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短編

 セミが鳴く。
 うるさいほどに鳴きわめく。
 夏の始まりを教えてくれる。
 セミが鳴き止む。
 夏の終わりが告げられる。
 でも、一匹だけ鳴き続けるセミがいる。
 今日も明日も明後日も。
 明後日も来週も来月も。
 おかしい。何かがおかしい。
 セミが鳴く。
 外からではない。
 部屋の中から……

 ミーンミンミン。
 ミーンミンミンミー。

 セミが鳴く。

 ただただセミが鳴く。

 それはいつものこと。
 いつものことだなんだ。

「あー。
 いい匂い」

 広くもない狭くもない病室の個室の中。
 看護師の妹、千春が用意したミルクの香りに誘われて目を覚ました幼なじみの萌が静かに言った言葉だった。
 その場にいたみんなは、もう二度と目を覚まさないと思っていた。
 だから、私たちは驚いた。
 そんな私たちの不安なんてお構いなくいつものマイペースでこう言った。

「私は、いちごミルクがいいな。
 冷たいやつ」

 人は死が近づくと何故か暑く感じるらしい。
 今はもう、9月の半ば。
 萌の希望により、空調は18度。
 その場にいたほとんどの人が上着を着ていた。
 その場にいたのは、萌の夫である太郎。
 萌の息子の瓜くんと娘である桃ちゃん。
 私の妹の千春、精神科医の彼方さん。
 そして、私である。

 だけど、萌だけは薄手のパジャマを一枚着ているだけだった。
 私たちは少し肌寒かったけれど彼女だけは、気持ちよさそうに横になっていた。
 千春が、自販機でいちごミルクを買ってきたあと私たちは萌との最後の小さな小さなティーパーティーを開いた。

 それはセミが鳴きじゃくる8月の半ばを迎えたころ。
 私と彼方さんが久しぶりに休憩時間が重なったので、久しく行っていない萌と太郎が経営する喫茶店に行ったときの話。
 萌が料理をしながらやたらと胸を押さえていたので彼方さんが萌に尋ねた。

「胸、どうかしたの?」

 それを聞いた萌は、苦笑いでこう答えた。

「なんか、胸の付け根にシコリができちゃって……」

 私は、このとき少し嫌な感じがした。

「少し触ってもいい?」

 私が、そう尋ねた。
 すると萌はあっさりと了承してくれた。

「え?いいよー」

 私は、萌の許可を得てから萌の胸のシコリの部分を触った。
 そこには小石のような硬いものがあった。

「どう?なにかわかった?」

 萌が心配そうな声でそう尋ねた。

「詳細はなんとも言えないけど……
 少し早めに病院に行ったほうがいいよ」

 私は、彼女にそういうことしか出来なかった。

「じゃ、時間があるときに行くー」

 萌は、苦笑いを浮かべながらそう言った。

 しかし、萌が病院に来たのはそれから1ヶ月を過ぎたころ……
 そして、その萌の検査結果は最悪だった。

 萌は乳がんだった。
 しかも、長期に渡り放置していたのとその若さゆえ進行はかなり悪化していた。
 余命が僅かなことは、萌の夫である太郎と萌の両親にのみ伝えた。
 私は、自分から進んでこれから入院する萌の担当になった。

 ――入院当日

「ベッドふわふわー」

 萌は、今年で26歳。
 ナノにもかかわらずまるで子どものようにベッドの上で「きゃっきゃ」とはしゃいでいる。

「銘ちゃん!」

 萌が不意に私の名前を呼ぶ。

「何?どうしたの?胸痛む?」

 それを聞いた萌は、ニッコリと笑ってこう言った。

「私、病院のベットって昔から憧れていたんだー
 思ったよりもふわふわしてるよー
 きもちぃ……」

 萌が、そんなことを言いながら枕に顔を埋める。
 すると私の双子の妹である千春が掛け布団を持ってきた。

「もう、いくつになっても子どもなんだから」

 私が、そう言うと千春と一緒に部屋を出た。
 私たちが部屋から出たあと病室からすすり泣く声が聞こえた。
 出来るのなら、「大丈夫」って言って抱きしめてあげたかった。
 でも、萌が抱きしめて欲しいのは私じゃない。

 萌にはこのあとすぐに手術が待っている。
 病室の前で太郎で立っていた太郎に私は言った。

「行ってあげて。
 もうすぐ麻酔医が来て注射をするから。
 だから、萌が眠るまで傍にいてあげて……」

「わかったっす」

 太郎は、うなずくと病室の中へ入った。

「太郎くん。
 私、怖いよ……」

 萌のそんな声が聞こえてきた。
 それはきっと心の底から信頼できる人に見せることが出切り弱さだと思う。

「絶対、手術成功させてね!」

 千春が、真剣な目で私の方を見る。

「うん。全力は尽くす」

 私がそううなずくと私のスカートを誰かが弱々しく引っ張った。
 萌の子どもたちだ。
 私は、目線をその子たちに合わせる。

 いつも元気なふたりは、泣きべそを書きながら私にこう尋ねた。

「お母さん治る?」

「お姉ちゃん、頑張るからね」

 『治す』そう言いたかった。
 だけど、それはなかなか難しい手術で、100%治る補償なんてどこにもない。

 手術の時間は約8時間。
 手術は無事成功した……

 と報告してあげたかった。
 だけど現実は甘くない。
 
 組織検査の結果、ガンの段階評価が5に達成していた。
 手術は成功した。
 だが、想像以上にガンは転移していて、肺にまで達していたのだ。
 暫く彼女は入院したあと、彼女は退院した。

 それが、最後の帰宅になるかもしれないことを萌はまだ知らない。

 萌が退院して、家に戻り。
 そろそろ子供たちも不安から解放されようとしたころ。
 萌は、自宅で意識を失い倒れた。

 萌が退院して1週間後の夜のことだった。

 虫たちの合唱の中。
 救急車のサイレンだけが虚しく響いた。

 私はその時、夜勤で仮眠を取っていた時だった。
 私の携帯に一本の電話が入る。

 太郎からだった。
 萌が、意識を失い倒れた事を……
 消え入りそうな声で伝えてくれた。

 萌が目を覚ましたのは、それから2日後。

「あ、銘ちゃんおはよー」

 私が、萌の血圧を測っているとき萌はそう言って目を覚ました。

「萌、倒れたことは覚えてる?」

 私がそう言うと太郎は、優しく笑い萌の手を握りしめた。

「私、もうダメなのかな?」

 萌は涙を流しながら弱々しくそう言った。

「そんなことはない!」

 普段大人しい太郎が大きな声を出した。
 太郎自身、認めたくないんだ。
 認めてしまうと萌の病気を……
 萌の死を受け入れなくていけなくなる。
 今度は小さな声で言葉をつなげた。

「大丈夫。
 大丈夫だから……」

 その声は消え入りそうだったけど強かった。

「もういい……もういいよ……
 ヤダよ!死にたくないよ……・!」

 萌は、涙を流し大きな声を出した。

 人は死ぬときその時期を感じてしまうことがある。
 恐らく萌えもそれなんだと思う。

 萌の声を聞いて心配で駆けつけた千春や彼方さんも病室に入ってきた。
 夜勤で疲れているはずなのに疲れの顔など一切見せなかった。

 萌は、それから2時間半涙を流した。

「ねぇ。
 子どもたちに最後の挨拶をしてもいいかな?」

 萌のその声は、覚悟を決めた声だった。
 太郎は、唇を噛み締めうなずいた。

「うん」

 私は、面会時間だったけど面会の許可を出した。
 彼方さんが「僕が車を出すよ」と言うと太郎は小さな声で「お願いします」と言った。
 そして、ふたりは太郎と萌の子どもたちを迎えに行くために病室を出た。

「銘ちゃん、ちぃちゃん。
 色々迷惑をかけてごめんね」

 萌が弱々しい声でそう言った。

「迷惑とか思ってないから!
 ってか、本気でそんなこと言ってるのなら怒るわよ!」

 私は、思わずきつい言葉が出てしまう。
 萌は、小さく笑うと「ありがとう」と言ってくれた。

 それから暫くすると瓜くんと桃ちゃんが病室にやってくる。
 萌は、瓜くんと桃ちゃんの顔を交互に見る。
 そして、ゆっくりとうなずくと瓜くんの目をしっかりした表情で見る。

「瓜。
 瓜は強い子だよね?
 だから、桃をいじめちゃダメだよ。
 強い子は弱い子を護るの……いい?」

 萌がそう言うと瓜くんは小さくうなずく。

「うん。
 僕、桃を護る!」

 萌は優しく微笑むと小指を出した。

「じゃ、指切りだ」

 瓜くんは、弱々しく小指を出した。

「ゆびきりげんまん。
 嘘ついたらハリセンボンのーます。
 指切った」

 瓜くんの目から涙があふれる。
 そして、涙が止まらなくなり萌の指から離れると部屋の隅に行き座り込み声を出さずに涙を流した。

 萌は、桃ちゃんの方も見る。

「桃……
 桃には色々苦労をかけてしまうと思う。
 もうちょっと大きくなったとき悩みが出来ると思う。
 その時は、銘ちゃんやちぃちゃんに相談してね。
 銘ちゃん、ちぃちゃん、その時はよろしくね」

 萌が私たちの方を見る。
 私と千春はうなずいた。

「任せて!
 初恋から結婚まで相談に乗るから!」

 千春が、そう言うと萌はクスリと笑い「おねがいしますと言った。

「早く、お洗濯や料理を覚えてお父さんの力になってあげてね」

「うん」

 桃ちゃんは涙を流さずに、じっと萌の話を真剣に聞いていた。

「じゃ、桃も指きり」

 萌はそう言うと、小指を出した。
 桃ちゃんは静かに母の元に小指を近づけ、自分から歌を歌った。

「指きりげんまん
 嘘ついたらハリセンボンのーます
 指きった」

 桃ちゃんの指から萌えはゆっくりと指を離し太郎の方を見た。

「桃の結婚式には、私のドレスを着せてあげてね。
 洋服ダンスの奥にあるから……
 って、私のお古とか嫌かな……」

 太郎は、首を横に振る。

「そんなことないさ」

 萌が少し笑う。
 そして、しっかりとした口調で言葉を放つ。

「瓜に桃!
 きちんと、お父さんの言う事聞くのよ!」

 萌がそう言うと瓜くんと桃ちゃんが涙声でうなずく。

「はい」

 ふたりが返事をしたのを確かめると萌は静かに涙を流した。

 まだ幼い瓜と桃はどこまで事情を理解できているかは私には、わからない。
 だけど、ふたりとも萌の話を真剣に聞いていた。

 よく、子どもには人の死の現場を見せるのはよくないという人がいる。
 でも、この時だけは決して悪いものではないのではないかと思った。

 確かに元気だった母親の姿を知る子供にその母親の死を見せるのはきつくつらいかも知れない。
 だけど、瓜くんや桃ちゃんがやがて大人になったとき、最後を見れなかったことに後悔しないと言い切れるだろうか?
 血の分けた親子なのだ。

 子は親の温もりを……
 親はこの温もりを……
 そして、暖かい肉声を……

 最後の最後まで聞く権利くらいはあるはずなんだ。
 そして、子は命の大事さを学んでいくのではないだろうか?
 こう言う経験を得る事に娘は母親の温もりと強さを息子には母親の優しさと厳しさを……
 学んでいくものではないだろうか?

 私は、そう思えて仕方がなかった。

 それから、一日が終わった。
 その部屋には、彼方と銘、太郎に小太郎がその部屋に居た。
 そして、そこに静かに横たわる萌。
 私たちは、静かに萌を看ていた。

 泣きつかれた子どもたちは別の部屋で眠っている。
 なぜなら萌が暑がったため、萌の部屋の空調は18度を下回っていた。
 その場にいる私たちは、上着を羽織っていた。

 部屋をノックする音が聞こえる。
 太郎が「どうぞ」と言うと扉が開いた。
 扉の向こうには千春がティーカップとポットを持ってやってきた。

「これ飲んであったまろー」

 千春は、そう言ってカップにホットミルクを入れてくれた。
 部屋にホットミルクの香りが、充満した。

「あー
 いい匂い」

 思わぬ場所から声が聞こえてきたので驚いた。
 それは、もう目を覚まさないと思っていた萌が優しく呟いたのだ。

「私は、冷たいいちごミルクがいいな」

 萌が、そう言うと彼方さんが「じゃ、僕が買ってくるよ」と言って部屋を出た。

 千春が話しやすいようにと萌のベッドを90度傾けた。
 彼方さんが戻ってくると私たちは、小さな小さなティーパーティーを開いた。

 底にいる人たちはみんな小学校のころからの親友だった。
 話の種は、いっぱいあった。
 1時間くらいたったころだろうか?
 萌が眠そうな声でこう言った。

「なんだか、眠くなってきちゃった」

 萌がそういうと、静かにゆっくりと眠りについた。
 最高血圧は45を切り、脈拍も少しずつ減ってきた。

 午前10時48分

 彼女はゆっくりと空気を吸い込んだあと静かに息を吐きだし、そして息を引き取った。

 享年26歳。
 私たちと同じ歳だった。

 彼方さんが、目で「臨終だよ」と私に伝えてくれた。
 だけど私にはそれができなかった。
 今だけは、今日だけは萌の担当医ではなく萌の親友としてその場にいたかったから……
 私は医者失格だね……

 彼方さんが黙って、萌の脈を計り臨終を伝えた。

 皆、無言の中。
 静けさだけが残った。

 気づいたときには、セミは鳴かなくなっていた。

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