追憶
八年前、十一月
四十度近い熱が二回くらい続けて出て、大きな病院に来てとりあえず検査、と言われたのが四日前。今日は検査結果を聞くためにもう一度病院に訪れている。
「姫崎さん 姫崎 夏恋さん」
この前はすごく時間がかかったのに今日はやけに早く呼ばれて、不安が首をもたげる。白が基調の広めの診察室に入ると先生の手元にある検査シートに赤い文字がちらっと見えた気がしてさらに不安が募らせつつも、逃げるわけにも行かないのでとりあえず母と一緒に席に座る。
「とりあえず、結論だけ告げると夏恋さんは急性骨髄性白血病です。」
席についてすぐに、先生から告げられた言葉に耳を疑った。ドラマとか小説とか、そういうものでよく名前を聞く病気だけど、私にはそれ以上に身近な病気だった。
洸のお母さんが、二年前に亡くなったのも同じ病気だ。
死への漠然とした恐怖に襲われて、頭がぼんやりとしてくる。
私、死ぬの…?
先生が、治療の説明を始めるも頭の芯がジーンと痛んで説明が頭に入ってこない。
「すぐに、入院してほしいですが。今空いているのがナースセンター前の個室だけで、そこは特別室になるので、値段が高くなりますがどうしますか?」
「大丈夫です、そこに入院させてください。」
「わかりました」
隣で先生の話を聞いていた母に強く手を握られて、はっと我に返る。浅くなっていた呼吸を整えるために大きく深呼吸をする。
そうだ、怖がってる時間なんてない。冷静になった頭にまず浮かんできたのは、洸のことだった。
なんて言おう。お母さんのお葬式の後、ぎゅっと手を握ってきた洸の手の暖かさを思い出して胸が詰まった。伝えたら洸は苦しむんじゃないか、また、自分の大事な人が死んじゃうって悲しむんじゃないか、そんなことばかりが頭に浮かぶ。
「じゃあ、話はいったんこれで終わりなので荷造りに戻っていいですよ」
「はい、ありがとうございます」
母が頭を下げたのに合わせて会釈をしながらも頭は洸のことでいっぱいだった。
荷造りをしながらも、洸のことが頭から離れなかった。ぼんやりと作業をしていたせいで、机の上にあった写真たてが倒れてしまった。幸いにも傷のなかった写真たてを手に取る。確か、洸が3年前の14歳の誕生日にくれたものだ。入っている写真は、この前行った遊園地で撮ったもの。笑顔でピースする私と洸が写っている。ぎゅっと写真たてを胸に抱いて、心を決めた。
_________隠そう。
病気のことは伝えずにいよう。それで、たとえ洸と一緒にいられなくなっても。洸が、誰かを失う恐怖に取り憑かれながら毎日を過ごすよりずっといい。
心が決まると、不思議と落ち着くことが出来た。私はふうっと息をひとつ吐くと荷造りを再開した。
「それでは、ここが特別室になります。明日には首にカテーテルを入れるので、そのつもりでいてください」
先生の説明に頷いてから、病室に入る。さすが特別室というだけあって、広めの個室だ。シャワーまでついている。ベットの周りを百均の道具でカスタマイズして使いやすくする。これは洸のお母さんに教えて貰った知恵だ。教わった時にはまさかこんなにはやく実践するとは思わなかったけれど。
「学べるものは学んどいて損は無いもの」
それが洸のお母さんの口癖だった。
荷解き、というか分からないけどとりあえず持ってきたものの整理が終わったところでお母さんが親戚に電話をするために外に出て行った。私もそれに続くように小銭を持ってロビーにある公衆電話に急ぐ。ロビーには、入院服を来た人や受信に来た人がたくさんいた。
昨日、病気を隠すと決めてから寝ずに考えた洸に隠し通す方法を実践しに行く。
電話のコールがなる。一回、二回、三回…。無意識に数えていたコールが七回なったところでやっと洸が出た。
「もしも」
「別れよう、私たち」
洸の少し硬い声にかぶせるように告げる。洸が息を飲んだのが電話の気配でわかる。そのまま何も言わない洸に追い討ちをかけるようになるべく冷たい声を作る。
「洸に飽きちゃった、ごめんね?」
「か、れん…?」
洸のかすれた声に涙が溢れそうになって、慌てて受話器を置いた。涙なんて、私が流すべきじゃない。そう、分かっているのに涙が溢れて止まらなかった。
ごめん、洸。
結局、洸を傷つけて、ごめん。
洸が、誰かの死に恐怖を抱きながら生活するのを見たくなかったの。ごめん。
私の、わがままで、傷つけて、ごめん。
心の中で何度も謝りながら、ずるずるとその場にしゃがみこんで子供のように泣いた。
30分ほど泣きじゃくってようやく涙が止まる。大泣きしたせいで、ぼんやりと痛む頭を抱えながら、ふらふらと病室に戻ると、もう母が帰ってきていた。母の目の周りも真っ赤でお互いひどい顔だと少しだけ笑った。
持ってきた小説を読み進めていると、昨日連絡してあった凛音が、お見舞いにと小説を持ってきてくれた。
「坂崎くんには、伝えたの?」
なんの前置きもなく本題に入られて、たじろぎながらも正直に答える。
「わ、かれた」
「は?え?なんで?え?」
頭にはてなマークをたくさん浮かべた凛音に詰め寄られて、言葉に詰まる。
「言えないから。
お母さんと同じ病気です。なんて、言ったら洸は私が死ぬんじゃないかって、きっと怖がる。そんな洸見たくない」
改めて言葉にしてみると、あまりに自分勝手でわがままな理由で、止まったと思っていた涙が溢れた。凛音は小さく「そっか」と呟くと優しく手を握ってくれた。その手の温かさにまた涙があふれる。言葉にならない嗚咽が口からこぼれて、みっともないと思うのに止まってくれなかった。
「やっと泣き止んだ」
私が泣き止むまでずっと手を握っていてくれた凛音に冷やかされて、子供のように泣きじゃくったことを今更恥ずかしく思う。
「治療はどんな感じなの?」
「明日首にカテーテルっていう管を入れて、明後日には抗がん剤が始まるって」
「抗がん剤って、髪が抜けちゃうやつ?」
「髪の毛だけじゃなくてまつ毛まで抜けるらしいよ」
「ええ、せっかく長くて綺麗なのに
抗がん剤ってどのくらいかかるの?」
「1週間やってみるらしい」
普通なら話しにくいし、聞にくい治療のことも凛音相手にならぽんぽん言葉が出てくる。軽口を挟みながら、会話は1時間ほど続いた。
「じゃ、また明日の夕方来るね」
今日は日曜日なので、明日は普通に学校がある。貴重な放課後の時間を割いてもらうのが申し訳なくて、眉が下がる。
「無理、しなくていいからね」
「一大事にむりしなくてどうすんの」
凛音は力強くそう言うと、病室から出ていった。凛音が出ていった途端に静かになった病室に今度は寂しさで涙が溢れそうになった。
次の日の午前中はひたすら検査、検査、検査だった。超音波で心臓の位置を確かめたり、レントゲンを撮ったりと息付く暇もなく様々な検査を受ける。午前十二時半、いよいよ首にカテーテルを付けて、その後レントゲンをとって、忙しい午前中が終わるとやっと昼食にありつくことが出来た。特別室なので、食事もワンランク上のものが出る。今日のメニューは中華だった。
スープの最後の一口を飲み終わって洸にメールを打つためにスマホのアプリを起動する。送信ボタンを押そうとしたところで、ふと、気がつく。
もう、電話も、メールも、しちゃ、いけないんだ。
別れを告げたのは自分なのに洸に連絡を取れないことが、ひどく心細くて涙が出てくる。
「こう…!」
無意識に口からこぼれ出た名前は1度でたら、止まらなかった。
「洸、こう…!
こうに、会いたい…!会いに来てよ、ばかぁ」
自分勝手なわがままだけが口から滑り落ちる。叶わなくしたのは自分なのに。
「馬鹿とか、お前が言うなよ」
「え?」
突然聞こえた愛しい声に顔を上げると、洸がいた。
「どう、して…?」
「片瀬が、夏恋の親友にいろいろ聞いてくれて俺に教えてくれた」
「なんで、」
「会いに来たか?」
言葉に詰まった私の言葉を汲み取った洸は続ける。
「夏恋がピンチの時にそばにいられないより辛いことなんか何もねえよ。」
ぎゅっと抱きしめられて、落ち着く洸の香りに包まれる。
「夏恋は、生きて、帰ってくるだろ…?」
「っ…当たり前でしょ」
洸の声は、震えていた。