第四章 森の中の神殿
翌日。
いつもは教室で食べている給食だけど、今日は玻瑠南の希望で外に出た。
弁当を持って玻瑠南について行くと、学校の敷地の端っこの、北棟側の空き地に来てしまった。一般の教室があるのは南棟で、北棟というのは音楽室や理科室などがある棟のことだ。学校の敷地の境界に張られた金網とこの北棟との間が細長い空き地になっていて、たまに抜け道として通る人はいるけど、普段は誰かが来るような場所ではない。
まばらに短い雑草が生えた地面に、玻瑠南は腰を下ろした。僕もその隣に座る。
玻瑠南が弁当を食べ始めたので、僕も食べ始めた。
「私、なんだか疲れちゃった」
玻瑠南は弁当から玉子焼きを選んで口に運び、半分食べた。
「イベントが続いたからね。ちょっとのんびりすればいいよ」
やっぱり玻瑠南は疲れていたんだ。とても玻瑠南を放ってはおけない。フレアには悪いけど、今日の予定はキャンセルしようか。
玻瑠南は残りの玉子焼きを食べた。
「…………じゃあ」
玉子焼きを食べ終わった玻瑠南が、まだ少しご飯が残っている弁当を地面に置いた。そして、
「え、ちょっと、玻瑠南?」
玻瑠南が僕に寄りかかってきた。右肩と右腕で、玻瑠南の体重を受け止める。
「こんなことができる背が高い男子なんて、クラスに立樹しかいないもの。大好きな立樹が同じクラスにいるなんて、私すごい幸せ」
「あ、うん……そうだね。背が高くてよかったよ」
これで玻瑠南の疲れが取れるなら、僕は喜んで協力したい。
ただ、弁当を持つ手が動かせない。
「玻瑠南、ちょっと、食べにくいんだけど」
「なでなでして」
「へっ!?」
「頭、なでなでして」
「えっ、でも」
「いいから。誰も見てない」
「そういう問題では……」
アミカの薄紫色の頭なら、これまで何度もなでてきた。でもハルナの頭はなでたことはない。ましてや現実の玻瑠南なんて……。
「早く」
玻瑠南はあぐらをかく僕の足の上に倒れ込むように横になってきた。僕は慌てて弁当をどかして、地面に置いた。
右を見て、左を見た。誰もいない。
僕は玻瑠南の黒髪をなでた。
「ふにゃあぁ~~っ」
「ア、アミ……」
僕はまた左右を見た。誰もいない。
「んふぅうう~ん」
力の抜けたアミカのロリ声が、黒髪の後頭部から漏れているかのように聞こえてくる。
「ダ、ダメだよアミカ、じゃなかった玻瑠南、誰かに聞かれたらどうするの!」
僕は小声で囁くように、それでもしっかりと言った。
「んん? うん、うにゅぅ~」
ダメだ。全然耳に入ってない。どうしよう。
「あのさ……まだ弁当が残っているんだけど」
止めたい言い訳を言いながら、僕は玻瑠南の頭をなで続けていた。疲れている玻瑠南のために力になりたいという気持ちが、僕の手を止めさせなかった。
「リッキ……アミカはリッキのおよめさんになるんだからね」
横向きに寝ていた玻瑠南が、仰向けになった。下を向いていた僕と目が合う。
「あんなねこみみの、ろしゅつど高いだけの女になんか、リッキをあげないんだから」
「はは、それは言い過ぎだよ。ネコ耳もあの服装も、きっとFoMではよくあるんだよ」
「やくそくして。リッキはアミカをおよめさんにしてくれるって」
僕は……どう答えたらいいのか、わからなかった。
今、僕の足を枕にして寝ているのは、玻瑠南なのだろうか。それともアミカなのだろうか。玻瑠南とアミカとでは、違う答えを言うべきなのだろうか。それとも同じなのだろうか。それもわからなかった。
僕のスマートフォンが、電子音を鳴らした。
『リュンタル・ワールド』のアプリが、メッセージが来たことを知らせている。
Frair: これはいったい
「ん? フレア?」
僕が言った名前に、玻瑠南が素早く反応した。僕が見ているスマートフォンを、玻瑠南も覗き込む。
Frair: どういうこと
不意に、足音が聞こえてきた。
スマートフォンを見るのを止め、頭を上げる。
「に、西――」
西畑がスマートフォンを片手に、こっちに向かって歩いてきていた。
玻瑠南は跳ね起きた。西畑の姿を見て、顔面蒼白になっている。
西畑の赤縁眼鏡の奥の醒めた両眼が、僕と玻瑠南をチラチラ見て、そして手元のスマートフォンを確認している。
「なーのーかーしーら、っと」
そう言った西畑の指先が、スマートフォンに触れた。
Frair: なのかしら
歩きながら、西畑は語る。
「今日はアイリーと一緒にFoMに来ることになってたでしょ? だから予定を立てておこうと思ったんだけど、沢野君いつの間にか教室からいなくなっちゃってるし。
でも探しているうちに、北棟のほうに行ったのを見たって教えてくれた人がいたのよ。だから来てみたんだけど、そうしたら聞き覚えのある子供の声が聞こえてきてね。よく聞いてみたら、その子供の声、私のことを話しているじゃない。
説明してくれる? 沢野君。それと……そこの、ロリっ娘アイドルさんも」
ついに西畑は、僕たちの目の前まで歩いて来た。
背筋が凍りつくって、こういうことなんだ。
僕は今人生最大のピンチを経験している、そういう実感があった。
ずっと西畑から目を逸らせないでいた玻瑠南が、ゆっくりと、ぎこちなく、僕のほうを振り向いた。
「立樹は……知って、たの?」
「あ……えっと、そ、その……」
まずい。とにかくまずい。最悪にまずい。
「知ってたも何も、私のほうから沢野君を誘ったんだから。フレアじゃなくて、この現実世界の私が、沢野君を」
「立樹、本当なの? それ」
「…………うん」
僕のことはどうだっていい。西畑からも玻瑠南からも、どんなに責められたって構わない。でも、
「まさかこの大女が、あのロリっ娘アイドルだったなんて。二アカだったのね。すっかり騙されたわ」
「西畑さん、それはさすがに言い過ぎだ」
アミカの秘密がバレてしまった。玻瑠南がアミカの声で話してしまったのは、軽率だったかもしれない。でも僕がちゃんと周囲を注意していれば、こんなことにはならなかった。僕にも責任はある。僕たち二人の失敗だ。
だからと言って、今の西畑の発言は許せない。
僕は立ち上がろうとした。が、それを制して玻瑠南が先に立ち上がった。
玻瑠南は一歩前に出て、二十センチくらいは身長差がある西畑を見下ろした。
「あんたみたいなチビ娘の口からロリっ娘批判の言葉が出てくるなんて、とんだお笑い種ね」
「別に批判なんかしてないけど? もし沢野君の好みが小さい女の子だっていうなら、所詮仮想世界のロリっ娘なんかより、現実の私のほうがよっぽど有利じゃない?」
玻瑠南と西畑が、同時に僕を見た。
「えっと……その……、見た目とか、大きいとか小さいとか、そうじゃなくて……」
なんて弱々しい声で言っているんだろう、僕は。
僕は二人を交互に見ながら、かろうじてスマートフォンの画面を見て、指先を動かした。
「立樹! 今は私を見て!」
「沢野君! 私よ! 私だけを見て!」
二人の気迫に圧され、文字を打つどころではなくなってしまった。
届いてくれ。
○ ○ ○
「あれっ? お兄ちゃんからだ」
電子音を鳴らしたスマートフォンを手に取った愛里は、不思議そうに画面を眺めていた。
Rikki: 北棟のうら
「どうしたの? 何かあったの? そういえば愛里のお兄さんってすごい背が高いよね。何センチあるの? 一八〇くらい?」
「うん、だいたいそれくらい」
愛里は一緒に食事をしている友達の声に生返事で答えると、
「ちょっと行ってくるね」
テーブルの上に弁当を置いたまま、ランチルームを出て行った。
◇ ◇ ◇
「どうしたのお兄ちゃん! 何かあったの?」
愛里が来てくれた。メッセージはちゃんと伝わったみたいだ。
「……あー、どうぞ、気にしないで続けて」
「続けてじゃねーだろ!」
あてにできないことはわかっていたけど、やっぱりいつもと同じで、本当にあてにできない。完全に愛里はこの状況を楽しんでいる。いないよりはいたほうがいいと思って呼んだけど、いてもやっぱり変わらない。
「愛里……その、バレた」
「バレた? 何が? 二股が?」
「違う!」
変わらないどころか、完全に裏目だ。火に油だ。やっぱり愛里なんか呼ぶんじゃなかった。
「二股? 違うよね立樹、騙されてたんでしょ? このただやかましいだけのチビ娘に」
「ほう? 騙しているのはロリっ娘アイドルの中の人のほうでしょう?」
「黙れこのネコ耳痴女! あんな格好で立樹を誘惑するくらいなら、今ここで素っ裸にでもなってみたら?」
「あんたこそフリフリの衣装を着て幼稚な歌を歌ってみたらどうなの? さあ歌いなさいよ!」
「二人とももうやめろって! 愛里も何か言ってくれよ!」
「お弁当残ってるよ? 食べたら?」
「そうじゃないだろ!」
「まあまあそう熱くならないで。お兄ちゃんも、ハルナも、それと……」
「ああ、私、フレアよ。沢野君のクラスメイトの、西畑朋未」
愛里は当然、目の前にいるのがフレアであり西畑であるということは理解していたはずだ。
でも、仮想世界で遊ぶプレイヤーのリアルの情報を他人が勝手に明かすのはタブーだ。だから愛里は言葉を濁し、西畑が自分で言うのを促した。こういうところは、本当にしっかりしている。
「愛里、実はその……アミカの中身が玻瑠南だってことが、西畑さんにわかってしまった。僕の不注意だった」
「違うの! 立樹のせいじゃない、私がうかつだ――」
「もーお兄ちゃんったら何やってんのよ! バカなんだから」
愛里は玻瑠南が謝ろうとするのを遮って僕を責めた。それでいい。
「それとトモミ! お願い! このことは内緒にしといて! 私もアミカのこと大好きだし、アミカを困らせたくないの! ね、お願い、いいでしょ? アミカはアミカだから!」
愛里は手を合わせて、必死に西畑に迫っている。
「え、ええ……いいけど」
西畑は愛里の勢いに気圧されてしまった感じだ。
それに、愛里はなんとも思っていないだろうけど、下級生にいきなり下の名前で呼び捨てにされて、だいぶ戸惑っていたみたいだし。仮想世界ではよくあることでも、現実世界でこれを平気でやっちゃうのは愛里くらいだ。
愛里は自分よりも背が低い西畑の両肩に手を掛けて、懇願を続けた。
「もしかしたらFoMでは中身を明かすことに抵抗がない人は多いかもしれないけど、リュンタルってそうじゃないの。一緒になったばかりでまだ慣れないことも多いだろうけど、わかってほしいのよ」
下級生が上級生にお願いをしているとは、とても思えない光景だ。
「わかった。わかったから」
西畑自身も、仮想世界では背が高くて大胆に肌を露出した姿をしているということをバラされたくはない。そういう気持ちがある以上、アミカのことは言えないはずだ。
「ありがとうトモミ! 本当にありがとう!」
愛里は西畑の両肩から手を離すと、今度は西畑の両手を握りしめた。西畑は手を握られたまま、振り向いて僕を見上げた。
「お兄さんも少しはこの押しの強さを見習ったら?」
西畑はちょっと呆れ気味だ。
「いやあ……なんか図々しくてごめんな」
「沢野君は優しさは十分あるけど、もっと強さがあってもいいと思うのよね」
「立樹、私は今のままの立樹でいいから。注文つけたりしないから」
「注文って言い方おかしいでしょ。誰にだって長所と短所はあるものよ」
「長所も短所も、私は全部好きだから」
まずい。また喧嘩になってしまいそうだ。どうしてこんなに言い争いになってしまうんだ?
「二人とも、落ち着いて、落ち着いて」
と、そこへ、
「あ~、いたいた~」
のんびりした声が聞こえてきた。
「みんな集まって、どうしたの?」
智保がこっちに向かって歩いて来ている。
右手には箸、左手には弁当箱。食べながら歩いてきたのだろうか。
「智保こそなんでここに?」
「んー、なんか気になっちゃった」
ひょっとして愛里の後をつけて来たのだろうか。それにしてはタイミングが遅すぎるけど。
近づいてきた智保をよく見ると、弁当箱が空っぽだ。どうして箸を持ったままだったのだろう。
「あ、立樹、お弁当残しているじゃない」
智保は地面に置いてあった僕の弁当を見つけた。
「うん、ちょっと、それどころじゃなくて」
「いらないんならもらうね」
智保は持っていた空の弁当箱を置き、代わりに僕の食べかけの弁当を手にして、残りを食べ始めてしまった。僕はいらないなんて言ってないのに。
みんなが呆気に取られている。
「ちゃんと残さず食べないと、大きくなれないよ?」
この体の僕にそれを言うのか。そんなこと言うのは智保くらいだ。
「そうだ!」
パンッ、っと愛里が手を叩いた。
「今日さ、この五人でパーティ組もうよ! トモミがFoMを案内してくれることになってるから、みんなで行こ? トモミはそれでいい?」
「私は別にいいけど……ということは、松川さんもリュンタルやってるの?」
◇ ◇ ◇
「え……えっ? シェレラ……さん?」
噴水の広場の『
「そうだけど?」
シェレラはフレアの前に立った。両手を腰に当て、大きな胸を張り出すような姿勢をとっている。フレアのほうがちょっと背は高いけど、存在感は圧倒的にシェレラだ。
シェレラはそっとフレアの頭に右手を伸ばした。
「これ、どうなってるの?」
ネコ耳を触ろうとしているのだ。
「ちょ、ちょっと、やめてよ」
ネコ耳をプルプルと震わせ、フレアは後ずさった。
「あたしと違ってこんな貧相な胸じゃリッキを満足させることはできないものね。耳くらいしか特徴がないなんて可哀想」
「はぁ? 何よそれ!」
「ち、違うって」
僕は二人の間に割って入った。
「僕はそんなふうにシェレラを見たことはない」
「……信じていいの?」
「もちろん! もちろんだよ!」
フレアにそう言って、後ろを振り返る。
「シェレラ、そんなこと言わないでくれよ! 違うから!」
「でもリッキ、あのネックレス」
シェレラはフレアの胸元を見つめている。金の鎖に緑の宝石。僕がプレゼントしたネックレスを、フレアは今もつけている。
「あれ、あたしが作ったんだけど」
「「ええっ!?」」
僕とフレアが、同時に叫んだ。
「あのショップ、あたしが作ったアクセサリー以外もたくさん置いているのに、それでもリッキはあたしが作ったのを選んじゃったのね。それってもう、無意識のうちにあたしのことが好きってことなんじゃない?」
「ほ、本当にあれ、シェレラが作ったネックレスなの?」
「なんならショップのオーナーに訊いてみる?」
「……いや、いい」
そこまで言うんだったら、間違いないだろう。
それに、僕は一番いいと思ったネックレスを選んだんだ。それがシェレラが作ったものなら、むしろ誇らしい。
ただ、フレアへのプレゼントとしては、それは相応しくなかった。
「……リッキ、ごめん、返す。気持ちだけもらっておく」
フレアはネックレスを外した。
申し訳なさそうに差し出されたネックレスを、僕は受け取るしかなかった。
フレアは辺りを見回した。
「ところで……牧田さんは来てないの? それに、今日はどっちで来るの?」
「そろそろじゃないかな……あ、来たよ」
フレアの後ろで、『門』が光った。
立ち上った仄白い光が下り、アミカが姿を現す。
「わーい、シェレラーっ」
走り出したアミカはスピードを緩めず、そのままシェレラの胸に飛び込んだ。
「うにゅぅ~~っ」
目をトロンとさせ胸にうずくまるアミカを、シェレラは優しく抱きしめている。
フレアの目が点になった。
「な、なんなのこのロリっ娘とデカ乳女は」
「はは、いつものことだから気にしないで」
「ふーん……ひょっとして、リュンタルって変な人が多いの? ……あっ」
フレアは空間をなぞり始め、そして顔をしかめた。
「どうしたの? 何か悪い知らせ?」
「ザームよ。一緒に森に行かないかって。もちろん断っておいたけど。……それより、あの二人いつまでああやってるの?」
シェレラの胸の間には、まだアミカの顔が埋まっている。
「止めるまでかな。最初はあんなじゃなかったんだけどね」
シェレラの胸の中で息ができずに死にかけた経験を持つアミカは、その後顔を寝かせるなどして呼吸を確保する方法を身につけた。シェレラもぎゅっと強く抱きしめずに優しく手を添えることで、アミカに動く自由を与えている。
「おーい、そろそろ行くよー」
僕が声をかけると、ようやくアミカはシェレラから離れた。
◇ ◇ ◇
「よっ!」
「……何やってんのよあんた」
ツウェロクの『門』の前に、相変わらず派手な格好のザームが右手を軽く上げて立っていた。
「お嬢が遊んでくれねーから、一人でどっか行こうと思ったんだよ。そうしたら先に『門』が光って、お嬢ご一行様が現れたって訳よ」
「あっそ。行ってらっしゃい」
「おいおいちょっと待ってくれよ。せっかくだし、俺も混ぜてくれよ。なあ、せめて後ろのみなさんにご挨拶でも」
「行こっ。こいつ無視していいから」
フレアは歩き出した。僕たちもついて行く。そして、ザームもついて来た。
「ねえフレア、あの人誰?」
アイリーが訊いた。
「あいつは私のギルドの雑用係」
「ひでーなお嬢! 雑用はねーだろ。一応サブマスなんだしよ……ところで、みなさんリュンタルの人? その、お嬢の彼氏にはこないだ会ったけど」
ザームは僕を指差した。
「「彼氏?」」
シェレラとアミカの声が揃い、突き刺すような視線をフレアに浴びせた。
「いやっ、それは、その」
フレアの口角が片方だけ不自然に引き攣っている。
「リッキが好きなのはアミカに決まってるじゃん!」
アミカが僕に抱きついた。
シェレラはすぐにアミカを引き剥がした。
「違うでしょ? この小娘やそこの貧乳女は頭がおかしいのかなー」
シェレラは優しく微笑みながらアミカの襟を掴み、引きずりながら歩いている。
「なんだよなんだよ、彼氏大人気じゃんかよ」
ザームは僕を見て、ニッと笑った。白い八重歯が輝いている。
「あれ? キミは?」
アイリーだけが絡んでこないのを、ザームは不思議に思ったようだ。
「あ、私、妹なんで」
「妹!? うわー、何? ただでさえ女の子に囲まれているってのに、こんなかわいい妹までいんの? なんなの彼氏」
「ザーム、黙ってて」
フレアはザームを睨みつけた。
「でも、俺はいつだってお嬢の味方だぜ? お嬢一人がいれば俺は満足さ」
「ザーム? 死ななきゃ黙れないの? 殺してあげようか?」
「ま、まあ、フレア、落ち着いて。みんなも落ち着いて。シェレラはいいかげんアミカを放してあげて。ザームは静かに」
僕はなんとかこの場を収めた。
「とりあえずさ、自己紹介でもしながら歩こうか」
「そうだな! 俺、ザーム!」
「あんたこのままついてくる気なの?」
フレアはまた怒りだした。
「フレア、いいじゃないか。ちょうど六人だしさ、このままパーティ組めば」
「……リッキがそう言うなら」
「うおー! お嬢が素直に言うこと聞いてる! 彼氏すげえ! ありがとー!」
「……ザーム、その、彼氏ってのやめようか。僕はリッキ。それとザーム、うるさい。ちょっと黙って」
「お、おう…………」
◇ ◇ ◇
歩きながら、それぞれが自分の戦闘の特性を簡単に言った。ザームは僕と同じ剣士だった。この人数なら剣士は最低二人はほしいところだから、剣士であるザームが加わったことはむしろ良かったのかもしれない。
「六人いるんだったら、ちょっと難易度高めのところを攻めてみてもいいかな」
「だったらお嬢、こないだ」
「あんたは黙ってて」
「……………………」
最後尾をちょっと離れ気味に進むザームが何か言っても、誰も振り向かない。もうみんながザームがどんな人なのか把握したみたいだ。
「ペンジチ迷宮遺跡あたりが良さそうね」
「それ俺が言おうとしたやつじゃん」
「遺跡は深い森の中にあって、ダンジョンを通り抜けていかなければならないから、お互いの特徴が生かせると思うのよ」
みんながフレアの言うことに耳を傾けている。途中でザームが口を挟んだことなど、まるでなかったかのようだ。
でも、こんな扱いをしているけど、フレアはザームの力を認めているはずだ。ザームが加わったから難易度が高い攻略に挑んでも大丈夫だと考えているのが、何よりの証拠だ。考えた行き先がザームと一致したのだって、きっと偶然ではないだろう。
フレアは初日に僕と一緒に行ったのとは別の出口へと進んだ。
街を出てすぐの所に『門』があった。フレアが言うには、これから行く場所は街から歩いて行くのではなく、この『門』としか通じていない場所にまず行くのだそうだ。
僕たちは『門』に乗り、光に包まれた。
◇ ◇ ◇
『門』は、木々に囲まれていた。
白く淡い光が下り、僕たちの前に姿を現したのは、茶色と緑。それだけだ。
無秩序に生えた木、広がる枝、そこからさらに広がる葉。倒木や折れた枝。さまざまな長さの草、地面の土と落ち葉。人の手など全く加わっていない自然のままの森に、僕たちは囲まれ、圧倒されていた。
しかし、実際はそうではない。足元の『門』が、ここが全て人の手によって作られた仮想世界であることを証明している。
「ここ、道がないのよ。分け入って進むしかないから」
フレアは平然とそう言って、『門』を出て森の中へ入っていった。
しかし、誰も後に続かない。みんな『門』に乗ったまま立ち尽くしている。
「どうしたの? 行くよ?」
森に入ったフレアが立ち止まり、こっちを振り向いた。
「……ねえザーム、本当にあんなとこ進んでいくの?」
アイリーが震える手でフレアを指差している。
「ああそうさ。でも心配すんなって。ちゃんと俺が手を貸してやっから」
ザームが差し出した手を無視して、アイリーはフレアに続いて森の中に入っていった。他のみんなもアイリーに続いた。ザームは手を差し出したまま固まっている。だんだんかわいそうになってきたけど、僕もザームを置いて森の中へと入っていった。
「おーい、待ってくれよーう」
僕の後ろで、ザームの声が悲しく響いていた。
でこぼこの地面にバランスを崩し、倒木を跨ぎ、枝をかき分ける。こんな大変な思いをしながら先へ進んだことなんて、僕には経験がない。でもフレアだけはまるで普通に歩いているかのように、どんどん先へと進んでいく。おかげで距離が開いてしまい、フレアは僕たちが追いつくのを待っていなければならなくなった。
信じられないことに、後ろからは、
「おーい、早く行ってくれよ」
と、ザームがけしかけてくる。どうやら苦労しているのはリュンタルの人間だけみたいた。
待っていたフレアに、なんとか合流した。
「フレア、本当にここで合っているの?」
アイリーが心配して訊いた。
「大丈夫だって。安心して。ちゃんとこの先に遺跡があるから」
フレアがそう言うのだから間違いないのだろう。フレアが指差した先はこれまでよりも開けていて、枝をかき分ける必要はもうなさそうだ。確かに、いかにもどこかに繋がっていそうな雰囲気がある。
「よかった、あたし胸に枝が引っかかっちゃって」
「だから何? 自業自得じゃない?」
ああもうこんな所で喧嘩になりそうなこと言うのやめて!
ただ、地面のでこぼこは相変わらずで、歩きにくいことに変わりはない。もしこれでこの先に何もなかったら、僕は二度とFoMで冒険をしようと思わないんじゃないだろうか。
「アミカ、ちっちゃいからあるきにくいよ。リッキおんぶして」
「しょうがないわね。ザーム、おんぶしてあげて」
「お嬢の頼みならしょうがねーな。ほらちびっ子、おいで」
ザームはしゃがんで、手を後ろに回した。でも、
「やっぱりアミカ、ひとりであるくよ」
アミカがザームの背中に体を預けることはなかった。
アミカも大変だろうけど、僕もザームも大変だし、ここはやっぱり一人で歩いてほしい。
「みんな、聞いて」
フレアがパンパンと手を叩いた。こんなメンバーを引率する案内役をさせてしまって、なんだか申し訳ない。
「ここからはモンスターが出てくるから。ザーム、三歩進んで」
「こうか?」
言われた通り、ザームが三歩前に進んだ。すると、その先にある木の上からモンスターが飛び降りてきた。初日にも見た、二メートルくらいのリスのモンスターだ。こんな大きなモンスターが木の上に潜んでいたとは思えない。やはりFoMのモンスターの出現の仕方は、「ゲームだから」と割り切って考えたほうがよさそうだ。
「ザーム、ちょっと倒してきて」
「お嬢は人使いが荒れえよなー、ちったあこっちのことも考えて――」
「早く行く!」
フレアがザームの尻を蹴飛ばそうとして、逃げるようにザームは走り出した。剣を出現させて右手に握ると、地面のでこぼこなど全く関係なく、そのまま走ってリスのモンスターを斬りつけ、一撃で倒した。
「ザーム……やるじゃん」
アイリーが呟く。意外なものを見た、という顔をしている。
あのリスのモンスターは、フレアが言っていたようにザコモンスターだ。ザームにとっても敵ですらないのだろう。それよりもこのでこぼこの道を難なく走っていったことに驚いた。見た目や態度でだいぶ損をしているけど、ザームの身体能力には確かなものがある。
「どうだお嬢! 見ててくれたか!」
ザームが剣を高々と掲げ、振り回している。
「さあ私たちも行こっ」
フレアはザームではなく、僕たちのほうを見ている。ザームはまだ剣を掲げているけど、フレアには気づいてもらえなさそうだ。フレアは軽々と、続く僕たちはちょっと苦労しながらでこぼこの地面を歩いて、ザームと合流した。
その後も何回かモンスターに遭遇した。進むごとにモンスターは少しずつ強くなったけど、戦ったのはフレアとザームの二人だけだった。
◇ ◇ ◇
「ここがダンジョンの入口よ」
僕たちの目の前に、巨大な切り株が現れた。直径は三メートルくらいあるだろうか。高さも大体三メートルくらいだ。
「ここから登るから」
ロープで編んだ網が切り株に垂れ下がっていた。まるで現実世界のアスレチック施設みたいだ。ロープを掴み、足を掛け、登っていく。登り切ると、ここがダンジョンの入口である理由がよくわかった。切り株の内側が空洞になっていて、地下まで穴が伸びていたのだ。そして、ここにもロープの網が垂れ下がっている。僕たちは切り株の内側を下りていった。
「やっと普通に歩ける~」
アイリーが喜びのあまりスキップで歩き出した。
さすがに僕はスキップしないけど、気持ちは同じだ。切り株を下りた先は、リュンタルにもよくある石壁のダンジョンだった。床も石でできていて、これもリュンタルにはよくある。違うのは、リュンタルのダンジョンはうっすら青白く光っているのに対し、このダンジョンは夕暮れ時のような、ほんの少しオレンジがかった薄暗さだということだ。
フレアの先導で、歩いて行く。
「ところでお嬢」
最後尾から、ザームがフレアに話しかけた。が、即座に、
「うるさい」
フレアは振り返ることなく答えた。
フレアがザームを冷たくあしらうのはいつものことだけど、いくらなんでもひどすぎないか?
そもそも、どうしてザームはこんなひどい扱いを受けながらもフレアについて行っているのだろう? ひょっとしてというか、やっぱりザームはフレアのことが好きなのか?
後ろを振り返ると、肩を狭めてしょぼくれながらとぼとぼとついて来るザームが目に入った。訊いてみたいけど……ちょっと訊けないな。もしザームと二人っきりになることがあったら訊くかもしれないけど、そんな機会はなさそうだし。
「ねえザーム、どうしてザームって」
アイリーが振り返って言った。まさかアイリー、これ訊くのか?
「フレアのこと、『お嬢』って呼んでるの?」
そっちか! でも、確かにそれも気になる。
「ん? そりゃあだって――」
「黙れ」
フレアは低く押し殺した声で、また振り向くことなくザームを制した。
「……言わなきゃアイリーがかわいそうじゃんかよ……」
「いいから黙れ!」
フレアの怒声を聞いて、言わなくていいよ、ということをアイリーは手で合図した。
何か理由はあるんだろうけど、きっとフレアはそれを知られたくないんだ。アイリーもそれを理解しているから、無理に聞き出そうとはしなかった。
ところが。
「そういう態度がお嬢様みたい、ってことなんじゃないの? 冷たさとか高慢さとか」
柔らかく優しい声でシェレラは言った。なんてことない普段の日常会話と同じような口調で。
フレアは初めて振り向いた。
「あんたねえ、言っていいことと悪いことがあるって、わかんないの?」
「違うの?」
「違うとか違わないとか、そういうことじゃないのよ!」
「……………………」
シェレラは言葉を返さなかった。アイリーとは違ってシェレラは空気を読めないことがよくあるから、状況が上手く掴めなくて、何を言ったらいいのかうまく判断できなかったのかもしれない。
「まったく……」
フレアはまた前を向いた。腕を組み、いかにも不機嫌そうだ。でも否定しなかったあたり、シェレラの言ったことは図星なのかもしれない。
そこへ、
「おじょー! おじょーのみみ、さわっていい?」
今度はアミカがフレアに火をつけてしまった。
「ダメに決まってんでしょ! それとお嬢って呼ぶな!」
「でも、ザームはおじょーってよんでるよ?」
「おう! 俺にとってお嬢はお嬢だもんな!」
「ザームはとりあえず死んで」
「お、おう……さすがにそれはキツいぜ……」
なんだかパーティとは思えないほどギスギスしてきたな……。これで大丈夫なんだろうか。シェレラとアミカも仲がいいのか悪いのかわかんない時がよくあるし、これもそういうパターンならいいんだけど……。
でもやっぱり不安だ。なんとかしなきゃ。
「フレア、そんなに怒らないでさ、仲良くいこうよ」
「……私のせいにしないでよ。リッキのせいでもないけど」
「誰のせいとかじゃなくて、みんなで協力してさ。なっ?」
「……わかってるわよ。特にこのダンジョンのモンスター、私あまり得意じゃないし!」
フレアが足を止めた。
同時に、床から触手がにょっきりと生えてきた。触手は次々と生えてきて、通路を埋めて立ち塞がる。
……それにしてもどうやって石の床から触手が生えてきたんだ? 本当にFoMのモンスターの出現方法は、『リュンタル・ワールド』の常識からは理解しづらい。リアリティはないけど、やっぱりこれも「ゲームだから」と割り切るしかなさそうだ。
ピンク色の触手たちがうねり、粘液を垂らす。
「ザーム、あんたなんとかしてよ。私、触手と戦うなんて嫌よ」
「いや、あれ触手じゃなくてミミズだろ?」
ザームがそう言うのでよく見てみたら、確かに名前の表示はオオミミズだ。でも、触手嫌いの人にとっては、床から触手が生えてこようがミミズが生えてこようが大差はないだろう。
「いいから早く! お願いだから!」
フレアは一番後ろにいたザームよりもさらに後ろに下がってしまった。顔を背け、目をつぶって、ザームの背中を押し、無理やり前に出させた。さっきまでの怒鳴り散らしていたフレアの面影は、今はない。本当に触手が嫌いなのだろう。
「あんたみたいな戦闘バカはこんな時にしか役に立たないんだから!」
「わかったよ、行ってくるよ。お嬢をこんなに怖がらせるなんて、絶対許せねーからな」
「怖くない! 嫌いなだけ!」
フレアは金切り声で叫びながら、よくわからない言い訳している。
「へいへい」
対照的にザームは気の抜けた返事をしながら、先頭に出た。
「っつってもなー……、ちょっと数が多いな」
「大丈夫。まず私がやる」
アイリーがザームの斜め後ろに立ち、杖を構えた。杖の先から飛び出した炎の玉が爆発し、オオミミズを肉片へと変えていく。
それでもすべてのオオミミズを倒すことはできない。生き残っているオオミミズが、怒りで色をピンクから赤に変えて、うねりながら襲いかかってきた。
「お兄ちゃん!」
アイリーが振り向いて僕を呼んだ。下がったアイリーと入れ替わって前に出る。襲い来るオオミミズを、ザームと並んで切り刻んだ。すべてのオオミミズが肉片となり、輪郭が光って消滅した。
「お嬢、終わったぜ」
ザームが振り向き、親指を立てて自分の活躍で戦闘が終わったことをアピールした。白い八重歯が輝いている。
フレアは……まだ顔を背けていた。目もつぶったままだ。さらにネコ耳を両手で塞いでいる。ザームのことなど全く気づいていない。
剣を収めたザームが駆け寄り、肩をたたいた。
「お嬢、もう大丈夫だぜ」
「えっ? あ、うん」
「やっぱお嬢には俺がついてなきゃ――」
「リッキが倒してくれたのね! ありがとう!」
まだ剣を持ったままだった僕を見てそう思った……ってことはないだろうけど、フレアはザームを置いて僕に駆け寄ってきた。
「お、おい、お嬢」
「さすがリッキね! 必ず倒してくれるって信じていたわ!」
空いていた僕の右手を、両手で握りしめる。
「フレア、ザームもちゃんと戦ったから。僕だけじゃないから」
いくらなんでもザームがかわいそうだ。
フレアは僕の手を握ったまま、振り向いてザームを見た。
「……………………」
そのまま、じっと見つめている。
「お、おう、そのまま見つめてくれてたっていいいんだぜ?」
ザームは指を二本立て、唇に当てた。そしてまさかの投げキッス!
――を放った頃には、もうフレアはザームを見ていなかった。
さっきまでオオミミズが塞いでいた通路に、フレアは歩き出していた。
僕も、みんなもそれについて行く。遅れてザームもついて来た。
なぜかアイリーは一旦立ち止まって、遅れて来たザームに何か耳元で囁いた。
「任せとけ!」
ザームの声だけが聞こえた。
「あんなに触手が苦手だなんて思わなかったな。フレアには怖いものなんてないのかと思ってたよ」
「私にだって一つくらいは弱点あるわよ。大体なんで触手なんかがいるのよ! あんなのがいるほうがおかしいっての」
ダンジョンを歩きながら、フレアは憤慨した。
「ほんとお嬢は俺がいないと触手相手にはどうにもならないんだよな。ミミズだけど」
「触手の話はもうするな!」
フレアは顔を真っ赤にして、後ろを歩くザームを怒鳴りつけた。顔が赤いのは、カッカしているというよりは恥ずかしいからで、怒鳴りつけたのもきっと照れ隠しだ。フレアが怒っているようには、僕からは見えない。やっぱりなんだかんだ言ってフレアはザームを頼りにしているんだ。
「おじょーはしょくしゅがにがて……」
「だからお嬢って言わない! それと触手の話もしない! じゃあ何? みんなは触手が苦手じゃないの?」
「俺は全然苦手なんかじゃ」
「ザームには訊いてない」
他の女の子たちに訊いているんだってことはさすがにわかる。ザームもたぶん……わかっていてピエロを演じているんだと思う、けど……。わかってるよな、それくらい。
「アミカはだいじょうぶだよ!」
「……その割にはさっきの戦闘で全然参加してなかったみたいだけど?」
どうして顔を背けて目をつぶっていたのにわかるんだ? 本当は見ていたのか?
「それは僕とザームで倒してしまったからだよ。アミカは必要なかっただけ。それとアミカ、フレアが嫌がっているから、触手の話はもうしないで」
アミカには触手の話をあまりしないでほしい。うっかりするとアミカが僕のことを好きだと言ってくれたあの時のことに繋がりかねない。あれは……二人だけのことにしておきたい。
「あたしはもし触手に捕まってもリッキが助けてくれるし」
「シェレラ、本当にそうなったらもちろん助けるけどさ、シェレラは回復担当で後ろにいるんだから捕まらないだろ。それに触手の話はもう終わり」
「今度オオミミズが出たら試しに捕まってみるね」
「話聞いてないだろ! 捕まらないで!」
「もしお嬢が触手に捕まったら俺が助けるけどな! 実際これまでだって何度も……」
ザームが途中で話すのをやめたのは、決して自主的な判断ではない。
フレアが振り向きざまに放った青い羽毛の針が、ザームの顔に触れるか触れないかのすれすれの位置を通り過ぎていった。
「なんで避けんのよ。当たるかもう帰るか、どっちかにしてくれる?」
「だってよー、またオオミミズが出るかもしれねーじゃんかよ……ほら出た」
ザームが指差す先には、さっきと同じようにオオミミズが出現し始めていた。それを見たフレアが、瞬時に僕の背中に身を隠した。
「わ、私にはもうリッキがいるからいいのよ」
そう言われても、さっきはアイリーの魔法に加えてザームと僕の剣で倒したんだし、やっぱりザームがいなければ困る。
そう思っていたら、僕の横から飛び出す人影が。
「あたしちょっと捕まってくる!」
もっと困ることする人がいた!
僕はとっさにシェレラに飛びついた。今ほどシェレラの足が遅くて良かったと思ったことはない。
痛くないから関係ないとはわかっていても、僕の体が下になるように倒れ込んだ。
「バカなことしないでくれよ、わざと捕まってどうするんだよ」
仰向けに倒れこんだまま、シェレラを諭す。
シェレラは答えない。
ふと気がつくと、みんなが僕とシェレラを見つめている……けど、何かおかしい。
「お、お兄ちゃん? ……なかなかやるねえ」
アイリーが口を拭った。
やる? シェレラを止めたことが? そんなに大したことではないと思うけど……。
シェレラは僕と一緒に倒れたままの体勢で、手を僕の手の甲に重ねた。
むにゅり。
柔らかく沈む感覚。
???
――わかった。
僕はただシェレラの体を抑えこんだつもりでいたけど、実際には――シェレラの胸を掴んでいたんだ。
しかもシェレラは僕の手を払いのけるどころか、さらに僕の手を押さえて胸に深く沈み込ませようとしている!
僕は力ずくで撥ねのけ、光の速さで立ち上がった。
「ごっ……ごめん」
まだ床に座ったままのシェレラに謝る。
シェレラは僕を見上げ、首を傾げた。
「どうして? 続ければいいのに」
「続けないよ!」
振り向くと、アミカとフレアの視線が、シェレラを突き刺していた。背後には闇のオーラが漂っている。一触即発、暴動寸前だ。
「ちっ違う! 事故だから! あくまでも不慮の事故! だから気にしないで!」
「アミカはリッキがわるいなんておもってないよ」
「珍しく意見が一致したようね」
二人は今にもシェレラに襲いかかろうとしている。
「とっとにかく! 落ち着いて!」
すると、僕たちの騒ぎをよそに、ふっとシェレラが立ち上がった。
そして、何事もなかったかのようにまたオオミミズに向かって行った!
すぐに追いついた僕は、今度は慎重にシェレラを背中から捕まえ、羽交い締めにした。
「アイリー、ザーム、悪いけどちょっと先に行って倒してきてくれるかな」
僕はちょっと引き攣り気味に苦笑いしながら、戦闘をお願いした。
◇ ◇ ◇
オオミミズを倒し、さらにその後もモグラ型やトカゲ型などさまざまなモンスターを倒しながら、僕たちはダンジョンを抜けた。
再び地上に戻ってきた僕たちを待っていたのは、巨大な白亜の神殿だった。なんといっても彫刻が素晴らしい。石造りの柱や壁、屋根、そして中に入れば天井も、大胆かつ緻密な彫刻が埋め尽くしていた。特に鳥や動物の生き生きとした姿を彫ったものが目につく。建物があってそこに彫刻を施したというよりは、神殿そのものがまるで一つの世界を表現した彫刻作品として存在しているような、そんな感じさえ受ける。
「すごいとこだねー」
あまりの見事さに言葉にならず、つい単純極まりない感想を漏らしてしまった。
「こういう神殿欲しいなー。コンサート会場にしたい」
欲しいって……いくらなんでも無理すぎるだろ。
「コンサート? なんだそれ?」
ザームが不思議がって尋ねた。
「私、音楽活動してるから。イベント開いて歌ってるの。でも私がいるピレックルにはこんな素敵な建物がないから、もしステージにできたらいいだろうなーって思って」
「ギズパスにはこういうとこあるよ」
「そうなの? いいなー」
アミカは現実世界の古代遺跡にあるような円形劇場でライブをやっていたし、ギズパスなら同じように神殿だってあってもおかしくない。
「へー、歌ねー。興味あるな、今度行ってみようかな」
ザームは音楽が好きなのだろうか。そう意識してザームの派手な格好を見てみると、こんなステージ衣装の歌手、なんとなくいそうな気がする。
「でも、昨日やったばっかりだし、次の予定はまだ立ってないから」
「なんだ、昨日だったのかよ。知ってりゃお嬢誘って一緒に行ってたのに」
「私はリッキと一緒に見たけど?」
「…………マジで?」
「何がおかしいの? アイリーはリッキの妹なんだし、私だってアイリーから誘われたし」
「いや……おかしくはねーんだけどよ」
肩を落とすザームを無視してフレアは早足で先に進んだ。その先には神殿の出口があった。外へ出たフレアは、ついて行った僕たちを迎えるように、振り向いて両手を広げた。
「ここが最後の戦いの場よ」
そこは、ただの四角い空き地だった。
森を正方形にくり抜き、芝生を敷き詰めてあるだけだ。他の草花や装飾は、何もない。
ただ戦うためだけの場所。そういうことなのだろう。
でも……モンスターの気配もない。どうなっているんだ?
「あれよ」
振り向いたままのフレアが指差した。
神殿の壁に、神の姿を象ったと思われる彫刻がある。とにかく大きい。ピレックルの建国王の像をさらに上回る巨大さだ。
「いくわよ。準備して」
準備? 戦闘が始まるのか?
剣の柄に手をかける。
フレアは大きく息を吸った。
「ペンジチの神よ! いざ、勝負を!」
神殿中に響き渡るような、大きく、よく通る声だった。
数秒後――。
神殿が、小刻みに揺れだした。振動が芝生の地面にも伝わってくる。神殿は揺れ続け、壁に刻まれた神の姿の輪郭に沿って光が走った。
そして、神は動いた。
壁の中から抜け出した足が、ズシリと地面を響かせた。僕たちは空き地の奥へと走って逃げた。神の像はさらに一歩進み、完全に壁の中から抜け出た白亜の全身を僕たちに晒した。
視界の上部にウィンドウが開き、クエストの開始を知らせる。
「あの石像がボスよ。悪い敵じゃなくて、神と力試しをするってことで!」
なるほど、そういう設定か。
それにしても、こんな巨大な石像と戦うのか。でもこっちは六人いるんだ。なんとかなるさ。僕は一人で突っ込んでいった。神の像は太い腕を振り上げ、僕を殴ろうとする。すかさずアイリーが炎の玉を放ち、神の像の攻撃を妨害した。アイリーならこれくらいのことは打ち合わせなしでやってくれる。
神の像の動きが一瞬止まった隙に背後に回り込み、足を斬りつけた。巨大ゴリラと戦った時と同じで、本当は頭を攻撃したいけれども届かないから足を攻撃するしかない。僕は神の像の動きを封じる役だ。頭を攻撃するのは――。
アミカの弓が光の矢を放った。矢は一直線に神の像の頭を目がけて飛んでいく。神の像は首を振って躱した。さすがにただ正面から一回放っただけでは見切られてしまう。全員で息の合った攻撃をして、神の像に思い通りの動きをさせない必要がある。
「リッキ、後ろに気をつけて!」
フレアの声が飛ぶ。
後ろ? 神の像は僕の前にいる。後ろにあるのは神殿だ――。
何かが来る!
神殿の中から飛んできた何かが、猛スピードで僕に向かってきた。目の高さに飛んできたそれを、反射的にしゃがんで躱す。
空を見上げると、神殿や神の像と同じ白亜の色をした鳥が一羽飛んでいる。鳩のように見えるけど、でもなんで鳩なんかが?
神殿の中がざわついている。そして……。
まずい! 逃げなきゃ!
今度は鳩の群れが押し寄せてきた。僕は走ってその場を離れ、みんなと合流した。神殿の中からはさらに犬や猫、牛、鹿などの動物がたくさん飛び出してきた。みんな神殿と同じ白亜の色をしている。
「彫刻がたくさんあったでしょ? 今頃この神殿はツルツルのはずよ」
そんなことだろうと思った。こいつらは神殿の彫刻だった動物だ。神の像と同じように、壁や柱から抜け出てきたんだ。
動物たちはそのまま走って神の像の横を通り過ぎた。さまざまな種類の無秩序な群れが、僕たちに迫ってくる。僕の前には長い角の鹿が突っ込んできた。剣を振り、角を払いのけた。普通の鹿のモンスターとは違い、角も体も全部が石だ。常識的には剣で斬ることはできないけど、そこは「ゲームだから」という理由できちんと攻撃できる。石の鹿がもう一度突っ込んできたけど、今度はきちんと角を斬り落とした。さらに胴体にも深々と剣を刺すと、石の鹿は光となって消えていった。
でも、一匹倒した程度では何も変わらない。僕たちは石の動物の群れに呑まれ、全く陣形を保てなくなった。連携を取って神の像を倒すなんてことは、とてもじゃないけどできない。それぞれが個別に動いてなんとか戦うしかない。アイリーは炎の玉を爆発させまくっている。フレアも爆発するアイテムを投げまくっている。リュンタルの爆裂玉のようなアイテムだけど、あれもきっとフレアが作ったアイテムなのだろう。ザームと背中を預け合っていて、息の合った戦いをしている。上空の石の鳩たちがなぜかザームだけを啄もうとしているように見えるのは気のせいだろうか……。シェレラは
青い空が、光の瞬きで埋まった。
次の瞬間、一斉に降り注いだ雷撃。石の鳩たちは撃ち落とされ、地上に届いた雷撃は石の動物たちを撃ち砕いた。一瞬だけ静寂な空気が漂う。
アミカが掲げた右手の人差し指に嵌められた指輪が、金色に光っていた。
フレアとザームは背中合わせのまま、目を点にしてアミカを見ている。
「あのロリっ娘、こんな強力な魔法使えんの?」
「ほぇー、ちびっ子のくせに、なかなかやるねえ」
僕も初めて見た時は驚いた。アミカの幼い姿からは、こんな大きな魔法を使える力を秘めているようには見えない。フレアとザームの反応は、ごく当然のものだ。
アミカの魔法は決まった。でも、戦闘は全然終わってはいない。アミカの雷撃は石の動物たちを減らしはしたものの、まだまだ多くの石の動物たちが残っている。雷撃に驚いて一瞬動きを止めていた石の動物たちはまた動き出し、僕たちに襲いかかった。
シェレラは防護壁を解除した。回復魔法で次々と全員のHPを回復させていく。アイリーは相変わらず炎の玉を爆発させ続けている。アミカは次の魔法を発動させるまで時間がかかる。僕は石の動物を倒しながら、少しずつアミカに近づいていった。
「アミカ、もうちょっとで行くから頑張って!」
この状況で最も破壊力のある攻撃ができるのはアミカだ。僕みたいに剣で一匹ずつ攻撃するのは効率が悪すぎる。僕はアミカの盾になったほうがいい。
アミカは攻撃を受けながらも呪文の詠唱を続けている。僕は石の動物を斬り倒しながら、やっとアミカの元にたどり着いた。
「アミカ、もう大丈夫だ。シェレラもアミカ優先で回復頼む」
「わかった」
取り囲まれている以上、いくら僕一人がアミカを守ってもどうしても別の方向から攻撃を食らってしまう。アミカのHPが減ってしまうのは避けられない。
「こっちのことは気にしないで。自家製のポーションがたくさんあるから。ミニボムもまだまだたくさんあるから、援護は必要ないわ」
「俺もお嬢お手製のポーションがあるからへっちゃらさっ、ぐふっ」
爆発の音と煙の中から、フレアとザームの声とが聞こえてきた。ザームはフレアから肘鉄を食らっていたように見えたけど、煙に隠れてよく見えなかった。きっと気のせいだろう。それにしても石の鳩たちはザームばかり執拗に啄もうとしているな。どうしてなんだろう。
「ありがとう」
フレアとザームに感謝の言葉を返しながら、剣を振って飛びついてきた石の犬を斬り払った。そして後ろも確認する。アミカの呪文の詠唱はまだ続いている。大規模な攻撃をするためには、それだけ呪文の詠唱に時間をかけなければならない。
「シェレラ、MP足りる?」
「まだ大丈夫」
シェレラの回復呪文で僕とアミカ、アイリー、そしてシェレラ自身のHPが回復していく。そしてついに、僕の後ろで紡がれていた声が止まった。
振り向くと、アミカの右手が天に掲げられていた。人差し指の指輪が、金色に光る。それと同時に、青い空が二回目の光の瞬きで埋まった。
雷撃が降り注ぐ。
上空の石の鳩たちが雷撃を浴び、残りの雷撃が地上の石の動物たちに襲いかかる。石の鳩たちは全滅した。地上の石の動物たちも、あとは数えるほどだ。
「アミカ、お疲れ」
僕は石の動物たちの後ろで控えていた、巨大な神の像に突撃していった。でも、神の像は筋肉で盛り上がった腕を振り回したり足で踏み潰そうとしたりして、簡単には僕を近づけさせない。
後ろではシェレラがぐったりしたアミカを抱きかかえている。アミカは精神的な疲労が限界まで溜まってしまったのかもしれない。アミカの弓が使えないということは、頭への攻撃をするにはアイリーの炎の玉か、それともフレアのシャボン玉か……。
「ザーム、出番よ!」
「おう!」
フレアがザームに攻撃を促した。ということは頭への攻撃を考えていないのか? 二人は神の像の特徴をよく知っているだろうから、きっと何か僕とは違う攻撃を考えているに違いない。
「そりゃあ鳥からしてみりゃ空を他人に渡したくはないだろうけどよ。でもこうなっちまったらもう俺のものだ」
ザームの言っていることは……よくわからない。
「リッキは下がってていいぜ! 暴れると危ねえしな!」
何? 僕に攻撃するなってこと?
「リッキ、ザームの言うとおりだから! ひとまず引いて!」
フレアまでそう言うのなら、仕方がない。引くしかない。残っていた石の動物を攻撃していたアイリーも、ひとまず下がった。久しぶりに六人がひとかたまりになる。
「じゃあ行ってくるぜ!」
ザームはゆっくり前に出た。後ろ姿を僕たちに見せる。その後ろ姿に、『リュンタル・ワールド』ではあり得ないものが現れた。
フレアのような獣耳だけでなく、角や尻尾が生えた人たちも、僕はもうすっかり見慣れてしまっている。
でも、これは初めて見た。
ザームの背中に、翼が現れたのだ。
純白の翼を大きく広げ、ザームが羽ばたく。あっという間に神の像よりもはるかに高く舞い上がり、真上から神の像を見下ろした。そして――。
急降下。
真下にかざしたザームの剣が、神の像の脳天に突き刺さった。剣身は根本まで深々と食い込み、鍔や柄頭に埋め込まれた赤や青の
神の像は、足や腕を痙攣させ始めた。ザームを振り払おうと腕を頭上に上げようとしているけど、上手く動かせない。
「トドメだぁーっ!」
ザームが叫ぶと、剣の宝珠は一際激しく輝いた。
神の像の顔に、ヒビが入った。剣身が光っているのだろう、ヒビは中から白い光を発している。ヒビは光の筋となって、首、胸、腹、そして両腕、両足へと走っていく。
そしてついに、耐え切れなくなった神の像は音を立てて崩れ始めた。表面が剥がれ落ち、足は折れ、腕は落下し、胴体は砕け、頭は割れた。石の瓦礫の山が芝生の地面にうず高く積もり、そのかつて神の像だったものを、ザームが空中で見下ろしている。
「やったぜ!」
ザームが拳を突き上げた。
石の瓦礫の山が光の輪郭となり、消滅した。直後、クエスト完了を知らせるウィンドウが開き、音楽が流れた。
「うぉっとっとっ?」
ザームが空中でバランスを崩した。純白の翼が消えかかり、青い空が透けて見えている。ザームはすぐに地上に舞い降り、翼を消した。
真っ先に駆け寄ったのは、アイリーだった。
「すごいじゃない! ザームがこんなにすごい人だったなんて思わなかった! ねえ、あの羽根どうなってんの? もう一回見せてよ」
「わりぃ、あれ、ちょっとの間しか出せねーんだ。消耗が激しくて」
「そっかー。私も飛んでみたいなー。ねえ、どうやったらその羽根使えるの? 私もできそう?」
「いや……わりぃ、これ、生まれつきなんだよ……」
僕は隣にいたフレアに訊いた。
「あれって、スキルなの?」
「うん、アバター作成時に低確率で現れるレアスキル。後から習得することはできないから、結構貴重」
僕もできたら飛んでみたいなと思ったけど、無理のようだ。
そういえば――。
「フレア、ギルド名の『星と翼』の翼って、ひょっとしてザームの」
「ザーム、よくやったわ」
フレアは僕の話を無視し、手をかざしてザームに歩み寄った。ザームも手をかざし、ハイタッチを交わす。
「あんたの取り柄、これしかないものね」
「そんなことないぜ? まだまだお嬢が気づいてないだけさ。きっと俺のアピールがまだ足りないんだな。これからはもっと」
「黙れ。もうあんたに用はない」
「お、おう……やっぱお嬢はクールじゃなくっちゃな」
クールって単語、そういう使い方でいいのか……?
その後、空き地の中央に出現した『門』から、僕たちはツウェロクに帰ってきた。
「アミカもうねむいよ」
シェレラに寄り添いながら、アミカは目をこすった。
今回のラスボス戦はアミカの大活躍があって勝つことができた。アミカがいなければ石の鳩たちが空を支配し続けていて、ザームが飛ぶことはできなかっただろう。
「アミカもうかえるね」
そう言いながら指を滑らせ、ログアウトしてしまった。
「じゃあ、今日はもう終わろうか。フレア、そしてザーム、楽しかったよ、ありがとう」
「私も楽しかった。特にアミカにはびっくり。ただのロリっ娘アイドルじゃないのね、見直したわ」
「俺はリュンタルのみんなに活躍を見せることができたことが一番だな。もちろんお嬢にもだけど」
「……勝手にそう思ってたら?」
フレアはザームの活躍を否定しなかった。認めつつもストレートに賞賛の気持ちを言えない、そんな感じに見えた。この二人、どういう関係なんだろう?
◇ ◇ ◇
暗い。
ログアウトした僕を待っていたのは、暗闇の現実世界だった。
慌てて時計を見る。
まただ。またやってしまった。なんでこんなことに?
跳ね起きて部屋を飛び出すと、同時に隣の部屋から愛里が出てきた。
「あ、お兄ちゃん、FoMってこの時間でも明るいんだね。知らなかったよ」
そうか!
現実世界の日没に合わせて薄暗くなる『リュンタル・ワールド』と違って、FoMの世界は昼の明るさのままなんだ! それで時間感覚が狂っていたのか!
……なんで気づかなかったんだろう。きっとあの時は気が動転してしまっていたから、そこまで考えが回らなかったに違いない。冷静に考えれば、すぐにわかることなんだから。
「ごめん愛里、今すぐ晩ご飯作るから。お母さーん! ごめーん! 今すぐ晩ご飯にするから!」
僕は愛里に謝り、一階にいるはずのお母さんに謝りながら階段を下りた。ピレックルのお祭りが昨日で終わったのはお母さんも知っている。今日はちゃんと夕食を作らなければ、さすがに怒られてしまう。
リビングの電気がついているのは、外からでもわかる。今日はやっぱり外食には行っていない。
「お母さん! すぐに晩ご飯作るから……、え?」
なぜかお母さんは夕食を食べている。というか、もう食べ終わるところだ。
「あ、りっくん起きた?」
そりゃ起きたからここにいるんだけれども。
「今日ヤスコに行ったらね、駅弁フェアってのをやってたのよ。それでおいしそうだったから、つい買ってきちゃった! りっくんとあいちゃんのもあるから食べてね! あとお惣菜と唐揚げが台所にあるから、足りなかったらそれも……あっそういえばこれ、どこの駅なのかしら」
お母さんが言う通り、テーブルには弁当が二つ置いてある。鉄道に詳しい人なら包み紙を見てどこの駅の駅弁なのかわかるんだろうけど、僕にはわからなかった。
「そうなんだ。おいしかった?」
「おいしかったわー。りっくんも早く食べなさいよ! 後片付けが楽でいいわね!」
料理を作るのは僕の役目だけど、後片付けはいつもお母さんがやっている。食器を洗う必要がないというのは、お母さんにとってはとても重要なことだ。
愛里もリビングに来た。
「あー何これ? 駅弁? 食べていいの?」
立ったまま包み紙を解いていく。
「あいちゃん、ちゃんと座って食べなさい」
「はーい」
愛里が座ったのを見たお母さんは、食べ終わった駅弁の空箱を台所のゴミ箱に捨てると、自分の部屋に戻って行った。
僕と愛里の二人で駅弁を食べていると、どこからか電子音が鳴り出した。
「あ、メッセージだ」
愛里がポケットからスマートフォンを取り出した。僕は家にいる時はスマートフォンを部屋に置きっぱなしにすることがよくあるけど、愛里はどこに行くにも必ず持ち歩いている。
「お兄ちゃん、フレアが明日も遊びたいって。今度はリュンタルで。いいよね?」
フレアはまだ『リュンタル・ワールド』のフィールドに出たことがない。今日はフレアにFoMを案内してもらったんだし、今度はこっちの番だ。
「うん、もちろんいいよ」
「オッケー」
愛里が返信しているのを見ながら、一つ疑問が浮かんだ。
どうして、フレアはFoMにいる間に、このことを言わなかったんだろう?
つい言い忘れてしまったのだろうか。
まあそういうこともあるかと思いつつ、駅弁を食べ続けた。
その後、食べ終わって部屋に戻ると、スマートフォンにメッセージが入っていた。どうやら西畑は先に僕にメッセージを送って、反応がなかったから愛里にメッセージを送っていたようだ。
食事中で見ていなかったというメッセージを返すと、すぐにまたメッセージが送られてきた。
Frair: 明日はザーム抜きで!
なるほど、そういうことか。それでザームがいる前では言い出せなかったんだ。ザームがいなくなると戦力ダウンにはなるけど、今日は元々五人の予定だったんだし、それでも別に構わないだろう。
そうだ、ついでにあのことも訊いてみよう。
Rikki: FoMには夜がないの? あの時間でも明るいなんて、感覚が狂っちゃうよ。
Frair: あー、それは――
フレアの説明によると、FoMでは遊びやすいように夜の時間が短く設定されているのだそうだ。さらに時差も設定されていて、プレイヤーは自分の活動時間に合わせて場所を変えることで昼や夜を選ぶことができるという仕組みらしい。フレアが拠点としているツウェロクは現実より遅い時間に設定されている地域で、それで現実ではもう夜になっているのにFoMではまだ明るかった、ということだったのだ。
最初はリュンタルとFoMは似たような世界なんじゃないかと思ったけど、実際に経験してみるといろいろな違いがわかる。これからは気をつけなきゃ。