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謎の声

人間成り上がるのが早ければ、勿論転落も早かったりするものだ。
僕にとって20代は、売れっ子の小説家として知名度はそれなりにあった。
テレビの取材、ラジオ、憧れの芸能人だって目の前に居たこともある。
結婚だって出来たし、子供もいたんだ。

だけど呆気なく僕は、山から転がり落ちるかの様に有頂天から転落していった。
キッカケは、本当に些細な事から始まった妻との喧嘩。


「貴方に付き合うのは、もうウンザリよ!!」


あの時出ていく妻から浴びせられた罵声は、今でも耳が痛くなる程覚えている。
それ以来離婚し、僕はペンが握れなくなっていた。
喧嘩したキッカケが仕事絡みだった事もあって、筆を握るのが怖くなっていたんだ。
苦しくて、辛くて……。
いつしか新作すらも、書けなくなっていた。

そこからの世間は、とても冷ややかだった。
新作も出せない僕を、皆はどんどん忘れていく。
いつかその存在すら知られなくなっていき、ここに居なかった者とされてしまう。
そうなるのも嫌だった。
ペンを握る事を諦めないのも、何処か意地になってる部分もあるかもしれない。

書いては消し、また書いては破り捨て。
ただそれだけの毎日、いつしか僕は34歳を迎えていた。


壁に掛けられた小さな時計が0時をさすと、また1つ溜息を吐いた。


「34歳……おめでとうナオヤくん」


心に余裕がない。
書けない辛さもあるが、無慈悲に進んだ2年という時間が心を掻き乱す。
机の上に置かれた白紙の原稿用紙を見ていられず、僕は席を立った。

珈琲を飲むためキッチンへとやって来たのだが、この場所がどうしても苦手である。
離婚して妻と1人娘が出ていった後も、家は引っ越さずそのまま住み続けていた。
妻が立っていたこの場所に来る度、幸せだったあの時を思い出してしまう。
思い出しても仕方ないのに、ただ悲しくなるだけなのに。
僕は慣れた手付きで珈琲を淹れ、足早にこの場所を離れた。

作業部屋に戻ってくるが、結局は白紙の原稿用紙がこの場に居座る限りこの感情は消えない。
構想は、何となくだができている。
僕が得意なのはミステリーものだが、今考えているのは恋愛ものだ。
最初は世間の認識の斜め上を行って驚かせようとしたのだが、もう今更と言っていい程遅すぎる。
頭には出来ているこの物語を、どうやって文字に起こすべきか……。



「……来て」



突然聞こえた声に、僕は肩を震わせた。
誰もいないはずの家の中から声がすれば、誰しもが驚くはずだ。
だが、そんな普通の事ではない。
明らかに耳元から、まるで囁くような声だ。
寒気が、ジワリと押し寄せてくる。


「こっちに、来て」


また聞こえた。
今度は背後からだ。
秋の涼しいこの季節なのに、背中には汗がジワリと滲みだしてくるのがわかる。
恐ろしく思いつつも、僕は何処か懐かしく感じていた。
この、声は……。



ゆっくり振り返った背後の景色は、僕の目がおかしくなければ異常だった。
0時を越えたばかりの真夜中の部屋にいたはずの僕は、朝早くの外へと放りだされている。
目の前にはゴミを捨てに来たと思われるおばさんの後ろ姿があり、そこを理解すると座っていたはずの椅子が消え盛大に尻餅をついた。


「痛った!!」


大声をあげた僕に気付いたおばさんが、こちらに駆け寄ってくる。
その顔は近所でも見たことが無い、見知らぬ人だった。


「あんた、大丈夫かい?」

「あっ、えぇ。すみません」


立ち上がろうとした僕の恰好が、さっきまでと違うスーツになっている事に気付く。
手には鞄、左腕には7時半をさす腕時計が巻かれていた。
どういう事だ?
これはまるで……。

考え込む僕の背に、何かが勢いよくぶつかる。
一瞬よろめいたが何とか踏ん張り、当たった何かを確認した。
そこで僕は、思わず息を呑む。


「すみません!大丈夫ですか?」


あり得ない、そんな訳ない。
何で僕の目の前に……


……構想していた物語の主人公がいるんだ?

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