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出会い

       一 淡い想い
 関西地方に位置する滋賀県は日本一大きな湖の琵琶湖が有名で、日本国民の殆どは知っているだろう。そんな滋賀県の中央付近にある彦根市に、中堅クラスのスーパーがある。スーパーの名は【昭和堂】と言って、名前のとおり昭和三十八年に創業され、すでに半世紀を過ぎた老舗の店舗だ。本社は彦根市で県内には十店舗の店が、そして県外でも数店舗開業している。その店は食料品の類(たぐい)はもちろんのことで生活用品と言える物は、ほほ全ての商品が揃っている。
 
 ここは滋賀県の長浜市、彦根より北へ十二キロほどの所だ。その長浜店の三階には自転車売り場があり、そこには二名の店員がいた。一人は年配の男性で、もう一人は若い女性だった。
 
 時は平成二十六年の三月初め、その売り場に一人の若い男性が配属されてきた。彼の名前は中村幸次(なかむら こうじ)今年、大学を卒業したばかりの二十二歳だ。彼がなぜ、その職場に配属されたのかというと、その理由は二つある。ひとつは、今働いている年配の男性が三月末で定年退職になるので、その代わりの人員だった。そしてもうひとつ理由があるのだが、その理由は一部の人しか知らないので、ここでは伏せておいたほうが良さそうだ。
 
 店の開店時間は午前十時、従業員の出社時間は午前九時三十分。開店準備のため三十分早く出社する。そして今日は中村幸次が初めて出勤する日だった。年配の男性と若い女性はすでに出勤していた。そこへ九時三十分丁度に中村がやってきた。身長百七十五センチ、体重六十五キロのスリムな体付きで、髪は短くして七・三分けにしていた。決して男前とは言えないが、優しそうな顔立ちをした青年だ。
「おはようございます、今日からこちらへ配属された中村です。よろしくお願いします」
 彼は出勤すると同時に二人の先輩に、そう挨拶をした。すると先に来ていた二人も交互に挨拶を返した。初めに年配の男性が「山下です、よろしく」と言い、次に若い女性が「杉野といいます、よろしくお願いします」と言って頭を下げた。中村は続いて「分からないことばかりなので、御指導をお願いします」と言うと山下が答えた。
「上の者から話は聞いています。取り敢えず私が辞めるまでは指導を任されているので教えますが、その後は杉野に聞いてください」
「分かりました。山下さん、杉野さんよろしくお願いします」
 それからの中村は山下の指導のもと、自転車の販売や修理の方法などを覚えていった。

 やがて一か月が過ぎて山下が定年退職となり、売り場には中村と杉野の二人だけになった。杉野の名前は春香(はるか)で、高校を卒業して昭和堂に入社すると、この自転車売り場に配属されたとのことだった。年齢は二十歳、経験が二年の彼女は身長が百六十センチで、やや痩せ型のスマートなスタイルをしていた。髪は短くしていて目が悪いのか、眼鏡を掛けていた。特に美人とか可愛いとは言えないが、性格的に明るくて話しやすいタイプだった。いわゆる客商売に向いている女性だ。山下が辞めた後、分からないことがあれば彼女に聞くと気軽に教えてくれた。
 
 そんな日々が三か月ほど続いたある日、仕事のことを杉野に聞こうと近づいたときに、彼女から香水の香りがしているのに気付いた。いつもは香水を付けていない彼女が今日はなぜか付けていた。その理由が何なのかは分からないが、中村はその時、彼女に異性を感じたのだった。それまでは仕事を覚えるのに一生懸命で、彼女のことは自分に仕事を教えてくれる一人の先輩従業員程度にしか思わなかった。ただ異性を感じたと言っても、若い女性として感じただけであって、決して恋愛感情を持ったわけではなかった。
 
 秋になるとスーパーの定休日に社内慰安旅行が実施された。仕事の性質上、日帰りのバス旅行で長浜店の従業員が二台のバスに分乗した。中村と杉野は同じバスに乗ったが、二人はそれぞれが自分の友達と一緒に座った。バスは京都へと向かい、寺院や紅葉を見物した後、昼食を摂るため予約してあった料理店に入った。その店は椅子に座って食べるようになっており、すでに机の上には昼食の料理が並べられていた。座る席は自由なのだが、中村と友人が並んで座ると偶然かもしれないが、杉野と彼女の友人が二人の正面に座った。そこで中村は正面から杉野を見て、ハッとした。今日の彼女は眼鏡を掛けていなかったので、いつもと違う雰囲気を感じたのだった。
 中村が杉野に聞いた。
「今日は眼鏡を掛けていないのですか?」
「コンタクトをはめているの」
「そうだったのですか、じゃあ職場ではコンタクトをはめないのですか?」
「もし落としたりしたら、お客様に迷惑を掛けるので職場では眼鏡を掛けているのよ」
「そうですか、いま杉野さんを見てびっくりしましたよ。本当は美人だったのですね」
「それってどういう意味かしら?眼鏡を掛けている私は、美人じゃないって聞こえるのだけど」
「ははは、言葉の揚げ足を取らないでくださいよ。いえ、いつ見てもお奇麗ですよ」
「まあ、まるで取って付けたように聞こえるわ。いいのよ。私が美人じゃないってことは、自分が一番よく分かっていますから」
 そんな二人のやりとりを、それぞれの友人が笑って見ていた。その後、若い男女の四人は当然のことながら話が弾んだ。そして次の定休日には、四人で遊びに行く約束を交わしたのだった。
 
 杉野と知り合って半年以上が過ぎ、それまでから親しみやすくて明るい性格の彼女には好感を持っていたが、最近では好感から好意へと変わっていったのだった。まだ恋だの愛だのと言えるほどではないが、女性として意識し始めたのは間違いなかった。しかしあまり意識しても彼女の気持ちは分からないし、また同じ職場ということもあって、意識しすぎると仕事にも影響が出そうなので、敢えて意識しないように心掛けていた。
 
 十二月も終わりに近づき、中村と杉野は正月の一日(ついたち)のことを話していた。店は二日から開店するので休みは一日だけなのだ。
「杉野さん、一日の休みはどうされるのですか?」
 中村は杉野のことを相変わらず「杉野さん」と呼んでいた。二つ年下の女性ではあったが、職場では二年先輩で仕事を教えてもらう先生だからだ。
「私は特に何も考えていないわ。一日だけだから家でのんびりするかもよ」
「もし良かったら【お多賀さん】へ、お参りでも行きませんか?」
 
 お多賀さんとは多賀大社のことで、彦根市の隣町にある滋賀県では有名な神社だ。
「中村さんと二人で初詣に行くのですか?」
「そうですけど。それとも誰か友達を誘いますか?」
「いえ別に誘うつもりはないけど・・・じゃあ行きましょうか」
「そうですか、それは良かった。ありがとうございます」
「別にお礼を言われるようなことではないと思うのですが」
「そんなことはありません。僕にとっては嬉しいことですから、お礼を言うのは当然です」
「そんなに嬉しいのですか?じゃあ待ち合わせの場所と時間を決めてね」
 
 平成二十七年の年が明け、中村と杉野は車に乗って多賀大社へと向かった。彼女は今日も眼鏡を外して、コンタクトレンズをはめているようだった。
「杉野さん、今日もコンタクトですか?」
「そうよ、何か?」
「いえ別に何でもありません。素敵ですよ」
「そう、ありがとう。それより中村さん、私の名前を呼ぶとき『杉野さん』って呼ぶのは、止めてほしいのだけど。杉野でいいから」
「いえ、それはできません。二年先輩で僕の先生ですから」
「もう教えることもないわ。それにあなたのほうが二つ年上だから」
「それでも呼び捨てなんてできません。じゃあ名前のほうで呼んでもいいですか?」
「なんて呼ぶの?」
「そうですね・・・春香さんかな?」
「だったら春ちゃんでいいわ。私、高校の時は友達から春ちゃんと呼ばれていたのよ」
「そうだったのですか、それがいいですね。春ちゃんか、うんいいです」
 中村は嬉しそうな顔をして頷いた。そして彼女に言った。
「春ちゃんも僕のことを中村さんと言うのは止めて、名前で呼んでもらえませんか?」
「幸次さんって呼ぶの?」
「いえ、幸ちゃんがいいです」
「いきなり幸ちゃんですか・・・春ちゃんに幸ちゃん、まるで恋人同士みたいね」
「ははは本当ですね。じゃあそう呼ぶことに決めましょう。春ちゃん、今年もよろしくお願いします」
「私のほうこそよろしくお願いします、幸ちゃん」
「君からそう呼ばれると、なんだか照れるなあ」
「私も少し照れるわ、ふふ」
 他人から見たらつまらない話だが、本人たちにとっては大事な話かもしれない。そんな話をしながら多賀大社へと向かう二人だった。
 
 一日だけの休みはすぐに終わり、仕事始めの二日になった。昨日を境に、より親しくなった二人だが、それはあくまで外で会ったときの仲であって、職場では今までどおり同じ仕事をしている従業員としての立場をわきまえて、けじめを付けるようにしていた。店内では名前を呼ぶときも今までと同じく、苗字で呼ぼうと話し合って決めたのだった。幸次は春香と外で会いたかったが、初詣のように誘う良い口実も思い浮かばず、誘えないまま月日は流れた。

       二   転勤
 春になった三月の初め、幸次は出勤すると春香に話し掛けた。
「杉野さん、話したいことがあるので、明日の定休日に会ってもらえませんか?」
「いいわよ。でも改まって何かしら?」
「それは会った時に話します」
 
 翌日、彦根に住んでいる幸次は、長浜に家がある春香の所まで車で迎えに来た。
「春ちゃん、ごめんよ。急に誘ったりして」
「ううん、別に用事もないからいいのよ。それより話って何?」
 浩司は近くの長浜港に行き、車を停めると春香の問いに答えた。
「春ちゃん、君には一年間とても世話になったけど、急に転勤が決まったんだ。それでもう会えないかもしれないから会っておきたかったのと、転勤の別れを言いたかったのだよ」
「それって本当なの、どこへ変わるの?」
「行くのは彦根店だから近くだけど、もう一緒に仕事はできないからね」
「どうして急に転勤なんて話になったの?」
「それが僕にもよく分からないのだけど、上司の命令だから断れないしね」
「そうなの・・・寂しくなるわね」
「そうだね、僕も君と一緒にもっと仕事がしたかったよ」
「いつからなの?」
「四月一日付で行くよ」
「じゃあ、もう一か月もないわね。じゃあ私が幸ちゃんの送別会をしてあげるわ」
「えっ本当、それは嬉しいなあ」
「三月の終わりに、どこかで食事をしましょう」
「うん、ありがとう」
 
 幸次の転勤の日が近づいた三月最後の定休日に二人は会った。そして長浜市内のレストランで、ささやかながらも食事をして一年間の思い出など話していた。
「春ちゃん、もし差し支えなかったら、君の携帯電話の番号を教えてもらえない?」
 二人は一年間同じ職場で過ごしたが、お互いに電話番号を教えあうことがなかったのだった。特に電話で話さなくても毎日顔を合わせるのだから、話したいことがあれば、いつでも話せるからだ。しかし転勤となれば話は別だ。今後は電話以外に連絡をする方法がないのだから。
「いいわよ」
 春香はすぐに承諾して、携帯をバッグから取り出した。幸次は番号を自分の携帯に登録すると試し掛けをして、彼女の携帯から着信音が鳴るのを確かめて言った。
「そこに表示されたのが僕の番号だからね」
「分かったわ。私も登録しておく」
 春香はそう言って、幸次の番号を自分の携帯に登録した。
「じゃあまた電話してね。元気な声を聞きたいから」
「うん必ず掛けるよ。春ちゃん本当のことを言うと・・・僕は君のことを、ちょっぴり好きだったんだよ。だからこういう形で離れ離れになりたくなかったよ」
「あらどうしましょう、ちょっぴり好きだったとはびっくりよ。でもすごく好きではなかったのね、ふふふ」
「そんなに茶化さないでくれよ。これでも勇気を出して言ったのだから」
「それはごめんなさいね。でも私だって幸ちゃんのことは、ちょっぴり好きだったわよ」
「えっ、それは本当なの?」
「本当よ。特に深い想いではないけど、毎日会っていればお互いに良いところも悪いところも分かってくるので、その良い部分も悪い部分も含めて、幸ちゃんが好きだったわ」
「そうだったんだ。嬉しいなあ、そう言ってもらえると。でもそれならもっと君を誘えば良かったなあ」
「そうね、誘ってもらったら付いて行ったかもよ。でも毎日のように店で会えるから、私はそれほど外で会おうとは思わなかったわ」
「だったらこれからは店で会えなくなるので、外で会ってくれるかな?」
「そうね・・・幸ちゃんのことは好きだけど、恋愛感情とまでは言えないから交際とかそんな形でなかったら、月に一度くらいは会ってもいいわよ」
「それでいいよ。僕も春ちゃんのこと、今はまだはっきりと愛しているなんて言えないから」
「じゃそうしましょう」
「今日は二人だけの送別会、嬉しかったなあ」
「また別の日にも店全体の送別会があるのでしょう?」
「全体じゃないけど三階のフロアと、友人が一緒になってしてくれるそうだよ」
「そうなの、三階だけだったのね。私は二回目の送別会ね、ふふ」
「今度も来てくれるんだ」
「当然でしょう、行かなかったら却って変だわ。確か三十一日だったわね」
「そうだよ、仕事が終わってからだから少し遅い時間だけど」
 
 四月一日になり、春香は幸次がいなくなった売り場で一抹の寂しさを感じながら、彼の代わりに配属された人と働いていた。昨日まではいるのが当たり前で、空気のような存在であっても、いなくなると寂しく感じる。それはやはり彼のことが好きだったからだろうか?それともどんな存在であっても、毎日一緒に仕事をしていた人が急にいなくなったから、寂しく感じるのだろうか?まあ多少なりとも好きだったのは事実だが。
 
 一方、幸次は彦根店へ初出勤をした。そこでの配属先は食料品売り場だった。仕事は商品の品出しが主で、陳列された商品が売れて減ってきた品物を補充することや、夕方になると賞味期限近くの商品に値引きシールを貼る作業などを行う。先輩たちに指導をしてもらいながら、日々仕事を覚えていくのだった。
 
 一か月も経つと、幸次はすっかり仕事を覚えた。それと同時に気持ちに余裕ができて、春香のことが思い出されたのだった。
「一か月に一回くらいなら会おう」と言ってくれたので、そろそろ電話を掛けて誘ってみようと考えていた。
 
 三日後の定休日前日の夜、幸次は春香に電話を掛けた。
「もしもし春ちゃん、中村です」
「幸ちゃん、元気にしている?」
「元気です。春ちゃんも?」
「私も元気よ。彦根店はどう?どんな仕事をしているの?」
「食料品売り場で働いています」
「そうなの、今までとは全然違う仕事ね」
「でももう慣れました。ところで明日暇だったら会いませんか?」
「いいわよ、会いましょうか」
 浩司は待ち合わせの時間と場所を決めると電話を切った。

 翌日二人は一か月ぶりに会った。
「やあ久しぶり、と言っても一か月だけど」
「そうね、一か月だけど、なんだか久しぶりに感じるわ。やはりそれまで毎日会っていたからかしら?わたし今でも思うのだけど、長浜で一年間仕事をしただけで、急に彦根に転勤だなんて不思議でしようがないわ。だって今までそんな形で転勤した人を見たことがないもの。同じ店舗内で移動をする人はいたけど」
「そうなの?僕は入社して日が浅いから以前のことは知らないけど」
「そうよ、そんなことはなかったわ。ただ一つだけ理由があるとしたら、幸ちゃんは良い大学を卒業しているから将来の幹部候補生で、色んな店や職場に行って勉強をするのと、状況を観察するために移動しているのかもしれないわね。もし今度また一年後くらいに移動があったら、間違いなくそうだと思うわ」
「いや、僕なんかがそんな幹部候補になんかなっていないよ。それは春ちゃんの思い過ごしだよ」
「そうかしら、あなたってボ~としているようで、ここと言う時にはいい仕事をしているからね」
「それって褒めてくれているの。それともけなしている?」
「もちろん褒めているわよ。一年もあなたを見てきたのよ。すこしは幸ちゃんのことを理解しているつもりだわ」
「まあそのことについては、いま話していても全て憶測だからね。いずれ分かる日がきっと来るよ。その時までこうやって会っていたら、改めて話をしようよ」
「そうね、今から一年ほど会い続けていられたら分かるかもね」
「君と喧嘩でもしない限りは会い続けられるよ。もっとも君か僕のどちらかに、特別な異性が現れなかったらの話だけどね」
「ふふふ、特別な異性ね・・・彦根店には素敵な女性がいないのかしら?」
「今のところはね、それにおばちゃんが多いよ。レジには若い子もいるけど」
「春ちゃんのほうは、どうなの?」
「それはあなたが一番よく知っているでしょう。以前と何も変わりはないわよ」
「じゃあ当分の間は君と仲良くできそうだね」
 
 その後の二人は月に一度は会って、お互いの近況を話したり、時にはドライブをしたりして恋人とは言えないが、付き合いを続けていた。そして半年ばかり過ぎた頃、幸次の気持ちに大きな変化が表れ始めた。それは春香に対する想いで、好感から好意へ、そして愛へと変わっていったのだった。
 一方、春香のほうはどうなのかと言うと、やはり彼女も幸次に対してちょっぴり好きだったのが、かなり好きに変わっていた。もし彼から交際を申し込まれたら、二つ返事で受けるだけの気持ちになっていた。ただそれは自分の口から言えなくて、ただ待つだけの立場だった。お互いに同じような気持ちを持っていたが、幸次は改めて告白する勇気もなくて、今までと同様の付き合いを続けていた。
  
        三   お見合い
 半年が過ぎた平成二十八年の春のこと、一年前に春香が言っていた幸次の転勤の話が、また持ち上がったのだった。今度の転勤先は同じ彦根市内にある別の店舗だった。幸次はその話を春香にしようと思い、電話を掛けた。
「もしもし春ちゃん、また転勤になるから君に知らせておくよ」
「えっ、又なの。今度はどこに変わるの?」
「同じ彦根だけど別の店にね」
「そうなの、幸ちゃんはどうしてそんなに転勤ばかりあるのかしら?」
「あっちこっち行って勉強をしてこいってことだろう。そのうち落ち着くよ」
「上の人の命令なら仕方がないわね」
「今度の転勤先も家からは近いので別に構わないよ。配属先はまだ聞いていないけど、どこでも頑張るから」
「また決まったら教えてね」
「分かった、それより近い内に一度会ってくれるかな?」
「いいわよ、いつにする?」
「次の定休日はどうかな?」
「そうしましょう」
 
 浩司と春香が知り合ってから丸二年が経った。そしてこの一年間、月に一度は必ず会って話したり、遊びに出掛けたりする仲なのだが、それ以上の関係にはなれずにいた。幸次も今年は二十五歳になり、春香は二十三歳だ。先のことを考えると、いつまでも友達として会い続けているわけにはいかない。どんなに好きでも片想いでは結婚もできないし、結婚ができないのなら自分の将来も不透明なままで、ただただ年月を浪費するだけなのだ。それならいっそのこと、自分の気持ちを打ち明けて白黒を付けたほうが良いのではないか。もしダメだったら、ずるずると気持ちを引きずらずに、心にけじめを付けて新たな出会いを求めようと思った。
 
 定休日になり、約束どおり春香と会った幸次は彼女に打ち明けた。
「君に話したいことがあるから聞いてほしい」
「なあに?」
「うん・・・実は前にも言ったけど、以前から春ちゃんのことは好きだった。そして君とこうやって外で会うようになってから一年が経ち、今では前以上に好きになっているよ。それではっきり言うと友達付き合いじゃなくて、ちゃんとした交際をしたいと思っているのだけど、どうかな?返事はすぐじゃなくてもいいから」
 浩司からその言葉を聞いた春香は少し考えていた。気持ちはすでに決まっているのだが、返事をする言葉を考えていたのだった。そしてしばらくしてから春香が答えた。
「私もこの一年間あなたのことは色々考えたわ。この一年の間に十数回も会ってきて、その前の一年も同じ職場で一緒に働いた。幸ちゃんのことは全てとは言えないけど、よく知っている。優しくて思いやりがあって、仕事も頑張る。そんな幸ちゃんを私も徐々に好きになってきたの。考えるまでもなく私は幸ちゃんから交際を求められたら、受けようと思っていた。私の返事はそれでいいかしら?」
「本当に・・・ありがとう嬉しい返事だよ。とても感激して言葉が出ないよ。これからもよろしく」
「こちらこそよろしくね」
 
 こうして二人の交際が正式に始まった。幸次は新たな転勤先で仕事を覚え、二人の交際も順調に育まれながら、一年が過ぎた平成二十九年の三月、幸次に転機が訪れた。ある日、仕事を終えて帰宅すると、母の康子が「話がある」と言って彼を呼び、話し始めた。
「あなたも今年で二十六歳になるの。それで、そろそろ身を固める方向で考えてほしいのよ」
「母さん、それって結婚をしろということかい?」
「そうよ。それでお父さんの仕事の関係で、取引先に素敵なお嬢さんがおられるとのことで、一度お見合いをしてほしいの」
「お見合いを・・・ですか。それは困ったな」
「何が困るの?」
「実は僕には付き合っている女性がいるんだよ。それでその人さえ良ければ結婚したいと思っているから、お見合いをしても無意味だよ」
「そうだったの、どんな人か知らないけど、ちゃんとしたお家(うち)のお嬢さんなの?」
「まだその子の家には行ったことがないから、それは分からないよ。でもとてもいい子だよ。僕が入社した時に同じ職場で仕事を教えてくれた子なんだ」
「おまえと同じって、最初に入ったのは長浜店だったわね。その人の名前はなんていうの?」
「杉野春香さんといって、今も長浜の同じ職場にいるよ」
「そうなの、それは分かったわ。でもお見合いだけはしてほしいの。お父さんの世話になった人だから、無下に断れないのよ」
「母さんの言うことも分からないわけではないけど、最初からうまくいかないと分かっているお見合いをしても、無駄だと思うけど。義理があるからどうしてもしろと言うのなら、するだけはしてもいいけど」
「それでいいわよ。お見合いが結果的に成立しなかったとしても、お父さんの顔は立つから」
「分かったよ」
 母の強い勧めで幸次は見合いをすることになった。ただこのことに関しては春香には言わずに済まそうと思った。そして迎えたお見合いの当日、それは彦根市内の、ある割烹料理店で行われた。相手の顔は写真でも見たが、写真どおりにきれいな女性で二年前に短大を卒業して、幸次より三つ年下の二十二歳とのことだった。名前は城田可奈(しろた かな)。仕事は会社員で事務をしているそうだ。お見合いは形どおりに進められ、二時間ほどで終わった。
 
 一週間が過ぎて、幸次は再び母から話があると言われた。
「先日のお見合いの件だけど、先方さんから連絡があって、お相手の可奈さんが是非もう一度、おまえに会いたいと言っておられるそうなの。それで私は『息子に聞いておきます』と返事をしたのだけど、どうする?」
「ええっ、それはまずいよ。見合いをするだけならともかくとして、また会うとなれば杉野さんを裏切るような行為だよ。母さんそれはダメだよ、何とか断れないかな?」
「でも女性のほうから会いたいと言ってきたのよ。普通は女性から断りの返事をもらってもおかしくないところなのに。それにこちらから断れば、父さんも仕事がやりにくくなるかもしれないしね。どうしても嫌だったら城田さんに会って、おまえの口から直接断ればどう?」
「じゃあそうするよ、それで父さんはそのことを知っているの?」
「ううん、まだ知らないと思うから今晩話すわ」
 
 その夜、母の康子が父の民男に見合いの件を話したところ、父は幸次を部屋に呼んで話を始めた。
「母さんから話は聞いた。おまえ城田さんに断りの返事をするそうだな」
「はい、僕には付き合っている女性がいるので、城田さんと付き合うわけにはいきません」
「しかしなあ城田さんは銀行の支店長をしていて、私の仕事上の大切な人だから顔に泥を塗るようなことはできないのだ。城田さんのほうから断ってきたのであれば何も問題はないのだが、こちらから断るようなことをすれば、今後の仕事にも悪い影響を及ぼすだろう。最悪は取引さえしてもらえなくなるかもしれないな。もしそうなれば大変なことになるから、もう一度考え直してくれないか?」
「父さん、それは脅しだよ。父さんの仕事はよく分かっているつもりだけど、好きな子と別れて、好きでもない子と結婚するなんて僕は嫌だよ」
「いやいや、私はまだ城田さんのお嬢さんと結婚しろとは言っていないよ。取り敢えず向こうの言うとおりにしてほしいと言っているのだ。そうしている内に、向こうから『今度の話は無かったことにしてほしい』と言ってくるかもしれないからな」
「でも、そう言ってこなかったら話が進んでいって、取り返しが付かなくなる恐れも出てくるよ」
「それはおまえ次第だろう」
「どういうこと?」
「つまりだな、そのお嬢さんと会った時に、おまえが嫌われるよう嫌な男になればいいのだよ」
「そんなことはしたくないけど・・・・ところで父さんは大切な取引先の娘さんなら、普通は『結婚しなさい』と言うと思うのだけど、なぜ破談にしても構わないのかな?」
「それはうまくいくほうがいいに決まっているよ。しかし好きになれない女性と結婚したって、幸せにはなれないからな。それと、おまえには付き合っている子がいるそうじゃないか。以前、同じ職場で働いていたそうだな」
「お母さんから聞いたんだね。僕はその子に結婚を申し込んで『はい』と言ってくれたら、結婚したいと思っているよ」
「そうか、どんな子なのか知らないが、またいつでもいいから家に連れてきて、紹介してくれるか?母さんも会っておきたいだろうから」
「そうさせてもらうよ」
 
 それからの幸次は父が言ったように仕方なくだが、城田可奈に嫌われるような男になるには、どうすればいいのだろうかと考えていた。但し交際している女性がいるから、城田さんと付き合えないとは絶対に言えない。それを言えば、なぜお見合いをしたのかという話になり、親同士の問題に発展してしまうからだ。
 
 翌週の日曜日、幸次は仕事を休んで城田可奈と会った。
「城田さん、先日のお見合いの時はありがとうございました」
「こちらこそ。今日は会っていただきありがとうございます」
 可奈は少し小柄で身長は百六十センチもないだろう。ストレートの髪を長く伸ばして、肩より十センチ以上は下まである。卵型の顔に化粧をしているせいもあるのか美人だったが、それゆえに少し冷たさも感じられた。
「僕の父は、あなたのお父さんに大変お世話になっていると言っていましたから。だったら僕も息子として、父がお世話になっているお返しをしなければなりません」
「じゃあ今日は親の義理で会ってくださったのですか?」
「それもありますけど『もう一度、会ってほしい』と言ってくれたあなたに対して、断るのは失礼になると思ったからです」
「そうですか、お心遣いありがとうございます」
「いえ、当然のことをしているだけですから」
「実を言うと、わたし以前から中村さんのことは知っていました。今から二か月ほど前の話ですけど、両親と一緒に昭和堂へ買い物に来た時に、父が中村さんを見掛けて言っていました。『あそこで働いているのは私の知り合いの息子さんだよ』と。それでその時、私もあなたを見て(素敵な人だな)と思ったのです。それからしばらくして今度は母と一緒に買い物に来た時も、あなたを見掛けて(一度会って話ができたら)と思い、父に言いました『このまえ昭和堂で見掛けた、お父さんの知り合いの息子さんを紹介してほしいのだけど』と。そうしたら父は『分かった』と言ってくれて、今回のお見合いになったわけです」
「そうでしたか、そんな経緯(いきさつ)があったのですね」
「今まで黙っていてごめんなさいね。中村さんのことをもっと知りたくて、今日も会っていただけるようにと、父にお願いをしました。ご迷惑だったでしょうか?」
「いいえそんなことはありません。でも会ってがっかりされたのではないでしょうか?」
「どうしてですか?」
「僕なんか女性に対して気も利かず、冗談のひとつも言わず、ちっとも面白い男じゃありませんから」
「それは中村さんが決めることではありませんわ。つまらない冗談を言うような軽い人より、私はあなたのような男性が好きです。中村さんのほうこそ私に会って、がっかりされませんでしたか?」
「まだ今日で二度目ですので、そう思うほど城田さんのことを知りませんから」
「そうでしたね、まだ二度目ですものね。じゃあこれからもっと知ってほしいと思います」
 城田可奈は今後も幸次と会うつもりでいるようだった。幸次は父と話したように可奈に嫌われるようにしようと思ったが、彼女にひどいことを言うわけにもいかず、ののしるようなことも言えずにいた。そして結局は、ありのままの自分で話をしていたのだった。
  
 可奈とは三時間ほど会ってから別れたが、次に会う約束はしなかった。しかし彼女の話を聞いている限り、また親を通じて自分と会う方向で話を進めるだろうと感じた。そしてその予感は案の定、的中した。二度目に会った時から二週間ほど後、幸次の仕事の定休日に合わせて会えるように段取りをしていたのだ。今度は幸次に迷惑を掛けまいと可奈が休暇を取って会おうとしていた。幸次は母から可奈の申し出を聞き、本心は断りたいのだが父親同士の仕事上の付き合いを考えると、簡単に断れなかった。だが仕方なく会うことに対しては、却って彼女に失礼に当たるのではないかと思った。だからといってどうすればいいのかも分からず、会うよりほかなかった。自分には好きな人がいて交際をしていると言えたら一番良いのだが、そのことは言わずに可奈を傷つけず、会わなくても済むような方法がないかと考えていた。だが何も名案は思い浮かばなかった。

       四    社長の話
 そんな日々が二か月ほど続き、可奈とも見合いの日を含めて五回会った。その間に交際をしている春香ともデートを重ねていたが、可奈の件についてはひと言も触れずにいたのだった。

 さらに一か月後のある日のこと、幸次にとって非常に重大な問題が起こった。その数日前に可奈の父親から、幸次の父に電話があり、『幸次君に話したいことがあるから、家まで伺います』と言ってきたのだ。可奈の父の話とはどのようなことなのか分からないが、聞かないわけにはいかなかった。
 
 いよいよその日はやってきた。約束の時間に城田さんが家に来られ、それも父だけでなく母と可奈も一緒だった。応接間に通された城田家三人に対して、中村家も両親と幸次の三人が話を聞くことになった。ひととおりの挨拶を済ませた後、最初に可奈の父が話し始めた。
「今日は御無理をお願いして申し訳ありませんでした。さっそくですが話を始めさせていただきます。実はこの娘のことですが幸次君とお見合いをして、その後も何度かお会いしまして、父の私が言うのも照れくさいのですが『好きになってしまった』と言うものですから。それもただ単に付き合うだけじゃなくて、出来れば結婚をしたいと言いだしましてね。それで幸次君にお願いをしようと思い、今日こちらに伺ったというわけです。どうでしょうか幸次君、娘の可奈を嫁にもらってくれませんか?私は正直言って君の人となりを、あまり知りませんが、中村さんの息子さんだったら間違いはないと思っています」
 可奈の父はそこまで話すと幸次の顔を見ながら、お茶を手に取り少し飲んだ。
 浩司は可奈の父から話を聞いて(これは大変なことになった)と、頭の中がパニックになった。 
 次に可奈の母が話し始めた。
「幸次さん、私からもお願いします。この子の気持ちを考えると、知らん顔をしているわけにもいかず、それに中村さんの息子さんだったら安心してお嫁に出せます。無茶なお願いだとは重々承知しておりますが、どうか娘の意を汲んでやってもらないでしょうか?」
 可奈は両親の話を聞きながら、顔は下を向けていた。幸次はどう返答すれば良いものか分からず、両親の顔を交互に見ていた。すると父が言った。
「幸次、今すぐに返事はできないだろうから、しばらく考えさせてもらったらどうだ」
「はい、そうさせてもらいます」
「城田さん、そういうことでよろしいでしょうか?」
「ええ構いません。よく考えていただいた上で、良い返事をお待ちしています。幸次君よろしく頼みます」
 
 話が終わると城田家の三人は帰っていった。幸次は「考えておく」と言ったが、それはあくまでその場しのぎの返事で、答えは最初から決まっている。幸次が考えなければならないのは断る理由なのだ。今度こそ正直に「付き合っている女性がいるから」と言うべきか、それとも単純に「結婚をするほどの愛情を感じないから」と言おうか。ただどんな断り方をしても、断れば父に悪影響を及ぼすだろうと思うと辛かった。取り敢えず両親と相談してみようと思い、二人に話し掛けた。
「城田さんのことだけど僕は考えるまでもなく、断りたいのだけど構わないかな?父さんのことを考えると、断るのは本当に申し訳ないと思うけど」
 そう言うと父が答えた。
「私は以前『好きになれない女性と結婚しても、幸せにはなれない』と言ったことが、あっただろう。その気持ちは今も変わっていないのだが、今日は城田さん御夫婦が直々に家まで来て『娘を嫁に』と、頭を下げて帰られたのだ。それなのに、あっさりと断るのは私にはできないよ。もちろん私や母さんが結婚するわけではない、おまえたち二人のことだから、それ以上のことは言えないが」
 続いて母も言った。
「昔の話だけど、お父さんが困っていた時があってね、その時、城田さんが親身になってくれて助けていただいたの。その恩があるから、それを仇で返すような真似はしたくないのだと思うわ。だから父さんはおまえが好きになれそうにない女性だったら、おまえたち二人の話し合いで別れることを期待していたのよ。でもそうはならずに反対の結果になってしまい、可奈さんの御両親まで家に来られた以上は、もう後戻りはできそうにないわ。だから父さんのためにも、可奈さんのためにも、もう一度よく考えてくれないかしら?」
 両親にそこまで言われ、二人に相談したことを却って逆効果だったと後悔した。確かに両親の言いたいことはよく分かる。大袈裟な言い方をすれば、自分が人身御供(ひとみごくう)となれば、全てが丸く治まることも分かっている。だからといって「はい、そうします」とは言えるはずもない。もし自分が春香という女性の存在を知らなかったら、両親の意を汲んで可奈と結婚をしてもいいと思うだろう。一体どうすればいいのか?いくら考えても、すぐに答えが出るような問題ではなかった。
 
 数日後、長浜店で春香が働いていると、職場に置いてある電話が鳴った。受話器を取ると交換手の女性が言った。
「もしもし、そちらに杉野春香さんはおられますか?」
「はい、私が杉野ですけど」
「そうですか、お客様がお見えですので応接室まで来ていただきたいのですが、来られますか?」
「少しの間でしたら大丈夫だと思います」
「じゃ、よろしくお願いします」
 電話を切った春香は(私にお客様とは一体誰だろう、しかも応接室で待たれているなど、今まで一度もなかったことだわ)と思いながら、一階に有る応接室へと向かった。

 ドアをノックして中へ入ると、中年を過ぎたあたりの男性が、ひとり座っていた。その男性は春香が入ってくるとすぐに立ち上がり、彼女に話し掛けた。
「こんにちわ、あなたが杉野春香さんですか?」
「はい、そうですけど」
「仕事中に呼び出したりして申し訳ありません。あなたに少し話したいことがありまして来ていただきましたが、構いませんか?」
「少しの間でしたら大丈夫です」
「そうですか、なるべく手短に話します」
 その男性はそう言った後、背広の内ポケットから名刺入れを取り出し、その中の一枚を春香に渡しながら言った。
「私はこの昭和堂の社長をさせてもらっている、中村と言います」
 
 そう聞いた春香は驚いて名刺を見ると、確かに社長と書いてあり、名前も間違っていなかった。春香が驚いた顔をしていると、社長が話を始めた。
「話と言うのは私の息子のことなのですが、息子の幸次があなたとお付き合いをされていると、聞きました」
 春香は社長の話に、もう一度びっくりした、いや今度の驚きは先ほどの比ではない、心臓がバクバクとするほどの驚きだった(あの幸ちゃんが社長の息子だって?そんな話は一度も聞いたことがない。本当にそうなの?)
 再び驚いている春香の顔を見ながら、社長は話を続けた。
「あなたは幸次が社長の息子とは、御存じなかったようですね」
「ええ、初耳です」
「そうでしょうな、幸次には社長の息子だということを社員の皆に伏せておくようにと、言っていましたから。知っていたのは、この長浜店でも店長だけでしょう。もし社員の皆が社長の息子だと知ったら、扱いが変わるでしょうからね。汚い仕事はさせない、しんどい仕事もさせない。それでは息子のためになりません。社員がやっている仕事を同じようにして、勉強をしてもらわないといけませんから」
「それで私に話とは何でしょうか?」
「話が脱線してしまい、すみません。それであなたと付き合っている幸次ですが、実は数か月前にある女性と見合いをしまして、その見合い相手の女性はこの会社の取引先銀行の、支店長のお嬢さんなんです。息子はあなたのことが好きで、付き合っているから断ると言っていたのですが、そのお嬢さんが先日、御両親と一緒に私の家に来られ『幸次の嫁にしてほしい』と、お願いされたわけです。それでその方たちが帰られてから息子と話し合ったのですが、息子はあなたと結婚したいから、その人には断りの返事をすると言うのです。しかし私としては『そうしなさい』とは言えませんでした。なぜならこの会社が今あるのも、その方のお陰と言っても過言ではないからです。以前、会社が困っている時に助けていただいたという、経緯があるのです。そんな大きな恩のある方に『娘が困っているから助けてくれないか』と、お願いされた以上、知らん顔をするわけにはいきません。そこであなたにお願いがあります。大変申し訳ないのですが、幸次と別れてもらえないでしょうか?これはお願いです、絶対に別れろとは言いたくありませんから。どうでしょう私を助けると思って、ここはひとつお願いを利いていただけませんか?」
 春香は社長から話を聞き、すぐにはどう返事していいものか分からなかった。しかし社長本人が、わざわざ頼みに来られて悪い返事などできるわけがないと思った。それに幸ちゃんが社長の息子だとすれば、一般庶民の私とでは身分が違いすぎるとも思った。そこで春香はしばらく考えた後、社長に言った。
「社長のお話はよく分かりました。おっしゃるとおりにさせていただきます」
「分かっていただけましたか、ありがとう。それともうひとつお願いですが、私があなたに別れ話をしたことを、息子には内密にしていただきたいのですが」
「社長がそう言われるのでしたらそうします」
「そうですか、いやあなたは実に聡明なお方だ。息子があなたを好きになったのも、よく分かります。ところで話は変わりますが、杉野さんはこの店で自分がやってみたいと思う仕事はありますか?」
「いいえ、特には」
「そうですか、実は今度の人事異動の時に、あなたを三階の主任補佐になってもらおうと考えているのですが、どうですか?」
 社長の話は幸次と別れることに対しての、見返りだと分かった。
「そんなに気を遣わないでください。私のような若い者がそんな立場に昇進すると、周りから変な目で見られます」
「いやいや、そんなことは気にしなくてもいいのですよ。あなたがそこで頑張って仕事をして、良い結果を出せば誰も文句は言わないでしょう。次の人事異動までしばらく待っていてください」
 そう言い残して社長は帰っていった。仕事の立場などどうでもいいことだが、どんな理由があろうとも幸次と別れることは辛かった。
 その日、帰宅した春香は布団に入っても眠れずに、ただただ涙を流すばかりだった。

       五   和解
 三日後、幸次から電話が入った。
「もしもし春ちゃん、幸次だけど元気にしているかい?」
「ええ元気よ」
 春香は当然のことながら元気などあるはずないが、そう答えた。
「次の定休日だけど、用事がなかったら遊びに行こうよ」
「幸ちゃん、もうあなたと会うことはできないの」
「えっ、何を言っているの?」
「だからもう会えないと言っているのよ」
「なぜ、どうして会えないの?」
「他に好きな人ができたのよ、だから幸ちゃんとは別れたいの」
 春香はそう嘘をついた。
「僕以外に好きな人ができたって、それは本当の話なのかい?でもこのまえ会った時は、全然そんな感じじゃなかったよ」
「でも本当のことなの、だからもう電話も掛けてこないでほしいの」
 春香はそう言うと自ら電話を切った。その時、彼女の両目からは涙が溢れ、頬を伝って床まで落ちていた。
  
 幸次は春香の話を聞いて呆然としたのだった。まさかそんなことが・・・好きな人ができたなんて、ありえないと思った。部屋に戻ると、いま彼女と話したことを思い出しながら考えていた(春香が言ったことは本当なのだろうか?本当の話なら仕方ないが、もし嘘だとすれば何故そんなことを言ったのだろうか?)確か春香と最後に会ったのは半月ほど前だったので、その半月の間に他の男性と何かあったのかもしれないが、わずか半月の間に自分と別れるほどの男性が現れたとは考えにくい。あれこれと考えていく内に、ふと可奈の顔が頭に浮かんだ。可奈が両親と家に来たのは五日前だ。もしかしたら春香の言葉の裏には、可奈が関係しているのではないだろうか?だとすれば、この五日の間に春香の身に何かが起きたはずだ。自分と春香が付き合っていることを知っているのは、一部の友人を除けば両親しかいない。可奈の両親は全く知らないはずだし、春香の両親も知らないので、最初に考えられるのは自分の父親だ。もし父が春香に自分と別れるように言えば、勤めている会社の社長の言うことに、逆らうことはしないだろう。逆らえば首にはならなくても、遠い店に飛ばされかねない。転勤が嫌なら辞めるよりほかなくなるのだ。店を辞めるだけではなく、交際も許可してもらえないだろうから、結婚など絶対にできない。それらの全てを考えると、春香は引き下がるしかないだろう。この考えは全て推測にしか過ぎないが、まず間違いはないと思う。だがそれを確かめる方法がない。父に聞いたところで正直に答えるとは思えないし、春香に聞いても言わないだろう。おそらく自分には言わないようにと、口止めをされているはずだ。そうなると確かめようがない。そうかと言って、このまま終われる話でもない。何か方法を考えて行動を起こさないと、周囲の圧力で可奈と結婚をすることになってしまう。
 
 幸次は一週間ばかり、どうすれば良いかと色々と考えた。そして春香に会うことに決めたのだった。だが「会ってほしい」と言っても彼女は会ってくれないだろうから、仕事帰りを待ち伏せするしかないと思い、一日店を休んで春香の退店時間に合わせて外で待つことにした。一年間一緒に働いてきた店なので、彼女の帰る時間も帰るルートもよく分かっている。休暇を取って休んでいない限りは絶対に会えるはずだ。
 
 その当日がやってきた。幸次は春香が店から出て来るのを待っていた。十分ほど待つと思っていたとおり、彼女は店から出てきたので、すぐに近寄り声を掛けた。
「春ちゃん」
 すると春香はびっくりした顔をして幸次を見た。幸次は彼女の腕を掴むと、従業員の出入口から少し離れた所へと連れて行った。
「いきなりごめんよ。どうしても君ともう一度話がしたくて待っていたんだ。話をさせてくれないかい?」
「幸ちゃん・・・・」
 春香はどう返事をすればいいのか分からなかった。別れたくて別れようと言ったわけでもなく、無理やり引き裂かれたと言っても過言ではない別れ方をしたのだから、こんな方法を取ってまで会いに来てくれた彼を突っぱねることなど、できるはずがなかった。しかし幸次の父である社長との約束は守らなければならない。そんな二人の狭間(はざま)に立たされている春香は彼の問いに対して、返事のしようがなかった。それで下を向いていると彼が言った。
「このまえ電話で言っていた『好きな人ができた』というのは、本当の話なのかどうか分からないけど、あまりにも突然の話だから僕はどうしても信じられないよ。もう一度聞くけど、その話は本当なの?」
 春香は、やはり黙ったままで下を向いていた。幸次は話を続けた。
「嘘だろう、絶対に嘘だよ。僕はこの前の電話の後で、君と話したことを思い出しながら色々と考えていたんだけど、最後にひとつの結論に達したよ。その結論とは何なのか順を追って話すと、これは最初に君に謝らなければならないけど、僕は三か月ほど前に父が昔世話になった人の娘さんと、義理で仕方なくお見合いをしたのだよ。もちろん義理なのだから、すぐに断って終わりになるはずだった。ところがその女性は僕と結婚をしたいと言い出してね、そこで彼女の両親が僕の家に来て『娘と結婚してもらえないか』と頼んで帰られたのだよ。そして帰られた後、父は『世話になった恩を仇で返すわけにはいかないな』と言ってね、それは僕に対して、暗にその子と結婚をしろと言っているのと同じだろう。そんなことがあってから数日後、君に電話をしたら別れ話をしたので、これには何か深い訳があるはずだと思い、どうしても春ちゃんに聞くために仕方なく、こんな方法を取ってまでも会いたかったんだ。それで今から僕が話すことに対して、君は答えられないのなら何も答えなくていいから、黙って聞いていてくれたらいいよ。もし僕の推測が正しければ、僕がこの昭和堂の社長の息子で跡取りだということを、春ちゃんはすでに聞いているだろう。だから君は父の会社に勤めているということになるよね。父は君と僕が付き合っていることを知っているので、お見合いをした女性と僕を結婚させようと思うと、父から見れば一番邪魔になるのは春ちゃんだから、何とかして僕と別れさせなければならないと考えるだろう。そこで父は社長という立場を利用して君の前に現れた。そして僕と別れるようにと頼み、君は承諾をした。それとこの件は僕に秘密にするようにと言われたと思う。だから僕に好きな人ができたからと、嘘をついて別れようとした。今の話は全て推測だけど、僕はそういう結論に落ち着いたよ。もしその推測が当たっていたら、君の言動にも納得ができるしね。さっきも言ったけど僕の話に何も答えなくていいよ。本当の話なら口止めもされているはずだから。ただ何も答えなくてもいいから僕との交際を続けてほしい。今も僕のことを想っていてくれるのなら・・・父の件と見合いの件は、僕が必ずきちんと話をつけると約束するから。だから春ちゃんも僕と約束をしてほしい」
 そう言うと、今までひと言も話さなかった春香が口を開いた。
「約束するって、何を?」
「もし今度の件がきちんと片付いたら、僕と改めて交際してくれると」
「幸ちゃん・・・」
 春香は幸次の言葉に返事をしなかったが、心の中では嬉しくて自然と目から涙がこぼれたのだった。幸次はその泣き顔を見て、彼女は約束をしてくれたのだと確信した。そして彼女に話した別れ話のことも、自分の推測が当たっていたことを確信したのだった。
 
 それからの幸次は春香との仲を取り戻すべく行動を開始した。まずは可奈と会って春香のことを正直に話そうと考えた。そうすると可奈は自分の父にそれを話すだろう。それを聞いた可奈の父がどんな行動を起こすのか分からないが、僕の父に話すことは予想できる。父は激怒するかもしれないが、それは織り込み済みだ。問題は仕事上の取引にどんな影響を及ぼすかだが、それに関しては幸次にも全く予想がつかなかった。それにしても取引銀行の支店長クラスで大きな会社組織のスーパーに対して、取引を停止できるだけの権限があるのだろうか?もし万一、取引を停止させられたとしても、ここまで大きくなったスーパーだから主力銀行以外にも取引はあるはずだ。だから会社が傾くことなど絶対にないはずなので、そんな心配は必要がない。ただ父としては恩義のある相手に対しての礼儀を重んじているだけだろう。幸次は状況次第では家を出る覚悟をしていた。他の会社で働いてもいいとも思った。春香と結婚をして二人が食べていけるだけの収入さえ確保できれば、それでいいと思った。
 まずは可奈と会って話をしようと、彼女に電話を掛けた。
「城田さんに話したいことがあるので、会っていただきたいのですが?」
「はい、分かりました」
 
 次の日曜日、幸次は休暇を取って可奈と会った。
「今日は呼び出してすみませんでした」
「いいえ、それでお話というのはなんでしょう?」
 
 可奈は幸次の顔を見て(これは良い話ではないだろう)と悟った。
「はっきり言います。僕には一年以上も前から交際している女性がいます。そしてその人と結婚したいと思っています。だから申し訳ないけど、あなたとは結婚できません」
「・・・そうだったのですか、そうとは知らずに私・・・でもそれならお見合いをすることはなかったでしょう?」
「そのとおりです。親の義理とは言え、お見合いはするべきじゃなかったと後悔しました。そしてその結果、あなたを傷つけてしまいました。どんなに謝っても許されることではありませんが、僕には謝るしか何もできません。本当に申し訳ありませんでした」
 
 幸次と別れて家に帰った可奈は、日曜日なので家にいた父に話した。
「先ほど中村幸次さんに会ってきたのだけど、私ふられちゃったわ」
「なんだって、ふられたと・・つまり結婚を断られたのか?」
「そうなの、幸次さんには付き合っている女性がいたのよ」
「本当なのか、だとしたらなぜ見合いなんかしたのだ?」
「それは親に対する義理で断れなかったそうよ」
「しかしだな、それにしてもひどい奴だな。これは中村に抗議しないといかんな」
「ううん、もういいの。もう何を言っても結婚できるわけではないから」
「そうかもしれないが、ひと言くらい言っておかないと気が済まんよ」
「言うのはいいけど喧嘩はしないでね。それと仕事の付き合いがあると聞いているけど、それは今までどおりにして私と仕事を一緒にしないでほしいの。公私を混同するお父さんには、なってほしくないから」
「可奈はいい子だな。おまえのような子をふるなんて・・・分かったよ、言うようにするから心配しなくていいよ」
「ありがとう。私またいい人を見つけるからね」
 可奈は精一杯の強がりを言った。
 
 その夜、可奈の父から幸次の父に電話が入った。
「もしもし中村さん、先日はお邪魔しました」
「いえいえ、何もお構いできませんで」
「実は息子さんのことですが、何か聞いておられますか?」
「いえ何も聞いておりませんが、なんでしょう?」
「今日の昼ですが、幸次君と私の娘が会いまして、幸次君は『僕には付き合っている人がいるから、可奈さんとは結婚できない』と言って断ってきたそうです。まだその話は聞いておられないのですね」
「いま初めて聞きました。幸次がそんなことを」
「そうです」
「それは大変申し訳ありませんでした。まさかそんなことを言うとは」
「私も可奈からその話を聞きまして、その時は頭に少し血が上りましたよ」
「そりゃあそうでしょう。そんな話を聞けば誰でも怒りますよ。息子にはもう一度考え直すようにと言っておきます」
「いや、それは言わなくても構いません、もうダメでしょうから。それと娘はこう言ったのです。『お父さん、このことで中村さんとは喧嘩をしないで、そして仕事の付き合いは今までと変わらずしてね』と。どうです中村さん、いい子でしょう。断られて辛い思いをしているというのに、中々言えないことですよ」
「はい、そのとおりです。素晴らしいお嬢さんですね。そんな子を断るなんて、本当にひどい息子です」
「ははは、この話はこれで終わりにしましょう。中村さんに直接話したら私も気が済みましたから」
「本当にすみませんでした。城田さんが心の広い方で良かったと思っています」
「いやいや、心が広いのは娘の可奈ですよ。可奈の言葉が私にそう言わせてくれたのです」
「いずれにしても、今後ともお付き合いをよろしくお願いします」
 電話を切った幸次の父はどうしたものかと考えていた。可奈の父は幸次には何も言わなくて構わないと言っていたが、何も言わないままで終わらせるわけにもいかないだろう。それが城田さんに対する、せめてもの礼儀と言うものだ。

 そう思うと幸次の部屋へ向かい、ドアをノックした。
「幸次、いま城田さんから電話があったよ。何も言わなくても分かるな」
「ええ分かります。そうですか電話が」
「城田さんはおまえには言わなくてもいいと、おっしゃっておられたのだが、そういうわけにもいかないだろう」
「分かっています。父さんに怒られるのは覚悟の上で可奈さんに断りました」
「私はおまえを怒ろうと思ってここに来たのではないよ。そういう電話があったということを、言っておかなければならないからだよ。それともうひとつは、おまえに謝らなければならないと思っているのだよ」
「えっ、どうしてですか?」
「前にも言ったが『好きでもない人と結婚しても、幸せにはなれない』と言いながら、城田さんの娘さんと結婚をさせようとしたのだ。親のエゴでそんな真似をした私は自分が恥ずかしいよ。それと、おまえが付き合っている杉野さんだが、その子におまえと別れてほしいと頼みに行ったのだよ。社長という地位を利用してな。そんなことまでしたのだから、おまえに謝るのは当然だ。済まなかったな、幸次」
「いえ、僕のほうこそ無茶なことをしてしまい、会社に迷惑を掛けなければいいがと思っています」
「そのことなら心配はいらないよ。城田さんはそんなことで公私混同をされる人じゃないから」
「そうですか、それは安心しました」
「ところで杉野さんのことだが、私がもう一度会ってこのまえ言ったことを取り消すよ。そして元の仲に戻ってくれるようにお願いするから」
「それには及びません。僕から話しますので。それに彼女にはすでに言いました『この件がうまく片付いたら、改めて交際をしてほしい』と。そして彼女はそれを了解してくれました」
「そうか、だったらいいが。もし今度会う機会があれば、その時にはひと言謝るよ。それとおまえのことだが、あと半年もすれば働くようになってから三年が経つよな。それで現場のことを色々と勉強したと思うが、次は本社へ帰って来るか?それからは経営の勉強をしてほしいからな」
「それは父さんの意向に任せます」
「分かった、そうするよ」
 そう言うと父は部屋を出た。

 幸次はそれと同時に携帯電話を手に取り、春香に電話を掛けた。
「もしもし春ちゃん、全てが終わったよ」
「終わったって、どういうこと?」
「何もかもがうまくいったってことだよ。つまり君と僕はまた前のように付き合えるってことさ。詳しい話は会った時にするから」
「本当、わたし嬉しい」
「それで一度家に来てほしいのだけど」
「あっ、そういえば幸ちゃんは昭和堂の社長の御曹司だったわね。どうしよう困ったわ、私は平凡な家庭の娘だから、そんな立派な人とお付き合いなんてできるかしら?」
「そんなことは気にしなくていいよ。僕の母さんだって普通の家の生まれだったと聞いているから」
「そうなの、でも会社を大きくされたのはお父様でしょう。お母さんの時とは訳が違うわ」
「そう言わずに一度来てくれないか、父さんも君に謝りたいと言っているから」
「別に謝っていただく必要はないけど、お家(うち)には伺わせてもらうわ。でも私は、まだ両親に幸ちゃんのことを話していないの」
「そうだったね。じゃあ僕が先に君の家に伺うよ」
「そうしてもらったほうがいいと思うわ。でも幸ちゃんのことを私の両親にどう言えばいいのかしら?勤め先の社長の息子さんだなんて言ったら、びっくりして何て言うか?」
「そのことは何も言わなくていいよ。ただ付き合っている人が挨拶に来るからと言ってくれたら、それでいいよ」
「分かったわ」
 
       六   訪問
 翌日の夜、春香は両親に幸次のことを話した。
「お父さん、お母さん話があるの。私ね、いま付き合っている人がいるのだけど、その人が一度挨拶に伺いたいって言っているの。だから家に来てもらってもいいかな?」
「どこの人なの?」
 母が春香に聞いた。
「私と同じ職場で働いていて知り合ったのだけど、その人は家が彦根だから今は彦根のお店に変わられたの」
「じゃあ今も昭和堂に勤めているのだね?」
「そうよ、私より二つ年上だけど大学を出てから入社されたので、二年後輩なのよ。それで家に来てもらうから会ってほしいの」
「父さん、どうしますか?」
 母が父に聞いた。
「どうしますかって、春香が生きてきた中でこんなことを言ったのは初めてだぞ。それ相応の強い気持ちを持って言っているのだから、会わないわけにはいかないだろう」
「そうですか、じゃあそうします。それで春香、その人はいつ来られるの?」
「まだ決めていないのだけど、お父さんとお母さんの都合の良い日を聞いてから決めるわ」
 
 それから二週間後の日曜日、幸次が春香の家に手土産を持って訪問した。約束の時間に家に行くと、春香は玄関前で待っていてくれた。そして応接間に通されると、すでに両親が座って待っていてくれた。三歳下の弟もいるのだが、今日は私用で出掛けていて留守とのことだった。そこで春香が彼を両親に紹介した。
「お父さん、お母さん、こちら先日話していた中村さん」
「初めてお目にかかります、中村幸次です。よろしくお願いします。また今日は御無理を言いまして、すみませんでした」
 挨拶をすると、まず父が挨拶を返し、続いて母が挨拶をした。
「父の義男といいます、こちらこそよろしく」
「母の和子です、よろしくお願いします。職場ではこの子が大変お世話になったそうで、ありがとうございます」
「とんでもありません。春香さんは僕の二年先輩で、僕のほうがお世話になりました」
「そうですか、それで今は彦根のお店に変わられたとか」
 父がそう聞いた。
「僕の家は彦根なので通勤をするのに近いほうがいいだろうと、会社が気を遣ってくれました」
「それはいいですね、特に冬は雪が積もると通勤も大変ですから」
「ええ、近くに変われて助かっています。ただ春香さんと一緒に仕事ができなくなって残念ですが」
「じゃあ中村さんも、最初は自転車売り場だったのですか?」
「そうです。春香さんには色々教えていただきました」
「なんでも娘より二つ年上だけど、大学を卒業してから入られたので二年後輩だとか聞いていますが」
「はい、仕事では春香さんを頼ってばかりいました」
「大学は家から近くだったのですか?」
「いえ京都の大学だったので、四年間京都で過ごしました」
「失礼ですけど、どこの大学だったのですか?」
「京都日本大学です」
「本当ですか、それはすごいな。京都日大と言えば一流大学じゃありませんか」
「なんとか無事に卒業することができました」
「そんな大学を卒業されている人でも、自転車売り場に配属されるのですか?」
「それは現場の勉強をしなさいと、いうことでしょうね」
「そうでしょうね、何年か勉強をしてから、本社の偉い人になるのじゃありませんか?」
 父にそう言われたが、今は社長の息子だと言わなかった。言えば春香との交際を反対されそうな気がしたからだ。また後日、タイミングを見計らって言おうと思った。
 そうして春香の両親と一時間ばかり話してから帰った。

 それから十日後、今度は春香が幸次の家を訪問した。この日は店の定休日なので父親も家に居るとのことだった。家はさすがに大きく案内されて廊下を進むと、ひとつの部屋に入った。その部屋は十二畳ほどの和室で、床の間に花が飾ってあった。春香が座ると、ほどなくして両親が顔を見せた。そして幸次が彼女を両親に紹介した。
「父さんはもう知っているから母さんに紹介するよ。こちらが僕と付き合っている杉野春香さん」
「よくいらっしゃいました。母で紀子(のりこ)といいます。よろしくお願いします」
「初めまして杉野です。今日はお招きいただきましてありがとうございます」
「いいえ、いつも息子がお世話になっています」
 そこで父が口をはさんだ。
「この前は大変失礼なことを言いまして申し訳なかったね。どうか許してください」
「とんでもありません。私のほうこそ、まさか幸次さんが社長の息子さんだったとは知らずに、出過ぎたことをしてしまいました」
「いやいや、それは気にしないでください。今の時代に身分がどうのこうのなんてありませんから。それよりも大切なのは本人同士の気持ちですので」
「そう言っていただけると、気持ちが楽になります」
「ははは、少しだけですか?」
「ええ少しだけです。やはり私たち一般庶民から見れば、幸次さんは雲の上の存在で、私は雲の下の存在です」
「まあそう言わずに、これからも幸次と仲良くしてやってください」
「ありがとうございます」
「それと、あなたに話していた人事異動の件ですが、あの話は白紙撤回とさせてもらっても構わないかな?杉野さんはもしかしたら、この家に就職するかもしれないからね、ははは」
 今の社長の言葉は、彼と私が結婚しても良いと捉えられた。しかしそんな雲の上の人と私が、結婚なんて本当にしても良いのだろうか?それに私の両親だってそんな人との結婚となると、なんて言うか分からない。春香はまだまだ前途多難だと思った。相思相愛だからといって、何もかもがうまくいくとは思えなかった。
 
 その後も幸次と春香の愛は順調に育まれ、数か月が過ぎようとしていた。幸次は春香の両親に自分が昭和堂の社長の息子だということを、いつ話そうかと考えていたが、それを話すことによって彼女の両親がどう思うかが問題だ。諸手を上げて「良かったな」と賛成してくれるのか、それとも娘の心的な苦労や後々の親戚づきあいなどを考えて、反対されるのか。いずれにしても遅かれ早かれ話さないわけにはいかない。

 やがて迎えた平成二十九年の年末に、春香から幸次に電話が入った。彼女の話は「元旦に家に来ないか」という内容だった。店の休みが元旦だけなので、そう言ってきたのだ。もちろん「伺う」と返事をして、彼女の両親にはその時に自分のことを話そうと思った。
 
 平成三十年の年が明け、約束の時間に春香の家を訪れると、彼女が玄関に出てきた。
「あけましておめでとう」
「おめでとうございます」
 年頭の挨拶を簡単に交わして、家の中へ入ると今日は座敷へと案内された。
 ほどなくして母がお茶を持って、部屋に入って来たので挨拶を交わすと「今日はお昼を食べてください」と言った。幸次が来ることを知って、昼食の用意をしていたのだった。しばらくすると父も入ってきて二人は挨拶をした後、春香を交えて三人で雑談をしていたが、母が「そろそろお昼にしましょう」と言ってきたので、春香は準備を手伝うのにキッチンへと向かった。しばらくして二人は、お盆に乗せた食事を座敷へと運び入れると、母は春香に弟を呼んで来るようにと言った。弟はすぐにやってきて、初対面の幸次に挨拶をした。
「初めまして、杉野 義春(よしはる)です。よろしくお願いします」
「中村幸次です。こちらこそよろしく」
 彼女の弟はこの春に彦根の大学を卒業する予定だと言った。
食事が終った後、幸次が例の話を切り出すタイミングを見計らっていると、父が幸次の仕事について聞いてきたので、話すなら今だと思った。
「中村さんは今年も転勤があるのですか?娘に聞いていると毎年春に転勤されているそうですから」
「まだはっきり決まっていませんけど、変わるかもしれません」
「変わる可能性が高いのですね」
「ええ、もし変わるとすれば本社に行くと思います」
「そうですか、それは栄転でしょう。やはり良い大学を卒業されていますから」
「それで、お父さんとお母さんに聞いてもらいたいことがあります」
「何でしょうか?」
 春香はそばで幸次の話を聞いていて(いよいよ社長の息子だということを両親に話すのか)と緊張しながら思った。
「今の仕事の話ですけど、少し言いにくいのですが・・・実は昭和堂を経営しているのは僕の父なのです」
「えっ、今なんとおっしゃいました?もう一度言ってもらえますか?」
「僕の父は昭和堂の社長で店の経営をしています」
「それは本当ですか?じゃあ君は社長の息子さんだったのですか?」
「そうです」
「春香、おまえはそれを知っていたのか?」
 春香にそう聞いた。
「知っていたわ。でも私がそれを知ったのは三か月ほど前で、それまでは全く知らなかったわ。幸次さん、そのことはひと言も言ってくれなかったの」
「おまえはそんな人と付き合っていたのか、これは驚いたな・・・」
 父はそう言った後、黙ってしまったので幸次から話し掛けた。
「すみませんでした、今まで話さなくて。早く言おうと思っていたのですが、どうしても言い出しにくくて今になってしまいました」
「どうして言いにくかったのですか?」
「それを言えば春香さんとの交際を反対されるかもしれないと思ったからです。春香さん自身も、このことを知って『身分が違いすぎるから』と、身を引くつもりでいたと聞きました」
「う~ん、そうだなあ春香の気持ちも分かるよ。もし結婚でもすれば、周りからは『玉の輿に乗ったな』などと、揶揄(やゆ)されるだろうしね。それで春香、今はどういう気持ちでいるのだ?」
「最近までは迷っていたの。でもこの前、幸次さんの家を訪ねて御両親と話したけど、二人ともとてもいい人だったの。決して上から目線で相手を見るような方ではなかったわ」
「つまり彼と結婚しても良いと思ったのだな」
「そうよ。幸次さんがそう言ってくれるのならね」
「そうか・・・」
「お父さん、お母さん、春香さんとの交際を許してもらえませんか?」
 幸次が両親にそう聞くと、父が答えた。
「中村さん、私は娘の気持ちを聞いて、この子の気持ちを一番に尊重してあげたいと思っています。そうは思っているのですが、何しろ今日突然その話を聞いたばかりで、内心は動揺しています。しばらく考える時間をいただけませんか?」
「分かりました。よろしくお願いします」
 
 幸次が帰った後、杉野家では家族会議が行われた。最初に父の義男が話を切り出した。
「中村さんと春香のことだが、先ほど彼にも言ったように、すぐに結論が出ないのだよ。もし春香が彼と結婚したら結婚式はもちろんだが、後々の付き合いも続けなければならないだろう。うちのようなサラリーマン家庭と、あの大きな昭和堂の社長の家庭とじゃ釣り合いが取れないからな。今はそんなことを言う時代じゃないかもしれないが、現実問題として嫁入り道具だって安物を持たせるわけにはいかないし、その後の付き合いだって大変だと思うのだよ。恥ずかしい話だが、うちにはそれだけの金銭的な余裕も無いからな。だからと言って春香の気持ちも尊重してあげたいから頭ごなしに反対をするつもりはないが、すぐに結論が出る話でもないということだ」
 話を聞いて春香が言った。
「お父さん、私は幸次さんが望むなら彼と結婚したいと思っているわ。でもお父さんとお母さんに金銭的な負担は掛けたくないとも思っているの。だから私もどうしたらいいのか分からないわ。私にも貯金はあるけど、ほんの足しになる程度だから」
「中村さんのことだから、おまえがその話をしたら『着の身着のままで来たらいいよ』と言ってくれるだろうけど、本当にそんなことをするわけにもいかないからな。母さんはどう思うのだ?」
「私は春香の好きなようにさせてあげたいと思っているわ。一生に一度のことだから好きになった人と結婚させてあげたい、それが親心だわ」
「そうか、母さんはそう思うか。義春はどう思う?」
「僕も母さんと同じだよ。でも父さんの気持ちもよく分かるよ。僕はまだ学生でお金儲けをしていないから何も言える立場じゃないけど、出来れば姉ちゃんには好きな人と結婚してほしいな」
「義春もそう思うか」
「お父さん、私・・・幸次さんとは結婚、無理にしなくてもいいわ」
 父の気持ちを考えると、どうしても結婚したいとは言えなかった。
「いや春香、私が悪かったよ。お金より大事なものがあるからな。やはりおまえの気持ちを一番大事にしないとダメだな。もし彼が結婚をしたいと言ってきたら、父さんが一度中村さんの御両親に会って話をするよ。まだ付き合っている段階だから、今は彼が言ったようにそれを許すかどうかの話でしかないからね」
「じゃあ、取り敢えず交際は許してくれるのね?」
「ああ、いいよ」
「だったら私から幸次さんにそう伝えるわ」
「おまえの好きにしなさい。母さんもそれで構わないか?」
「それでいいですよ」
「二人とも、ありがとう」
 
 杉野家の家族会議はそう決まって終わった。春香がその結果を幸次に伝えると、彼はとても喜んでくれた。

 一年あまりが過ぎた平成三十一年の春、幸次は春香に求婚をした。春香としてはひとつ返事で「喜んでお受けします」と言いたかったが、一年前の両親との経緯もあるので、彼に対する返事は待ってもらった。

 家に帰ると両親に求婚のことを話した。すると父が言った。
「そうか、とうとう言って来たか。じゃあ父さんは中村さんの家に行って話をするから、その日取りを彼と相談して決めてくれないか?」
「分かった。すぐにするわ」
「彼の両親からは結婚の許しをもらっているのだな?」
「幸次さんは『許しをもらったから求婚した』と言っていたわ」
「それだったらいいよ。じゃあ頼んだぞ」
 
 一週間後の日曜日、春香は父と一緒に幸次の家を訪れた。案内されて応接室へ入ると、ほどなく彼の両親が入って来た。春香と父は立ち上がってお辞儀をすると、彼の両親も一礼して腰掛けながら、春香と父に「座って下さい」と言った。そして双方の親が改めて自己紹介をした後、幸次の父が話を切り出した。
「今日はわざわざ来ていただいてすみませんでした」
「いえ、私が御両親に会って話がしたいと娘に言って伺ったのですから、こちらこそ忙しいところを会っていただき、申し訳ありませんでした」
「それでその話というのを、聞かせていただけますか?」
「中村さんもすでにご承知のとおり、幸次君と春香は交際をしていまして、先日、求婚をされたと申しておりました。しかし娘はその場ですぐに良い返事をすることができずに、返事を待っていただきたいと言ったそうです。それはなぜかと言いますと、今から一年あまり前のことですが、幸次君が私どもの家に遊びに来た時に『父は昭和堂の社長で、僕は社長の息子です』と私と家内に言われ、それを聞かされた私は大変悩みました。そんな大きな会社の社長をしておられる家と、私のような平凡なサラリーマン家庭とでは、身分が違いすぎるのではないかと。それとこれは少々恥ずかしい話ですが、金銭的な面におきましてもサラリーマンの給料では二人の子供を育てるのが精いっぱいで、立派な嫁入り道具など買えるだけの貯えはありません。娘がごく普通の家へ嫁に行くのなら、こちらも世間並の嫁入り支度で済みますが、社長のお家(うち)ともなれば世間並では済みません。そういうことを考えると幸次君との交際に、私は反対をしようと思いました。そこで家族会議を開いて皆で相談をしたのですが、やはり本人同士の気持ちを一番大切にしてあげようとの結論に達して、二人の交際を許しました。その判断は今でも間違っていたとは思っていませんが、とうとう求婚されるに至って、娘は一年前の家族会議をした経緯を思い出したのでしょう。もし幸次君と結婚すれば私に辛い思いをさせるのではないかと、この子は思ったのでしょう。だから彼に対する返事を待ってもらったのだと思います。自分の一存では返事ができなかったのでしょう。私としましても交際は許しても、結婚となると先ほど話しましたように、身分のことや金銭的なことで今も迷いが生じています。そこで中村さんは二人の結婚については、どんな考えをお持ちなのか聞きたいのですが、どうでしょう?ごく平凡な家庭の娘との交際や縁談を、最初から喜んで賛成しておられたのでしょうか?」
「杉野さん、私は今まで何度か娘さんとお話をさせていただきました。春香さんは御両親の育て方が良かったのか、それとも春香さん自身の人間性なのかは分かりませんが、とても素直で利口でしっかりとした女性だと感じました。そんな素敵な女性ですので交際はもちろんですが、求婚の話も息子から聞いて私は喜んで賛成しました。もし息子が、どこかの社長令嬢と交際をしていたとしても、その女性が私の眼鏡に叶う女性じゃなかったとしたら私は反対します。逆にどんな家庭の女性であろうと、その人が素晴らしい人間であれば賛成をします。それと先ほどおっしゃられていた身分の違いですが、それは少しも気にしないでください。私は全然気にしていません。ちなみに私の家内も普通の家からもらったのですよ。それともうひとつの金銭的なことですが、杉野さんが言われたことはよく分かっているつもりです。私のスーパーも今でこそ大きくなりましたが、先代から受け継いだ時は本当に小さな一軒だけの店だったのですよ。その時はそれなりに苦労もしました。ある銀行から融資を受けられて不況を乗り越えてきました。そんな辛い時代を知っている私は、お金の大切さも十分に理解しているつもりです。大きなスーパーの社長だからと言って、息子の結婚式を派手に挙げようとは思っていません。ごく普通の世間様がするのと同じ程度の式をしたいと考えています。式に来ていただく人も会社関係の人は呼びません。息子の友人と親戚の方々だけ来ていただくつもりです。嫁入り道具にしましても、この家に一緒に住んでいただくつもりをしていますので、物は何でも揃っています。だから着の身着のままでと言いたいのですが、それでは杉野さんに納得していただけないでしょうね。それでこれは私からのお願いですが、二人が生活をする上において二人が相談をして本当に必要な物だけを、それもごく普通の値段の物を買って持ってきてくださればどうかと思います。どうでしょうか、それで結婚を許してやってはいただけないでしょうか?」
「ありがとうございます。そう言っていただけると私の気持ちも楽になります。そういうことでしたら、後は本人同士の話し合いに任せたいと思います。もし結婚することが決まれば今後とも末長くよろしくお願いします」
 こうして中村家と杉野家の話が終わった。

 それから半年余り後、秋の紅葉が色づく十一月の初めに、親戚や友人に祝福されて中村幸次と杉野春香の二人は結ばれた。                                   
                                         完     
                                                                       

 

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