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間違い続き

 
僕はどうしようもない人間だった。いや、現在進行形でどうしようもない人間だ。
人は変われるというが、そんな簡単に人は変われない。十七年かけて築き上げた僕自身を変えるのにはさらに十七年の歳月が必要だろう。そんな簡単なこともわからずに、僕は空回りして開かなくなったガチャガチャのカプセルのように、無駄で滑稽なストーリーを演じていた。
結局すべては遅すぎたのだ。僕の手の中には何もない。


「好きです。私と付き合ってください」
 ドラマや小説の話だと思っていた。一か月前、後輩の女の子に僕は呼び出された。名前も知らない子だった。少し気の強そうな美人で、背も高かった。誰がどう考えても僕とは一生縁のなさそうな感じの子だった。正直、去年までの僕だったら二つ返事でその告白を受け入れていただろう。しかし、僕には別に気になっている子がいた。
名前は北白川さん。小柄な体に、ふわふわの髪。白く透き通り陶器のようにすべすべとした肌、長い睫毛に、くりくりとした大きな瞳。指は白魚のようで、小さく上品な口から発される声は天使のような甘い響きを帯びていた。そしてなにより彼女は優しかった。
弱いものには勿論、その美貌を妬む者などにも彼女はその優しさを持って接した。そしてその慈愛の心に包まれた者は皆、彼女の虜となった。彼女は毎日あんぱんを食べていたのだが、一時期あんぱんが流行の食べ物となったほどである。
 しかし、彼女は孤高の存在であった。高嶺の花であることも関係しているだろうが、何よりも彼女自身が人と深く関わることを拒んだ。彼女はおそらくこの世の誰よりも優しかったが、決して深入りはしようとしなかった。彼女に心を奪われたものは数え切れないほどいたが、彼女の心をのぞき見ることができた者は、誰一人としていなかった。
 僕もその有象無象の一人であった。入学式の日、道に迷っていた彼女を道案内した時に僕は彼女に心を奪われた。彼女はその年の春この街に越して来たばかりだった。
馬鹿げた話だ。助けた方が惚れるなんて。確かに彼女のその麗しい容姿に心が揺らいだのは認める。一目惚れなんてただ外見しか見ていない愚か者の所業だと思っていた。あの時彼女に会うまでは。
 その日の朝、僕は珍しいことにはっと目が覚めた。そのため余裕をもって家を出ることができた。もう五年近く住んでいる街だ。高校生になったからといって、特に変わり映えもすることのない街をゆったり歩いていると、道の隅で佇む少女を見つけた。僕の通う高校の制服を着ていた。どうやら道に迷っているようだ。
自覚はなかったのだが、やはり高校生になるということで浮ついた気分になっていたのだろう。普段見知らぬ人に関わることのない僕は少女に声をかけた。
「迷いました?」
今思うとぎこちない会話の始め方だ。彼女は少しびくっとしたが、すぐに僕の顔を見た。
「はい……迷っちゃいました」
実をいうとここからはあまりよく覚えていない。
振り向いたその少女の困り顔を見た時、全身に雷が流れたような衝撃が走り、一瞬でかあっと熱くなった。あの時のそれが何だったのか未だによくわからない。でも、なるほど確かにそれは一目惚れというやつだったのだろうと思っている。
その後他愛無い会話をしながら(必死にぱくぱくと口を動かしていたことは覚えている)僕は彼女を高校まで案内し、入学式の会場である講堂の入り口で別れた。
 非常に残念なことに、彼女と僕は別々のクラスであったし、僕を彼女も部活に入らなかったため、それから一年間接点はなかった。まあしかし、流石と言うべきか、入学して早々に彼女の噂が学校中を駆け巡った。道案内をしただけの僕は特に何も行動をおこせず、彼女に関する噂を聞くたびに胸が締め付けられるような思いをしていた。ただ、僕も僕なりにとても忙しかったので半年もするとその痛みもだいぶ薄れてきていた。

 そんなこんなで一年がたち、激動の生活の幕開けである高校二年生の春を迎えた。なんと北白川さんと同じクラスになったのだ。クラス替え発表の張り出しの紙の上に、彼女の名前を見つけた時、消えかけていたはずの僕の炎はまるで不死鳥のように激しく燃え上がった。動悸が激しくなり、足元がふらついた。さらに彼女の前の席だったので、席に向かう途中足が絡まって転びそうになった。あまりにも僕の様子がおかしいので、普段冗談しか言わない中学からの友人が心配したほどだった。
 だがしかし、恋愛経験など無に等しい僕にそんな降って湧いたようなチャンスを上手く扱えるかというと、無論その答えはノーであった。
自然に挨拶をするのが精一杯であった。それだけでも最初の二週間は彼女が教室に入った雰囲気を感じただけで喉が渇き、必死に振り絞った声は枯れていて「おはよう」の四文字すら聞き取るのが困難なほどだった。声をかけようと思ったが結局断念した日もあった。
それでも彼女は僕の挨拶もどきの音をしっかりと受け止めて、満面の笑みで「おはよう」と返してくれた。僕が挨拶を断念した日は、彼女から挨拶をしてくれた。ただ、別れの挨拶だけはかなわなかった。彼女はふと気が付いたら教室から消えていた。それは彼女はもとから存在してなくて、僕の妄想上の少女なのかと不安になるほどだった。

そんな何も変わらない学校生活を一か月過ごした。僕の蜻蛉のように儚い恋心を見守っていた友人もしびれを切らしたのか、発破をかけてくるようになった。
「そろそろ挨拶から一段階進めた方がいいと思うぞ」
 一か月前、中学入学以来の友人、蛸薬師は彼女がいなくなったのを確認すると僕の机に腰掛けて、いきなり切り込んできた。
「わかってる。わかってるけどどうすればいいのかわからないんだ」
「どうするも何も、とりあえず普通に話せる仲にならなきゃ駄目だろ。お前等が雑談とかしてんのみたことねーぞ」
「ぐっ」
言葉に詰まる。僕が彼女と話すのは事務的な話ぐらいなのだ。「あんぱん、好きなの?」とも声をかけたこともない。
「確かに去年北白川に挑んでふられた奴の数は数え切れないけどさ。行動しなかったら何も起こらないぞ」
「そりゃそうだけどさ……。いざ彼女を目の前にすると頭が真っ白になって言葉が出てこないんだよ」
「青いなあ。今どきそんな奴フィクションの世界にもいないぞ。ようし……これならどうだ」
そう言うと蛸薬師はこっちこっちと手招きして、僕の耳を口元へ近づけさせ、ささやいた。
「直接話せないなら電話だ。電話番号を聞いてこい」
「はあ?無理にきまってるだろ。それに彼女は携帯持ってないって噂だぞ」
「いやいや、これが案外うまくいくんだよ。それに俺の知る限り、今まで北白川に携帯の連絡先を聞いたことのある奴らは腐るほどいるが、家の電話番号を聞いた強者はいないぞ」
そりゃそんなこと考えつく恋愛馬鹿はなかなかいないだろう。蛸薬師は学校で一、二を争う恋愛馬鹿だ。色々な女の子と付き合って二週間ももたずに、やっぱちげー。と別れるどうしようもないピンクな頭をしている。しかしその甘い顔立ちや軟派な性格からはうかがえないような努力家であり(本人は認めないが)、そのギャップのためかこいつの運命の人候補は後を絶たない。
こんな奴なので、他人の恋愛事に関してもものすごく詳しい。誰と誰が付き合ってるとか、誰が誰を好きだとか、聞いてもいないことをペラペラ話してくる。とにかく、本人の性格には多少難があるが、恋愛事に関しては信用たる人物ではある。
「な?聞いて来いって。お前が北白川を好きなのは誰から見ても明らかなんだから、今さら電話番号聞いても失うものはねーよ」
「お前楽しんでるだろ。僕はお前のおもちゃにはなりたくない。だから聞かない」
「おいおい。そんなこと言ってていいのか?」
「どういうことだ?」
「ここだけの話」蛸薬師は声のトーンを落とした。
「俊弥が狙ってる」
「何んだって?まさかお前北白川さんのこと話したのか?」
「声が大きい。そんなことするかよ」
「俊弥さんか…。確かに呑気なこと言ってられないかもしれない」
「だろ?だから明日聞こう。いや聞いてきてくれ。あいつにだけはいい思いさせたくない」
俊弥さんというのは、三年の先輩だ。校内で恋愛馬鹿王の称号を蛸薬師と争う存在であり、同時に北野の実の兄である。
彼は蛸薬師の完全上位互換といった男であり、その性質の悪さも蛸薬師を上回る。モデルのような体型に、アイドルのようなルックス。運動神経抜群、成績優秀。彼が去年生徒会長を務めた時、普段日の当たらない場所で何をしているかわからない空気のような認識であった生徒会が、まるでドラマのようにアイドルユニット化したという逸話を持つ。一見優等生であるが、恋愛事に関しては飢えた野獣のようで、気に入った女の子を誰彼構わず手にかけていくという裏の顔も持つ。蛸薬師がこんな性格になったのも、幼稚園時代から彼女や、 好きな子をことごとく横からかっ攫われたというのが原因だと言われている。
そんな訳で、蛸薬師は俊弥さんのことをひどく嫌っている。学校ではもちろん、家でも口をきかないらしい。
そんな野獣が北白川さんを狙ってるとは考えもしなかった。俊弥さんは基本的に年下を好まないのだ。僕が知っている限り、今まで彼が手にかけた女の子で年下なのは蛸薬師が関係している子だけだ。彼にとって弟の芝は相当青く見えるらしい。
「でも、僕がいったところで何か変わるとは思えないんだけど」
僕が俊弥さんに勝っている点なんて、一般的な観点からだと一つも見当たらない。
「いや。いける。大丈夫だ」
蛸薬師の目はいつになく真剣だった。こいつがここまで自信を持っているということは、何かあるのかもしれない。かけてみる価値はあるのかも。
「……わかった。出来るだけ早く聞くよ」
「出来るだけ早く、じゃなくて明日だ。明日聞け」
「わかった。明日聞くよ」
僕の返事を聞くと蛸薬師は満足そうに頷き、頑張れと背中をばんと叩いて教室を出て行った。
僕も教科書類を鞄に入れ、教室を出る。
聞いてやる。聞いてやるんだ。
廊下を歩きながらそう何度も言い聞かせていると、なんだかいける気がしてきた。自信が体中を巡り巡っている。
そんなことを考えていたからか、一瞬目の端に北白川さんをとらえた気がした。でも辺りを見回しても見つからなかった。少し意気込みすぎたかもしれない。
下駄箱で、靴を取り出す。かさっと何か紙のようなものに触れた感触がした。
ごみだろうかと思ってそれを手に取る。手紙だった。どこにでもありそうな無味乾燥な白い封筒に入っている。そこにはちゃんと「小倉先輩へ」と、僕の名前が書かれていた。
これはもしかして恋文とかいうやつなのか。なんで決意したその直後にこんなものが届くんだ。嬉しいけれど、嬉しくない。複雑な気分だ。「先輩」と書いてあるのでこの手紙の主が北白川さんではないことが確定したのがよりいっそう複雑な気持ちに拍車をかける。
とりあえず隅っこへ移動し、封筒を開けてみる。
手紙の内容はこういうものだった。
「小倉先輩へ。大事な話があるので、今日東山公園に来てください。迷惑だったらこの手紙は捨ててもらって構いません。 三条 粟生」
聞いたこともない名前だ。悪戯なのだろうか。どちらにしろ東山公園は僕の帰り道の途中にあるので寄るだけ寄ってみよう。
僕は手紙を封筒に戻し、鞄の中へ丁寧にしまって、深呼吸をして東山公園へ向けて歩き始めた。

東山公園は僕の帰り道にある小さな公園だ。ブランコと滑り台しかない、回転する遊具とターザンロープは危険だからと言って撤去されてしまった。本当に何の変哲もないただの公園なので、僕と同じ中学出身の人でも家の方向が違えば知らないだろう。
手紙の主、三条粟生が何故そこを指定してきたかがわからない。もしかしたら同じ方向に家があるのかもしれない。
僕はすこし早歩きで進んだ。人生初のシチュエーションに心が浮いているのは明らかだった。
だが東山公園に近づくにつれ、不安が生じてきた。もしかしたらドッキリかもしれない。家の方向が同じだなんて出来すぎている。僕は三条粟生とかいう後輩女子と話をするどころか、顔も見たことがない。ご都合主義で不思議な現象は一つで充分だ。
そんなことを考えていたらさっきまで僕を突き動かしていた熱はすっかり冷え切ってしまった。それでもせっかく来たのだからと、とりあえず公園の様子を一目見て帰ろうと思い、公園の入り口へそろそろとやってきた僕は、ブランコに座って風に揺られているうちの制服を着た、髪の長い女の子の後ろ姿を見た瞬間、どきっとしてしまった。
気配を感じて女の子が振り向く。僕を視界にとらえると彼女はにっこりと笑みを浮かべてブランコから降りた。
彼女が一歩一歩近づいてくるたびに、僕の鼓動は加速した。少し焦ってきた。
「ごめんなさい。いきなり呼び出して。三条粟生です」
いつのまにか目の前に来ている。一目見て、美人だと思った。後ろ姿にもその雰囲気がかもし出ていたが、正面から見ると、すごく整った顔立ちだということもわかる。背も高く、高校生男子平均身長の僕と目線がそう変わらない。若干伏し目がちで、ほのかに桃色に染まった頬を見ているとゆめかうつつかわからなくなってくる。ドッキリじゃないのか、と辺りを見回してみたが、もう薄暗くなってきていて、何も見えなかった。
「いいいや、全然いいよ。全然大丈夫」
情けないことに緊張して声が固くなってしまう。
「あの……聞いてほしいことがあるんです。先輩」
そう言って彼女はすうっと深呼吸した。僕は呼吸をするのをやめた。
「好きです。私と付き合ってください」
 人生初の体験だった。誰かが歯車を回す音がした気がした。


あの後、返事はまた後でいいですと照れくさそうに言い、後輩女子は足早に去って行った。一人公園に取り残された僕はすこしぽかんとした後、家路についた。
辺りはすっかり暗くなっていた。大通りをすこし外れた道なので人通りもまったくない。僕はさっきまでの出来事がまだ実感できなくて、気持ちを整理するために石ころを蹴りながら歩いていた。明日蛸薬師に聞いてみよう。あいつなら何か知っているはずだ
「そういえば電話番号聞かないとな……」
 ふと、北白川さんのことを思い出して、気分が沈んだ。別に北白川さんは僕の彼女でもなんでもないので、こう思うのはおかしいだろが、罪悪感があった。
 交差点、家まであと数百メートルというとこで信号に足止めをくらった。信号が全て赤だ。たまにこういうことがあるのだが、こういう時は大体変なことが起きる。
 薄赤く染まった交差点の向かい側の闇の中に何かが動く気配がした。ぞわっという感覚とともに体の火照りの残り火が消える。きた。一週間ぶりだ。
 闇の中から現れた怪物は蜘蛛の形をしていた。姿かたちこそは蜘蛛だが、大きさは桁違いだ。信号機のポールの半分くらいまでの高さがある。信号ほどの大きさの複眼が僕をじっと見下ろしていた。
 僕はためらわずさっきまで蹴っていた石ころを掴み、思い切り振りかぶり、怪物に投げつける。鋭い風切り音を奏でて石が怪物の複眼の一つを貫く。潰れた複眼からは黒いもやのようなものが流れ出る。鞄を投げ捨て、投擲の勢いのまま交差点を駆け抜け、一気に怪物までの距離を詰める。
 鋭い爪のようなものが付いた脚を僕に向かって突き出す怪物。僕は体をひねってそれをかわし、怪物の上に跳ぶ。爪が空を裂き、地面を抉る音がした。
 そのまま怪物の上に着地し、全力で拳を怪物に叩き下ろした。
 悲鳴のような、嬌声のような不気味な音を立て、怪物は崩れ落ちた。黒いもやが怪物の全身から吹き出し、そのまま闇に溶けて、消えた。

 僕は服を手ではたいて、道路に投げ出された鞄を拾い、家への道を歩き始めた。
紆余曲折を経て、怪物とこうした闘いを始めたのは十年ほど前だ。人生の半分以上を費やしているのにもかかわらず、僕は未だに何をしているかよくわかっていない。
わかっていることは、怪物がたまに僕の目の前に現れる。僕がその雰囲気を察知するとさっき見せたような超人的な力を得る者に変わるということぐらいだ。どんな姿なのか僕からはよくわからないが、どうやら普通の人には僕も、怪物もよく見えていないらしい。
怪物は何をしているのかというと、詳しくはわからないが、ああやって闇の中から現れて、人のやる気だとか、希望だとか、そういった正の感情を奪い取っているようだ。怪物にそういったものを奪われている人間は何か得体のしれないものに付きまとわれているような感覚になるらしい。そして怪物の姿がよくわからないため、一般的に怪物が現れたと思われるところは不審者出没地や、都市伝説のネタにされている。
僕はそういった怪物を倒すことが役割づけられているみたいだ。もしかしたら僕のほかにもそういった人たちがいるのかもしれないが、怪物の前で変身した僕は怪物同様、人から感知されず、記憶にも曖昧に残る程度なのでわからない。だが、他にそういった人はいないと僕はなんとなくだが、半ば確信的にそう思っている。
怪物たちはその面妖な姿とは対照的に、ものすごく弱い。基本的にストーカーのように人の周りをうろついて感情を奪い取るだけで攻撃してくることはないし、大抵の怪物は変身した僕なら一撃で倒せる。そして不思議なことに、怪物たちは放っておいても、ある程度獲物を狩り、収穫を得ると、自然と消えていくのだ。そして現われるのは決まって夜だ。日が出ているうちは存在の残り香すら見せない。あと、これは経験からの推測だけれど、僕を狙って現れている気がする。
だから僕が必死になって怪物狩りをする必要はない。ただ、目の前に居合わせた怪物は問答無用で叩き消してる。そういった役割だからというのもあるけれど、たいしたことはしないといっても、怪物に感情を奪われ続けた人は精神をひどく病んでしまって、ひどい場合は病院送りにされてしまうからだ。
そんなわけで、基本的には攻撃性を見せない怪物だが、ここ一年狂暴化している。さっきの怪物でも一年前なら普通逃げはしても攻撃なんかしてこないはずだった。僕は攻撃されてもたいしたダメージを負うことはないが、普通の人間は重傷を負うことは間違いない。
そういったわけで、高校生になってから僕は夜になると街を徘徊して積極的に怪物と闘ってきた。それでも限界を感じていて、救急車の音を聞いたり、抉れた地面を見るたびにぞっとする。ただ、今年の春になってからすこし怪物の活動が収まってきた気がしていた。
それで最近は安心していたのだが、まさかよりによって今日現われるとは思っていなかった。東山公園で襲われなくて良かったと胸をなでおろす。
家に帰ると公園での出来事がまた思い出されて、胸がいっぱいになったので、夕食も食べずにそのまま寝て、その日は終わった。

翌日、僕はそわそわしながら教室に入った。途中でコンビニによったからいつもより少し遅い登校だ。北白川さんはもう席についていた。何かの本を読んでいる。僕が近づくと、彼女は本から目を離し、僕の顔を見て「おはよう」と言った。何も知らない人から見たらいつも通りの光景だが、僕は毎度この上ない幸福感に包まれている。
「おはよう、北白川さん」
若干声が上ずってしまったが、なんとか挨拶を返して自分の席に座る。電話番号を聞かなければならないと思うと、心臓が破裂しそうなくらい震えた。
机の木目を見ながらどきどきしていると、背中をとんとんと優しく手のひらで叩かれた。
 北白川さんだった。こころなしか少し眠そうな顔をしているような気がする。
「小倉君、呼んでるよ?」
「えっ、誰が?」
 僕はきょろきょろと周りを見回す。僕は友達が多くない。そんな僕に用があるのは大抵決まっているが、そいつらなら僕の目の前まで来るはずだ。嫌な予感がして教室の入り口を見ると、見覚えのある長い髪の少女がいた。
「先輩っ」こっちこっちと手招きをしているのは昨日の美人、三条粟生だった。
 
 僕はまた勝手な罪悪感に包まれ、北白川さんをちらっと見たが、彼女はもう自分の仕事は終わったというように文庫本を読んでいた。
 ため息をついて三条粟生の方へ行く。そりゃ美人の後輩に呼び出されるなんて願ってもないくらい嬉しいシチュエーションだ。他人がされてたら心底羨むだろう。でもタイミングが悪すぎた。あと一年、いや後輩だからあと二年早かったら……。
「おはようございますっ」爽やかな笑顔で挨拶をしてくる三条粟生。注がれる視線。彼女の目的がわからない。
「……おはよう。どうしたの?」
「ええっと、昨日聞き忘れちゃったので。先輩の連絡先教えて下さい」
「わかった。赤外線でいい?」少しでも余裕さを出そうとつい自分から携帯を出してしまった。教室の前、周囲の視線、美人な後輩女子。この三要素が揃ってしまえば男子高校生が調子乗ってねずみ花火のようにくるくる躍ってしまうのは致し方ないことだった。
「後でメールしますね。じゃあまた」
 そう言って三条粟生は長い髪を揺らし、ぱたぱたと去って行った。
 彼女の全身に漲る行動力に感心し、僕も腹をくくることにした。
自分の席に戻った僕はノートの端を破り、携帯の電話番号を書いて渡す。相手は勿論北白川さんだ。紙と一緒に朝買ってきたあんぱんも渡す。
「これ、僕の電話番号。気が向いたらでいいから電話して。あとこれ、あげる」
「ありがと……。小倉君あんぱんは好きなの?」
 紙を受け取った彼女はあんぱんと紙を交互に見て戸惑い交じりの、天使のごとく柔和な笑顔でそう言って、紙を丁寧に折りたたんでそれを筆箱の中にしまった。
「どちらかと言ったら好きかな。飽きない味っていうか」
「小倉君は、つぶあん派?それともこしあん派?」
「えっ?」
 予想外の質問に戸惑ってしまう。あんこにも色々種類があるのは知っていたけど、某チョコレート菓子みたいに派閥があるのか?それならこの質問は僕と北白川さんの今後を左右しかねない重要な質問だ。うっかり北白川さんの所属しない派閥を言ってしまって、「あら、小倉君はこしあん派なのね。ごめんなさい。私つぶあん派の人としかお付き合いできないの」なーんて言われてしまったら僕はもうパン屋に入ることも出来ないトラウマを抱えてしまう。もちろん北白川さんがそんなことを言うとは思えないが、ここで北白川さんの好みでないあんこをセレクトするのは得策ではない。
 うかつだった。北白川さんがあんぱんを毎日食べていることは知っていたが、そのあんこがつぶあんかこしあんかなんて考えもしなかった。というよりつぶあんとこしあんの区別がいまいちついていない気がする。あずきの形が感触でわかるのがつぶで、クリームみたいになっているのがこしあんだっけ。
「どっちが好き?」
 小首をかしげて、妙に目をキラキラさせて僕に答えを催促する北白川さんはこの上なく可愛いけど、今はその可愛さがプレッシャーにしか感じない。
 ええい、ままよ。僕が買ってきたあんぱんをちらりと盗み見ると「つぶあん」と書いてあった。自分が好きじゃないあんこをプレゼントするなんて珍妙なことはしない。
 よし、言ってやる。
「つ、つぶあんだよ」
 北白川さんの顔を見ると、なんの表情も現われていない。
「ほら?つぶあんはあずきの感触がしっかり感じられていいよね。味もこしあんよりしっかりしているし、こしあんもなかなかだけどやっぱりあんぱんはつぶあんだなー」
 聞かれていないことまでぺらぺら喋ってしまった。これ以上深く突っ込まれたらボロがでる。僕の名前は小倉だけどあんこには一切関係ない。
 そんな冷や汗たらたらであんこについて語る僕を見て北白川さんは、ぱっと笑顔を見せて、
「私もつぶあん好きだよ。小倉君もつぶあん派で嬉しい」と言った。
 僕は心のなかで深く安堵のため息をついた。北白川さんはあんぱんを鞄の中に丁寧にしまい、もう一度僕に礼を言うと脇に置いてあった本を手に取り、また読書の世界へと旅立った。
 一時はどうなることかと思ったが、三条粟生はいい追い風になったかもしれないと思いながら、体を前に戻すと凄い視線を感じた。
「おいおい。どういうことだよ」
 視線の主は蛸薬師だった。いつになく驚いた表情をしている。
「いや、実はさ……」
「こっちこい」
 僕が昨日のことを話そうとすると、蛸薬師は僕の腕を掴んで教室から僕を引きずり出した。そのまま体育館へ繋がる渡り廊下まで連れてこられた。
「良くやった。で、あれはなんだ」
 廊下に着き、辺りに人がいないのを確認するや否や、蛸薬師は僕の肩を掴んだ。
「僕もよくわかってないんだよ」
「三条粟生か。厄介なのに目をつけられたな」
 蛸薬師はうーむと顔をしかめて勝手に話を進める。
「有名なのか?」
「三条が厄介というより、その取り巻きがな」
「取り巻きなんているのか。高校生に」
「あれだけの美人だからな。しかし驚いた。お前いつの間に三条と接点持ってたんだ?友達少ないんじゃなかったのか」
「そんなもの一切持ってない。昨日向こうから一方的に告白されたんだ」
僕は昨日のことを話す。それを聞いて蛸薬師は首を大きくひねった。
「うーん。皆目見当つかん。まあ後輩だし放っておいて多分問題ないだろう。…話変えるがよくやったな」
「自分に告白してきた後輩女子を起爆剤にして、電話番号を聞き出すんじゃなくて、紙に書いて一方的に渡すことで意味不明な罪悪感を解消しようとするとはな。さらにあんぱんのだめ押しだ。恐れ入った」
「……心が読めるのか?」
「まあな。見てればわかる」
 げに恐ろしきは、恋愛馬鹿の洞察力か。あの場面を見ただけでそこまで推測できるのは生活を恋愛一色に染めていても難しい芸当だろう。でも……。
「電話くるかな」
「多分。いつかきっとくると思う。恐らく」
「落ち込むから不確実性に満ちた励ましはやめてくれっ」
「悪い悪い。果報は寝て待てって言うだろ。気を長く持てよモテ男」
「からかうのはやめろ。それにしても三条粟生は何を考えているんだ」
「わからん」きっぱりと切り捨てる蛸薬師。
「お前がわからなかったら僕にわかるわけないな。本当になんで告白されたのかわからない。特に面識もないのに」それに僕は蛸薬師や俊弥さんみたいに目立つ存在でもない。
「うーん。一目惚れってやつじゃないのか?もしかしたら前から仕掛けてきてたのかもしれないぞ。でもお前が一切アクションを起こさなかったからしびれを切らしたんだろう」
 一目惚れの三角関係か。と言って蛸薬師はくすくす笑う。
「一目惚れか……」
 それこそ信じられない。昨日の昨日まで僕は彼女のことを全く知らなかったのだ。
「そこんとこは本人に聞いてみろよ」
「それしかないか……」
 あの感じ、少し苦手なんだよな。
「まあ三条は置いといて本命に集中した方がいいな。次のステップに進もう。俺は親友の初恋を全力で応援するよ」
「本音は?」
「俊弥の面目を叩き潰したい」
 しれっと答える蛸薬師。
「あいつは北白川を狙う。でも無理だ。何故なら北白川はお前と付き合うから。狙った女を落とせなかった。それだけであいつのプライドをズタズタにするには充分だ」
「付き合うって…。まだ電話番号渡しただけだし勝てる気がしないんだけど」
 他の人ならいざ知らず、相手はあの超プレイボーイ、恋愛馬鹿の俊弥さんだ。僕なんかが一生手に入れることのないであろう女の子を魅了するあの手この手で迫られたら、到底太刀打ちできるとは思えない。
「大丈夫だ。別にコンテストみたいに直接対決するわけじゃない。それに白川はああいうので揺らぐタイプじゃない。心配なのはむしろ白川が落とされることじゃない」
「じゃなかったらなんなんだよ」
「お前が落とされることだよ」
ん?たしかに俊弥さんは男の僕から見ても魅力体だ。格好良いとかの次元じゃない。でも流石に男に興味はないぞ…。
「なんか変なこと考えてるな……。悪い言い方が紛らわしかった」
「へ?つまりどういうことだよ」
「俊弥は、狙った女が彼氏持ちなんてことはこれまで数え切れないほど経験してる。ライバルがいるなんてこともざらだ」
「そこがお前と違うところだよな」
 蛸薬師は彼氏持ちには一切興味を示さない。人を不幸にさせるのはポリシーじゃないとか冗談でよく言っている。
「俺のことはどうでもいい。勿論、大抵の男はあいつの敵じゃない。雑草が像に敵うわけがないからな。でも極まれにあいつにとっても骨の折れる相手が出現する。今回のお前なんかそうだ。あいつがそんな時どうするかっていうと、男の気持ちを女から離そうとする。簡単に言うとハニートラップを使うってことだ」
「ハニートラップね……」
 久しぶりに聞いた言葉だ。もう死語になったものかとばかり思っていた。
 それと少し、いやかなり気になった部分がある。
「さっきからお前、僕が俊弥さんの強力なライバルになるってさらっと言ってるようだけど、そこまで言うってことは何か根拠でもあるのか」
「ある」
「何だ?教えてくれ」
「俺がお前のサポートをする。それだけで充分だ」
 蛸薬師は何てことないように言い切った。
「俺はあいつの手口を全て知っている。北白川が上っ面だけに騙されるような女じゃない限り、俺が味方に付いてるんだ。お前はあいつに勝るとも劣らない」
「随分な自信だな」ひょっとして僕は兄弟喧嘩のダシにされようとしているんじゃないか。
「お前こそもう少し自信を持てよ。話を戻すけど、あいつは手ごまの女を何人か抱えてる。皆あいつには勿体ないくらいの子たちだ」
うーん。世界が違いすぎてそろそろ頭が追い付かなくなってきた。
「そいつらが男をあの手この手の搦め手で誘惑してくる。それにひっかっかちまったらもうそこからはあいつが描いた絵の上だ。競争相手が消えたらあとはゆっくり時間をかけて女の子の心にうまく入り込んで落とすだけだ」
「とんでもないな」
怪物だよ。とぼそりと呟く。
「怪物か……」
昨日のことが頭によぎる。単純に力で解決できない分俊弥さんの方が厄介かもしれない。
「まあ、そういうわけだから気をつけろよ。今度あいつの手ごまのことを教えてやるから、そいつらには近づくな」
「まて。三条粟生は大丈夫なのか?この話からするとほぼ確定な気がするんだけど」
「俊弥にはトラウマがあってな。二歳下の女には絶対手を出さない。だから三条は大丈夫だ。でも少しは注意した方がいいな。さっきも言った通り三条は三条で取り巻きが厄介だし」
「……わかった。用心するよ」
「いいか?絶対だぞ。たとえ道に迷ってたりしても、もう当分声はかけるなよ」
 最後はからかい気味だったので、あほかと蛸薬師の頭をはたいて、そのまま二人とも教室へ戻った。

その日の午後、一件のメールが来た。三条粟生からだった。
「今日一緒に帰りましょう♪」
 この積極性はなんなんだ。
 丁重にお断りしようと思ったが、あまり邪険に扱わない方がいいという蛸薬師の助言に従って、「了解」と返事を出した。
放課後、北白川さんに見られたらどうしようと不安になったが、いつも通り彼女は姿を消していたのでほっとした。
廊下を一緒に歩く僕と三条粟生の姿は、沢山の生徒に目撃された。おそらく明日には学校中の噂になっているだろう。よく知らない冴えない男と三条粟生が付き合っているのではないか、といったようなものが。
降り注ぐ視線に僕はむず痒いものを感じていたが、彼女は全く平気な様子だった。
 そのまま校門を出て、ふと思った。はて、そもそも彼女と僕の帰り道は同じ方向なのだろうか。
「小倉先輩の家って東山公園の方ですよね?」
 なんでそんなことまで知っているんだこいつは。
「そうだよ。よく知ってるね」
「だと思いました。なんとなく見当はついていたけれど、もし違ったら先輩昨日来てくれなかっただろうなって思ってましたから」
「僕が女の子に呼び出されてるのに無視するような人間だと思ったの?」
「うーん。そうじゃなくてですね。先輩ならたぶんドッキリかなんかだと疑ってしまうかなって。でも帰り道と同じ方向だったら好奇心から見に来てくれるかなって思ったんです」
 ……この洞察力、蛸薬師と同じにおいがする。三条粟生も恋愛馬鹿の血筋なのかもしれない。
「凄いね……」
「あっでも、私も同じ方向なんですよ?小さいころ東山公園でよく遊びました。もしかしたら先輩と会っていたかもしれませんね」
そう言って三条粟生はふふんっと笑う。
「そうかもね。公園の遊具も大分撤去されちゃったからか、最近は子どもを見ないよね」
「たしかにそうですよね!なんで撤去しちゃったんだろう。楽しかったのになあ…」
 昔を思い出して表情をころころ変える三条粟生を見ていると、悪い子ではないのかもしれないと思えてきた。
「先輩はこの街の出身なんですか?」
「僕は五年位前にこの街に引っ越してきたんだ。だからこの公園で会ったことはないと思うよ」
「先輩って結構いじわるって言うか、ひねくれているんですね」
「たまに言われる」
こんな風に他愛のない会話をしながら十分ほど歩いていると、東山公園が見えてきた
「あ、公園だ」
 そんなに気にしていないつもりだったが、昨日のことを思い出してしまう。
 僕はこの子に告白されたんだよな……。
 相変わらずこの公園には人がいない。昨日と全く同じだ。
少し気恥ずかしさを感じてしまう。
「……昨日のこと思い出しちゃってちょっと照れちゃいますね」
 どうやら彼女も同じことを考えていたようだ。あっけらかんとしているからたいして気にしていないのかと思ったけど、それなりに意識はしているみたいだ。
 聞くなら今しかない。なぜ彼女は面識のない僕に告白したのか。
「あのさ……」
「私、見ちゃったんですよね。この前」
「見たって、何を?」
「先輩って友達も少なそうですし、いつも独りでいるからてっきり冷たい人なのかなって思っていたんです。でもこの前、雨の中捨てられた子猫が入った段ボールに、自分が濡れるのも厭わず傘をかざしてたの。あの時の何とも言えない先輩の寂しそうな目がとても印象的で、それから校内で先輩のことを自然と目で追っている自分に気が付いて……」
「頬を染めて長々と語ってくれてるところ悪いんだけど、僕はそんな実は優しい不良少年みたいなことをした覚えはない!」
「冗談です」
 さっきまでの照れくさそうな表情を戻し、しれっと答える三条粟生。やはりこいつは蛸薬師に似ている。特に冗談の中に僕に友達が少ないっていう事実を地味に織り交ぜてくるあたりなんかがそっくりだ。僕の周りにもう少しまともなやつはいないのか。
「で、結局どういう理由なんだ」
「理由って、なんですか?」
 わかっていないふりをして聞き返してくるが、口角が少し上がっている。
僕はまどろっこしい聞き方を諦めた。
「……僕のどこが好きなんだ?」
 うう、恥ずかしい。自意識過剰男みたいな台詞だ。
「照れちゃって、可愛いですね先輩」
 三条粟生はもうにやにやと笑いを隠そうともしない。
「年上をからかうのはやめろ。それでどうなんだ。教えてくれよ」
「いいですよ……」
 こほんっと咳払いをして、背筋を伸ばし三条粟生は僕の目をじっと見つめた。
「また今度教えてあげますっ。それじゃまた明日!」
 そう叫ぶや否や三条粟生は身を翻し、公園から走り去った。
「おい」
 走り去る彼女の背に放った僕の声は春から夏へ移り変わろうとしている公園に拡散して消えた。
 

帰宅。心の中でただいまと呟き、暗い部屋の中手探りで電気のスイッチを探し、明かりをつける。玄関が一瞬して淡いオレンジ色に染まる。靴を脱ぎ、右手で冷蔵庫から水の二リットルペットボトルを取り出し、左手で洗っておいたガラスのコップを掴む。まだ少し水滴がついていたので軽くはらって落とす。部屋へ行き、窓を見ると日もどっぷりと沈んでいたのでカーテンを閉める。
そしてこたつ机へコップを置き、水を注ぐ。水道水も普通に飲めるのだが、僕は水道水の臭いがあまり好きじゃないのでわざわざ水のペットボトルを買っている。
制服の上着を脱ぎ捨て、座椅子に体を沈め、水を飲みながらテレビのリモコンを手に取り、チャンネルを適当に回す。この時間はどこもかしこもバラエティ番組ばかりだ。一般的にゴールデンタイムといわれているこの時間帯よりも、深夜帯の方が若者の視聴率は高いと聞くが、僕がテレビを見るのはもっぱらこの時間帯だ。
芸能人たちがなにやら綺麗に彩られた料理の前で大仰なリアクションをとっている。まずその値段に驚き、次は食材、そしてその味に対してなんやかんやとコメントをつけている。都会の会社が作っているのだから仕方ないのだろうが、田舎暮らしの僕にとってはこういったバラエティ番組もフィクションの世界だ。近所にあるのは個人経営のラーメン屋、中華料理屋、定食屋などで、都会と同じモノを提供してくれるのは牛丼チェーンとコンビニだけだ。おそらくむこうからしたらこちらがフィクションなのだろう。
三十二インチの液晶に映る異世界の料理をぼんやりと眺めていたら、胃がぐうぐうと鳴き始めた。一人暮らしの身になってから夕食の時間帯がめっきり遅くなった。
僕はテレビを消して、シャツの上にコートを羽織り鍵を手にして外へ出た。
昼間は若干暖かさを感じた空気も、やはりこの時間になるとまだひんやりしている。それでも確実に夏が訪れることを予感させる風が吹いていた。
今日は定食屋に行くことにした。そろそろ野菜をとらなきゃいけないという思いにかられたのだ。勿論自炊をすることもあるのだが、僕自身料理がそう得意ではない。というより苦手だ。なので自炊するといつももやしや白菜などの野菜を適当に切り刻んだものを豚肉と炒めて白飯でいただくというシンプルオブシンプルの食事になる。そればかりだと味気なさすぎるため、自炊は週三回以内に留めている。一人暮らしをするようになって母親の偉大さを改めて思い知らされた。
大通りにでて、北へまっすぐ進み、三つ角交差点を東へ進んだところに僕がいつも行く定食屋はある。柔らかい橙色に照らされたその店は、青みがかった屋根に白く塗られた壁と、ちょっとおしゃれな雰囲気を醸し出している。家から徒歩十分くらいで、かつメニューも豊富なのでここに来る人は多い。この時間だと近所の大学生ぐらいしか来ていないのですんなりと座れる。
席に着くなり机に置かれたメニューを開くことなく僕は生姜焼き定食を注文した。生姜焼き定食が僕のお気に入りメニューの一つで、空腹で何も考えたくない場合はこれを注文することにしている。定食は味噌汁と、サラダが付いてくるので、最低限の野菜は摂取している気分になれる。
水を飲みながら机の上に置いた携帯電話を眺める。殺風景な待ち受け画面は新たな着信がないことを意味している。深いため息をつき、肩を落とす。期待していていなかったと言えば嘘になる。それでも何かあるたびに携帯を見てしまったり、逆にあえて一切見ないようにしたりといった珍妙な行動にはしってしまう。あの行動は気味悪く思われてしまったのだろうか、でもそれならやんわりとだけど受け取るのを拒否するはずだ。僕は北白川さんがデートの誘いや告白を断ったというのを何回か耳にしている。いやいや、あんな形で一方的に押し付けたら断りようがない。同じクラス、前後の席というのを利用して彼女の優しさにつけ込んだだけだろう。連絡なんて来るはずないに決まっているじゃないか。
そんな風に僕の中の希望と、絶望を闘わせて悶々としていたら僕の前に生姜焼き定食が置かれた。生姜焼きの香ばしい香りでさっきまでの思考をシャットダウンさせる。
食べることに集中しよう。腹が減っては戦は出来ぬ、だ。手を合わせ、いただきますと言い、僕は目の前の生姜焼き定食をがつがつと食べ始めた。

食事終わりの帰り道、時刻は午後十時と、すっかり暗くなってしまった。この時間になると店じまいしてしまうところも多く、暗闇の中、ぼうっと明るく輝く定食屋を僕はあとにした。このまま家へまっすぐ帰ってもいいのだが、なんとなくそんな気分ではなかったので遠回りになるが水路沿いに帰ることにした。
この辺りは南北にのびる水路がある。水量もたいしたことなく、日によっては枯れていることもあるが夏には蛍を見ることもできる。散歩をしたり、道に設置されたベンチで休んでいる人を見かけることができる。定食屋から東へ進むと水路に突き当たり、そのまま沿って歩いていくと十五分くらいで家の近くへ出る。
この水路は基本的に車道に沿って流れているのだが、途中狭い裏通りを通るところがある。水路を挟んで裏道の反対側は山に面しており、崖になっている。水路もここだけ広く、深くなっていて、先ほどまでのそれとは全く異なった印象を与える。山と、無造作に植えられた木々によって、昼も薄暗く、月明かりは一切届かない。木々が好き勝手伸ばした太い枝は裏道を覆い隠しており、気を抜くと頭をぶつけてしまうようなものもある。といっても、僕のようにここをよく通る人はそのような枝の位置を記憶しているため、こんな暗闇の中でもよほど気を抜かない限り、そんなことにはならない。
その通りに入った。さっきまで聞こえていた街の息づかいのようなものもふっと消える。
ここを気味悪がる人もいるけど、僕はここが好きだ。なにか解放されたような気分になれる。一種の胎内めぐりのようなものだ。それにもう散ってしまったが、春になると桜のトンネルが出来上がって、とても綺麗なのだ。
そんな道をすたすたと僕は歩く。この道の危険ポイントは二つだ。まず最初は入って十歩ほど進んだ所。太い幹から長く伸びた枝がその重さでたわんでいるため、そのまま進むと葉と細かい枝が顔を強襲することになる。頭を下げてそれを避け、先へ進む。
二つ目は道をちょうど半分ほど進んだ所にある。太い枝がほぼ水平に突き出すように生えているため、一つ目と違い避けないと非常に痛い思いをすることになる。僕は深く腰を落として、手で枝の位置を確認しながら避ける。あとはもう気を付けることはない。ただ進むだけだ。
危険ポイントを通過した僕がいつもすることは、この闇のトンネルを全速力で駆け抜けることだ。深呼吸して、その場で軽くジャンプした。準備は整った。暗闇に慣れ、うっすら浮かび上がる道を見据え、駆け出す。
駆け抜ける僕の生み出す風で木の葉が揺れるのを感じる、視界の隅を闇が流れていく。
気持ちいい。運動はそこまで得意じゃない僕だけど、これだけは特別だ。
そろそろ出口だろうか、少し脚の力を緩めたその時、急に視界が明るくなった。いや、明るくなったというのは語弊がある。急にモノの輪郭がはっきりと認識できるようになったのだ。左に流れる水路の崖、道の凹凸、木々の形、そして迫る太い枝。すべてがくっきりと闇から切り離され浮き上がっていた。
迫る枝?
その意味を考える前に僕の体は後ろへと跳び退いていた。間一髪で枝が鼻先を掠める。細かい枝がピシピシと顔にあたる。その風圧に気圧され、僕は勢いを殺せず後ろへ転がった。
怪物だ。道理で突然視界が開けるはずだ。気が付かないうちに変身していたのだ。
闇も見通す目に映る怪物の姿は、一見すると巨大な大木だった。ざらざらとし、重厚感のある皮に覆われたそれは樹齢何百年もあるような立派な木だった。しかしよく見ると、幹から三つに別れた根の部分は、三脚のようにその巨体を支えており、その先は馬のような蹄がついていた。
怪物は、三つの根をばたばたさせその巨体を揺らして、先ほど僕を襲った太い象の鼻のような枝を倒れている僕に振り下ろす。すかさず横に転がりこれを躱す。地面がへこみ、縁石がひび割れる音がした。
その攻撃で生じた石の破片を掴み、怪物の根に向けて放つ。石は根に向けて正確に飛んでいく。しかし、直撃した石は粉々に砕け散った。この怪物は非常に堅いようだ。
巨躯を揺らし、先ほどと同じ攻撃をする怪物。堅いかもしれないが、そこまでの速さはない。今度は横には避けず、怪物の懐へ飛び込んだ。根元に枝を振り下ろすことは出来ない。怪物の胴体に一撃を喰らわせるべく、拳を握りしめたその時だった。強い衝撃を感じ、僕は後ろへ吹き飛ばされた。宙に浮いた僕の体はそのまま柵を越え、水路に落ちる。
何が起きたのかと先ほどの状況を思い返す暇もなく、頭上から巨大な影が降ってきた。
怪物だった。油断していた。この怪物の根ではたいして動けないものだろうとたかをくくっていたが、その根は怪物の巨躯の機動力となる脚の役割を完璧に果たしていた。僕がさきほど吹き飛ばされたのもおそらくこの脚に蹴り飛ばされたのだ。
怪物はその巨大な枝を今度は僕を薙ぎ倒そうと横に振り払ってきた。先ほどまでと違い横に躱すことも出来ない。後ろに跳ぼうにも膝まで使った水に脚がとられて十分な距離をとることは出来そうにもない。
僕は深く屈んで、その脚のばねを最大限に使い上へ跳んだ。激しい水飛沫を立て、怪物の枝を跳び越し、怪物の頂上付近まで高く跳びあがる。高さが頂点へ達したあたりで、跳躍前に拾い抱えておいた、学校の机ほどの大きさもある岩を思いきり真下、つまり怪物の根に向けて投げ落とす。
岩は怪物の細かい枝をいくつか砕きながら、根に向かってその勢いを増しながら落下する。僕は水路の柵に掴まり、状況を見守る。
怪物の根の一本に到達した岩は、めきめきといった音をたてて弾け飛ぶ。
巨大な岩を受け止めた根は、その衝撃で裂け、その裂け目からは黒いもやのようなものが立ち上がっていた。僕は柵から手を離し、怪物の根に向かって飛び降りる。そして水路の底に到達すると同時に、落下の勢いを利用して裂け目に拳を叩き込む。根は砕け、怪物の巨体がぐらりと揺れた。
怪物はこの三本の根でその巨躯を支えている。一本砕いてしまえばもう自立することはできない。派手な水飛沫を立て、水路に倒れこみ、じたばたその巨躯を揺らす怪物の上に乗り、それが闇に溶けてしまうまで、僕は拳を振り下ろし続けた。



「もうこんな時間か……」
カーテンの隙間から赤い陽が差し込んでいる。僕はベッドから身を起こした。汗だくだ。タオルで汗を拭いて、机の上に置いてあったコップから水を飲む。
 どうやら熱は下がったようだ。昨日、怪物を倒した後、水路から出るのに苦労した。水路の壁は高く、変身の解けた僕が登り脱出することは不可能だった。
 僕が出られそうな場所を見つけるまでに、三十分ちかくかかってしまった。半身を水に浸かった状態で歩き回ったせいで風邪を引いてしまった。朝学校に連絡した後、買い置きしておいた適当な薬を飲みそのままベッドに倒れこんだ。
「何か食べなきゃいけないな……」
冷蔵庫をあさってみたが、すがすがしいくらい何も入ってない。食パンはおろか、米も切らしている。水のペットボトルと調味料しかない。熱は下がったみたいだし、スーパーまで行こう。
服を着替え、財布と携帯を手にした時、携帯の着信を示すランプが青く光っていた。どうやらメールのようだ。蛸薬師からだった。
「風邪か?どうせ飯ないんだろ?食いに行こうぜ」
風邪の可能性を承知しているというのに夕食の誘いをしてくるとは。夕方までには風邪が治っていて、冷蔵庫に食べ物がないことまで予想していたのか。
「まさか」
流石にそんなことはないだろう。蛸薬師は適当なところがあるから、考えると怖くなってくるからやめておこう。了解と返信をしたら、繁華街のファミレスにいるという内容の返事が即座に来た。あいつは常に携帯に触れているのか?
だいぶ暖かくなってきたが、一応病み上がりなので少し厚着をして、僕は部屋を出た。

週末と言うのもあって、繁華街はいつも以上に人が多く、賑やかだった。蛸薬師が待っているファミレスはなかなかの盛況だった。店員に案内されて席に行くと、文庫本を読んでいる蛸薬師の姿が見えた。カバーがかかっていて本の題名はわからない。テーブルの上にはカップが置いてある。
「待たせたな」
「おう。体調はどうだ?」
そう返事をすると蛸薬師は本にしおりをはさんで、テーブルに置き、カップを手に取り一口飲んだ。
「治った。風邪ひくなんて久しぶりだからまいったよ」
「俺も実は今病気なんだよなー」
「嘘つけ。ぴんぴんしてるじゃないか。何の病気だよ」
「五月病」
 そう言ってまたカップに口をつける。
「それを病気とは言わない」
 細かいこと言うなよ、とぼやきながら蛸薬師はメニューを広げた。季節に合わせたカラフルな配色で食べ物が彩られている。
「いやー最近やる気が出なくてさ……」
 パラパラとメニューをめくりながら会話を続ける。肉料理のページを見る。ここのファミレスは肉料理が充実している。一通り見て、僕はハンバーグとサラダのセットに決めた。
「決めた?」
頷くと、蛸薬師は呼び出しボタンを押した。すぐに店員がやってきたので注文を伝える。蛸薬師は何かよくわからないお洒落な名前のパスタを注文した。
 椅子に深く腰掛けると、さっきまで蛸薬師が読んでいた本が目に留まった。
「何の本読んでいるんだ?」
「ああ、これか。ほれ」
 蛸薬師は本を放って、そのままドリンクバーへ飲み物を取りに行った。本を開いてみると、でかでかとした書体で「入門!超常現象」と書かれていた。目次を見てみると、胡散臭いような、わけのわからない内容がつらつらと並んでいる。しおりが挟んでいるところを見ると、「見えないものが見える」という章だった。
「見えないものが見える……か」
カバーをずらして著者近影の欄を見てみるとごくごく平凡の経歴がつらつらと並べられているだけだった。ただ大学だけは僕でも知っているような一流校だった。なるほど、こんな怪しい本を売るのも高学歴の為せる技か。
 著者の名前を見ようとした時、蛸薬師がドリンクバーから戻ってきたのでカバーを戻し、本を閉じた。
「わけわかんねー本だろ。それ」
 両手に飲み物を入れたガラスのコップを持っている。右手に水、左手に紅茶のようなものを入れている。席に座ると、水が入った方を僕の前に置いた。僕は礼を言って、本を蛸薬師の前のテーブルに戻した。
「こんな本も読むんだな」
「言ってないけど俺こういう不思議現象本とか大好きなんだよ。めちゃくちゃ書かれてるものが多いけど、この人たちにはこういう風に世界が見えているのかもしれないって考えると、なかなか興味深いもんなんだぜ」
「捻くれた読み方してるな」
「何言ってんだ。俺は至ってまともだぜ?」
 へらへらと言って本を鞄にしまい、グラスの中を一口。
こいつらしいといったらこいつらしい。蛸薬師は昔から物事を斜にとらえるというか、人とは少し違った角度から焦点を当てるところがある。それだけだとただの偏屈な捻くれ者なのだが、この捻くれ者は『普通の人』がどういう思考であるかを理解した上でやっているから性質が悪い。蛸薬師のことをよく知らない人は、こいつのことを万能人にありがちなちょっと変わった面白い奴、なんて評価するがそれは完全な誤解だ。蛸薬師は捻りに捻り過ぎたゴムひもだ。遠目には少し歪な一本のひもに見えるかもしれないが、その実、近づいてよく見てみると幾重にも捻られて生じた螺旋模様が表面に浮かび上がっていることがよくわかる。
 非常にわかりにくい説明になってしまったが、要はこの蛸薬師御幸という男、一周回って少し変人に見える超変人ということだ。
「ああ、そういえば今日も来たぞ。三条」
「本当に来たのか……」
僕は昨日の出来事をかくかくしかじかと説明した。蛸薬師は面白そうに相槌をうちながら聞いていたが、話し終えた後は少し顔をしかめた。
「……どうした?」
「いや、今日少し気になることがあってさ」
今度は蛸薬師が今日の出来事を説明し始めた。どうやら三条粟生は北白川さんを見に来たのだという。
「なんでまた」
「わからない。でも嫌な予感がするんだよな」
あの女絶対何か企んでいる、と断言し、三条粟生についての考察を蛸薬師は述べようとしたが、注文したメニューが届いたのでいったん中断せざるを得なかった。
食事中気分の悪くなるような話はしたくないと、英語の教師がまた文法を無視して適当授業をしたが何故か訳は正確だった、とか、フラれることと呼吸することが同義になりつつある中学の同級生のフラれた人数が三桁に乗ったとか、当たり障りのない話をしていた。
食事も終わり、一息ついていた時、何気なく窓の外を見た蛸薬師の顔が硬直した。
「どうした?」
視線の先を追った僕の表情も驚きで固まり、すぐさまとろける。なんと北白川さんがいるではないか。学校が終わるとともに消息不明になるというのに。今日は運がいい。
「北白川さん何やってるのかな」
窓から視線を移し、蛸薬師を見ると呆れた顔をしている。
「恋は盲目っていうけど、お前は盲目すぎるぞ。あれを見ろ」
蛸薬師が指で示したところをよく見ると、僕の浮ついた表情筋が一瞬で収縮する。
「俊弥さんっ?」
北白川さんの隣にいたのはなんと目の前にいる男の兄だった。まさか、そんな。
「たまたまそばにいるだけじゃないのか?」
「北白川の右腕をよーく見てみろ」
言われたとおり、目を凝らす。北白川さんの白く細い手首は、俊弥さんによってがっちりと握られていた。手を繋いでいるのではなく、まるで逃げようとするのを防ぐために、しっかりと腕を握っていた。
「なんだよあれっ」
興奮して大声を出してしまう。だが、混雑し、がやがやと煩い店内でそれを気に留める人はいないようだ。
「落ち着け」
そう言うと蛸薬師は、ごちそうさま、と手を合わせ、鞄とレシートを手に取り立ち上がる。
「行くぞ」
「どこ行くんだよ」
慌てて僕も立ち上がる。財布と携帯しか持ってきてないから身軽だ。
「決まってんだろ」
レジで会計をし、手首を軽くほぐして蛸薬師は言った。
「あいつらを尾行するんだよ」


 尾行。探偵とかが物語でよくやっているが、実際にしたとかいう話を聞くことはまずない。それはそうだ。尾行と言えば聞こえはいいが、それは客観的にみるとストーキングという迷惑極まりない行為だから。
 そんなわけで一般人にとってフィクションの世界の業を素人がこなすというのは無理がある。蛸薬師が尾行すると言い出した時、まっさきに僕が頭の中に思い描いたのは尾行がばれて、僕を軽蔑した目で見る北白川さん、そして蛸薬師兄弟の大喧嘩。喧嘩をしたという話を聞かない程度には仲が悪いこの兄弟でも、こんな状況ではなにかしらの争いの火ぶたが切って落とされることは間違いないだろう。だが、それはまだいい。蛸兄弟が争おうともそれは僕の範疇ではない。
 だが、北白川さんにストーカーというレッテルを貼られてしまうことだけは、何としてでも避けなければならない。
 だから僕は兄を視認してゆで蛸のようにかっかしている蛸薬師を必死で止めた。だがやつは聞き入れようとしなかった。この兄弟は一度やると決めると糸の切れた凧のように誰にも制御することができなくなる。ひらひらと自由に舞い、海に落ちて蛸に生まれ変わるまで我が道を進み続ける。
 そんなわけで僕の必死の説得もむなしく、蛸薬師は北白川さんと自分の兄の尾行を始めた。こうなってはどうしようもないし、実際のところ僕も気になって仕方がないので、僕も蛸薬師の共犯者とならざるを得なかった。
 すぐに見つかってしまうだろうと思ったが、その心配は杞憂に終わった。
 まず、蛸薬師の尾行技術が優れていた。
「探偵学校の云々とかいう本で読んだから大丈夫」という言葉に偽りはなく、確実に二人を捉えつつ、だが向こうには気付かれないという絶妙な距離を保ちながら二人の後を追った。
「目線は下、靴を見るんだ。そうすれば急に振り向かれても目が合わないし、靴を覚えておけば人込みで見失うことも防げる」
 そしてターゲットの二人はあまり周囲を気にしていないようだった。
 俊弥さんは常に糸の切れた凧のような人のため、そのルックスで周りの視線を集めることはあっても、有象無象に注意を払うことはない。
 北白川さんの方は、俊弥さんの手から逃げ出す隙をいまかいまかと探っているようで、二人のストーカーの存在を察知することはもちろん、これまた周囲に気をまわす余裕さえないようだった。
 二人は(というより俊弥さんが)何かを話しながら、繁華街の道を進んでいった。北白川さんはときどきS極に反発するN極のように、俊弥さんの拘束から逃れようとしていたが、その手を緩める気配を微塵も見せない俊弥さんを見て、ためいきをついて抵抗をやめたり、また反発したりを繰り返していた。
「気の毒に」
 壊れた電磁石のように反発したり、諦めたりを繰り返す北白川さんを見て蛸薬師はぼそっと呟いた。超マイペースな兄の被害を一番被り続けてきた弟から漏れる魂の呟きだった。
 二人は繁華街を抜け、繁華街と市街地の境界線である川に架かる橋の上まで来た。どうやらこのまま川沿いを歩くつもりらしい。かつて処刑場であったこの川原は今ではカップルたちのデートスポットとなり、独り者を処刑する場へと変貌を遂げている。
「まずいな」
 蛸薬師が舌打ちをした。
 繁華街なら男二人で歩いていても目立たないが、川原となると話が別だ。こんなデートスポットに男二人でいたら注目の的だ。等間隔に並ぶカップルたちの柔らかくも残酷な雰囲気と好奇の目でメタメタに切り刻まれてしまう。
なんとしても川原へ行くことを阻止せねばならない。尾行できなくなるというのもあるが、そんないい雰囲気のところにあの二人を連れて行かせたくない。
「やむを得ない……か」
 そう言ってずんずんと歩を進め、二人との距離を縮める蛸薬師。僕も慌てて後を追う。
 二人との距離は約二メートルほどになった。振り向かれなくても川を見るために首を横に回すだけで僕らの姿が二人の目に留まってしまうだろう。
 そろそろ二人は橋を渡り終える。反対側からがやがやと賑やかな集団がやってくる。これから繁華街へ出向かんとする大学生集団だろう。十数人の半数が茶髪だ。
 その集団と二人がちょうどすれ違う時、「すまん」という言葉とともに僕は背中を強く押された。不意をつかれた僕は足を絡ませながら二人を割って前に転がり出る。
「小倉君?」
 最初に声を発したのは北白川さんだった。後ろを振り向くと、蛸薬師の姿が見えない。おそらくさっきの大学生集団に紛れ込んだのだろう。素早い。そこまでして実の兄と顔をあわせたくないのだろうか。
「ど、どうも……」
 咄嗟に出てきた言葉がこれだった。怪しすぎる。俊弥さんも僕に気が付いたようで、こっちをじいっと見ている。
「今日休んでたよね。大丈夫?」
 何故こんなところにいるのか、ではなく僕の体調を心配する言葉が真っ先に出てくる北白川さん。やっぱり優しい。
「ありがと。風邪だったけど治ったからさっきまで夕食取ってたんだ」
 その後たまたま北白川さんたちを見つけてさ……、と言って気付く。これはなんのごまかしにもなっていないっ。ストーキングしてたことを正直に告白しただけじゃないか。
 俊弥さんは何も言わずに僕のことを見ている。その目は僕のなにもかもを見透かしていてるのではないだろうかと思わせる力を携えていた。
「き、北白川さんと俊弥さんは知り合いだったの?」
 言いたいことと、口から出た言葉が微妙に違う。そもそも二人が知り合いじゃないのは蛸薬師から聞いて知っていることだ。何故二人は一緒にいるのか。それが僕のききたいことだ。もっと追求したいのだが、考えるとそれが現実になってしまうのではないかという恐怖が僕の思考を停滞させる。
「久しぶりだね。小倉君」
 ここでようやく俊弥さんが口を開いた。深く、水のように体へ染み入る声は相変わらずだ。年は一年しか変わらないはずなのに重みがある。
「御影ちゃんとは今日知り合ったんだ。彼女は転校生だって聞いたから、案内してあげたんだよ。俺はこの街生まれ、この街育ちだからね」
 なんでもないことだ、という風な口調で俊弥さんは話してくれるが、僕には出来なかったことだ。いや、しようとすらしなかったというべきか。
「でも、御影ちゃん忙しいみたいだから、今日はこれくらいにして家まで送っていくとこだったんだよ」
 今日は、という単語が気になったが、心配していたような事態にはなっていないようで良かった。
「今日はありがとうございました」
 さっきからずっと無表情で沈黙を保っていた北白川さんが突然口を開いた。
「これ以上お世話になるのは申し訳ないので、今日はここまでで結構です。蛸薬師さんの家は反対方向のようですし」
「遠慮しなくていいんだよ。それに夜道に女の子一人は危ないからね。送っていくよ」
 そのまま先ほどのように北白川さんの手を取ろうと、俊弥さんが伸ばした手のひらを北白川さんはさっと躱して、
「大丈夫ですっ。ここからは小倉君に送ってもらうので」と言った。
いきなり名前を出されて、「えっ?」と素っ頓狂な声をあげた僕に北白川さんは目配せをし、「ね?」と同意を求めた。
「う、うん。僕が送っていきます」
「うーん。小倉君がそう言うなら仕方ないか。任せたよ」
 もっと食い下がると思いきや、案外あっさりと俊弥さんは引いて、「じゃあまたね」と北白川さんに握手を求めたが、彼女は俊弥さんを警戒して距離をとっていたので、伸ばした腕をそのまま上にあげ、手をひらひらとさせてそのまま繁華街の雑踏の中へ消えて行った。
「ごめんね」
 俊弥さんが完全にいなくなったことを確認して、北白川さんは僕に謝った。
「校門で待ち伏せされて、そのまま強引に連れまわされてちょっと困ってたの」
 疲れちゃった、と北白川さんはため息をついて橋の欄干に体を預ける。暖かくなってきた風が長い髪を撫でる。
「そうだったんだ。よかった……」
 欄干に両腕を乗せて、川面を眺めながら、北白川さんは、でも……と呟く。
「でも?」
「なんでもないっ。今日はありがとう。また月曜日、学校でね。おやすみなさい」
 そう言って北白川さんは橋を渡り、歩道に出たところで一度振り返り、手を振る。僕もつられて手を振る。それを見ると北白川さんは笑顔を見せ、そのまま夜の闇へ消えていく。
「待ってっ」
 一瞬誰がその言葉を発したのかわからなかった。無論僕だ。他の誰でもない僕の口から、闇に溶けそうな北白川さんに向けて放たれた言葉だ。
 その言葉を受けて、北白川さんの歩みがぴたっと止まる。もう一度振り返って、何?という風に首をかしげる。
「送っていくよ」
 僕は駆け足で近寄り、心臓をばくばくさせながらそう言った。厚手のコートなんか着てくるんじゃなかった。
「そんな……悪いよ」
 病み上がりなんでしょ?と僕を心配してくれる北白川さん。そう言うと思った。でも、今日僕は俊弥さんから学んだ。彼女には少し強引にいかねばならないと。強く自分の意思を伝えなければ彼女に関わることは出来ないと。俊弥さんはいつもそうだ。勿論、彼は一切そんなことを意図してないのであろうけど、彼の存在は要所要所で僕に影響を与えてくれる。
「送っていくよ。いや、僕は送りたいんだ」
 そのまま彼女の腕をとって……、とはいかなかったが、僕は彼女の目をじっと見つめて、自分の気持ちをはっきり伝えた。
「……じゃあ、お願いします」
 北白川さんは少し考えて、僕のエスコートを承諾してくれた。それを聞いて僕の心臓はさらに鼓動を増した。


 僕は今、人生で初めての経験をしている。
 恋い焦がれてやまなかった女の子と、恋人たちの聖域を一緒に歩いているのだ。
 残念なことに、僕と彼女、北白川さんはそういう関係ではない。ただ北白川さんを家まで送っていくだけだ。でもそんな理由でも彼女と一緒にこんなところを歩いているという事実は揺るがない。しかも今は夜だ。
 僕の隣を歩く北白川さんの髪が、時折風に吹かれてなびく度に、それが僕の肩に触れそうになってどきっとする。彼女はそんなことを一切気にすることもなく、僕との会話を続けていてくれている。
 こんなに長い時間横顔を見るのは初めてだ。学校で挨拶するとき、一瞬顔を正面から見る他は、後ろ姿ばかり見ていた。だから彼女の後姿ならどんな人込みの中からでも、それこそ野球中継の群衆の中からでも見つけられる自信はある。
 こんな奇跡のような展開にテンションが上がっているのか、夜なのに北白川さんの顔がよく見える。今までは、そんなに感情を表に出す子じゃないと思っていたけど、こうしてしっかり話してみると笑顔をよく見せてくれることがわかった。彼女が笑うたびに僕も自然と笑ってしまう。若干距離の取り方がぎこちなかったり、緊張のためかつい歩く速度を上げてしまい、僕についていこうとする北白川さんを置き去りにしようとしてしまうことを除けば、僕たちは恋人同士のようだった。
幸せな時間はすぐ終わる。気が付いたらあの公園まで来ていた。北白川さんも同じ方向と言うことにまた少しテンションが上がる。
「今日は本当にありがと。楽しかったよ」
 ここからはすぐだから、と北白川さんが言うので、非常に残念だけど僕たちは公園で解散することにした。家までついていくのは流石に駄目だろうと思ったからだ。
「僕も楽しかった。おやすみなさい」
お互い公園の出口から、反対側に向かって歩き出す。少し進んで振り返ると、北白川さんは公園のそばの道に設置されている電話ボックスに入っていくところだった。今どき公衆電話を使う人なんているのかと少し驚いたけど、その次の瞬間そんな小さな驚きは吹き飛んだ。
 僕の携帯が震える。ポケットから取り出してみると、非通知からだった。
 まさか、と電話ボックスを見て、電話に出る。
「……もしもし」
「もしもし。北白川です。小倉君?」
 耳元から聞こえてきたのは、まごうことなき北白川さんの声だった。ついさっきまで聞いていたから間違えるはずがない。幻聴の可能性もあるけど、こんな幻聴なら大歓迎だ。
「この前電話番号渡してくれたよね。でも私携帯持ってないから公衆電話で電話してみたんだけど……」
 びっくりした?と少しいたずら気な口調で僕に尋ねる。一方僕は内容があまり頭に入っていなかった。心臓の鼓動であまり聞こえないのだ。
「う、うん。いや、驚いたけど、驚いてないよっ。電話してくれて嬉しい」
 心臓の音聞こえていませんようにと思いながら、しどろもどろに答える。それを聞くと北白川さんはくすりと笑って、
「それならよかった。じゃあまた学校でね。今度こそ、おやすみなさい」
「お、おやすみ」
 電話が切れた。北白川さんが電話ボックスから出てくるのが見えた。向こうから僕のことは見えていないようだ。北白川さんが夜の闇に消えるのを確認して、僕も家へ帰った。

 金曜日にそんな出来事があったせいか、僕の土日はいつもの薄い日常とは少しずれたものとなった。まず土曜日は起きたのが昼過ぎだ。寝られるわけがない。携帯の履歴をながめて、悶えてを繰り返していたら、いつのまにか寝ていて、気が付いたら昼だった。
 昨日のことが果たして現実だったのかと他湿気目るために携帯を開く。うん、夢じゃない。どうやらメールが来ている。蛸薬師からだろうと思って開いてみると、思った通り、蛸薬師から昨夜のことを詫びるメールが来ていた。だが、一番下までスクロールしてみると、「で、あの後どうなった?」と書いてあったので、「月曜日にな」とだけ書いて返した。
 水を飲んで、テレビを見ていたら急にお腹がすいてきたので、僕はスーパーに行くことにした。適当な食材を買ってこの土日を乗り切ろう。
 外に出ると強い日差しを感じる。先ほどの天気予報で夜は雨になると言っていたのが信じられないほどの晴れ空だ。もう夏が間近まで来ていることが肌に感じられた。それは同時に中間テストが迫っていることも示唆していた。
 今は五月中旬。僕たちの学校は五月の最終週が中間試験期間だ。僕は結構真面目に授業を受けているので、定期試験だからといって焦らなくてもそこそこの成績を取れるのだが、そんなことは関係なく試験が近づいているという事実は僕を湯鬱にさせる。
 おそらくほとんど全ての学生にとって、試験と言うものは歓迎できないものであると思う。もちろん蛸薬師のような例外もいるが。
 蛸薬師のような万能人間に言わせると、試験期間は授業もなく早く帰ることができる素晴らしいボーナス期間だそうだ。
「いい息抜きになるから嫌いじゃない」
 まだ自身の変人さを理解していなかった若かりし頃の蛸薬師が、中学二年生の一学期期末試験でこう言ってのけたとき、クラスメートから大ブーイングを受けたのは言うまでもないだろう。それ以来人前で試験の話題をすることはなくなった。ちなみに俊弥さんも一切勉強していないらしい。だが、おそらく蛸薬師兄弟基準で「勉強していない」だけであって僕たち常人の数倍はやっている可能性は大いにある。
 僕は蛸薬師兄弟のような奇人変人天才人間ではないので、試験前は勿論勉強する。大体このくらいの時期から地道にこなしていくのが僕の試験勉強だ。英語、国語、理科、社会とおおまかに四つに大別される試験科目だが、僕は苦手な教科はないため優先順位は時間のかかるものからになる。ちなみに得意科目は社会だ。世界史が特に好きなので、高校一年生の頃の社会はとても楽だった。二年生になってからの社会は地理と日本史になったので、三年生になり、社会科目が選択になるまで世界史とはお別れしている。
 スーパーで冷凍食品と、適当な惣菜、そしてあんぱんを買う。もちろんつぶあんだ。これでこの二日間は持つだろう。家に戻り、冷凍しておいた米を電子レンジで温め、机の上に並べた惣菜とともに食べる。
 腹ごしらえをすませ、日本史の教科書を開く。社会科目、特に歴史系が一番時間と手間がかかる。理数系はもちろん、地理も比較的考察要素が大きいので、そこまで時間を割かなくてもいいのだ。
 今回の試験は鎌倉時代後期を中心に出題されると聞いているので、そこから手を付けていく。この時期は鎌倉幕府、もとい北条氏の権威が失墜し、いわゆる下克上がおこなわれるようになった。政権に逆らう者は悪党と呼ばれた。
 歴史を勉強していて面白いと思うことは、その時代の情景が、誰を主体にして歴史を振り返るかによって千差万別に色を変えることだ。今現在の歴史で正義とみなされている人たちも、悪とみなされている人たちから見たらどうしようもない悪であったりする。のちの歴史で正義と悪を分かつ要素とは、その時勝ったか負けたかということだ。
 秦の始皇帝などは中国史上最悪の残虐非道な王という認識が根強いが、それは後の支配者層が自己正当化のためにそういった歴史を作り上げただけで、実際は始皇帝よりも劣悪非道な行いをしていたものは多々いる。
 要はものの捉え方次第だ。正義と悪、光と闇、互いに相対する二つの要素は絶対的なものではなく、とてもあやふやで、それ故に人を魅了してやまない。

僕から見た世界は僕だけの世界であって、それは他の人とある程度は共有されたものではあるけど、この世界には僕にしか見えないもの、僕にしか感じられないもの、そして僕には触れられないものが存在している。
僕の世界は無色だ。夢もない、目的もない。
僕の周りの人たちは輝いている。何かしら確固たる意志を持って生きている。
僕は自分の意思で生きている気がしない。常に操られている。神とか悪魔とか、そういった漠然としていてつかめないけれど、強い意志のかたまりのようなものとでも言えるだろうか。
おそらく僕は僕の役目を果たすためだけに生まれてきて、役目を果たし続け死ぬのだろう。何かを自分のためにしたいと思ったことがなかった。水の入ったコップを傾けると水滴が零れ落ちるように、ただ流されるまま僕は生きている。
自分の運命を嘆くのは飽きた。もう何年も嘆いて嘆いて嘆きつくして、僕の心は枯れた。
外が暗くなり、窓を雨粒が叩く音がする。
どれだけ時間が過ぎようと、何度歴史が変わろうと、それでも雨が降るように、僕は役目を果たし続ける。

僕は光の中にいた。いや、これは白い闇だ。指先すらも見えない。色がない。一寸先は光。体の感覚すら光に溶けてしまったように曖昧になる。
時折僕の横を何かが走り抜けていく。何かが僕を通り抜けて、消えていく。
足先に何かを感じた。しゃがみ、それを拾い上げてみる。
それは一輪の花だった。その白い花弁だけが闇の中で光っている。
その美しさに見とれていると、突然花弁が枯れ始めた。黒くなった花弁は闇に溶けて消えていく。
どうしようかと迷っているうちに、花は僕の手をすり抜けて、また世界は闇に没した。

ああ、消えたと思った瞬間、空を裂くような音がして僕は目を覚ました。
雷だ。雨と風が窓をけたたましく叩いている。どうやら寝てしまっていたようだ。外は真っ暗だった。テレビをつけると全国放送のバラエティ番組が始まっていた、大体午後七時といったところか。社会は隙だが、教科書を読むと余計なことまで考えてしまい眠くなってしまう。内容はよく思い出せないが、なんだが気分の悪い夢を見ていたようで、もやもやする。僕はカーテンを閉めようと立ち上がった。変な姿勢で寝ていたみたいで腕が痺れている。
カーテンを掴むと急に腕の痺れがとれた。というよりさっきまでの寝起き特有のだるさも消えている。窓ガラスに反射した僕の姿が見えた。そこに僕はいなかった。人の形をしているが、もやもやとしていて正体が捉えられない。髪は長いけど短くて、若い男のように見えたが、よく見るとぼろぼろの老婆のようにも見えた。
雨が入り込むのも気にせず、僕は窓を開けた。激しい雨風の流れの中、明らかに自然のものではない動きをしているものを見つけた。
家の中に侵入されたら厄介だ。僕はベランダにでて、手すりに足をかける。時折強い横風に吹かれるが、変身した僕にはそよ風と変わらない。
ベランダから観察すると、それはマンションの前の道路で蠢いていた。人のような形をしている。あくまで何か身近な生物に例えるなら、という意味ではあるけど。
怪物には羽根が生えているように見えた。トンボの翅のように背中を覆っている。僕は怪物の先を見た。僕のマンションから五十メートルほど進んだ所に小学校がある。あそこなら安心して怪物を倒せそうだ。僕はベランダから勢いよく飛び降りた。
突然目の前に現れた僕に驚く素振りも見せず、怪物はその赤く光る大きな目で僕を見据える。正面に立ってわかった。これは人というよりはゴリラやオランウータンの類に近い。そして羽根のように見えていたのは腕だった。六本の腕をもつ霊長類だ。
僕は地面を強く蹴り宙へ跳びあがり、怪物の頭上を飛び越えるついでにその頭を蹴飛ばし、そのまま小学校に向かって走る。雷で周囲が一瞬明るくなった。
雷のような声を轟かせ、怪物が追ってくるのがわかる。後ろを振り返ることなく小学校までたどり着いた僕は、柵を勢いよく飛び越える。空中から見る小学校のグラウンドは高校のと比べるとたいしたことはないが、それでも十分な広さがあった。
ごろごろと先ほどの雷鳴が轟いた。それと同時に背中に凄い衝撃を感じ、僕は地面に向かって一直線に吹き飛ばされた。叩きつけられた僕の体でグラウンドに穴があく。
地に背をつけたまま、前方を見渡すと、怪物が柵の上に立ち、二つの腕で胸を叩きならしていた。ゴリラのやるドラミングとかいうやつだろう。残り四本の腕は柵を掴んだり、ぐるぐるとヘリコプターのように回すなど、好き勝手動かしていた。
怪物は大きく咆えると地面に降り立った。赤い目は僕をしっかりとらえている。
起き上がるときに、重い痛みを背中に感じ取った。痛み?それはおかしい。
よろよろと起き上がった僕に向けて怪物が突進してくる。僕は穴に手を突っ込み、泥を掻き出し、泥団子のようなものをつくった。
口を大きく開け、唸りながら迫る怪物の目を狙い、泥団子を投げつける。的中。怪物が一瞬動きを止めた隙をつき、僕は遊具へ向け走り出す。一歩一歩足を蹴り出すごとに背中に熱い痛みが走るが、構わず走る。こらえられない痛みではない。
僕が目的の遊具にたどり着いたとき、怪物はもうすぐそこまで迫ってきていた。僕はターザンロープの先を掴み、思い切り引っ張る。パキンという音がして金具が外れる。
「ごめんよ小学生たち」
 ロープの端をしっかりと掴み、カウボーイのようにぐるぐる回す。金具の風切り音がする。十分に回転させ、そのまま怪物に叩きこむ。
 遠心力で十分な威力を得た金具が怪物の腕を一本切り裂く。同じ要領でもう一度怪物に叩きこむが、回転が足りず今度は受け止められてしまった。
 ロープを引っ張っても怪物の力が強く引き離せない。逆に怪物に引きずられてしまう。
 突然体が宙に浮いた。怪物がさっきの僕のようにロープを振り回し始めたのだ。僕は片手だったが、怪物は五本の腕を駆使し僕ごとロープを振り回している。景色が目まぐるしく変わっていく、遠心力で体が千切れそうだ。手を離せばこれから逃れられるだろうが、今の僕の耐久性には不安があるためそれが出来ない。
 体にかかる遠心力がふっと消えた。次の瞬間僕は生垣に叩きつけられていた。柔らかい葉が衝撃を吸収してくれたおかげで無傷で済んだ。どうやらグラウンドの端から端まで投げ飛ばされたようだ。背中は相変わらず熱く痛む。怪物がこっちにくるまで十数秒あるだろう。
 僕はしっかりとつかんで離さなかったロープを短く持ち、また回転をつけて振りまわす。
 十分勢いが付いたところに怪物が姿を現した。怪物が僕を殴り飛ばそうと、右の三本の腕を振り上げる。僕はその瞬間を狙って懐に入り込む。
 怪物の腕が一本一本次々と吹き飛んだ。右腕を全て失ったところで怪物は後ろに飛び退き、僕と距離を取った。
 怪物の腕を奪ったのは今僕が手にしているロープだ。短く持つことで先ほどよりも回転速度を上げたロープはさながらチェーンソーのような切れ味を持った刃だった。
 高速回転する刃は雨を弾き、風を裂き、そして闇を砕いた。怪物に残る腕は左に二本と、歪な形になっている。
 怪物の体中から黒いもやが出ている。もう放っておいても勝手に消滅するだろう。僕は怪物の足を刃で切断し、体をロープで縛りつける。一仕事終えて僕は座り込む。痛みが先ほどより強くなってきている。
 雨は相変わらず強く降り続け、僕の体を濡らす。変身した僕は怪力など、身体能力の大幅な上昇が現出する。しかし特筆すべきは超常の堅さであり、大抵の攻撃は通らない。その鎧のおかげで戦闘センスなど全くない僕でも今までやってこれた。大木の怪物に蹴り飛ばされたりしてもダメージを負わず、即座に反撃できた。
 だが、今回はダメージを負ってしまった。怪物の攻撃力が異常に高かったということなのだろうか。見たところ並の怪物とさして変わらない気がしたのに。確かに怪物にしては速かった。都合上怪物に背を向けたことは多々あるが、置き去りにしたことはあれど、追い付かれたことはなかった。特別に速い怪物だったのだろうか。
 怪物を縛った場所を見ると、そこにはロープだけが残されていた。
「案外早く消えたな」
 早く帰らないと。変身が解けて雨にうたれていたらまた風邪を引いてしまう。
「傘を持ってこればよかった」
 そうぼやいたとき、これだけ激しい雨風の中に佇んでいるのに全く寒さを感じないことに気が付いた。変身はまだ解けていない。
 嫌な予感がしたので後ろを振り返る。これが間違いだった。何も考えずにグラウンドの真ん中へ走っていくべきだった。泥を押しつぶしたような音と同時に鋭い痛みが右腕にはしった。
 怪物が腕を噛んでいた。おそらく霊長類にはないであろうナイフのように鋭い牙が僕の右腕にめりこんでいた。僕は痛みで言葉にもならない叫び声をあげる。
 動物に噛まれたとき、どうするのが最善か知っていうだろうか。それは後ろへ退くのではなく、逆に前へと噛まれた部分を押し込むことだ。そうしない構造上食いちぎられてしまう。
 果たして動物に対する雑学も経験も持っていない僕がそんなことを知っていただろうか。
 否。知りようもない。
 僕は思いっきり後ろへ仰け反ってしまった。足に力を込め、怪物から離れようとしてしまった。 
 形容しがたい嫌な音を立てて、僕の腕にかかる力が消える。というより腕の感覚そのものが消える。急なことで僕は地面に転がった。
 痛みは麻痺していた。怪物を見ると、その口の中に太い木の枝のようなものが見えた。次に自分の右腕を見た。いや、本来なら右腕がついているはずの空間を見た。そこにはなにもなかった。僕の右腕は怪物に食われたのだ。
 血は出ていなかった。血の代わりに白いもやのようなものが出ていた。不思議と驚きはしなかった。やはり僕もこいつらと同類なのだ、と妙に納得した。
 怪物は僕の方へゆっくりと向かってくる。片足しかないせいなのか、それとも少し腹が満たされたのか、動きが先ほどより鈍重で、一回り小さくなったような気がした。
 怪物からも僕からも色こそ違え、同じようにもやが出ている。黒と白のもやはその主から離れると、雨の中へ消えていく。
 僕は起き上がろうとして足に力が入らないことに気が付いた。痛みは麻痺していたのではなく、痛みに耐えかねた僕の体が麻痺しているのだ。
 怪物がもう僕の目の前に来ていた。腕を伸ばせば触れられそうな距離だ。怪物は腕を伸ばし僕を掴み、持ち上げた。怪物の手から黒いもやが出始める。
 ああ、ここで終わりか。そう僕は覚悟を決めた。
 与えられた役割は果たしてこなせただろうか。怪物の深く暗い口の中を見ながらそんなことをぼんやりと考えた。
 目を閉じ力を抜いたとき、ずんと音がして僕は地面に放り出された。
 何事かと思い目を開けてみると、そこには怪物と相対する何者かがいた。

 男か女かもわからなかった。確かに頭は少しぼんやりしていたが、視界は一切ぼやけていなかった。
 その人は若い女にも見えたが、若い男にも見えた。ただその雰囲気から満ち溢れるエネルギーを感じた。
 男(もしくは女)は怪物の腕をその手に持っていた。怪物に残されたのは腕と脚一本づつ。男は手を握りしめ、持っていた怪物の腕を粉砕した。
 怪物は唸り声をあげ、最後の腕を男に向かって突き出した。男は避けようともせず、手のひらで軽く弾いた。
 そのまま手のひらを怪物に向かって伸ばし、その黒い体に押し当てた。一瞬怪物の動きが止まり、次の瞬間 弾けて消えた。
 泡のように空へと浮かび上がった黒いもやは雲散霧消した。あっという間のことだった。
 男は倒れている僕の傍に座り込み、僕の顔をじっと見た。そして白いもやが流れ出ている僕の肩に手を伸ばした。
 男の手のひらが腕を失った肩口に押し当てられる。何かが暖かいものが流れ込んでくる感覚がして、僕は気を失った。
 
 目を覚ますと、見慣れた天井が目に入った。僕の部屋だった。
 もしかしてずっと夢を見ていたのだろうか。ぱらぱらと優しい雨が降っている。僕は起き上がり、カーテンを閉めた。窓のカギがかかってなかった。またやってしまったみたいだ。最近は物騒だから気を付けないと。
 それにしてもやけに現実的というか、濃く鮮明な夢だった。のどが渇いたので冷蔵庫からペットボトルを取り出し、水を飲む。時計を見ると午後八時だった。変な夢を見たせいか何か甘いものが食べたくなったので、買ってきたあんぱんを食べようと机の上を見たが、見当たらない。冷蔵も漁ったが、そこにあんぱんは無かった。確かに買ってきたはずなのに。もしかしてスーパーのくだりから全て夢だったのだろうか。
 そんなはずはない。惣菜の袋はちゃんとゴミ箱に入っているし、レシートにもあんぱんが記載されている。あんぱんが神隠しにあってしまったようだ。
 何か釈然としない気持ちを残しながら僕は試験勉強を再開した。甘いものが欲しかったが、外に出る気はおこらずそのまま土曜日を終えた。


 日曜日、僕は朝早く目を覚ました。雨上がりの朝はすがすがしい。昨日はあまり勉強できなかったので今日はしっかりやらねば。
適当な朝食を取った後、日本史のノートを広げる。昨日教科書は一通り目を通したので、あとはノートを確認しながら重要事項をまとめていくだけだ。
 二時間ほど勉強していたら携帯が鳴った。メールなので無視して勉強を続けていると、五分くらいしてまた携帯が鳴り始めた。今度は電話だ。
「はい、もしもし」
「メール無視するなよ」
 電話の主はやっぱり蛸薬師だった。嫌な予感がしていたのだ。
「勉強してるんだよ。何の用だ」
「勉強なんて夜やるもんだろ。いや、この前のことでな……」
「ああ。そのことか」
 あれは結果オーライだったから、身代わりにされたことなんて完全に忘れていた。だが、当の本人は気に病んでいたらしく、こうやって一日おいて電話してきたわけだ。
「気にしなくていいのに。むしろこっちが礼を言いたいくらいだよ」
「おっ、上手くいったのか。それは良かった。でもあの時の勝手な行動はやっぱりどうかと思うからな。謝罪も込めて飯奢らせてくれ」
「そんなの悪いからいいって」
 蛸薬師はいやでも、と食い下がってきた。蛸薬師がしつこい理由はなんとなく察しはつく。おそらくどうなったのか気になって仕方がないのだ。だからあと一日待てば学校で聞けばいいものを、わざわざ電話してきたのだ。土曜日は何とか抑えたのだろうが、我慢がならなかったのだろう。
「昼飯まだだろ?行こうぜ」
 こうなったらもう何を言っても無駄だ。糸の切れた凧は何者にも制御できない。
「わかったよ……」
「ありがとな」
礼を言い、金曜日のファミレスにいるからと伝えて、蛸薬師は電話を切った。あそこのファミレスを蛸薬師は重宝しているらしく、暇なときはよく利用している。
財布と携帯、そして多分無駄だろうが、ささやかな抵抗として数学の指定参考書を鞄に入れ、部屋を出る。昨日雨が降ったから、道路に水たまりができている。繁華街へ向かおうと踏み出したとき、ふと昨日の奇妙な夢を思い出した。
「小学校を見ていくか」
 小学校の柵越しにグラウンドを見てみると、雨でぬかるんでいるだけで特別異常な所は見当たらなかった。ターザンロープなんて転がっていない。
遊具の方は死角になっていて見えなかったが、おそらく夢だったのだろうと納得し、僕は待ち合わせ場所に向かった。

まだ昼前ということで、ファミレスはゆったりと時間が流れていた。適度な空調に、適度なざわめきとクラシック音楽のようなものが店内を包んでいる。こんなところで勉強していたらすぐ眠ってしまいそうだ。
蛸薬師はこの前と同じ場所にいた。窓から街の様子が見える席だ。また本を読んでいるが、この前のとは違うらしい、この前のは文庫本だったが今回は単行本だ。
「よっ」
 本から顔を上げ、いつもの軽い挨拶をする蛸薬師。そこに電話でしきりに主張していた罪悪感は感じられない。むしろ目が期待に満ちている。やっぱり好奇心が勝ったのだろう。「そこまでたいした内容じゃないからな?」
 席に着き、水を持ってきた店員にドリンクバーを注文する。今回は蛸薬師のおごりらしいから遠慮なく注文させてもらう。
「もったいぶるなよ」
 待ちきれないとそう言う蛸薬師の声を背に、ドリンクバーへ飲み物を取りに行く。ここのドリンクバーは種類が豊富なのでなかなか楽しい。
 眠くならないようにカフェインをとろうと思い、アイスティーをグラスにつぐ。
 視線を感じて横を向くと、コーヒーコーナーの前に一人の少女がいた。中学生、いやうちの制服を着ているから高校生だろうか。背の小ささとポニーテールがその幼さを強調している。
 少女は僕のことをじっと見ている。見ている、というより睨んでいると表現した方が正しいかもしれない。僕が見返しても一切動じない。その目には何か敵意のようなものが感じられた。
 こういった類の人間には近づかないのが一番だと経験が物語っている。僕は氷も入れずに少女の視線を背に感じながらそのままドリンクバーを離れた。
テーブルに戻ると蛸薬師は携帯を弄っていた。ただ、すぐに僕の方を見たので画面には全く集中していなかったようだ。そこまで期待されても困る。
「早かったな。氷も入れてないなんて」
「ああ、実は……」
 と言いかけて僕は黙り込んだ。僕の自意識過剰の可能性もあるし、これ以上引っ張るとあとあと面倒くさいことになりそうだと思ったからだ。
「どうした?」
 色々なことに顔を突っ込みたがる蛸薬師のことだ。話したら後で見に行くに決まっている。
「いやなんでもない。昨日のことだけど……」
 僕は蛸薬師が姿をくらませてからの一部始終を説明した。街を案内するという名目で、俊弥さんは北白川さんを強引に拉致し、連れまわしたこと。俊弥さんが北白川さんを家まで送っていこうとしたのだが、なんだかんだで僕が送っていくことになったこと。意外にもあっさり俊弥さんが身を引いたこと。これは余計だったかもしれないが、北白川さんのことを下の名前で呼んでいたこと‥等。
「なるほどな。あいつの行動は相変わらず滅茶苦茶だな。お前には悪いけど逃げて正解だった」
 椅子に深く腰掛け、ためいきをつく蛸薬師。
「でも良かったじゃないか。一緒に帰るなんてお前もすみにおけないな。まあ、ただ帰っただけってのがお前らしいっちゃお前らしいけど」
「うるさい」
 電話の件は蛸薬師に話さなかった。気恥ずかしかったというのもあったが、あのことは僕と北白川さんだけの秘密にしておきたかった。北白川さんが誰かに話さないという保証がないので一方通行の秘密だが。
「しかしなるほどな……」
 蛸薬師はなるほど、なるほどとしきりに繰り返す。うんうんと首を縦に振り、一人勝手に納得している。
「なんだよ」
「いや、なんでもない」
 にやにやと含みのある笑みを浮かべてはぐらかされる。僕は勘が鋭くないので何を考えているのかさっぱりわからない。
「それより、さっきのなんだったんだ?」
 蛸薬師は話を逸らそうとさっきのことを突っ込んでくる。やっぱり興味を示してきたか。
「何でもない。僕は勉強させてもらうからな」
 鞄から数学のノートと参考書を出し机の上に置く。筆記用具を忘れた……。
「たまにやるよな。筆箱忘れるの」
 にやにやしながら鞄からボールペンを出し、これ見よがしにくるくる手のひらで回す蛸薬師。なんて性格に難がある奴なんだ。
「貸してくれよそれ。まだまとめ終わってないんだよ」
 膨大な試験範囲から重要な問題を選び、まとめる。そんなことをしなくてもそこそこの点数を取ることは出来るのだが、やらないと気持ち悪いので僕はやっている。これがなかなか手間のかかる作業で、真剣にやると半日かかる。
「そんな必要はないから安心しろ」
 そう言って蛸薬師は鞄からノートを取り出し、ぽんとテーブルの上に放り投げる。
「何これ」
「数学のノート。まとめておいた」
 開いてみるとシンプルだが几帳面に数学の試験範囲がまとめてあった。僕が休んでいるときやったであろう範囲もしっかりとまとめてある。意外だ。蛸薬師は勉強こそすれど、こういった作業はやらないと思っていたのに。
「こんなことしなくてもあんなテスト楽勝だと思うけどなあ。相変わらず損な性格してるよなお前」
「お前がまとめたんじゃないのか?」
「当たり前だろ。さっき言っただろ。まとめておいたって。結構時間かかったんだぞ。これで土曜日潰れた」
「まさか僕のためにやってくれたのか?」
 気に病み過ぎだろう。兄から逃げたことがそこまでのことなのだろうか。
「これで試験勉強の邪魔にはならないだろ?」
 少し照れくさそうに蛸薬師は鼻をかいた。まあ確かに大幅な時間短縮になったことは確かだ。目配せし僕に話すことを促す。
「僕の勘違いかもしれないからな」
 そう断って先ほどのドリンクバーにいた少女の話をする。
「睨まれた……ね。そいつは今どこに座ってるんだ?」
「やめろよ。今考えると目にゴミが入っただけかもしれない」
 それなら僕が見返しても気にも留めていない様子だったのもつじつまが合う。
「大丈夫。ちょっと見てくるだけだって」
 ドリンクバーに行かんとする蛸薬師の頭を押さえて、離せ、行かせるかと争っていると突然蛸薬師の抵抗が止まった。
「どうした?」
 蛸薬師の目線を追うとそこには先ほどの少女が仁王立ちで僕たちを睨んでいた。少女の後ろに隠れるようにして少年が立っている。少年は少女よりも二回りほど背が高いというのに、おどおどしているせいか小さく見える。
「俺らに何か用かな?」
 蛸薬師はすっと立ち上がり、爽やかな表情で二人に話しかける。蛸薬師が相手に好印象を与えるために初対面の人に見せる、いわゆる接客モードだ。
「あんたに用はないわ」
 そう言って少女は僕の顔をじっと睨み付ける。
「ぼ、僕?」
全く身に覚えがない。もともと僕は蛸薬師のような人間と違って受動的な人生を送っているんだ。積極的に誰かに関わったりしたことがないので恨みをかうことはない……はずだ。
「そう。あんたよっ」
 僕の鼻先に勢いよく指が突き立てられる。少女の剣幕に押されて僕は思わず身じろぎしてしまう。少年は先ほどから棒のように突っ立っているだけだ。何を考えているのかわからない。眼鏡をしているのと、前髪で目元が隠れていることがその表情をさらにわかりにくくしている。
「おいおい。何かの間違いじゃないのか?こいつがお前たちに何かするとは俺には全く思えないんだが」
 猫を被るのをやめ、少女に疑問を投げかける蛸薬師。口調はいつも通りだが、目が怖い。
「呆れた。まだとぼけるつもり?それとも自覚がないの?」
 蛸薬師の目に一瞬たじろぐも、少女は依然強気な態度を崩さない。ものすごい剣幕で、二人の間に火花が散っているようだ。僕のことで争っているはずなのだが、僕は完全に蚊帳の外だ。とりあえずこのままだとまずいと思い、僕は立ち上がり、二人の間に立つ。
「まあまあ。何の話なのかはいまいち掴めないけど。周りのお客さんにも迷惑がかかるからとりあえず落ち着いて二人とも。ね?」
 にらみ合いをやめない二人を半ば強引に誘導し、椅子に座らせる。僕の隣に蛸薬師を移動させ、テーブルを挟んで僕の向こう側に少女、その隣に少年が座った。
「それで……」
 一呼吸おいて僕はを三人の様子を見る。蛸薬師は冷静さをとりもどしたようで、頬杖をついて少年少女をじっと見ている。手のひらでうまく隠しているが、口角が少し上がっている。もしかしてさっきの態度はただの演技で、突然現れた無礼な挑戦者に対するいたずらのつもりだったのかもしれない。
 少年は相変わらず何を考えているのかわからない。唇を噛み、膝の上に両手を置いている。前髪と眼鏡ではっきりと目が見えるわけではなかったが、時折首をかすかに横へ動かすので、どうやら横目で少女の様子をちらちらとうかがっているようだった。
 少女は腕を組んで相変わらず先ほどの態度を変えず、僕と蛸薬師を交互に睨んでいる。
ぴりぴりとした空気を感じる。昼時になりこの店に客が増え賑やかになっていると対照的に、このテーブルにだけ静寂が訪れていた。
「それで、あいつはこのこと知ってるのか?」
 最初に静寂を破ったのは蛸薬師だった。その発言を聞いた二人は一瞬体を震わせた。また僕だけ蚊帳の外になっている気がする。
「おい、あいつって誰のことだ?」
 肘で蛸薬師を小突いて聞く。まさか俊弥さんか?
「まだしらばっくれるつもり?」
 少女はテーブルを強く叩き、身を乗り出す。
「あんたの仲間はもう認めてるのよっ。往生際が悪いのもいい加減にしなさいよ」
 ぎゃんぎゃんと吠えるその姿はまるで小型犬のようだ。
「三条粟生だよ」
 今にも掴みかかってきそうな雰囲気の少女を手で制し、蛸薬師が答える。
「……なるほど」
 久しぶりにその名前を聞いた気がする。試験前で頭の回転が普段より若干速くなっているためか、その名前からこの状況の察しが付いた。そうか、この二人は三条粟生の取り巻きとやらなんだ。
 蛸薬師が前に言っていたが、本当にそんなものが存在するとは思っていなかった。つまり、この二人はおおかた僕が三条粟生を何かしら卑怯な手を使って籠絡したといったような誤解をしているわけだ。その気持ちはわからないでもない。僕も第三者の立場だったらそういった考えを抱いてしまうだろう。
「君たちは何か誤解しているようだから言っておくと、僕は彼女に何もしていないよ」
 さっさと誤解を解いてこの面倒くさそうな場を収めようとして、こう言ったのだが、失言だった。
「何もしていないですって?」
 両手でテーブルを強く叩いて、少女は立ち上がった。
「何もなくて粟生があんたみたいななんもとりえもなさそうな平凡男に惹かれるわけないでしょっ」
 甲高い声で騒ぎ立てる少女。周りの客たちが何事かと僕たちのテーブルをのぞき見ている。このまま放っておくと追い出されそうだ。
「……花ちゃん、とりあえず落ち着いて。他の人に迷惑だよ」
 少女を止めようと声を発したのは僕でも蛸薬師でもなかった。それはさきほどまで一言も口を開かず、かりてきた猫のようにおとなしくしていた少年だった。
「……ね?」
 少年は少女の制服の裾を掴み、座るように促す。相変わらず前髪で顔の半分が隠れているためその表情をうかがうことは出来ない。
「わかったわよ」
 少年に諭されて我に返ってみたら周りの視線も痛かったのだろう。さっきまでの剣幕はどこにいったのやら、少女はすんなりと席に座った。どうやらこの少年がストッパー役なのだろう。
「たしかに」
 飲み物を一口飲んで、体の前で指を組み蛸薬師は話し始めた。
「たしかに、一見こいつは平凡を絵に描いたような平凡の極みのような存在だ。平凡オブ平凡。うちの高校にベストアベレージ賞なるものがあったら間違いなくこいつが受賞するだろう」
 真面目な話をするのかと思ったら人のことを好き勝手言いやがって。なんだベストアベレージ賞って。こいつはどっちの味方をしているんだ。まさか面白そうな展開に誘導しようとしているんじゃないか。
「だが」
 そこで一瞬言葉を止め、にやりと僕の顔を見る。
「それはあくまで表面上のものだ。俺は長い付き合いだからわかるが、こいつは他の奴とは違う。なにがどう違うのか具体的には言えないが、こいつはこの中で一番変わっている」
 その言葉に一瞬ドキリとする。もしかして、こいつは何かを知っているのか。だがそう思ったのもつかの間。次の発言で僕の不安は杞憂に終わる。
「好きな女の子一人話しかけるのに一年と少しかかるような奴だ。そのくせ、何かの拍子に思い切った行動に出る。奥手なのに行動力がある。こんなちぐはぐな奴はなかなかいない」
 な?としたり顔でこっちを見てくるが、こいつはフォローしているつもりなのか。僕から言わせてもらえば蛸薬師の方が圧倒的に変わっている。
「はあ?何が言いたいの?」
 少女はわけがわからないという呆れた顔をしている。それも当然だろう。僕にもわけがわからない。
「つまりだ。こいつに女をたぶらかすような気も、甲斐性もないってことだ。そもそも三条はなんて言っているんだ?」
 そうだ。何よりもそれが重要だ。三条粟生の僕への急接近で一番困惑しているのは、彼女の友達であろうこの二人ではなく、当事者の僕自身なのだ。認めたくはないが僕は平凡だ。とびぬけて容姿が優れているわけでもなく、何か周囲にアピールできるような秀でた才能を発揮したこともない。
 それと比べて三条粟生は美人だ。蛸薬師曰く、彼女は成績も優秀であり、中学の頃は美術コンクールなどで入賞経験もあるらしい。つまり僕とは全く違うのだ。仮に僕と正反対のベクトルで違うのならば、何かの間違いでそういった完璧な存在が自分と全く異質な存在に興味を引かれるといったことはあるだろう。
 だが、僕は三条粟生の視点からは特に変わり映えもない、有象無象の一人なのだ。もしかしたら僕がかつて怪物から救った人たちの中に三条粟生がいたかもしれないという可能性も一時は考えたが、彼女のような美人だったら覚えているだろうし、そもそも変身した僕の姿は何者にも認識できない。だから彼女と僕の間には一切の繋がりもないのだ。
 だが、ひとつ。ひとつだけまだ可能性が残っている。
 三条粟生が僕のことをその視界に入れるきっかけというべきか、原因として考えられるのは今、ここで僕の隣で腕を組み何かを考えている恋愛脳男、蛸薬師御幸だ。
「粟生は……。粟生は一目惚れだって言ってるけど、どう考えてもそれは嘘にしか見えなかった。だから何かあるに決まってる」
 少し自信なさ気に少女は答える。蛸薬師の謎フォローが効いたのだろうか。それとも実際に僕を見てみて、僕に三条粟生を籠絡するような力がないということを感じ取ったのだろうか。
「粟生ちゃんは、昔から自分の本心を隠すんです。それに彼女が嘘つく時に、特有の癖がある。あの時その癖が出たんです」
「えっ?そんな癖あるの?」
 僕たちよりも少女の方が驚いている。この二人のことが大体わかった。少女は単純一途な猪突猛進型。少年は沈思黙考型だ。コンビとしては最適だが……。
 あの時と言うのはおそらく僕について尋ねた時だろう。軽く笑ってごまかす三条粟生の姿が目に浮かぶ。少年は三条粟生のことをミステリアスな雰囲気で表現しているが、要するに彼女は噓吐きだということだろう。少なくとも素直な性格ではなく、蛸薬師と同じようにどこか捻くれた性格だということだ。まったく。僕の周りには素直で優秀な人間はいないのか。
「一目ぼれねえ……」
 僕のことをちらりと見て、首をかしげる蛸薬師。
「おい、今かなり失礼なことを考えていなかったか?」
「いやいや。誤解するなよ。俺が考えてたのは一目惚れする理由じゃない。一目見るきっかけだ」
 手のひらをひらひらさせる。うまくごまかしたつもりだろうが、少し本音が漏れている。
「人が惚れる理由なんか考えてもしょうがない。色恋は千差万別。たて食う虫も好き好きって言うくらいだからな」
「なあ。今わざわざ死語になってるようなことわざを添える必要あったか?」
「とにかく」
 蛸薬師は僕の言葉を無視して話を続ける。前の二人も蛸薬師の言葉だけを聞いているようだ。僕はため息をついた。
「色々考えてみたが、こいつと三条が交わるような線は一切思いつかなかった。俺も三条とは接点が一切ないから俺経由のこともありえない。こいつが俺の知らないところで三条の道案内でもしたなら話は別だが」
「それは関係ないだろ」
「悪い悪い。もう茶化さないから」
突然言い争いを始めた僕たちを見て、少年少女は何の話かと首をひねっている。
「それでだ。……これはただの憶測で非常に言いづらいことなんだが」
 そこで一杯飲み物を飲む。話好きな蛸薬師にしては珍しくできれば話したくないという顔をしている。
「何なのよ。早く話しなさいよ」
 話の続きが聞きたくてうずうずしているのを隠そうともせず少女は蛸薬師に詰め寄った。
「あー。うん。わかった」
 ごほんと咳払いをして、姿勢を正す蛸薬師。僕たち三人もそれにつられて背筋を伸ばす。
「……こいつの名前なんて言うか知ってるか?」
 僕を指さし少女に尋ねる。
「小倉でしょ?下の名前は知らない」
 きょとんとしながらも質問に答える少女。蛸薬師は何を言っているのか、今更僕の名前なんか確認して。
「三条の家が何の商売をしているかはお前たちは勿論知ってるよな」
「あっ……」
 その言葉を聞いて少年が何かを察したように声を発する。
「はあ?それが何の関係があるのよ」
 少女はいぶかしげな顔をしている。案の定何もわかっていないようだ。
「それで、三条粟生の家は何の商売をしているんだ?」
 僕は蛸薬師に尋ねる。蛸薬師は少女に答えるように促す。
「何って、知らないの?三条ベーカリーよ。学校の近くにもあるじゃない」
「えっ。あれって三条粟生の家のやつなのか?」
 説明すると、三条ベーカリーとはこの地域で異常な発展を遂げているパン屋チェーンの名前だ。この地方から一歩出ればその姿を拝むことはかなわなくなるが、そのかわりここら一帯ではその名を知らぬものはいない超有名パン屋だ。リーズナブルな価格設定、豊富な種類が売りで、なによりも美味しい。
店舗周辺の人間のライフスタイルを把握し、利用者のほとんどが焼き立てのパンを買い求められるように焼き上げの時間が絶妙に調整されている。この地域密着に特化するため他地方への進出を控えているそうだ。僕もこの街にやってくるまでその存在を知らなかった。
ちなみにうちの高校の購買で販売されているパンも半分は大手メーカー、もう半分はこの店のものだ。噂では小学校の給食のパンもこの店のものがつかわれていると聞く。もともとは小さなパン屋だったのが一代でここまで大きくしたそうだ。
「パン屋か……」
 そこまで言ってふと気が付いた。
「まさか」
「……そのまさかだよ」
「いや、あまりにも馬鹿げてないか?流石にそれは」
 蛸薬師が言い渋っていたのもよくわかる。こんなこと恥ずかしくてたとえ思いついたとしても口に出したくない。
「ねえ、何の話をしてるの?」
 一人だけ蚊帳の外にいる少女がじれったそうに尋ねる。蛸薬師はカップから顔を上げ、髪の毛を無造作にいじりながら口を開いた。
「三条の店が元々小さなパン屋だったってのは知ってるな?」
「もちろん。有名な話じゃないの」
 そんなこと今更何故聞くのだと言わんばかりに答える少女。
「そのころからの代表メニューがあるってのは?」
「あんぱんでしょ。だからなんだって言うのよ」
 ここまで話してもわからないとは……。この少女、想像以上に鈍いらしい。勘違いして僕のところまで怒鳴り込んでくるのも納得がいく。
「……あんこのことを小倉って言うって知ってる?」
 少女の鈍感さに呆れ果てて口を閉ざした蛸薬師を見かねたのか、少年が話を繋ぐ。
「知ってるわよ。……小倉?」
 はっとして僕の顔を見つめる少女。やっと何の話をしているかを察したみたいだ。
「え?まさか小倉って名前だからって理由で粟生がこの男に近づいたってこと?そんな阿呆みたいな理由で?」
 僕たちが気恥ずかしくて言葉にできなかったことを少女はいとも簡単に言いのけてしまった。
「僕自身でいうのもなんだけど……。それ以外には考えられないかなって」
「そんなたかが名字だけで?確かに小倉って名前の人はここ辺りでは珍しい名前かもしれないけど……」
「おそらく名字はきっかけだろう。三条がこいつに興味を持つための。これもただの憶測に過ぎないし、これ以上は俺たちが考えてもどうしようもない。それに」
「それに?」
「本当に三条がこいつに対して好意を持っているのかどうかすら定かじゃない。そこらへんはお前たちが確かめることだろう。そして三条が本当にこいつに対して好意を抱いているのなら、お前たちにできるのはただ見守ることだけだ」
 二人は黙り込んでしまった。
「まあとにかく、俺が言いたいことはこいつが三条に何かしたって事実はないってことだ。それだけわかってくれればいい。お前らも試験前だろ?くだらないことは気にせず勉学に励め」
 その一言でこの場はお開きとなった。二人がファミレスから出て行った後、蛸薬師は読書に、僕は当初の予定通り試験勉強に打ち込んだ。



 三時ぐらいになって、僕たちはファミレスを出た。蛸薬師は用事があるからと繁華街の雑踏に消えて行った。僕はそのまま家に帰ることにした。
 二日前北白川さんと歩いたコースを一人で帰る。日曜日だがまだ日が高いのでカップルの姿はあまり見かけず、代わりに犬の散歩をしている人や、ジョギングしている人の姿をよく見かけた。
 河原から離れ、住宅街へ移る。この道は休日の昼でも人通りはない。近道をするために裏路地に入ると人の気配は一切なくなる。夏が迫るにつれて強くなってきた日差しもここには届かない。
 一瞬背後に嫌な気配を感じて振り返ったが、そこには静寂以外の何物もなかった。ずっと勉強していたから少し頭が疲れているのかもしれない。
 そのまま裏路地を通り抜け、家の前まで来たところで僕の携帯電話が鳴った。誰だろうと思って表示を見ると知らない電話番号からだった。
 出ようかどうか一瞬迷って僕は通話ボタンを押した。
「……もしもし」
「今暇?」
 聞いたことのある声が名乗ることなく唐突に自分の要件を伝えてくる。僕が電話番号を知らない人でこんなことをするのは一人しかいない。蛸薬師俊弥だ。
「なんで僕の電話番号を知ってるんです?」
「共通の知り合いってのがこの世界にはたくさんいるんだよ。それで今暇?」
 答えになっていない答えを返してくるのは相変わらずだ。
「忙しいです」
 本当は家に帰って軽く休憩でもしようと思っていただけで、一切忙しくはない。だけど俊弥さんからの誘いなんて何かしら面倒くさいことに決まってる。嘘も方便。だが、こんなやりとり、前もどこかでしたことがある気がする。
「今君の家の近くの公園にいるんだよね。ほら、水路沿いにあるやつ」
 俊弥さんが言っているのは三条粟生に告白されたり、金曜日北白川さんと別れた公園とは別にある、水路沿いにあるこれもまた人気のない公園だ。
「なんでそんなところにいるんですか……?」
「なんとなくね。じゃあ待ってるから」
 そう一方的に言い捨て電話は切れた。
「……なんなんだ」
 思わず大きなため息をつく。僕は俊弥さんが待っているであろう公園へ向かった。ここで無視すると後が怖い。

水路沿いの道は先ほどの裏路地のように、休日の昼間だというのに暗く静まりかえっていた。夏が近づくにつれ木々が葉を茂らせ、陽を遮るようになっているのはわかる。だが、それにしてはいささか暗すぎる。僕は少々気味の悪さを肌に感じながら歩を進めた。
 水路を抜け、公園に着くと途端に周囲が明るくなった。じりじりと肌に陽ざしを感じる。
「よっ」
 ブランコに座ってゆらゆらと揺れながら俊弥さんは片手をあげた。寂れた公園の遊具でも俊弥さんが使うと何か味のあるように見えてくるから不思議だ。俊弥さんはいつも通りファッション雑誌から飛び出してきたような恰好をしていた。
「なんなんですかいきなり」
 僕がそう尋ねると、俊弥さんはブランコから降りズボンを叩いて埃を払うと、ポケットから長方形の紙をとりだした。
「これ、あげる」
 手に取って見てみると、それは映画のチケットだった。二枚ある。最近テレビでしょっちゅうコマーシャルが流れている感動ファンタジー映画のチケットだ。
「……なんですかこれ」
「映画のチケットだよ」
「それはわかってます。僕が聞いてるのはなんで映画のチケットを俊弥さんが僕にくれるんですかっていうことです。それも二枚」
「え?この前任せるって言ったじゃん」
 僕は何を任されたのだろう。まったく心当たりがなくて映画のチケットを凝視する僕を見て、呆れたのか俊弥さんはやれやれと少しため息をついて、
「御影ちゃんのことだよ。それでデートしてきな」と驚くことを言った。
「え?」
「小倉君は奥手だからね。こうでもしないと前進しないだろ?」
 ということは、俊弥さんは僕と北白川さんのことを応援してくれているのか?
 それはおかしい。蛸薬師が言っていた、俊弥さんが北白川さんを狙っているという情報と矛盾してしまう。兄憎しで何かを間違えたのだろうか。
「なんで」
 あまりにも意外すぎてつい口から言葉が漏れてしまう。
 それを聞いて俊弥さんは、
「だから言ったじゃん。任せたよって」と言い、髪をかき上げる。その動作一つ一つが様になっている。こんな人がライバルじゃないとわかって僕は大分心が軽くなった。まあ俊弥さんが狙っていようといまいと僕の勝率は限りなく低いことはかわらないのだろうが。
「じゃあ、それだけだから。……あと大変だろうけど頑張ってね」
 そう少し含みを持たせて俊弥さんは片手をひらひらさせ、公園から去って行った。
 一人公園に残された僕は少し拍子抜けした気分で立ち尽くしていた。
 握りしめたチケットを見て、北白川さんを映画に誘わなければいけないという課題に直面しているということに気が付いた。
 敵から塩を送られた。いや、正確にはもう敵ではないのだが。これは千載一遇のチャンスでもあり最大のピンチでもある。もし北白川さんに断られたら、僕の彼女にかける一縷の望みも同時に断たれてしまうことを意味する。それにあの俊弥さんから渡されたということはこれはほぼ強制、断ることのできない命令に等しい。もし誘うことをしなかったら、後でどんな嫌がらせを受けるかわからない。
 チケットを握る手のひらが汗ばむのを感じる。そういえばすこし暗くなってきた気がする。時計を見てみるとまだ四時にもなっていない。それなのに公園は異様に薄暗くなっていた。まるでさっきの水路みたいに。
 ぞくりと背中に冷たい気配を感じて振り返ると、そこに人がいた。全く気が付かなかった。いつからいたのだろうか。少なくとも僕が公園に入った時はいなかった。俊弥さんが出ていく時もいなかったはずだ。入り口も一つしかない、小さい公園だ。誰かが入ってきたらすぐに気が付くはずだった。
 少し後ずさりしながらその人を観察すると、僕は拍子抜けした。その人は午前中ファミレスで話した少年だった。帽子をかぶっているので一瞬わからなかったが、男にしては長い髪の毛が特徴的ですぐに分かった。
 おそらく近所なのだ。僕が映画のことで頭がいっぱいになっていて気が付かなかっただけだろう。僕はチケットを鞄の中に丁寧にしまい、少年に話しかけた。
「やあ。昼間ぶりだね」
「……」
 少年は何も言わない。ファミレスでの態度を見る限り彼はシャイなのだろう。
「この辺りに住んでいるの?僕も近所なんだ。たまたまここに用があってね。君も誰かと待ち合わせ?あの女の子かな?」
 僕も口数が多い方ではないのだが、少年が一切口を開こうとしないため、自然とおしゃべりになる。
「そういえば三条さんも近所だったよね。君とあの子と三条さんも同じ中学出身なのかな?」
 少年は相変わらずだんまりを通しているが、僕の言葉に一瞬ぴくりと反応した気がした。
 少年がポケットに手を入れた。
「……何の話をしていたんです?」
「えっ?」
 少し掠れた声で少年は僕に問う。
「さっきあの男と何を話していたんです?」
「君には関係ないよ」
 北白川さんのことを第三者に話したくなくてこういったのだが、またしてもこれは失言だったらしい。今日は言難の相でも出ているのだろうか。
「とぼけるなっ」
少年は僕の言葉を聞くと激高した。ファミレスでの内気な少年の姿はそこになかった。
「粟生ちゃんのことで話していたんだろっ。花ちゃんは単純だからごまかせたかもしれないけど僕はそうはいかないぞ」
 そう語気を強めて少年は僕の方へ近づいてくる。ポケットにつっこんだ手が震えているのが見えた。
「それは誤解だって言っただろ。あの人はその件とは一切関係ないよ」
「うるさいっ」
 少年は僕の言葉など聞く価値もないといったように大声を出し、帽子を投げ捨て、左手で髪を掻き毟った。帽子は地面に落ちると、吸い込まれるように消えた。少年の頭に黒いもやのようなものが見えた。
「僕は知ってるぞ。あれは三年の蛸薬師だろ。兄弟して女をたぶらかしていることで有名な兄の方だ。どうせ粟生ちゃんでこれからどう遊んでいくかを話し合っていたんだろっ」
 少年は聞く耳をもたないようだ。完全に自分の世界に閉じこもってしまっている。それでも、どうにかして説得するしかない。このままではいけない。
「どうしてそんな風に思うんだ?そこまで言い切るってことは君はあの花とかいう子とは違ってそれなりの確信のようなものを持っているんだろ?」
 ファミレスで見た時の少年の印象が完全に間違っていない限り、何かがあるはずだ。僕は公園の出口に向かって後ずさりしながら、少年に尋ねた。
「……見たんだ」
「何を」
 出口まであと数歩。少年と僕との距離は約五メートル。
「粟生ちゃんが蛸薬師兄と話してるのを。その日、粟生ちゃんは泣いてた」
「なんだって?」
 俊弥さんと三条粟生は面識があったのか。
「その二日後だ。お前と粟生ちゃんが一緒に下校したのは」
一瞬足が止まってしまう。少年との距離が縮まる。
「お前はあの男の子分なんだろ?それであの男と一緒になって粟生ちゃんに酷いことをするつもりなんだ。違うか?」
 少年は僕のすぐ目の前まで来ていた。少年がポケットに突っこんでいる腕にぐっと力が入った。
「それは違っ……」
「うるさいっ」
 少年が僕に体当たりをする。いや、正確にはその右手に握りしめた何かを体ごと僕に突き出してきたのだ。
「えっ?」
 僕はその勢いに押されて後ずさる。少年の手にはカッターナイフが握られていた。
 僕は恐る恐る腹部を手でさする。痛みはない。これはもしかして大変なことになったんじゃないかと不安になりながら傷口を探す。
 だが、傷口はどこにもなかった。というか服の感覚もなかった。服とか靴とか、髪の毛とか、そういった細部の意識が一切なくて全身が限りなく一つのものとして集約されている感覚。だが『自己』と周囲の世界との境目がぼんやりと曖昧になる感覚が僕を支配していた。その感覚の支配下に置いて一つだけはっきりと明確に異なるものの存在を僕は感知していた。
 乱れた髪からのぞく少年は、病んだ犬のような目をしていた。
 『僕』は『』だった。そして『少年』は『怪物』だった。
「うわあああああっ」
 怪物はカッターナイフを僕の顔めがけて切りつけてきた。それを躱し怪物の右手に軽く手刀を入れる。
 カッターナイフが怪物の手から零れ落ちた。そのまま地面に吸い込まれるようにして消える。
 僕は間髪入れずに怪物の両腕を掴む。僕の掴んだ所から黒いもやがしゅうしゅうと漏れ始めた。
「ガアアアアアアアアアッ」
 怪物は激しく暴れる。僕は手の力を一切緩めず、怪物の腕を握りしめ続けた。
「ハナセェェェェェッ」
 少年の体全体から黒いもやがごうごうと湧き出てきた。そして公園のベンチやブランコ、木の陰などあちらこちらから同じように黒いもやが生じ、少年の頭上に集まる。
 いつも見ているのと何かが違う。いつものよりももっと重くてどす黒いもやだった。それが空気と擦れる度にざらざらといった音が聞こえてくるような気がした。
 ふっと少年の体から力が抜けた。少年は地面に崩れ落ちる。もう、少年から黒いもやは出ていなかった。
 空中に黒い球体が浮かんでいた。ただの黒い球体なのだが、まるで全身に目があるように、その球体が僕を見つめているような気がした。
 僕は少年を抱えて走りだす。公園を出ても球体は追ってこなかった。水路のベンチに少年を寝かせる。気を失っているだけのようだ。少年の鞄を漁り、筆箱から鉛筆を三本ほど失敬した。
 公園の方向から冷たい嫌な空気が流れ出てきている気がした。僕は躊躇することなく公園へ向かって歩を進める。公園に近づくにつれ暗く、空気がどんどん重くなっていく。
 公園の中空に黒い球体は浮いていた。
 球体がぐるっと回転した気がした。気がしたというのは、球体がその色のどこにもむらがなく黒々としていて、真球だったので回転したのかどうかはっきりとはわからなかったからだ。
 鉛筆を握りしめ僕は球体を見つめた。球体も僕を見つめているような気がした。
 いよいよ闘わんと、鉛筆を握りしめる腕に力が入り、腰を少し落とした時、球体の表面が波打ち始めた。
 僕は少し後ろに下がっていつ何が起きてもいいように構える。球体の波はどんどん激しくなり、やがて球体全体が大きく振動を始めた。
 その揺れはどんどん大きくなり、大気をも震わせた。びりびりといった波を僕は感じた。
 球体がもう球体とはいえないような姿になり、いよいよ爆発しそうな雰囲気になった瞬間、球体の振動がぴたっと止まった。
 球体は先ほどより一回り大きくなっていた。ちょうどバランスボールくらいの大きさになっていた。
球体相手にこう表現するのはおかしいかもしれないが、僕が球体の背後に回り込もうと横に動いた時、球体が破裂した。
いや、破裂したようにみえたのは四本の太い突起が球体の背後から生じたからだった。
四本の突起は螺旋状に回転しながらその形を変えていく。球体からもう二本突起が生じ、地面に突き刺さった。
ぼこぼこという音を立て、球体の形状も変化していく。どうしてなのか僕は静かにそれを見守っていたが、変化し終えた球体の姿を見て思わず肩を押さえた。
目の前にいたのは昨日夢で見た怪物だった。四本の腕、ゴリラのような形。唯一違うのはその目が一つだけだということだった。
 怪物は唸り声を上げながら僕に近づいてくる。一体全体どういうことなのだろうか。この怪物は確かに夢で見た怪物だ。だが何故それが今目の前にいる?もしかして昨日のあれは夢ではなかったのか。
 違う。今はそんなことを考えている場合じゃない。
 僕は首を振って悪夢のイメージを振り払い、人差し指と親指で鉛筆を一本挟む。
 怪物と僕との距離は約三メートル。一瞬で間合いを詰めることのできる距離だ……。
 しかし、たとえ怪物の懐に入り込んだとしても、あの四本の腕に襲われたら厄介だ。一撃で決めるしかない。
 左足を前に出し、鉛筆を掴んだ右手を眼前に構える。そして手首と腕のスナップをきかせ、ダーツの矢のように鉛筆を怪物の目をめがけて弾きとばす。
 見事的中。鉛筆は一筋の閃光となって怪物の目を貫いた。怪物は低い悲鳴を上げてその場に立ち尽くす。
 右足を蹴り出すと同時に左足を地面に叩きつけ、僕は怪物の懐に潜り込む。そのまま移動の勢いをつかって穴の開いた怪物の目に抉りこませるようにして右拳を撃つ。怪物の頭部が弾け飛ぶ。
「もう一発っ」
 この流れを止めないように今度は左手刀で怪物の腹部を貫き、切り裂く。そのまま体を回転させ、右足で腹部を蹴りとばすと怪物の胴体は二分された。
 このまま一気にかたをつけようと立ち尽くすだけとなっている怪物の下半身を踏みつぶそうとした時、怪物の輪郭が揺らぎ、まるで液体のように溶けた。
 僕はすかさず後ろに飛び退いて距離をとる。黒い液体状になった怪物の欠片はスライムのように結集し、その姿かたちを変えていった。
 次の怪物の姿は、蜘蛛だった。たしかにそれは僕が前対峙した怪物だった。またしても大きな一つ目が怪物の真ん中についている。
怪物は糸のようなものを僕に向かって吐き出した。
 間一髪でそれを躱す。糸は僕の背後にある鉄棒に絡まった。危なかった。距離をとっていなかったら捕まっていただろう。僕は二本目の鉛筆を取り出し、先ほどのように怪物の目に狙いを定め弾きとばす。ほぼ同時に怪物が糸を吐き出す。
 糸は僕を外れて地面に落ちた。鉛筆は糸で少し方向が変わったが、その勢いを落とすことなく怪物の胴体を貫通した。
 しかし、その動きを封じ込めるまでには至らなかったようで、怪物はその脚で目を守るように体の前でクロスさせた。
 鉛筆は残りあと一本。つまりこれが最後の飛び道具だ。寂れた公園とはいえ、腐っても公園だからか石ころ一つ落ちていない。木の枝は細すぎて使い物にならない。
 また怪物が糸を吐いた。僕は上に跳び上がって糸を躱す。また鉄棒に糸が絡まった。
 僕は鉛筆を構え、地上から約五メートルほどの空中から怪物の目に狙いを定める。怪物は蜘蛛の姿をしているため頭上に糸を吐くことは出来ない。また体が大きすぎるためか、その動きも鈍い。その怪しい目だけが僕を見つめている。僕はその目めがけて鉛筆を放った。
 中空から放たれた鉛筆は一直線に怪物の目へと落下する。槍と化した鉛筆が怪物の目を射抜かんとしたまさにその瞬間、ゆらりと怪物の体が揺れ先ほどのように溶けた。 
 鉛筆はむなしくも地面に突き刺さり、粉々に砕け散った。
 漆黒の液体はまるで噴水のように、上空へと噴き上がった。それは重力に引かれて落下していく僕の頭二つ分くらい上まで高く登った。
 その黒柱はまた姿を変えた。その姿を確認するや否や僕は体を丸め、きたる衝撃に備えた。
 横っ腹に重い衝撃を加えられ、僕は吹き飛ばされた。鉄棒に腰を叩きつけられる。
 僕を中空で叩き落としたのは木の姿をした怪物だった。前回闘った時よりも一回り大きい。目は木の葉で隠れているのか、僕からは見えなかった。こんな時なのに僕はふと少年のことを思い出した。
 少年の目は病んだ犬のような目をしていた。少年は怪物に憑りつかれたのだ。心が病んで弱った人間の隙間から怪物は侵入する。だが僕の経験から言ってそれは特例中の特例だった。普通の怪物は人に憑りつくなんていう芸当は出来ない。何を持って普通と言うのかはわからないが。
 ただこの怪物はどうみても異質なものだ。何年も怪物と対峙している僕だが、姿かたちを自由に変える怪物なんて一度しか見たことがない。しかもそれは体の一部を変えられるというだけで、この怪物のように自由自在に変化しまくるなんて芸当は出来なかった。あの怪物も極めて異質な存在だったが、これはそれ以上に厄介だ。
 何が一番厄介かって、何度倒しても復活してくるというところが一番問題だ。普通は一度その形を崩壊させてやればなし崩し的に消えていくはずだ。だがこの怪物はまるでやり直すかのように液状化し、新たな形を得て襲ってくる。
 何度倒しても復活する。僕の攻撃は確実に怪物の体を削っている。それはすなわち怪物の構成要素である闇を消し去っているということだ。
にもかかわらず、怪物は依然その存在を消滅させない。これは推測だが、おそらくこの場所が原因の一つなのだろう。莫大な闇の温床。闇とは何か僕も明確な答えは持っていないけれど、その正体は負の感情だと確信している。
恨み、妬み、悲しみ、怒り。人を破壊的衝動へと押しやる様々な負の方向性を持った感情、エネルギーが怪物を生み出しているのだろう。
希望などといった正の方向に人を歩ませるそれと対極の位置関係にある負の感情は、人々の生活において生まれる。往々にしてそういったマイナスのものは生まれやすく、残りやすい。そうして解消できずに溢れかえったものがなんらかの事象を経て姿かたちを得たもの、それが怪物だ。そう僕は思っている。
もちろん、負の感情は正の感情と同じぐらい人間にとっては欠かせないものだ。
『負』だからといって『悪』なのではない。『闇』だからといって『悪』なのではない。
善悪、正義か否かといったことは人間が勝手に決めることであって、正負や光闇などそれ自体はそういった意味を持たない。火や水、言葉や雲といったようにただの存在にすぎないのだ。
 じゃあなぜ闇の権化である怪物が人間に害を及ぼすような行動に出るのかと言うと、ここからは完全に私見だが、人が自分にないものを求めるように闇は光を求める、闇はそれだけではとても不安定な存在だ。だから闇は表裏一体である光にすがる。闇は自身のまだ見ぬはらからと出会い、消滅することを望むのだ。
しかし光は人の体に囚われている。光が闇のようにその容れ物から大きく溢れ出るなんてことはまず起こらない。蛍の光のようにちょっとした欠片が街に漂う程度だ。だから怪物は人を襲う。人から光を吸い取るのだ。己を消滅させんために。
 それが普通の怪物たちの正体だ。
 そして今僕の目の前にいる怪物は普通の怪物ではない。ただの闇意外になにかが混じっている。
 先ほど僕は善悪は人間のものさしが勝手に決めることであって、本来それらは存在しないといったようなことを言ったが、少し訂正する。
 この世界には絶対悪といったものが存在する。それは人間のものさしなど一笑に付すような身の毛のよだつような悪が。先ほど述べた悪とは同じ字面だが、その意味は全く異なる。
 それは正の方向も負の方向も持たないし、同時に正負両方の要素を持ち合わせている。
 すべての生き物のなかで人間だけが持ちえた世界の異質。それが絶対悪だ。この不純物が闇に混じりこんだからこの怪物は異質なのだ。うすうす感じ取ってはいたが、闘ってみてよくわかった。他の怪物が己の消滅を望んでいるのに対して、この怪物は『僕』の消滅を望んでいる。
 少年に憑りついて僕に直接危害を加えようとするのも普通の怪物の論理に当てはめたらおかしいことになる。そんなことをしても自身の闇は解消されないからだ。
 この怪物は闇の解消を一切望んではいない。絶対悪の意思のもとに光の消滅を願っている。
 おそらくこの公園でかつて寒気のするような事件が起きたのだ。そこで生じた絶対悪はさらなる絶対悪の呼び水となる。それでもここ最近のことではないはずだ。僕は何年かこの近所に住んでいるが、そんな事件があったなんて話は聞いたことがない。十年、二十年、いやもう何十年も前に生じた絶対悪の残滓がまだこの公園にこびりついていたのだ。
 それがここ最近になって何かがきっかけとなり、人に憑りつくほどに闇を従え成長した。
 もしかしたらここ一年における怪物たちの頻出化、狂暴化にも関係しているのかもしれない。僕に向かって振り下ろされる巨木のハンマーを見ながらそう思った。
 堅い木の重い衝撃が僕の腹部に響き渡る。鉄棒の柱が折れ、僕は鉄棒と一緒に地面に倒れこんだ。
 何故避けないのか。確かに僕は堅い。超常の守りがあるから多少の攻撃なら耐えしのぐことも可能だ。しかしそうだからあぐらをかいて怪物の攻撃に甘んじているわけではない。避けられないのだ。
 蜘蛛の姿をしていた時怪物が放った糸のうち二回は鉄棒に命中した。そしてその糸は怪物が変化してからもその役割を果たし続けていた。
 鉄棒に叩きつけられた僕の体は、糸の粘着力によって身動きがとれない状況にあった。
 どれだけ力を入れてもうんともすんとも動かない。丁度鉄棒にたいして平行に、全身まんべんなく糸が絡みついているため動かせるのは目と口だけなのだ。
 不覚だった。身動きの取れない空中へなど跳び上がるんじゃなかった。
 二撃、三撃。容赦のない攻撃が僕の身体に降り注ぐ。地面が陥没した。
 そのままどれくらいの時間が経っただろうか。五分ほどだろうか、いや一時間かもしれない。時間の感覚がひどく曖昧になっていた。
 怪物の攻撃に耐えてきた超常の防御力も流石に限界が来たのか、僕の身体から白いもやが出てきた。痛みはない。ただ何かを失っていく感覚がした。
力が抜けてゆく。とどめと言わんばかりに怪物の一撃が僕の腹部に振り下ろされる。
左の方でぐちゃっという何かが潰れたような嫌な音がした。頭を傾けて音のしたところを見てみる。左手が潰れていた。こころなしか手のひらが大きくなっている気がする。
腕はどうなっているのだろう。左腕を動かして身体の上でぷらぷらさせてみる。よかった。腕は無事だ。
怪物の木の拳が迫ってくるのが見える。おそらくこれをくらったら僕はもうお仕舞いだろう。それでもしょうがない僕は動けないんだから。
 いやまて。僕は持ち上げた左手を見る。怪物の拳が寸前まで迫ってきている。
 僕は身体を横に転がしてそれを間一髪で避ける。さきほどまで僕の身体で守られていた鉄棒が折れる音がした。
「……動ける」
僕はふらふらになりながらもなんとか立ち上がる。怪物は逃げた僕を薙ぎ倒すようにその太い枝を横に振り払う。
すかさずしゃがみこんでそれを避けると同時に前へ低く跳び、転がりながら折れた鉄棒を拾い怪物との距離をとる。
鉄棒はくの字に折れていた。僕は両端を握り、思い切り力を込める。鉄棒が捩じ切れる。
切断面は鋭くなっている。鉄の槍の完成だ。
鉄棒には怪物の黒い糸はついていなかった。僕は自分の身体から湯気のように立ち上がる白いもやをみる。おそらくこのもやが怪物の糸と打ち消しあったのだ。ちょうど僕の拳がその存在だけで怪物の存在をかき消すように。
このもやを鉄棒に纏わせることができたらいいのに。あの木の怪物は堅いがおそらくそんな装甲も軽く貫くことができるだろう。しかしこのもやは煙のようなもので、手に取ることすら不可能だ。
何か手はないかと怪物から逃げ回りながら、僕は潰された左手を見る。身体全体からこの白いもやが出ているが、特にこの左手からの流出が激しい。
怪物が二本の枝で僕を挟み撃ちにする。後ろは壁だ。上に跳ぶのはだめだ。空中では身動きがとれないせいで厄介なことになる可能性が高いとさっき嫌と言うほど思い知らされた。ならばどうするか。一か八か。賭けるしかない。
僕は動いた。後ろでも上でもない。前へ、怪物の懐へ飛び込んだ。
懐に入れることで挟撃を喰らうことは避けられた。しかしこの怪物には脚がある。右端から怪物の蹴りがとんでくるのが見えた。
僕は潰れた左手を怪物の身体に密着させる。左手は白いもやで覆われていて、その輪郭も少しぼやけていた。
この木の怪物は特殊なようで、他の怪物のようにただ僕の身体に触れただけでダメージを負うようなことはない。
ただそれは僕の力が僕の容物に閉じ込められている時の話だ。この左手は今限りなく僕の力の本質に近い。
僕は躊躇することなく鉄槍を密着させた左手の上から、怪物の身体に突き刺した。
怪物の蹴りが止まった。どうやら効いたようだ。一時的に槍は白い力を纏った対怪物特化の武器と化したのだ。
怪物の攻撃は一瞬止んだが、本当に一瞬のことだった。怪物がふたたび蹴りを放ってくるのがよく見えた。
僕は刺さった鉄槍を一度引き抜き、左手を抜くと空いた穴に再び突き刺した。怪物の身体から突き出た槍を足場にして、上へと跳び上がる。
今度は今迄のように、やみくもに跳んだわけじゃない。ちゃんと考えている。
怪物の身体の中腹より上ら辺までくると、僕は枝に手をかけた。そのまま枝を使いながら片手で怪物の周りを見まわす。
あった。
僕が捜していたのは怪物の目だ。それは僕のいる場所より少し上の方に存在していた。ぎょろぎょろさせ僕を探している。
僕は枝を蹴り、上へ跳んだ。
怪物の目が正面にくる。一瞬怪物と僕の目が合った。
僕はもう左手と呼べなくなった左手であったものを怪物の目にかざす。怪物の目が揺れた。
「これでお仕舞いだ」
 そのまま僕は槍で怪物の目を貫いた。


九 
「はあ……」
 僕は地面に大の字で倒れていた。変身はまだ解けていない。怪物はまだ存在を消し去ってはいなかった。
 僕は握りしめた右手を見た。ばちばちと何かが打ち消しあう音がする。この右手の中に怪物の核がある。槍で貫いた時偶然見つけて捕まえたのだ。このままいけばこの異常な怪物を消滅するはずだ。絶対悪の残滓とともに。
 僕にもう立ち上がる力は残されていなかった。力の流出は僕の体力を確実に奪っていっていた。左手首から上はもう存在しておらず、そこからの流出が特に激しかった。
 力を使い果たした時、僕の変身は解ける。それは過去の経験から知っていた。もし変身が解けたら僕に怪物を倒すことは不可能だ。絶対悪を連れた核はまた大気に満ちる闇を糧に復活するだろう。こんなやつを野放しにはできない。僕は握りしめる右手を見つめ、力を込める。
 当然だが右手からも白いもやは出ている。右手の輪郭が曖昧になってきた。というより、全身の感覚が曖昧になってきた。
 次の瞬間、ばちっという音とともに僕の右腕から何かが抜けていくのを感じた。
 終わった。
 変身が解けてしまった。
 左手など、戦闘で傷ついたところは全て元通りになったが、もうこの僕に怪物と闘う力はない。
 視界の隅に黒いものを捉えた。僕はふらふらと立ち上がり、怪物を探す。
 変身が解けた僕は普通の人間だ。でも『知っている』から、怪物の存在は曖昧にだが捉えることができる。怪物は公園の入り口付近にいた。
 周囲の闇をかき集めているのか、黒いかたまりがゆらゆら揺らめいている気がする。僕は足元に転がっている鉄棒を拾った。まず不可能だが怪物に外傷を与えることが出来れば、怪物の力を流出させ弱めることも出来るはずだ。
 僕はゆっくりとふらつく足を動かし怪物がいると思われる場所まで歩いた。
 黒いかたまりが僕を見ている気がした。どんどん大きくなっていく。僕は鉄棒を振り上げた。
 黒い塊は人間大の大きさになった。僕は鉄棒を振り下ろそうとした。が、怪物の姿を見て僕の動きは止まった。
 僕の目の前に北白川さんがいた。怪物の姿はない。いや違うこれは怪物が北白川さんの姿を偽っているんだ。
 考えればこの怪物は最初から僕が闘ってきた怪物の姿にのみ化けてきた。こいつは僕を見ていた。
 僕の記憶を読んでいたのだ。この怪物は。そして今北白川さんの姿に擬態した。僕が躊躇うと知って。
 僕は鉄棒を握りしめる。北白川さんが僕を見つめている。見てはいけないとわかっているのに僕はその目から視線を逸らすことが出来なかった。
 怪物は僕に憑りつこうとしているのではないか。あの少年に対してしたように。僕の心を乱してその隙間に入ろうとしているんじゃないか。
 北白川さんは何も言わず僕の目をじっと見つめている。違うこいつは北白川さんじゃない。怪物だ。しかしどこかその雰囲気が本物に似ている気がした。
 僕の手から力が抜ける。鉄棒が地面に落ちる。ごおんと音を立てて鉄棒は転がっていく。北白川さんがの顔に手を伸ばしてきた。僕は動けなかった。
 
それは刹那の出来事だった。
 一陣の風が僕の前を吹き抜けた。北白川さんはその風にさらわれて公園の真ん中まで吹き飛ばされた。
「北白川さんっ」
 僕は駆け寄ろうとしたが、倒れている北白川さんの前に立っている人物を見て足を止めた。
 それはあの夢で見た人だった。男か女かわからない、捉えることのできない曖昧な存在感。あれは夢じゃなかった。現実だったのだ。
 呆けていた僕の頭が活動を始めた。こういった存在を僕は知っている。
 北白川さんの輪郭が揺らぎ始めた。その存在の認識が曖昧になっていくのを感じる。その人はとくに驚いた様子を見せることなく、北白川さんのようなものを手で振り払った。
 本当にただ鬱陶しい羽虫を追い払うかのように、造作もなく片手で振り払ったのだ。そして怪物はそのなんでもないかのように見えた動作によって完全に消滅してしまった。
 それは一瞬の出来事だった。
僕があれだけ苦労した絶対悪に染まった核さえもその人は何事もなく消し去ってしまったのだった。たしかにその存在は弱まっていたかもしれない。だが、あの夢だと思っていた小学校での怪物に対しても、今の怪物においてもここまで軽く扱っているのは信じられなかった。
その人は僕以上に怪物退治を『作業』として行っていた。朝起きて歯を磨くといった段階ですらない。朝起きて背伸びをするレベルの次元で、その人は怪物と闘っていた。
 いや、闘っているという自覚もこの人にはないのだろう。ただ前を歩いていて邪魔だったから踏みつぶした。そんな感覚なのかもしれない。
 怪物が消滅したことによってその人の変身が解けていく。霞がかったように曖昧だった輪郭が徐々にはっきりとしてくる。まるで夢の中の住人のようなあやふやな存在感も段々と現実味を増してくる。
 そしてその場所に立っていたのはなんというか、それを見た時驚いたと同時になぜか妙に腑に落ちた、そんな人物だった。
「……俊弥さん」
 俊弥さんはいつも通りに、何物にもとらわれない悠々自適な凧のように颯爽と佇んでいた。
「やあ。また会ったね」
 俊弥さんは振り返ると、片手をあげて何事もなかったかのように挨拶した。
「一瞬びっくりしちゃったよ。先走ってもう勝負しにいっちゃったのかと思って」
 何の話をしているのだろうか。とりあえず僕が今したい話ではないことだけは確かだ。
「えっと……。俊弥さんもなんですか?」
 明確に『変身』という言葉を使うのが憚られて、曖昧な尋ね方をする。というより明確な表現を思いつかないのだ。だってどう言えばいいのだろうか?変身と呼んでいるのは僕の中だけの話だし、ヒーローというには地味すぎる。そもそも僕は今迄僕しか怪物と相対していないものだと思い込んでいたのだ。
「そうだよ。気が付かなかった?」
 さらりと答える俊弥さん。この言い方は僕のことを以前から知っていたような口ぶりだ。
「今知りましたよ……。僕のこと前から知っていたんですか?」
「うん。君が中学に進学したあたりからかな」
「……漫画とかでありがちな同類を感じ取れるとかっていうものですか?僕は一切気が付かなかったんですけど……」
「流石にそんな能力はないよ。実際に何回か見てるんだよね。小倉君の仕事」
 若干笑いながらそう話す俊弥さん。
 仕事、か。やっぱり僕とは捉え方の方向性が微妙に違うみたいだ。
「小倉君は俺と違って真面目だよね。遭遇したのはもちろん、わざわざ自分で狩りに行ってるでしょ?」
 俊弥さんはご苦労なことだ。と頷く。
「俊弥さんはしないんですか?」
「ないない。だって俺面と向かったやつでも気が乗らなかったら素通りするからね」
 手をひらひらとさせて否定する俊弥さんを見た僕の目が丸くなったのを見て、俊弥さんは少し驚いたように話を続けた。
「そんなに驚くことかな?だってあいつらは放っておけば勝手に消えていくんだよ。知らないわけじゃないだろ?」
「……でも、消滅するまでに人に危害を加える可能性だってあるじゃないですか」
「あるだろうね」
 顔色一つ変えずあっさり答える俊弥さん。それがどうかした?と言いいたそうに僕の顔を見ている。
「平気なんですか?」
「もともとやつらは人間から生まれた存在だ。人の憎しみや恨み、恐怖などの感情が溜まりに溜まった時にやつらは具現化される。俺は闇って呼んでるけど……。闇を産んだのが人間なら、人間がその後始末をつけるのが筋だろう?俺たちだけが全責任を背負っているわけじゃない。俺たちはヒーローじゃないんだ」
「……」
「俺たちの役割は日常的に存在する闇を祓うことじゃない。俺たちはバランスを保つために力を与えられたんだ」
「……どういう意味ですか?」
「最近異常に闇がはびこっていると思わないかい?」
「ああ……」
 たしかにここ一年近くの怪物たちは異常だ。以前より狂暴化している気がする。今まではこっちが一方的に攻撃している展開がほとんどだったが、ここ最近は怪物の猛攻を喰らい続けることが多くなった。そして何よりその出現頻度が異常に高い。三日に一回は遭遇している。俊弥さんじゃなくても敬遠したくなるレベルの出没数だ。あと、これは関係ないかもしれないけど寒すぎる。もう初夏も間近なのにまだ冬の冷気が抜けきっていないようだ。
「流石にそれには気が付いているみたいだね。俺よりもしっかり闇と接しているから当たり前っちゃ当たり前か。とにかく闇は、必要不可欠なものなんだということも理解してほしい」
 照れ隠しのように頭をかいて、俊弥さんは続ける。
「まあわかっているならいいや。小倉君は御影ちゃんのことに専念しなよ」
「……?」
「どうしたんだい?」
 何故ここで北白川さんの話題が出てくるんだ?さっぱりわけがわからない。でも僕は今俊弥さんに聞きたいことがたくさんあるんだ。
「もしかして俊弥さんも北白川さんのことを……?」
 一番聞きたいことではなかったけど北白川さんのことが真っ先に口をついて出てしまう。
「ああそうだよ」
 ……やっぱり。蛸薬師の言っていたことは本当だったんだ。俊弥さんも北白川さんのことを……。
「でも諦めた」
「えっ?」
 あまりにも軽い拍子で言うものだから驚いて変な声が出てしまった。
「うん。最初は俺じゃなきゃ駄目だと思っていたけど、よく見ていたら俺よりも小倉君の方が御影ちゃんにふさわしいと思ってね」
 そんな理由で諦めることができるのだろうか。どうも拍子抜けした空気が流れてしまう。
 でも、あの蛸薬師俊弥の考えることだ。僕のような凡人には到底理解することが出来ないレベルまで達してしまっているのかもしれない。
「そういう理由だから、御影ちゃんのことは小倉君に任せたよ」
 そう言って俊弥さんは立ち去ろうとする。慌てて僕は俊弥さんの腕を掴む。
「ちょ、ちょっと待って下さいっ」
「何?」
 振り返る俊弥さんの顔には「さっさと家に帰りたい」と書いてあった。
「僕たち二人だけなんですか?その……変身できるのは」
「わからない。少なくとも俺は小倉君と俺の二人しか知らない」
 でも、と一旦言葉を切って溜める俊弥さん。
「他にもいると思うよ」
 俊弥さんはきっぱりと、自信ありげに答える。
「なんでそう言い切れるんですか?」
「だって寂しいじゃないか。俺たち二人だけが光だなんて」
 そう言うと俊弥さんは僕の手を振りほどいて、先ほど去って行った時と同じように片手をあげて水路の向こうへ消えて行った。


俊弥さんがいなくなってからも、しばらく僕は公園にいた。色々整理しなければならないことが多すぎたのだ。
俊弥さんが僕と同じ力を持っていた。
いつからなのだろう。俊弥さんは僕がこの街に越してくるまでずっと一人で闘い続けてきたのだろうか。僕と同じように絶望を味わったのだろうか。
 それに俊弥さんが言っていた僕たちの役割とはなんなんだろう。結局はぐらかされてしまったように感じる。
 ただ異質なものがこの街に訪れていることは確かなようだ。闇が濃くなりつつある。僕は灰色にかすんだ空を見上げた。
 
 僕は公園を後にし、水路を通って家へ帰る。少年を寝かせておいたベンチを見てみたがすでに目を覚ましたらしく、少年はそこにいなかった。
 僕は少年にまとわりついていた闇を消し去ることに成功した。だが、それはあくまで一時的な、表面的な解決にしか過ぎない。
 少年の心に巣食った闇をどうにかしないかぎり、少年は闇にさいなまれ続けることになる。明日少年と話をしなければいけないな。
 少し疲れた体を休めようと横になったが、予想に反して僕はそのまま深い眠りの底に落ちて行った。


月曜日、いつも通りに学校へ登校した僕は、もはや日課になりつつある北白川さんへの挨拶をすますと、すぐに一年生のクラスがある三階へ向かった。
うちの学校は一年生が三階、二年生が二階、三年生が一階という、年長者に重きを置いた仕様になっている。学年が上がれば上がれば上がるほど、受験などの負担が増える分学内での負担は減っていくという形式だ。
三階に上がった僕はいつもと違う雰囲気を肌で感じていた。学年が違うだけでこんなに違和感をおぼえるものなのだろうか。ふと、小学校、中学校で感じていた他のクラスに足を踏み入れた時の感覚を思い出した。
大げさに言えば他の世界の住人の領域へ足を踏み入れる感覚だ。僕のような小心者にはこういった雰囲気の違いを過剰に感じ取ってしまう。
 三条粟生はよく二階へ来ていたが、彼女はそういったことを一切気にしないタイプの人間なんだろう。蛸薬師に聞いた話だと僕が休んでいる時に教室の中にまで堂々と入ってきて、さらに蛸薬師と少し揉めたというから(本人はそのことについて一切触れていないし上手く隠したつもりだろうが三条粟生のことを語る蛸薬師の眉間にわずかながらだが皺が寄っていたことからおそらく何か軽く小競り合いでもしたのだろうと予想がつく)その芯の強さには驚かされる。
 そして三条粟生は僕のいる教室を知っていたのだろうが、僕は三条粟生の教室どころか少年のクラスさえ知らない。一つづつ端から覗いて行って確認するという手段もあるだろうが、そんな不審者まがいのことをしている時間はあまりないし、なにより少年が休んでいたりしたらお手上げだ。
 そういったわけで僕は三階の踊り場で途方に暮れていた。ここで待っていれば少年、もしくは花とかいう名前の少女に会えるかもしれない。
 一応教室の出入り口をそれとなく確認しながら、この後どうするかを考えているとふいに肩を叩かれた。
「うわっ?」
 驚きで少し跳び上がってしまった。振り向くとそこには蛸薬師がいた。
「よt。何してんだ?」
「お前か……」
 全く。本当にこの兄弟には驚かされてばかりだ。色々な意味で。
「ここ一年の階だぞ?まさか……」
 はっと何かを悟ったような表情でわざとらしく口を手で覆う蛸薬師。何かを勘違いしているなこいつ。
「何考えてるのか知らないけど、僕が用があるのは昨日の少年だからな?」
「え?なんであいつだよ。普通は三条に用があるんじゃねえの?百歩譲ってあのうるさかった女の子だろ」
 なんでまたあの影の薄い奴なんかに……と言う蛸薬師。まあわからないでもない。僕だって昨日のことがなかったらあの少年のことは一切気にもかけなかっただろう。
 でも……。
 僕は昨日見たあの少年の目を思い出す。病んだ犬の目だ。
 あれを見てしまったら放っておけないじゃないか。
「ちょっと深いわけがあるんだよ」
 僕がそう言うと、察しのいい蛸薬師はそれ以上僕を追及することをやめた。
 始業時間が近づくにつれ、階段を上ってくる一年生たちの姿も減ってきた。これは休みか、それとももう教室に入ってしまっていたのか。
「いないな」
 さっきまでの僕のように階段と教室の出入り口を見ながら蛸薬師が呟く。
「そうみたいだな」
「詳しくは俺は知らんが、昨日何かあったなら普通休んでるんじゃないのか?」
 流石、と言うべきなのだろう。昨日何があったのか具体的には把握していなくても、何かトラブルがあったのだろうということまでは察しているようだ。
「そうかもしれない。一回戻ってまた昼休みに出直そう」
 そう言って階段を下り僕たち二年生の階に来た時、下の方から三条粟生がやってきた。
「あ」
 三条粟生は僕たちを見ると一瞬驚いたような顔をし、そのあとすぐに笑顔を見せた。
「おはようございますっ。三階から降りてきたみたいですけど、どうしたんですか?」
「ああ、ちょっとな」
 少し無愛想な返事を返す蛸薬師。この二人なにかあったのだろうか。
「えー。なんですかその言い方。気になるじゃないですか」
 つかつかとそばに寄ってきて僕たちの顔を交互に見つめると、三条粟生はにやりと笑った。
「もしかして、私に用があったんですか?」
 三条粟生は得意げにふふんと鼻をならして腕を組む。
「違う違う。三条さんには関係ない話なんだ」
 勘が鋭い彼女のことだ。これ以上話していると気付かれてしまうかもしれない。あの少年のことに、彼女は巻き込まないほうがいい。辛い思いをするだけなのだから。
 始業のチャイムが鳴った。
「じゃあ、もう授業始まるから。じゃあね」
 僕はこれ幸いにと彼女と別れようとしたが、蛸薬師は僕とは全く別の考えを持っていたようだった。
「いや、ちょっと待て」
 蛸薬師は階段を上っていこうとする彼女を呼び止めると、耳元で何かを囁いた。
 一瞬彼女の表情がひきつったような気がしたが、次の瞬間にはもういつものしたり顔に戻っていた。
「それじゃ、また」
 三条粟生はそう言って三階へと姿を消した。

「さっき彼女に何を言ったんだ?」
 教室に戻る途中、僕は蛸薬師を問いただした。
「別に、たいしたことは言ってない」
「嘘だ。じゃあなんでわざわざ僕に聞こえないようにしたんだ?それに彼女はまたって言ってた。お前は何をするつもりなんだ?」
「何もしないって」
 蛸薬師は怠そうに頭を掻いてあくびをした。
 教室に入ってからも蛸薬師を問い詰めようと思ったのだが、残念なことに教師がもう教室に来ていたので話は一旦そこで打ち切られた。
 
 一時間目の授業が終わってすぐ蛸薬師に話しかけようとしたが、蛸薬師は僕を避けるかのようにさっさと教室から出てどこかへ行ってしまった。
「どうしたの?」
 自分の席に戻って蛸薬師の奇行について考えていると、後ろから声をかけられた。
 北白川さんだ。なぜかすごい久しぶりに会ったような気がする。
「いや、蛸薬師の奴が……」
 僕はそこまで言いかけて、ふと思い出した。色々あったせいで忘れかけていたが、僕にはやらなければいけない重要なことがもう一つあったのだ。
「蛸薬師君が、どうしたの?」
 突然黙り込んだ僕を見て少し戸惑っている北白川さんに、僕は財布から出したチケットを突きつけた。心臓が鼓動を早める。
「あのさ……これ」
 これは昨日俊弥さんに渡された映画のチケットだ。
「映画のチケット?」
 北白川さんはチケットを物珍しそうな顔で眺める。血液が体中を全速力で駆け巡っているようだ。とても熱い。
「うん。よかったら今度……一緒に見に行かない?」
 言った。言ってやったぞ。心臓がばくばくと鳴っている。この音教室中に響いているんじゃないかと、心配になってちらりと他の様子をうかがってみたが、皆いつも通りひとときの休み時間を堪能しているようで安心した。
「……どう?」
 おそるおそる北白川さんの顔を見ると、北白川さんは口を真一文字に結んで、チケットとにらめっこしている。
「む、無理ならいいんだ別に。……ごめんね」
 やっぱりだめだったかと、僕は落胆した。さっきまでの高揚感はどこへいったのやら、心臓は冷たく、鉛をぶちこまれたように胸が重くなった。やっぱり僕なんかじゃ無理だったんだ。俊弥さんには悪いけどチケットは無駄になっちゃったな。心の中で深いため息をついて床を見つめる。
「……行く」
「えっ?」
 聞き間違いかな?今、行くって聞こえた気がしたけど。
「行く」
 慌てて顔を上げ、北白川さんの顔を見るとそこには少し頬が紅潮した笑顔の北白川さんがいた。
 僕の心臓は破裂した。
 授業開始を知らせるチャイムが鳴り、じゃあまた詳しいことは後で。とチケットを北白川さんから手渡され僕は空気の抜けた風船のように前を向き、授業を受けていた。
 そのせいで昼休みになるまで僕はあの少年のこと、蛸薬師のことは頭の中からすっかり消え去ってしまっていた。単純なものだ。
 そんな腑抜けていた僕が落ち着きを取り戻したのは昼休みになって、蛸薬師が声をかけてきたからだった。
「おい。大丈夫か?いつも以上にぼーっとしてるけど」
 いつも以上にぼーっとしながら昼ご飯を食べていた僕を心配するかのように、蛸薬師は顔を覗き込んできた。目元にひっかき傷のようなものが出来ていた。
「僕は大丈夫だけど。そっちこそ大丈夫か?その傷どうしたんだ?」
「ああ、これか。何でもない……っていったら嘘になるけど、まあ何でもない」
 蛸薬師は傷を指で撫でながらそう答える。
「まあそんなことはどうでもいい。ちょっと来てくれ」
 そう言って僕の腕をとり、蛸薬師は教室の外へと僕を連れ出した。

「どこへ連れてくんだ」
 蛸薬師に先導されるまま、僕は学校中を歩き回った。上へ下へ、右へ左へと、本当に学校中を連れまわされた。
「おい、何がしたいんだ」
 五分ほど引き回されても蛸薬師が足を止めようとする気配を一切見せないので、腕を振り払って僕から尋ねる。朝からわけのわからない行動をしているけど、こいつは何がしたいんだ。
「……昨日、あいつと会ってたんだって?」
 蛸薬師の声のトーンが低い。ああ、流石の僕もこれは一瞬で把握した。俊弥さんのことだ。
「ああ。呼び出されたんだよ。知ってるだろ?あの人の強引さは」
 蛸薬師がおかしかったのはそのせいだったのか?でもなんで僕と俊弥さんが昨日会っていたことを知っているんだろう。そのことを知っているのは僕と俊弥さんの他には……。
「……なんの話をしてたんだ?」
「何の話って」
「いいから答えてくれっ」
 らしくない荒々しさで蛸薬師は僕の肩を掴む。思いのほか力が入っているようで、指が食い込んで痛い。
「北白川さんのことだよ」
 手の力は緩まない。蛸薬師はまっすぐ僕の目を見ている。
「映画のチケットをいきなり渡されたんだ。これで北白川さんを誘えって。俊弥さんはもう北白川さんにアプローチをかける気はないみたいだった。僕に任せたって」
 僕は昨日の内容で話せることを一気にまくしたてた。蛸薬師は微動もせずに僕の話を聞いている。
「それだけだよ。俊弥さんとは」
「……本当にそれだけなんだな?」
「ああ」
 少年のことは伏せているけど、これは説明するとややこしくなるだろうし、最初から蛸薬師をこのことに巻き込むつもりはない。
「そうか」
 肩を掴んでいた手の力が緩む。
「よかった。なんだそういうことだったのか」
蛸薬師はため息をついて壁に寄り掛かる。一人勝手に納得しているようだが、僕にはなにがなんだかさっぱりわからない。
「何がだ?さっきからお前は何を言っているんだ」
「全部話すよ」
蛸薬師は軽く深呼吸した。
「実は、午前中に昨日の二人と会ってきた」
「なんだって?」
 教室にほとんどいないと思ったら勝手にそんなことをしていたのか。
「最初の休み時間にまず花ってやつの教室に行った。そこで鞍馬、もう一人の男の方な、が昨日お前を襲ったって話を聞いた」
「……」
「すぐに鞍馬の教室に行ったが、やつはいなかった。どうやら今日は休んでるみたいだった」
 とんでもねえやつだ。と舌打ちをして蛸薬師は話を続ける。
「そこで時間が無くなったからとりあえず教室に戻ってお前から話を聞こうと思った」
「なんで聞きに来なかったんだ」
「お楽しみ中だったからな」
 にやりと笑って、映画楽しめよ?と蛸薬師は言う。見られていたのか……。
「まあ、それは置いておいてだ。俺は考えた。今回のことはどう考えてもやつらが何かを勘違いしていることから起こっている。昨日の時点では面倒くさそうだし放っておこうと思ったんだが……」
 蛸薬師はそこで言葉を止め、僕の腹をちらっと見る。
「鞍馬の野郎はカッターを持ってったって聞いたけどな。刺されはしなかったのか?」
「ああ、参考書があったからなんともなかったよ」
 もちろんこれは嘘だが、本当のことを話しても仕方がない。あの少年、いや鞍馬もはっきりとした記憶はないはずだ。
「今回は大事には至らなかったみたいだが、一歩間違ったらとんでもないことになってた。お前に非があるならまだしも、今回みたいなくだらない勘違いでそんなことになってたまるか。だから俺は関係ないが首を突っ込ませてもらうことにした」
 蛸薬師は関係あろうがなかろうがトラブルには積極的に首をつっこむ自分の性格を自覚していないようだ。まあそれでも僕のために行動してくれているのは嬉しいものだ。
「それで、なんで俊弥さんと僕が会ったって知ってたんだ?あの花って子は見てないだろ?」
「鞍馬から聞いたんだと」
 蛸薬師が聞いた話では、昨日の夕方ぐらいに鞍馬から花へ電話があったようだ。内容は小倉先輩(僕のことだ)が俊弥さんとこそこそ人気のない公園で会っていた。話の内容は聞こえなかったが、きっと三条粟生を貶めるような何かを画策しているのだと思い込んでしまい、俊弥さんが公園を去った後、気が付いたら一人で立っている僕をカッターナイフで襲ってしまった。そこから記憶がなくて、目が覚めたら水路のベンチで寝ていた。夢かと思ったがカッターナイフが鞄から消えていたので怖くなって公園を確認することなくその場から逃げ出した。ということだ。
「全く迷惑極まりない話だぜ」
 蛸薬師はあのクソ野郎と吐き捨て、壁を蹴飛ばす。
「荒れるなよ。とりあえず僕はなんともなかったわけだし、誤解を解けばわかってくれるさ」
「俺はそういう真似をする奴らが大嫌いなんだよ。誤解を解くって言ったってああいう輩はなかなか信用しない。だからお前は不本意だろうが三条も呼び出すことにした」
「えっ?」
「今日の放課後、俺とお前と花と鞍馬、それに三条と話し合って誤解を解く。この茶番劇にさっさと終止符を打つんだ」
「まてよ、そんなことしたら」
「三条が傷つく……か?確かにあいつは何も知らないようだが、そんなこと知ったこっちゃない。取り巻きが勝手にやったこととは言え、あいつにも原因がないとは言えないんだ」
「……」
「本当はあいつも呼べるとよかったんだが、結局見つからなかったしな」
「だから僕を連れまわしてたのかっ」
 納得した。俊弥さんは校内をうろちょろしていることが多い。一応三年生のクラスも確認していたのだろう。でも兄弟二人きりで会うのは嫌だがら緩衝材として僕を連れてきていたのか。
「いい加減仲直りしたらいいのに……」
「それは未来永劫無理だ」
きっぱり即答する蛸薬師。この二人の間には誤解やら事実やらがごちゃ混ぜになっていて絡まりあった毛糸のように厄介なものとなってしまっている。昔は仲が良かったらしいが、今は見る影もない。
「とにかくだ。あいつは来ないがきょう決着をつけるからな。デートの約束は明日以降にしてくれ」
 そう蛸薬師が言い終わるとともに、昼休み終了を告げるチャイムが鳴った。
 ああ、まだ昼ごはん食べ終わってないのに……。

 放課後、僕たちは学校から徒歩二分ほどの公園に来ていた。コンビニの裏手にあるこの公園は僕の家の近所のそれとはちがって、そこそこ大きく、ブランコや滑り台と言った基本遊具は勿論のこと、真ん中には山の遊具、端にはトランポリンがあるというなかなか充実した公園だ。今日も子供連れの親子や、近所の中学生たちでにぎわっている。
 僕たちは山の裏の砂場にいた。僕たちと言うのは、僕、蛸薬師、少女花、そして三条粟生である。鞍馬少年はまだ来ていないようだった。
 爽やかな公園の空気とは一線を画したものが砂場周辺には流れていた。僕、蛸薬師、少女花からは重苦しい雰囲気が、三条粟生からは戸惑いと不安の空気が流れ出ていて、それらが混ざってただの砂場に奇妙な空間を作り出していた。
「花ちゃんと先輩たちって知り合いだったの?」
 三条粟生が心の底から不思議そうに尋ねる。少女花は居心地悪そうに首を縦に振った。
「昨日からの知り合いだ」
 蛸薬師はそんな少女の様子を気にもしないようにはっきりと言った。
「鞍馬が来る前に話しておくか。実はな、昨日こいつが鞍馬に襲われた」
 こいつ、で僕のことを指さし、蛸薬師はいきなり核心部分に迫った。
「襲われたってどういうことですか?」
 なんとなく事の流れを掴んだらしく、真剣な面持ちで三条粟生は蛸薬師を見る。
「言葉のまんまだよ。鞍馬がカッターナイフでこいつを切り付けたんだ」
「鞍馬君が?信じられない……。先輩は大丈夫だったんですか?」
 そう言うと三条粟生は僕の腕や腹を触って傷跡を探そうとしだしたので、慌てて僕は手で制した。
「いや、怪我はなかったからいいんだけどね」
「今回はたまたまだ。次同じようなことが起きたら無傷でいられるとは限らない」
 相も変わらず厳しい口調で続ける蛸薬師。今回のことが相当頭に来ているようだ。
「でも何で鞍馬君はそんなことを……」
 ここで僕はふと疑問に思った。三条粟生はなぜ鞍馬が僕を襲ったという蛸薬師の言葉をここまですんなりと信じるのだろう。いや、襲われたことは事実だから信じるというのはおかしい言い方かもしれない。だが、まがいなりにも鞍馬は彼女の友達であり、普通あまりよく知らない先輩の話より鞍馬のことを信じてそんなことをするわけがないと否定するんじゃないのか?
 もしかして鞍馬には昔からそう言った傾向があったのだろうか。
「それは本人から聞いてみようぜ」
 蛸薬師の視線の先を追うと、公園の入り口に鞍馬が立っていた。
 相変わらずその大きな体と対照的に内気な挙動が見て取れる。一瞬昨日のことはただの怪物が彼に化けた姿で、鞍馬自体は関わっていないのではないかと錯覚したが、彼の両手首に赤い模様が出来ているのを見て、昨日のことは鞍馬によるものだったと確信した。
 あれは僕の手形だ。必死だったから力を込めすぎてしまっていたようだ。
「こっちにこい」
 蛸薬師が鞍馬に呼びかけた。鞍馬はおずおずと砂場の方へ向かってきた。
「さっさと済ませるぞ。何でこいつを襲った」
 鞍馬が僕たちの前に来ると蛸薬師は間髪入れずそう切り込んだ。
「……ごめんなさい」
「謝罪は後でたっぷり聞かせてもらう。だから今は全部正直に話せ」
「あんまり強く言うと萎縮しちゃうよ」
「お前は黙ってろ」
 蛸薬師をなだめようとしたが失敗だったようだ。これはもう黙っていたほうが上手くいくと、これまでの経験から僕は察して口を閉ざした。
「じ、実は……」
 そのやり取りを見ていた鞍馬は決心したようでことの始終を語った。その内容は今日の昼休み蛸薬師から聞かされたものと同じで、要約すると俊弥さんと僕が裏で手を組んで三条粟生を傷つけていたと思ったから襲ったというのもだった。
「ど、どういうこと?」
 話を聞いていた三条粟生は戸惑いの色を隠せない。
「どうもこうもこれが全てだ」
「私たち……粟生ちゃんが先輩に脅されてるのかって思ってて、それで」
 少女花がか細い声で話す。
「何で私が脅されてるって思ったの?」
「だって、こっちの方ならまだわかるけど……」
 はいはい。特に取り柄もない、平凡な男で悪かったですね。
「そんなことないと思うけどな。小倉先輩は他の誰よりも特別な何かを持ってると思うよ」
「三条さん……」
 蛸薬師の女版だと思っていたけどそんなことはなかった、彼女は優しい子だ。ただ特別な何かという言い方は少し引っかかるものがあった。以前蛸薬師も似たようなことを言っていたのだ。やはりこの二人は異常に勘が鋭いのかもしれない。
「こいつがただの有象無象ではないことは確かだ。だが、俺にはお前がこいつに惚れているとは全く思えない。俺が思うくらいだ。この二人ならなおさらだろう」
 三条粟生は黙って蛸薬師の話を聞いている。
「だからそろそろ話してくれないか。本当の理由を」
「お願い粟生ちゃん」
 少女花も蛸薬師に同意する。鞍馬は拳を握りしめ聞いている。相変わらず目は見えないが、嫌な雰囲気を感じないので大丈夫だろう。
「私って感情を隠すのが得意なんだよねっ。だからそう勘違いされちゃったのかな?」
 三条粟生はそう言って僕の腕に抱き着いた。
「うわわっ」 
 いきなりのことに蛸薬師と三条粟生を除いた僕たちはパニックになった。
「あ、粟生ちゃん……」
「粟生ちゃんから離れなさいっ」
鞍馬は呆然と立ち尽くし、少女花はそう叫んで僕と三条粟生を切り離しにかかる。
僕は僕で離れようとしない三条粟生の感触に戸惑って何もできなかった。
 そんな僕たち四人を腕を組んで見ていた蛸薬師だったが、突然「あーやめやめっ」と叫び、手を叩いて僕たちの注目を集めた。
「三条が話そうとしないなら仕方ない。本当はここまで話すのはやめておきたかったんだが……仕方ない」
「小倉、お前昨日公園であいつと何話してたかもう一回教えてくれ」
「それとこれがなんの関係があるんだよ」
「関係大有りだ。全部あいつが原因なんだよ」
「俊弥さんが?」
 俊弥さんの名前を出した途端、三条粟生の動きが止まった。固まった三条粟生の隙をついて、少女花が僕たちの間に入り込み、僕と三条粟生を切り離す。
 それにしても蛸薬師は何を話すつもりなんだろうか。そういえば俊弥さんと三条粟生が話していて、その後泣いていたって話は鞍馬から聞かされたけど、それと僕何の関係があるんだろう。
「いいから話してみろ。名前は伏せていいから」
 蛸薬師に促されるまま、僕は話し始めた。
「俊弥さんに呼び出されたんだ。話があるって。それで僕は公園に行った」
 三条粟生の様子を見ると、緊張した表情で僕の話を聞いていた。
「それで?」
「それで、会ってみたらいきなり映画のチケットを渡されたんだ。二枚。これである女の子を誘えって」
「ほらっ。やっぱりあんたたち裏で手を組んでしたんじゃないのっ。そのある女の子が粟生ちゃんのことなんでしょ?」
「違う。そいつと三条は一切関係ない。いいから少し黙っていてくれ」
 鬼の首をとったように調子づく少女花を蛸薬師が黙らせる。蛸薬師に睨まれた少女は借りてきた猫のようにおとなしくなった。
「なんで……蛸薬師先輩はそんなことを?」
 三条粟生が口を開いた。さっきまでのゆらりくらりとした雰囲気はどこにいったやら、真剣そのものだった。
「なんかその子のことを諦めたらしいんだ。……僕に任せるって言われた」
「そういうわけだ」
「そうだったの……」
 三条粟生が力なく呟く。心なしかさっきよりも落ち着いている気がした。
「私のやったことは無意味だったってことね」
「そもそも他人の事情に首を突っ込むべきじゃないんだ。サポートするなとは言わないが、三条、お前のやり方は遠回り過ぎるし、なによりそれじゃお前が救われない」
 蛸薬師は三条粟生を諭すように語りかけた。
「それでもよかったっ……。私には何もできないから、それならあの人が幸せになってくれればそれでよかった」
「そのせいであいつは刺されかけた」
「わかってる。私のやり方は間違ってた」
「わかればいいさ。ただ自分一人で突っ走るのはやめておけ。お前のことを思ってくれている周りの人間に対してそれはあまりに不誠実だ。まあ、俺が言える話でもないけど」
「……あのー」
「何だ?」「どうしたんですか?」
 蛸薬師と三条粟生がほぼ同時に答える。勝手に二人でどんどん話を進めて勝手に納得しているようだが、僕たち三人は完全に置いてけぼりで何を話しているのかこれっぽちも理解できてない。
「何だじゃない。いったいお前たちは何の話をしているんだ」
「何だ。わかってなかったのか」「相変わらず鈍い人ですねえ」
 二人してにやにや笑っているが、この状況を理解できているの方が少数派なはずだ。
 少女花の頭の上にはクエスチョンマークがたくさん飛んでいるし、鞍馬もわけがわからないといった表情をしている、気がする。
「話してくれよ。何で当事者の僕が置いてきぼりにあって野次馬のお前が全部把握してるんだ」
「言いにくい話なんだよな」
 そう言って蛸薬師は三条粟生の顔をちらっと見る。三条粟生はこくりと頷いて、
「私から全て話します。事の発端は私なんですし」
「いいのか?」
 蛸薬師は少し驚いた顔を見せた。
「ええ。もうふっきれました」
 三条粟生は肩の荷が下りたように柔らかな笑みを浮かべた。
「もう気が付いていると思いますけど、小倉先輩に一目惚れしたっていうのは嘘です。混乱させてごめんなさい。」
 三条粟生は僕に向かって深々と頭を下げた。……なんだか僕がフラれたみたいに感じるな。
「いいんだよ。でも、何でそんな嘘を?」
「実は私……」
 そこで一旦言葉を切って三条粟生は横目で蛸薬師を見た。
「蛸薬師先輩のことが好きなんです」
「ええっ?」
 横から素っ頓狂な声が上がった。少女花だった。
「粟生ちゃん、こんな男のことが好きなのっ?」
 ああ、やっぱり勘違いしてる。
「……花ちゃん」「お前な、もっと頭を使え」
 鞍馬と、蛸薬師の二方向から呆れた声を投げかけられ、少女花は目を瞑って眉間に皺をよせ少し考えた後、突然目を開いて叫んだ。
「粟生ちゃんが好きなのはお兄さんの方っ?」
「そう。あんまり大声で言われると恥ずかしいかな」
「ご、ごめん」
「お前、頼むから黙っていてくれ。三条、続けてくれ」
 蛸薬師に目で制され、少女花は黙り込む。基本女の子には優しいはずの蛸薬師だが、彼女に対しては少々手厳しいところがあるようだ。
「続けるね。それで私、蛸薬師先輩に告白したの。でもフラれちゃった」
 力なく笑う参照粟生。そうだろう。俊弥さんは相手が誰であろうと二歳年下は相手にしない。理由は知らないがこれは一部の人の間では有名な話だ。
「それで、先輩は二歳年下は絶対に相手にしないって話を知ったの。でも諦めなかった。そんなもの、関係ないって」
 自信家の三条粟生らしい考え方だ。立場が逆ならおそらく蛸薬師兄弟も同じような考え方をするだろう。
「でも、ある日知っちゃった。先輩が他の人に惹かれてるって」
「……で、でもあの人は女たらしって噂だったからそんなのが諦める理由にはならないんじゃない?」
 俊弥さんが好きという事実を三条粟生本人の口から聞いてしまって、かなりのショックを受けているであろう鞍馬が問いかけた。
「うん。最初噂を聞いたときそう思った。でも色々調べてみたら先輩が本気だってわかったの。いつもの先輩ならすぐに手を出すのに今回はじっくりと様子をうかがっている感じだった。それに相手も先輩の好みの人とは違ってた」
 北白川さんのことだろう。たしかに、彼女は俊弥さんの恋愛遍歴と照らし合わせても少しタイプが違う。俊弥さんが好むのはどちらかというと三条粟生のような嵐が来ようが、雷が降ろうが吹き飛ばされることのないような強い人だ。儚くて目を閉じたら消えてしまいそうな北白川さんは真逆のタイプだ。
「そ、それでもただの気まぐれかもしれない……」
 鞍馬は食い下がる。
「ううん。それは違う。痺れを切らして、先輩に問い詰めたの。他に気になる人がいるんでしょって」
 三条粟生はそこで息を深く吸った。その時を思い出したのか少し声が涙ぐんでいる気がした。
「先輩はただ一言言ったの。ああ。って。その時の表情がすごい苦しそうだった。苦しくて苦しくて胸が張り裂けそうって顔をしてた。そこで気が付いた。私じゃ到底かなわないって。先輩にあんな表情をさせることは出来ないって」
 涙がこぼれそうになるのを必死でこらえながら三条粟生は話を続けた。蛸薬師はそれを優しい目で見守っている。
「そのとき決めたの。先輩に好かれなくてもいい。でも先輩の想いだけはかなえてあげたいって。でも先輩の前には大きな障害がいた。それが……」
 三条粟生はそこで僕を見た。
「ぼ、僕?」
 皆の視線が僕に集中する。何を言っているんだ彼女は。僕は北白川さんと話すので精一杯だったのに。そんな僕が俊弥さんにかなうわけがないじゃないか。
「はい。小倉先輩です」
「なにか勘違いしてない?僕なんかが俊弥さんの障害になるわけがないじゃないか」
「先輩は鈍いから気が付いていないんです。彼女の一番近くにはあなたがいた。そうですよね?」
「ああ。一番近くにってのは少し語弊があるかもしれないが、あいつのお前に対する態度は他とは違った。ほんのわずかだが、最初からな」
 蛸薬師はほんのわずかだが、の所で人差し指を思いっきり曲げ、親指との間に本当に小さな穴を作ってその極小さを強調した。
「だから私はあの人のために彼女からあなたを引き離すことにしたんです」
「それで……」
 いきなり公園まで呼び出して告白したわけだ。
「どうせ好かれないなら、あの人のためになりたい。だから……」
 そこで限界が来たのか、三条粟生は黙り込んでしまった。
「まあ。そういうことだ」
 蛸薬師が崩れ落ちそうになる三条粟生を支えた。
「わかっただろ?こいつは何もしてないって」
 蛸薬師は少女花と鞍馬を交互に見た。二人は頷いた。
「疑ってごめんなさいっ」「……ごめんなさい」
 鞍馬は土下座しそうな体勢をとったので慌てて僕は止めた。
「もういいんだよ。何度も言うけどたいした被害はなかったしね」
「もっと友達を信用することだな」
 三条粟生の肩を抱きながら、蛸薬師は鞍馬を見て、こっちへこいと顎で示した。
「三条.お前もだ」
 蛸薬師は前に来た鞍馬に彼女を預ける。鞍馬はぎこちなくだが、しっかりと三条粟生を抱きかかえた。
 しばらくの間、三条粟生の嗚咽だけがその場に聞こえていた。

「本当に申し訳ありませんでした」
 三条粟生、少女花、鞍馬の三人は深々と僕たちに頭を下げた。
「いいよもう謝らなくて」「おう。わかったらしっかり反省しろ」
 実際の被害者である僕より蛸薬師の方が偉そうなのはなぜなのだろうか。
「それじゃあ、さようなら」
 そう言って三人は公園を出ていく。出口まで行くと三条粟生だけが一旦引き返してきた。
「どうしたの?」
「一つだけ。この前先輩がお休みしたときに私会いに行ったんですよ。北白川先輩に」
「ああ、蛸薬師から聞いたよ」
 今思えばその行動にも辻褄が合う。敵情視察と言ったものだろう。
「そこで話して思ったんですけど……」
「おい」
 蛸薬師が間に入って三条粟生の話を止める。
「はいはい。じゃあ、頑張ってくださいね」
 さっきまでの涙は何処へいったのやら、また何か含んだにやにや顔で三条粟生は出口で待っている二人の所へ駆けて行った。
「今、なんて言おうとしたんだ」
「さあな。さて、帰るか」
 そうはぐらかし蛸薬師は反対側の出口へ向かう。これは何度聞いても教えてくれないだろう。そう思って僕はやれやれとため息を一回ついて、蛸薬師の後を追った。

 

目が覚めた時、部屋は真っ暗だった。何も見えない。部屋全体がまるで深く濃い闇に溶けてしまったかのようだ。思ったより寝入ってしまっていたようだ。のどがからからだ。
 水を飲もうと体を起こそうとするが、できなかった。身体が痺れてしまったかのように動けない。全身に何倍もの重力をかけられているかのようだ。頭のてっぺんから足の指の先まで鉛のように重くなってしまっている。
 唯一動くのは目だけだった。何が起きているのかと思い必死に目を動かして周囲を把握しようとするが、辺り一面墨汁の入ったバケツをひっくり返したかのように真っ暗で、何も見えなかった。僕は見るのを諦め右手の指先に意識を集中した。それでも瞼を閉じることはしなかった。そうしてしまったらそのまま深い闇へ引き込まれてしまいそうになると感じていたからだ。
 指先に力を込めるとわずかばかり、虫よりも微かではかない具合だがぴくりと指が動いた。いける。僕はそう確信し、ありったけの力を指先に込めて一、二の三でえいっと動かす。右腕が勢いよく跳ね上がって、何かを吹き飛ばした。
 すると驚くことにさっきまで僕の全身を覆っていた謎の重みが嘘だったかのように消え去った。
 同時にさっきまで真っ暗だった視界も明るくなった。部屋の様子がありありとうつしだされる。そうだった。僕は部屋の電気を点けたまま寝ていたのだ。部屋が真っ暗だったのではない。なにか黒いものが僕の全身を覆い尽くしていたのだ。部屋が真っ暗なのではなく、目の前が真っ黒だったのだ。
 僕は布団をはねのけ、その場で立ち上がり部屋を見渡す。一見したところ何もない。もしかしてまた夢を見ていたのか?
 僕は座り込み、ため息をついて天井を見上げる。するとそこに、黒い大風呂敷のようなものが張り付いているのが見えた。なんだこれは。
 僕は一旦思考を整理した。公園を出た後、僕は蛸薬師と別れ帰宅した。そして試験勉強をしていた。ここまでは覚えている。机の上に蛸薬師から借りた数学のノートが開いて置いてあることからこれは確かな記憶だろう。
 そこでそうだ。一旦仮眠しようと僕は布団の中に入ったんだ。そこで目が覚めたらこの状況だった。
 さっきから天井に張り付いている黒い物体はもぞもぞと風に揺らぐカーテンのように蠢いている。こんな奇妙なものは一つしかない。
 怪物だ。
 僕は怪物から目を離さず、そのまま窓を開けた。ひんやりとした風が室内に入ってきて、カーテンが揺れる。
 怪物がいるということは僕が変身しているということだ。だったら部屋の中で暴れるわけにはいかない。部屋がめちゃくちゃになるのも避けたいが、下手をしたら壁に穴があく可能性もある。そんなことになったら大変だ。説明などしようがないし、かなり厄介なことになる。
 僕はゆっくりと、しかし着実に怪物の真下へ移動した。窓と怪物との延長戦のちょうど交差点にくると、なるべく音を立てぬように軽くジャンプした。
 怪物の身体を掴み、天井から引き剥がす。そして床に着地すると同時に怪物ごと窓の外に跳び出る。床を蹴り飛ばした時、どんっという音がした。今が何時かわからないが下の住人には悪いことをしてしまった。
 前の道路に着地した。怪物はおとなしく、まるで毛布のように僕に掴まれたままだった。
 もしかしたら寝ぼけているのかもしれないと思ったが、部屋から道路まで難なく飛び降りている時点で僕は変身していることは明白だし、それならこいつは怪物なのだろう。
 怪物を掴んでいるところから例に漏れず黒いもやのようなものが流れ始めた。怪物は僕の腕にまとわりつくが、それは逆効果で怪物から流れ出るもやの量がどんどん増えていく。
 僕は怪物をしっかり捕まえたまま、ただ立っていた。
 三分ほどして、怪物は消滅した。
「しまった……」
 鍵を開けておくのを忘れた。この前は俊弥さんがおそらく運んでくれたが、今回はそうもいかない。
「一か八かで跳んでみるか」
 普通の状態の僕の跳躍力は平均より少し下だ。結果は明らかだが、こんな時間に管理人を呼び出すわけにもいかないし、朝まで待つのは避けたい。ダメもとで僕は自分の部屋のベランダに狙いを定め、大きく跳躍した。
 すると不思議なことに僕の体は軽々と宙へ跳び上がった。跳びすぎかもしれない。ひとつ上の部屋の住人のベランダに着地してしまった。
 夜だというのに洗濯物が干しっぱなしになっている部屋のベランダの手すりに手をかけ、僕は自分の部屋のベランダに降りた。
 こんなハリウッド映画の主人公みたいな真似が易々とできるということはまだ僕の変身が解けていないということだ。つまりそれはまだ近くに怪物がいるということを意味する。
 とりあえず僕は部屋に上がって鍵を開けた。鍵を持っていこうかと考えたが、この状態では服も曖昧なためポケットなど存在しないし、手に握っていると紛失したり、破壊してしまう可能性が高いのでやめた。
「さて、どこにいるのやら」
 僕はベランダに出て、そこから道路を見渡した。見る限り何もない。部屋の中を見てみたが、何の気配もない。暗闇の中から電灯のついた部屋を見るとこうも明るく見えるものなのかと思った。光に照らされて僕の影がベランダにくっきりと投影される。
「影?」
 そういえばこの姿に影は出来るのだろうか。存在自体が曖昧で、鏡にもその姿をはっきり捉えることが出来ないのに、影だけはこんなにくっきりと輪郭を現すのはおかしくないか?
 僕は道路に降り立ち、電灯の下へ走る。やはり影が出来ている。
 僕はゆっくりと影に手を添える。その瞬間、さきほどまでひっそりとしていた影が激しく暴れはじめた。しゅうしゅうと黒いもやが手を添えたところから流れ出はじめる。影が影から飛び出し、僕の前に立体となって姿を現した。
 それは僕だった。それも変身した僕だ。姿かたちははっきりとしないから断定はできないが、僕の動きに合わせて影も動く。いわば三次元の影だった。
 僕は影の懐へ飛び込み、足を払う。
 すると影も同じように僕の懐へ飛び込み、足払いをしかけてきた。
 お互いが、お互いに同じ技をしかけたため、足と足がぶつかり、お互いに体勢を崩す。
 鏡と少し違うのは左右対称じゃないところだ。僕が右足を動かすと怪物も右足を動かす。
「だけど所詮影だ」
 影は主の動きを完璧に真似することができるが、その周囲の環境は異なる。僕は体勢を立て直すついでに道路わきの生垣から石ころを掴む。怪物も同じ動作をするが、そこにはなにもない。ただ宙を掠めるだけだ。
 僕は怪物に狙いを定めると、石を放ち動くのをやめる。怪物も同じように何かを投げる動作をし、その場に立ちすくむ。怪物に向かって石が飛んでいくが、怪物からは何も飛んでこない。怪物の体を石が貫いた。僕の勝ちだ。こうやって徐々に怪物を削っていけば、いずれ消滅する。
 僕は生垣から枝を一本拝借し、怪物に近づいた。怪物も肩からもやをだしながら僕へ接近してくる。間合いに入ったところで僕は枝で怪物をまっぷたつに切り裂さこうと振りぬいた。
 その瞬間、僕は宙へ放り出されていた。何が起こったのか理解できず、そのまま地面に叩きつけられる。
 どうやら影も同じように放り出されたらしく、僕の前で、同じように倒れていた。
 突然腹に何かが巻きついた感覚がして、また体が宙に浮く。振り返ってみると、そこには大きなトカゲのような怪物がいた。熊のような大きさだ。あれは恐竜と言ってもさしつかえないのではないか。僕の体の自由を奪っているのは尻尾だったのだ。
 同時に二体怪物が現れるなんて異常だ。僕は俊弥さんの言葉を思い出した。たしかに今この街は何かがおかしい。
 影の怪物は宙に浮かんでいる。こいつは僕から攻撃しない限り放っておいても平気だ。もしかしたら今この状況だと大きな味方になるかもしれない。
 トカゲの怪物は尻尾をそのまま地面に叩きつける。鈍い衝撃を全身に感じ、コンクリートが割れる音がした。怪物はそのまま尻尾をまた宙に
 僕はコンクリートの破片を手に取り、尖った部分を尻尾に突き刺した。しかし思いのほか尻尾が固いようでコンクリートがぼろぼろと崩れるだけだった。
 怪物は馬鹿の二つ覚えのように、再び地面に僕を叩きつけた。影の怪物も同じように地面へ叩きつけられている。影の怪物の全身からはもやが出ていて、消滅も時間の問題だった。
 たださっきまでとは違うのは、影の怪物はコンクリートの破片を握っていた。叩きつけられるタイミングで影の怪物にコンクリート片を握らせたのだ。
 僕からはトカゲの怪物の背中しか見えないが、影の怪物はちょうどトカゲの怪物の真正面にいる。
 よくタイミングを計って、僕は思いきり何かを投げる動作をした。影の怪物からコンクリート片が勢いよく投げ放たれる。
 コンクリート片が何かにぶつかる音がして、尻尾の巻きつけが緩んだ。その隙を逃さず思いきりできた隙間を広げて、尻尾の呪縛から逃れ地面に着地する。
 影の怪物は宙でもがく動きをして、同じように地面に降り立った。影の怪物が投げたコンクリート片は上手くトカゲの怪物の目に当たったようだ。
 トカゲの怪物の方向を見ると尻尾が迫ってきたので後ろへ飛び退いて避ける。鞭のように襲いくる尻尾の連撃を掻い潜って、怪物の横っ腹に拳を叩き込む。反対側からは影の怪物の拳がトカゲの怪物の横っ腹を襲う。
 左右両側から攻撃を喰らい、トカゲの怪物は少し宙に浮かび上がって、地面に倒れこんだ。僕と影の怪物は拳を休めることなく連続で拳を叩き込み続ける。
 やがてトカゲの怪物の体から黒いもやが出てきた。これでトドメと、僕は思いっきり踏込み、全力の拳を撃ちこむ。
 トカゲの怪物は僕と反対側へ吹き飛ばされた。見てみると影の怪物はもうその原型をとどめておらず、踏み込んでいたであろう下半身だけが微かに残っていた。
 トカゲの怪物が吹き飛んだところは貸し駐車場だった。幸い車は止まっておらず、トカゲの怪物は黒いもやに包まれながら仕切り線に中に丁度納まって横たわっていた。
 とどめを刺そうとトカゲの怪物の上に乗り、拳を振り上げた。影の怪物も同じようにトカゲの怪物の上に乗ったが、僕が拳を振り上げた時、その姿は闇に溶けて消えた。
 僕は振り上げた拳を下し、怪物から降りた。怪物が消えるのも時間の問題だろう。
 僕は怪物から遠ざかると、マンションへ戻り、鍵のかかっていない扉を開け、自分の部屋に入った。そしてそのまま布団にもぐりこみ、電気を消して目を瞑った。

 朝、目が覚めた時僕は変身していなかったので、怪物は無事消滅したのだろう。しかしまさか一晩で三体の怪物と闘うことになるとは思いもしなかった。うち二体は害のない怪物だったから良かったものの、もし狂暴な怪物ばかりだったらと思うと背筋が凍る思いがする。
 どうも最近変だ。登校中そのことばかり考えていたら、電話が鳴った。
「はい、もしもし」
「もしもし。俺だよ」
 俊弥さんだ。丁度良かった。聞きたいことがあったんだ。
「俊弥さんですよね。すいません、聞きたいことがあるんですけど」
「そうなんだ?じゃあ今日の昼休み体育館裏に来てくれ」
 そこまで言うと俊弥さんは電話を切ってしまった。相変わらず自由な人だ。
 教室に入ると北白川さんの姿が目に入った。なぜか北白川さんと目が合った。顔が熱くなる。昨日の話を思い出したからだろうか。
「おはよう、北白川さん」
「小倉君、おはよう」
 いつもの挨拶。でも心なしかいつもより親しげな気がする。僕は心の中で三条粟生の言葉を反芻していた。「誰よりも一番近い」
「映画の件だけど、試験が終わってからしようか」
「そうだね」
 本当なら今すぐにでも行きたい。試験なんかどうでもいい。でもがつがつしてしまってはだめだ。嫌われてしまうかもしれない。はやる気持ちを抑えて僕は「それじゃあ」と言い、前を向く。
 だめだ。もっと近くに行かなければ。
「あ、あのさ」
 振り向いて、声をかける。
「どうしたの?」
 少し驚いた、でも面白そうな顔をして北白川さんは僕を見た。
「北白川さんがいっつも買ってるあんぱんって、三条ベーカリーのパン?」
 ああ、なんで僕の会話は下手なんだろう。他にももっと話すことがあるだろうに。
「うん。あそこのあんぱん美味しくて好きなんだっ」
 意外にも北白川さんはいつもより少し浮き立った声で答えた。そんなにあんぱんが好きなのか。
「私毎朝そこで買ってるんだ」
「そういえば毎日あんぱん食べてるね」
「流石に土日は食べてないよ?」
 こんなに朗らかな会話を広げたのは初めてかもしれない。これから北白川さんと話すときはあんぱんの話題を出すことにしよう。
 そんなこんなでこの朝は北白川さんと会話をして終わった。なんか昨日のことで色々憑き物が落ちた気がする。
 
 昼休み、僕は俊弥さんに呼び出された場所である体育館裏へ向かった。体育館ではバスケット部やバトミントン部が練習をしているようで、賑やかな掛け声がここにも聞こえてくる。
 僕が着いた時、俊弥さんはすでに体育館裏に来ていた。
「やあ」
 俊弥さんは焼きそばパンを食べていた。三条ベーカリーのものではなくコンビニで売っているものだ。
「こんにちは。実は僕も俊弥さんに話があったんです」
「そうなの?じゃあ先に小倉君から話して」
 焼きそばパンをもぐもぐと頬張りながら、俊弥さんは僕に座るよう促した。
 僕は階段に座った。俊弥さんはまだ焼きそばパンを食べていたが、僕は気にせず話をすることにした。
「昨日、三体の怪物に同時に遭遇したんです。しかもうち二体は僕の部屋の中に侵入していました」
 焼きそばパンを食べる俊弥さんの表情に変化は見えない。
「俊弥さんが言っていた通り、やっぱりここ最近のこの街は何か変です。闇が満ちているっていうか」
 俊弥さんは焼きそばパンを食べ終わった。包み紙を丸めてポケットにしまう。
「話ってそれだけ?」
「はい」
「うーん。思っていた以上に鈍いんだね小倉君って。だからあいつとやっていけているのかな」
「……すいません」
 最近色々な人にお前は鈍いと言われ続けているような気がする。そこまで鈍い自覚はないんだけどな……。
「まあいいや。俺の話をするね。映画の話だけど、誘った?」
「へ?」
 どんな話がくるのかと身構えていた僕はその全く無関係の話に拍子抜けしてしまう。
「いや、その映画もうすぐ配給終了なんだよね。だから早めに見に行ってもらわないと困るんだよなあ」
「一応試験が終わったら行こうって約束はしましたけど」
「それじゃあ遅い」
 俊弥さんは手を振ってだめだだめだと言った。
「今日ないしは明日行ってきて。試験なんてたいしたことじゃないでしょ」
「今日か明日ですか……」
 全く持ってこの人はいつもいつも急だ。それに試験の方が映画より重要だと思うのだけど、俊弥さんのような優秀な人にはわからないのだろう。
「うん。よろしくね。……言ったでしょ?任せたって」
 そう言って僕の顔を見る俊弥さんの表情に一瞬影がさした気がした。
「……わかりました」
 僕がそう答えるのを聞くと、俊弥さんは満足そうな顔をして体育館裏を去って行った。
 意外に早くお終わったため、僕も教室へ戻って昼ご飯を食べることにした。
 教室へ戻ると、昼ご飯を食べ終え、黙々と本を読んでいる北白川さんを見つけた。蛸薬師はもう食べ終わったのか机に突っ伏して寝ている。
 僕は自分の席に着き、ビニール袋からコンビニで買ってきたおにぎりを出した。昼休みはあと十五分。さっさと食べて北白川さんに映画の件を切り出さねば。
 僕はおにぎり二つをお茶で流し込みながら、三分で食事を終えた。そしてそのまま振り向いて、北白川さんに話しかけた。
「ちょっといい?」
「ん?いいよ」
 北白川さんは読んでいた本を閉じ、両肘を机の上に置き身を乗り出した。
「どうしたの?」
 近い。昨日三条粟生が言ってたような精神的な近さじゃなくて、物質的な意味で僕と北白川さんの距離はすごく近かった。三十センチも無いのではないだろうか。北白川さんから甘い、良い香りがする気がする。こんなに正面から見て、僕の顔が真っ赤になってないだろうか。
「映画のことでさ」
 心なしか声が小さくなる。他人に聞かれるのは気恥ずかしいものがある。
「試験終わってから行こうって言ったんだけど、実はその映画自体がもうすぐ上映終わるみたいでさ。北白川さんさえ良かったら今日か明日行こうと思うんだけど大丈夫?試験前にこんなこと言って悪いんだけど」
 真面目な北白川さんのことだ。試験前に誘ったことで僕はてっきり断られるものだと思っていたが、北白川さんはふむふむと頷いて、
「じゃあ、今日行こう?」と言った。
「本当に?」
 嬉しさのあまり声が上ずってしまう。
「うん。小倉君は大丈夫?」
「全然大丈夫だよ。今からでも行ける」
「小倉君って結構冗談とか言えるんだね。じゃあ今日の放課後、一緒に行こう?」
 北白川さんが微笑みながら握手を求める仕草で、手を伸ばしてきた。
「う、うん」
 僕はそれをおそるおそる、繊細なガラス細工を触るように握り返す。うわ、小さい。こんなに小さいんだ。北白川さんの熱を感じる。
 その時予鈴が鳴った。もうそんなに時間がたったのか。おかしいな。楽しい時間ってこんなに早く過ぎるものなのか。
「次、移動教室だよ」
 北白川さんに言われ、僕ははっとして手を離した。一瞬北白川さんの手のひらが黒く見えたが、次の瞬間にはいつものすべすべとした桃色の手のひらに戻っていた。

 放課後、僕は北白川さんと一緒に教室を出た。あれから一日の授業が終わるまで心臓がばくばくいっていて、内容もあまり頭に入ってこなかった。十分に一回、放課後のことを思い出し頬を緩ませ、そして明日の約束にして色々下見とかプランとかみっちり考えてこればよかったと激しく後悔する。そんなことを繰り返した。
 そして今、その放課後である。隣には北白川さん。周囲からは嫉妬と羨望の視線が降り注がれている気がする。なんていったってあの北白川さんなのだ。
 以前三条粟生と帰宅したことがあったが、あの時はこんなに気分が浮き立ったりしなかった。疑問ばかりが頭の中を駆け巡っていたように思える。しかし今は違う。全身に力が満ち溢れている。光に包まれている気分だ。
 僕たちは校門を出て、映画館のある繁華街へ向かった。学校帰りに遊びによっていけないという学校は結構あるらしいけど、うちの高校はそういった校則はなく非常に自由な学校なので問題ない。だが制服で、しかも隣に女の子を連れて繁華街を歩くというのは初めての経験だったのでいつもの繁華街がいっそう違ったものに見える。
 途中で繁華街にある三条ベーカリーが見えたので今朝のようにあんぱんなどの話をして盛り上がる。
「私あのあんぱんの味は絶対忘れないと思うな」と、北白川さんは本当においしそうにあんぱんについて語っていた。

 映画館は平日の夕方ということもあって、閑散としていた。大学生カップルや、年配の方たちがちらほらといるだけで、休日の遊園地のような映画館のイメージが先行していた僕は少し感動した。
「映画なんて見るの何年振りだろう」
 ふとそう呟いた僕のことを見て北白川さんは、
「私も。久しぶりだから楽しみ」と言ってくれた。やっぱり優しいな。試験前なのに嫌がることなく誘いに応じてくれるし、僕の拙い冗談にも笑ってくれる。
 チケット売り場で席を指定し、売店でジュースを買う。映画館のジュースなんて高いもの一生買うことはないと思っていたけど、隣に北白川さんがいればそんなささいな値段など一切気にならなくなってしまう。ポップコーンも買おうと思ったのだが、北白川さんはしょっぱいものが苦手らしく、遠慮して僕も買うのをやめた。
「始まるね」
 席に着き、機械音がしてシアターが暗くなると北白川さんはわくわくしながらそう言った。僕は大きくうなずいて北白川さんに同意した。
 最初はこれから公開予定の映画の宣伝が流れていた。人気漫画原作のアニメ映画や、ハリウッド超大作と銘打ったアクションもの、はてやノンフィクションのハートフルストーリーなど、まるでいくつもの異なる世界が映画館に存在しているかのようだった。
 僕も北白川さんも全く違う世界を見ているのだろう。本来なら決して交わることのない、あの入学式の朝一言声をかわしただけで終わっていたかもしれなかった。
 それなのに僕と北白川さんはその一年後同じクラスの前後の席になって、さらに今んこの瞬間二人は並んで座って、同じ世界を見ている。これを奇跡と言うのだろうか。僕はただただ感動していた。
 映画の撮影、無断アップロード、ダウンロードは違法ですといった、ビデオカメラにふんする男がコミカルな動きをする、何年も前から流れている注意喚起の映像が流れた後、映画本編の上映が始まった。
 映画の内容は至極単純なものだった。
 悪魔によって恐ろしい化け物に変身させられてしまったヒロインを、ヒロインに恋していた主人公が助けるといったありがちなストーリーであった。だがヒロインが悪魔によって怪物に変えられてしまうまでが凝ったつくりになっていた。主人公は突然いなくなったヒロインを探すが、見つからない。彼女は死んだのだと周りに言い聞かされ、一時は廃人のようになってしまう主人公。しかしある日怪物となったヒロインの気配を森の中で感じ取り、生きていることを確信し復活した主人公が良い魔法使いの力を借りて悪魔を滅ぼすといった風に終わった。だが悪魔を倒したところで映画は終わっており、続編でもあるのかその後の二人の様子は描かれなかった。
 映像は美しく、時折ミュージカルのような仕立てになっており、なるほど人気があるのも頷けるといったものだった。

「面白かったね」
 映画が終わりシアターが明るくなって、北白川さんは開口一番にそう言った。僕もそう思うと返したが、何故俊弥さんがこの映画を選んだのかがいまいち腑に落ちなかった。だが北白川さんの笑顔を見ていたら、そんなことどうでもよくなったので考えるのをやめた。
「この後ご飯でも食べていく?」
 図々しいと思ったがこんなチャンスは滅多にないと、僕は北白川さんをご飯に誘うことにした。優しい北白川さんは二つ返事で了承してくれた。
 最初お洒落なお店を探していたが、どれも僕の財布では太刀打ちできるようなものでは
なく、敷居が高く感じたので結局いつものファミレスに行くことになった。蛸薬師がいる可能性もあるが、あいつは空気を読んで気配を消しておいてくれるだろうと信じることにした。
ファミレスではさっき見た映画の内容や、試験について話した。北白川さんはやっぱり真面目なのか、それとも優しいからなのか試験勉強はほとんど終わっているからと言っていた。
 食事を終え、ファミレスを出ていつかのようにカップルの聖地である河原を北白川さんと歩いた。北白川さんの一言一言が僕の体中に沁みて、僕に活力を与えた。
 
十一
 もうここまで来ちゃったか……。
 時間とは早く過ぎるもので、気が付いたら公園まで来ていた。例によって北白川さんはここまででいいと言ったので、公園で別れることとなってしまった。
「じゃあ、ここで」
「おやすみなさい。小倉君、今日はありがと。本当に楽しかったよ」
「本当?そう言ってもらえると嬉しいな」
「本当だよ」
「ありがとう。じゃあ気を付けてね。おやすみ」
「うん。おやすみなさい。また明日ね」  
そう言って北白川さんは去って行った。
僕もなんだかどっと疲れたのですぐ家に帰ることにした。でもこの疲れが愛おしい。欲を言えばもう少し頑張りたかったけど、僕にしては上出来だろう。
その時携帯が鳴った。まさかと思ってすぐに着信を見ると、公衆電話からだった。
「はい、もしもし」
 慌てて電話に出ると、電話の主はやはり北白川さんだった。
「もしもし。私です。わかるかな?」
「わかるよ。前もあったし。どうしたの?」
 北白川さんの声をすごい近くで感じる。そうか、電話って耳元でお互い囁き合っているようなものなんだ。そう思ったら急にどきどきしてきた。今日だけで僕の心臓は三日分くらい動いている気がする。
「ちょっと、言い残したことがあって……」
「何?」
「あのね」
 受話器から深呼吸する音が聞こえる。
「今日は本当に楽しかった。本当にありがとう。小倉君」
「さっき聞いたよ?」
 すると北白川さんは少し笑って、
「私忘れないから、今日のこと。絶対に忘れない」と言った。
 その言葉を聞いた瞬間僕の血液は体中を目まぐるしいスピードで駆け巡った。僕じゃないみたいだ。すごい力強く感じる。
「……僕も言い残したことがあった」
「何?」
「僕は北白川さんのことが好きだ」
「……」
 北白川さんは無言だ。
「ありがと。嬉しい」
 その言葉で僕の胸の高まりはすうっと引いて行った。とんでもないことを言ってしまったという思いが強かった。なんとか言い訳しようかと思った時、キャッチが入った。
「じゃ、じゃあ、ありがと。おやすみ」
 僕はそう言って一方的に電話を切った。キャッチに出る。
「はいもしもし」
「最近小倉君と電話してばっかりな気がするね」
 電話の主は俊弥さんだった。言葉はのんきな気がするが少し焦っているような気がした。
「デートは上手くいったみたいだね。やっぱり小倉君に任せて正解だったかな」
「なんでそのことを知っているんですか?」
 まさかどこかで見ているのか?辺りを見渡すが誰もいない。
「まあね。それで少し急ぎなんだけど、今から言う場所に来てくれる?」
 俊弥さんはさっき僕と北白川さんが歩いた川の上流を指定した。
「色々疑問はあるかもしれないけど、来ればわかるから。あと、途中で何があっても無視して全速力でこっちに来てくれ。結構一大事なんだ」
 そう言って僕の返事を待たず俊弥さんは電話を切った。何か激しい音が後ろで聞こえた気がする。
 俊弥さんが僕に助けを求めるとしたら何があるだろう。一つしかない。怪物だ。
 僕はさっきの衝動的告白のことを忘れ、一目散に駆け出した。
 水路まで来た。ここを上流に沿って行けば指定された場所に出る。あの公園の端を通ることになる道だ。僕は全速力で走った。
 どんどん僕の走る速度が上がっていった。景色がすごい勢いで流れていく。
 すると突然目の前に大きな壁が現れた。僕は一瞬で確信した。怪物だ。怪物は妖怪のぬりかべのようなものだった。相手をしようと拳を握りしめたが、俊弥さんの言葉を思い出し、走る勢いを止めず、そのまま怪物の体を駆け上がった。
 怪物を飛び越え、後ろを振り向くことなく全速力で河原へ向かう。いつもの僕なら考えられないことだ。遭遇した怪物を無視するなんて。
 その後も次々と怪物に出くわした。途中で見つけた蛾のような姿をした二体は人が近くにいたので一瞬で背後にまわり、羽根をむしり取って戦闘不能にしそこを後にした。
 電話を受けてから約五分で僕は河原に着いた。普通なら自転車で十分はかかる距離だ。ここまで長い距離変身を保っていたのは珍しい。それだけあちこちに怪物がいるということだ。
 僕は俊弥さんの姿を探したが、すぐに見つかった。大きな水柱が川の真ん中から立ち上がっていたのだ。
「俊弥さんっ」
 僕は水柱の上がった場所へ飛び込む。川はそこまで深くない。下半身が水につかるくらいだ。しかし流れは結構速く、油断していると今の僕でも足をとられてしまうかもしれない。
「ありがとう。来てくれたか」
 声のした方向に目をやると、俊弥さんがいた。足元にはネッシーのような怪物が首を切断された形で横たわっているのが見えた。黒いもやが水に溶けて急速に消えていく。
「はい。この状況は……」
 どうなっているんですか。と聞こうとして、僕は言葉が止まった。俊弥さんの右腕が無くなっていた。よく見ると腹にも穴があいている。体から白いもやが流れ出ていた。
「いや、これの展開は予想通りなんだけどね。規模がちと予想外だった」
 まいったまいった、と俊弥さんは何事もないように喋った。
「だ、大丈夫なんですか?それ」
 僕は俊弥さんの体を指さす。
「ああ、これ?」
 俊弥さんは抉られた右肩を左手でさすった。
「大丈夫だよ。変身してるから。小倉君が助けてくれるしね」
 そう言って俊弥さんは僕に向かって手を差し伸べた。
「何を?」
「握手」
 俊弥さんは左手で僕の右手を掴んで無理やり握手をさせる。俊弥さんの手を握った途端、力が流れていく感覚がした。
「うん。ひとまずはこれでいいっか」
 見ると俊弥さんの腹に空いた風穴がふさがっていた。だが右腕はあいかわらず無くなったままだった。白いもやは出ていなかった。
「何をしたんですか?」
「この前君が死にそうだった時俺がやったことだよ。力を分けてもらったんだ。見たところ小倉君は力に満ち溢れているようだったしね」
「それならなんで右腕も治さないんですか」
「右腕も治すとなると小倉君の力も相当削っちゃうからね。とりあえずの応急処置だからこれでいいんだ。……っとお話してる時間は無いみたいだ」
 俊弥さんが向こう岸に視線をやった。つられて僕も見る。そこには昨日見たようなトカゲの怪物一体と、羽の生えたピラニアみたいな怪物が数十体飛んでいた。
「さっきからこんなんばっかだよ。嫌になるね」
 俊弥さんはやれやれと首を鳴らした。僕は足元から石を急いでかき集める。
「だめだよ石は投げちゃ」
 石を構えたら俊弥さんに止められた。
「なんでですか?」
「見てみな」
 俊弥さんが指さした方向は対岸だった。そこでは大学生たちと思われる若者たちがビニールシートをしいて酒盛りをしていた。
「……」
 僕は石を下へ落とす。
「でもどうするんですか?あんな数の怪物」
 トカゲの怪物が水流をかき分けて、僕たちの方へ迫ってくる。ピラニアの怪物は宙に待機したままだ。一斉に襲いかかってきそうな嫌な空気を醸し出している。
「大丈夫。飛ぶ魚の方は任せて。トカゲを頼むよ」
 そう言って俊弥さんは左手を水に浸した。僕はトカゲの怪物に向かって飛びかかった。
 先手必勝と怪物に一打加えて気が付いた。これは昨日の怪物だ。まさかあれから回復したのか。傷ついた怪物は普通復活などしない。つまり闇が相当満ちている証拠だ。
 怪物は二メートルほど後ろに吹き飛ばされるが、すぐに体勢を立て直し、尻尾を振り回した。水飛沫を立て、尻尾が僕に迫る。僕は尻尾を避けずに真正面から受け止め、思い切り引っ張った。怪物は呆気なく横倒しになり、水流に揉まれ身動きが取れなくなる。
 僕は大きな岩を抱え、怪物に叩きつけた。大きな音と激しい水飛沫を立て、怪物は消滅した。
「やるねえ」
 俊弥さんが呑気な声をかけたその瞬間、ピラニアの怪物たちが一斉に襲いかかってきた。
 俊弥さんは少しもひるむことなく、水に浸した左手を目にもとまらぬスピードで振った。
 水飛沫がまるで弾丸のように怪物たちを襲い、着実にその体を打ち抜いていく。一匹だけその散弾から逃れた怪物がいたが、俊弥さんの手によって叩き落とされ消滅した。
 対岸から、冷てえと大学生たちが騒ぐ声が聞こえた。どうやらあの水の弾丸は少ししか威力を保てないらしい。
「数だけの雑魚はこれで倒せるよ。問題は……」
 背後に寒気を感じて振り向くと、そこには象よりも大きな野犬のような怪物がいた。しかも一体ではなく、十数体はいた。
「数も多い強敵ってのは骨が折れる」
 俊弥さんは大きくため息をついて、怪物たちの群れに飛び込んでいく。それに呼応するかのように怪物たちも一斉に襲いかかった。僕も遅れて飛び込んでいった。

 圧倒的だった。
 俊弥さんは次から次へと怪物を倒していった。僕が川の流れを利用し、怪物の攻撃をかわしながら投石や水鉄砲で怪物の動きを封じ、慎重に一体づつ倒していくのに対し、俊弥さんは陸上で一撃で怪物たちを次々と戦闘不能に追い込んでいった。ただその荒々しい戦い方のおかげで、怪物たちが消滅するころには俊弥さんの体中から白いもやが絶え間なく流れ出ていた。
「大丈夫ですかっ」
 僕は俊弥さんに近づいて、手を握ろうとした。しかし俊弥さんはそれを制止した。
「また来るよ」
 
 そこからは絶え間ない戦いの連続だった。いったいどれくらい戦っていたのだろう。ぬりかべの怪物を倒し終わった時、もはや対岸に大学生たちはいなかった。
「今ので最後ですかね」
 俊弥さんも僕ももうボロボロだった。俊弥さんから流れ出る白いもやの量は尋常じゃないものとなっており、まるでドライアイスをぶちまけたかのようになっていた。僕は僕で左手首から先は怪物に食いちぎられ、全身、特に背中から力が流れ出てしまっていた。
 互いに満身創痍だった。
「いや、まだ変身が解けてないってことはだ。終わってないよ」
 その言葉の通り、暗闇の中から怪物の気配が感じ取られた。
「……」
 暗闇から現れた怪物を見て、ここにきて俊弥さんは初めて驚いたような顔を見せた。絶句している。
現われた怪物は一人の少女の形をしていた。
「……哀」
 俊弥さんは掠れた声でそう呟いた。
「知り合いですか?」
 今は非常事態だ。気を使っている余裕は僕にない。
「いや、人違いだ。というより怪物が俺の知り合いだった奴に化けてるだけだ」
 汗なんか出るはずないのに、俊弥さんは額を拭った。
「俺がやる」
 俊弥さんはそう言い残すとどこにそんな力が残っていたんだというような目にもとまらぬスピードで怪物に向かって駆ける。
 怪物の目の前に立ち、俊弥さんは拳を振り上げた。
「……」
 怪物の口が動いた。何を言ったのかわからないが、それを聞いて俊弥さんの動きが一瞬止まった。怪物はその隙を見逃さなかった。怪物の手のひらが光ったのが見えた。
「俊弥さんっ」
 僕の叫びが届く前に、俊弥さんは怪物の一撃を受けて地に伏した。
 僕はすぐに俊弥さんと怪物の下へ向かう。怪物は一見するとただの少女にしか見えなかった。だが僕は躊躇せず、足払いを放ち怪物の体勢を崩した。
 僕は怪物の上に乗りかかり、四肢の動きを封じる。はやく倒さないと俊弥さんが危ない。拳を握りこみ、怪物に振り下ろそうとした時、怪物の顔が変わった。
「私を見捨てるの?」
怪物は北白川さんになっていた。僕は思い出した。これはあの水路の公園の時の怪物と同じだ。悪意が混在している。
「助けて……」
 怪物が北白川さんの声色をまねて懇願する。僕はもうその手には乗らない。握りしめた拳をそのまま怪物の顔面に思いきり撃ち込んだ。

「大丈夫ですか?」
 大の字に倒れた俊弥さんに声をかけると、俊弥さんは力なく右手を挙げた。
あの怪物が最後だったのだろう。怪物の消滅とともに変身が解け、異様な空気は去った。
というより、あの怪物は最後まで隠れていたのだ。僕たちが弱まるその瞬間まで、闇を隠れ蓑にしその悪意を覆っていたのだ。
「ありがとう。頭の中ではわかってるけどつい油断しちゃってね」
 なんとか起き上がろうとする俊弥さんを支える。
「なんだったんですか。あれは」
 俊弥さんの顔が曇った。
「君にはちゃんと話しておかないといけないな」
 俊弥さんは星空を見上げ、語り始めた。
 
 二年前、俊弥さんが高校へ入学したばかりの頃。俊弥さんは今のようにプレイボーイっぷりを発揮していて、華やかな日々を送っていた。
 ある日、女の子に会いに他のクラスへ行くと、そこに一人の少女がいた。俊弥さんのタイプの明るく快活な雰囲気ではなく、どちらかというと暗めな少女だったが、俊弥さんは一目見て、胸の高まりを覚えた。一目惚れと言うやつだ。
 そこからはプレイボーイ俊弥さんだ。もうアタックの末、めでたく二人は付き合うことになった。その間俊弥さんは他の女の子には一切目もくれなかったというから、今とは別人である。
 勿論その時も俊弥さんは変身して怪物たちと戦っていた。だが最近になってその異常さに気が付く。怪物たちの数が多いのだ。だがそんなこともあるだろうと俊弥さんは気にせずせっせと怪物退治に励んでいた。
 俊弥さんと少女の関係は良好だった。
 そしてある日、驚くことに俊弥さんは高校一年生にしてその少女にプロポーズしたのだ。
 こいつしかいないと思ったそうだ。少女はその提案を婚約という形で了承した。
 その日の夜怪物が大発生した。丁度今夜のように。
 俊弥さんは戦った。そして怪物が出現しなくなるまで狩り尽くした。当時から相当強かったのだろう。
 戦い終わって、俊弥さんは少女からの電話を受けた。話があるから今すぐ会いたいというものだった。
 そこで少女から打ち明けられた話は残酷なものだった。
 怪物の異常発生、狂暴化の原因は少女に有った。少女は闇をため込み、増幅するといった力の持ち主だったのだ。
 その力を除いたら少女は普通の人間だった。だがその力なしに、闇なしに少女はこの世界に存在することができなかった。
 少女は言った。たまたま自分は生まれた時からこの力のことをよく理解していた。大抵の人は理解しないまま一生を終えると。
少女の存在の要である闇は、少女にとって嬉しいこと、つまり闇と反対の性質を持つ光が生じた時、押し出されてこの世界に怪物となって現われるのだと言う。日常生活でその 闇が全て押し出されることはないが、俊弥さんのプロポーズは想像以上の光に満ちていて、少女の中にある闇は全て外へ出てしまった。
 そしてその闇は俊弥さんの手によって全て葬り去られた。
 少女には消滅する以外の道はなかった。
 俊弥さんは泣いた。初めて人前で泣いた。
 泣いて後悔する俊弥さんを前にして、少女は礼を言った。自身が闇を産みだすとわかっていても何もできないことが苦しかった。最後に光に満ちて消えるならそれがいいと。
 そして今後も少女のような人が現れた時、同じように消し去ってほしいと頼まれた。自覚がなくともいずれ苦しむことになる。それならそうなる前に消し去って欲しい、少女のような人が現れないように。
 そう言って少女は消えた。俊弥さんの目の前から。
「これで全部だよ」
 二年前、たしかに怪物たちが多かった記憶はあるがそこまで異常に感じたことはなかった。そんなことが起きていたのか。
「生活圏内が違うからね。基本は主とその関係者の周りで怪物は発生するらしい」
「でもなんでそんな話を僕に?」
「まだわからない?君は今日何をしてきた?」
「今日って……」
 まさか。そんな馬鹿な。
 僕は俊弥さんの目を見た。俊弥さんは目をそむけて重苦しそうに言葉を紡ぐ。
「御影ちゃんだよ」

 僕は走り出そうとした。だが俊弥さんに止められた。
「離してくださいっ」
「もう遅いよ。それに見ない方がいい」
「うるさいっ。離せって言ってんだろっ」
 俊弥さんの手を振り払って僕は北白川さんと別れた公園へ走る。俊弥さんが何かを叫んだような気がしたが、無視した。

 公園はひっそりとしていた。電話をかけようにも北白川さんは携帯を持っていない。僕は彼女の住所も知らない。くそ。あの時無理言ってでも家まで送っていくべきだった。
 僕はいてもたってもいられず街中を探し回った。

 翌日。僕は学校に一番乗りで来ていた。満身創痍だった。あの後俊弥さんから何度も電話がかかってきたがすべて無視した。鬱陶しかったが北白川さんからの電話があるかもしれないから電源は切らなかった。
 北白川さんが消えるわけない。いつも通り朝登校してきていつも通りの挨拶と拙い会話をするはずだ。だって言ってたじゃないか。また明日って。
 教室に一人一人と、クラスメイトが登校してくる。まだこの時間には来ていないのだろう。多分あともう少ししたら来るはずだ。
 教室の生徒も半分以上が登校してきた。
北白川さんはまだ来ない。もうすぐ来るさ。
僕が登校する時間になった。
北白川さんはまだいない。もしかしたら遅刻したのかもしれない。
始業ギリギリになって蛸薬師が登校してきた。
 ホームルームが始まった。北白川さんは来なかった。もしかして風邪だろうか。
 ホームルームが終わり、僕は担任に北白川さんのことを聞こうと席を立ったその時、後ろの席、つまり北白川さんの席に他の人が座っているのを見た。
 同じクラスの男子だった。あんまり話したことのない。どちらかというと不良気味のやつだった。
「ねえ、君ってそこの席だったっけ?」
「はあ?最初っから俺ここじゃん。どうしたんだよ」
 違うそこは北白川さんの席だ。こいつは僕をからかっているのか?だがそんな様子にも見えないので、無視して教室を出ようとする担任の下へ向かった。
「先生!」
「おお、小倉どうした?」
「あの、北白川さんって今日休みなんですか?」
「北白川?すまんが他のクラスの生徒のことはわかりかねるよ。その北白川とかいう生徒の担任に聞いてくれ」
 担任はいぶかしげな顔をして職員室へと去って行った。
「どうした?今日変だぞ」
 蛸薬師が後ろから声をかけてきた。そうだ。こいつなら知っているはずだ。
「なあ北白川さんどうなったか知らないか?」
「ん?北白川?そんなやつうちの学校にいたっけ?」
「お前まで冗談言うなよ。北白川さんだよ。北白川御影。知ってるだろ?」
「んん。ごめん。本当に知らない。あれかもしかしてアニメとかのキャラか?でもお前ってアニメとか一切見なかったよな」
 蛸薬師は本当に知らない顔をしていた。嘘だ。
「今度そのアニメ教えてくれよ。……ってどこ行くんだ。授業始まるぞ」 
僕は蛸薬師の制止を振り切り、図書館へ行って生徒名簿を調べた。その後も色々調べて回ったが、北白川御影という人間が存在していた痕跡が一つも見つからなかった。
絶望と混乱の淵に立たされた僕が一旦教室に戻るとそこには俊弥さんがいた。
蛸薬師がすごい形相で睨んでいる。
「良かった。電話に出ないから心配してたんだ。話がまだあるんだ」
「おい、変なこと吹き込むなよ」
 蛸薬師が突っかかろうとするのを僕は止めた。
「いいんだ。大丈夫だから」
 蛸薬師は呆気にとられて僕たちを見ていた。
 大体育館裏、そこに俊弥さんは僕を連れてきた。
「悪かった」
 俊弥さんは体育館裏に着くなり僕に土下座した。その憎たらしい頭を踏みつぶしてやりたい衝動に駆られたが、頭を上げた俊弥さんの悲壮な表情を見て思い留まった。俊弥さんも辛いのだ。少女の遺言を実行して自身も傷ついている。
「もういいです。で、話ってなんですか」
「ああ、これは最後に哀が言い残していったことなんだが」
 俊弥さんは地面に座り込んだまま話を続けた。
「闇を背負った人間は稀に復活して、今度は普通の人間としてどこかに転生してくるらしい。……勿論前世に関する全ての記憶は失っているが」
「気休めにしかならないと思うし、これは言い訳にもならない。だが許してくれ。俺は哀の想いを守りたかったんだ」
 俊弥さんは濁りの無いまっすぐな目で僕を見つめる。そんなことを言われたら許すしかないじゃないか。でも……。
「俊弥さんの気持ちは痛いほど理解しました。でも僕はあなたを許せません」
「……それでいい。本当に悪かった」
 そういって俊弥さんは体育館裏を去った。ボールの跳ねる音と掛け声だけが体育館裏に聞こえてきていた。

 試験も終わり本格的に夏が始まった。
 今まで夜になると感じていた冷気さえも高気圧によって吹き飛ばされてしまったかのように、蒸し暑い夜が続く。
 日はじりじりと地面を照らし、セミが活発に鳴いている。
 怪物もめっきり見なくなった。いつも通りに戻ったといえばそうなのだけど、北白川さんがいない。そんな夏に意味はなかった。
 僕だっていつまでも引きずっているわけにはいかないことはわかっている。でも空を見上げて、「この同じ空の下に君がいる」なんて納得の仕方ができるほど大人じゃない。
 結局僕は何のために戦っていたのだろうか。好きな子を消滅させてしまったのは僕だ。あそこで怪物を見逃していればよかったんだ。何度そう思っただろう。
 今日も水面はきらきらと輝いている。最近眠れない僕にはなかなか殺人的な乱反射だ。
「こんにちは」
 声のした方を向くと三条粟生がいた。三条ベーカリーの袋を持っている。
「蛸薬師先輩が最近いつもここにいるって言ってたの聞いたので。最近元気ないみたいなので。差し入れです」
 渡された袋を開けるとなかにはあんぱんが入っていた。
「うちってつぶあんしか作ってないんですよ。なんかつぶあんぱんは奇跡のパンだそうで。不思議伝説ですね」
 三条粟生は夏の似合う笑顔を見せる。
「そういえば、なんで私たち知り合いなんでしょうね。それも不思議ですよね」
 こめかみに指を当てて考え込んでから、三条粟生は時計を見てはっとした。
「いけない。私用事あるんでした。ではっ」
 そう言って三条粟生は去って行った。
 結局北白川さんに関する記憶が僕と俊弥さん以外からすっぽりと抜け落ちているようだった。そのため今みたいに記憶の整合性の合わないことに首をかしげている人もいる。蛸薬師と三条粟生のことだが。
「奇跡のパンね……」
 あんぱんを食べながら僕は目を瞑った。

十二
 衣替えも済み、爽やかな秋になった教室に担任が入ってきた。
「いきなりですが転校生を紹介します。入って」
 僕は教室の入り口を注視した。そこに入ってきたのは……。
「―――――です。親の仕事の関係で転校してきました。よろしくお願いします」
 もちろん北白川さんなどではなく、ただの男の転校生だった。自己紹介も頭に入らない。 
 常識的に考えればそんな都合のいいストーリーなどあるはずがないのだ。
 僕が彼女を殺した。直接ではないが、真綿で絞めるように彼女の命を削り取っていったのは他ならぬ僕自身だった。
 全て僕の責任だ。
 何も考えず、ただ役目だと言い聞かせて人形のように生きてきた。夢も目標もなく生きる人間に希望などあるはずがない。
 変わろうと思えば変われたのかもしれない。それはたいした変化でもないかもしれなかったが、確実に何かを変えられたのだ。だが、もう遅い。
 教室の窓から見える空は、相変わらず青く澄み渡っていた。

しおり