。
この知らせに驚き、怒りを露わにしたのは陳宮だ。正義感に厚く物怖じしない性格の知恵者、そんな陳宮から提案を受けた。呂布をこの地に招き入れて、曹操の拠点を奪おう。という提案だ。呂布ならば面識もあった、話が分かる人物だということも分かっていた。
張バクは、陳宮の提案に頷く。呂布がどうこうではなく、裏切らなければならない理由が張バクにはあったのだ。
拠点が危機だと知れば、曹操は慌てて戻ってくる。そうすれば、無理にでも虐殺を止められる。極論であったが、これを試すしか他は無かった。天下を統一して平和を保つという夢を持つ曹操に、董卓と同じ道を歩ませたくなかった。今度こそは、友として、止めなければならないと。
「曹操様が、どうして俺一人を送ったのか、分かるでしょう。恩を感じる俺だから、貴方を殺せないと踏んだ上で出向かせたのです。貴方の首を取れば、俺が怒られます」
「曹操は私の裏切りを知ったとき、どんな様子でしたか」
「この上なく、怒りに震えてました。でも曹操様は、本当に怒っているとき、人前で笑うんです。決して真意を表に出す人ではない。だから、一緒に参りましょう、きっと貴方をお許しになるはずです。奥方や一族の命を奪いはしましたが、それは人の上に立つ者としての責任。貴方まで失えば、きっと曹操様は酷く心を痛める」
「そうです、曹操はもうすでに人の上に立つ存在。これは、子供の喧嘩じゃない。責任をきちんととらないと、この先、天下を取る者としての威厳が保てない」
天下。この二文字に典韋は大きく目を見開き、馬から降りて頭を地につけた。
「お願いです、俺に殺させないで下さい。曹操様を心から理解されている貴方を殺すことは、俺にとって、曹操様を殺すことと同じなのです」
「この乱世を治めるには、曹操の様な英雄が必要なのだ。民を労り、知恵者を用い、誰よりも痛みを知る英雄が。それに、私はもうこれから先の世を見たくはない。遠くない未来に、一大勢力を持つ袁紹と曹操はきっと、殺し合う運命にある。親友達が殺しあう姿など、どうして見れようか」
変わらず、張バクの顔は優しくも、寂しそうな笑顔であった。
張バクは典韋に近づき、彼の腰にある長剣を抜く。典韋はそれに気付きながら、頭を地につけたまま動こうとしなかった。
「世が再び平和に戻った時に、来世でまた逢おうと、伝えてくれ」
喉に深く刃が走る。視界はぼやけ、音が遠のき、体は寒くなっていく。
このまま子供のままで、大人なりたくないな。青年の時に、袁紹は酔いながらそう漏らしたことがあった。今更ながら、私もそう思う。張バクは静かに目を閉じた。