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出会い

 第一部  
           一  出会い
若い男女が知り合って、交際をするきっかけは色々あるだろう。たとえば同じ会社に勤めていたり、同じ学校に通っていたりして知り合うことが多いと思える。他にも友達の紹介とか、合コンとかがきっかけで知り合いになることもあるだろう。時にはひょんなことから知り合うケースもある。関西地方に位置しているこの滋賀県でも、あることがきっかけで知り合ったひと組の男女がいた。滋賀県は日本一大きな湖、琵琶湖が有名だ。ただ全国的にみれば琵琶湖は知っていても、滋賀県がどのあたりに位置しているのかは知らない人も多くいるようだ。
 
 ここは長浜市高月町、滋賀県でも北部になる小さな町に中川友樹(なかがわ ともき)という男性が住んでいる。
 時は平成二十四年の八月二十五日、彼は隣町の木之本町で行われている花火大会を友人と二人で見に来ていた。花火が終わった後、帰る途中に細い田んぼ道を車で走っていると、前方から一台の車が走ってきた。すれ違うにはやや狭い道だったので、友樹は後戻りをして少し広くなった場所へ車を停めた。ここならよほど下手な運転をしない限り、すれ違えるだろうと思える道幅だった。そこへ前方から来た車がゆっくりと横をすれ違い始めた時、にぶい音がしたのだった。そう、その対向車はすれ違いざまに友樹の車にボディをこすってしまったのだった。暗がりなのでよく見えないが、見える限り傷はひどくなかった。しかし一応は事故なので相手の運転手と話し合わなければならない。友樹は友人とともに車を降りると、相手も車を降りてきた。暗がりの中から、おそるおそる近づいてきた人を見ると、若い女性で友人らしき女性と二人連れだった。運転をしていたほうの女性は、友樹に「すみません」と謝り「私が悪いのです」と自分の非を認めていた。友樹はここで話をするわけにもいかないので「取り敢えず別の場所で話しましょう」と彼女に言って、二台の車はコンビニの駐車場へ入った。
 
 駐車場の端に車を停めると、もう一度車の傷を確認した。明るい所で見ても傷の度合いは軽く、修理をしても数万円程度で済むだろうと思った。
 一方、彼女の車の傷も友樹の車と同じ程度で、たいしたことはなかった。運転者本人同士の話し合いが行われ、お互いの名前を名乗った。
「中川友樹といいます」
「私は横田優子(よこた ゆうこ)といいます。本当にすみませんでした、私の運転がへたでぶつけてしまって」
「いえ仕方ありません、僕もあの広さなら通れるだろうと思ったものですから。もっと広い所までバックすれば良かったのですが」
「それで私はどうしたら良いのでしょうか?こんなことは初めてなので。もちろん修理代は払わせていただきますが、保険会社とか連絡したほうがいいのでしょうか?」
「そうですね・・・もし保険で修理代を賄うとすれば、警察にも届ける必要があります。それと保険を使えば今後払っていく保険料が今までより高くなると思いますので、この程度の傷でしたら自己負担で直したほうが得だと思いますよ」
「そうですか、じゃあその代金を私に請求してください」
「横田さん、僕の父は自動車修理工場をしていますので、もし良かったら家(うち)の工場で直しませんか?」
「えっ、そうなんですか。私はこの車を買ったところ以外はどこも知らないので、それは助かります」
「そうされますか、じゃあ・・・今日は土曜日か、横田さんはお勤めですか?」
「そうです」
「明日の日曜は休みですか?」
「はい休みです」
「じゃあもし用事がなければ明日の九時頃にでも、あなたの車に乗って家(うち)に来てもらえますか、帰ったら父に話しておきますので」
「分かりました。何から何まで迷惑を掛けてすみません」
「いえ、気にしなくてもいいですよ」
 友樹はそう言うと高月町内にある、修理工場の場所を教えた。
 
 あくる日の九時丁度に彼女はやってきた。そして持っていた袋からひとつの箱を取り出すと、友樹に事故のお詫びだと言って渡した。もちろん辞退したが、それで引っ込めるような彼女ではなかった。そこへ父が出てきて車の傷を確認すると、彼女に「今日中に直しておくから直ったら電話をするよ」と言って車を工場内へ入れた。彼女は「はい、お願いします」と言って携帯電話を取り出したので、友樹が言った。
「修理はおそらく夕方まで掛かると思いますので、僕が家まで送ります」
 すると彼女が答えた。
「家族に迎えに来てもらいますので、気になさらないでください」
「そうですか、じゃあその携帯の番号を教えてもらえますか?直ったら連絡します」
「分かりました」
 中川友樹と横田優子の出会いは、そんな小さな車の事故からだった。

      二   キュ―ピット
 夕方になり車の修理が終わると、友樹は優子の携帯に電話を入れた。するとほどなくして男性の運転する車に乗った彼女がやってきた。その男性は優子の兄だと名乗り、妹が起こした事故の非を詫びた。修理代を払うと言われたが、友樹は「まだ自分の車が直せていないし、彼女の車もまだ計算できていないから、その件はまた後日連絡します」と言って、今日はそのまま帰ってもらった。
 
 それから一週間後の土曜日、友樹は優子の携帯に電話を掛けた。
「もしもし、高月町の中川です。先日はどうも」
「横田です、中川さんには色々と御迷惑をお掛けして、すみませんでした」
「もう気にしないでください。それより修理代の件ですけど、一万円頂きたいのですが」
「えっ、今一万円とおっしゃいましたか?」
「ええ、一万円です」
「あの~何かの間違いではありませんか、二台の修理費がそんなに安いはずはありません」
「そのことですが、僕の乗っていた車は工場の車で、修理とか車検に来られたお客さんの代車に貸していたものですから、古い車なので修理代はいらないと父が言っていました。それと横田さんの車は僕のからんだ事故だったので、実費程度の一万円だけ頂いておきなさいとのことでした」
「そうですか、そんなに安くしていただいて申し訳ありません。それじゃ今からそちらまで持って行けばよろしいですか?」
「そうですね、どうしようかな・・・じゃあ、あなたの家と僕の家の中間あたりで会いましょうか?」
「それで構いません。どこにしましょうか?」
「国道沿いにある喫茶店の(ひまわり)は御存じですか?」
「知っています」
「あそこで十一時にどうですか?」
 
 友樹が十一時五分前に喫茶店に入ると、すでに優子は来ていた。加害者の立場で被害者を待たせてはいけないと思ったのか、それともそれが彼女の性格なのかは分からないが。二人はお互いに軽く挨拶を済ませると、優子はバッグから封筒を取り出し「中を確認してください」と言って差し出した。すると中には二枚の一万円札が入っていた。それを見た友樹は笑いながら優子に言った。
「横田さん、一枚多いですよ。電話で金額を聞き間違えたのかな?」
「そうじゃありません、どうかそれだけ受け取ってください。それでも少ないと思っています」
「領収書には、すでに金額が書いてあるので受け取れません」
「領収書はそのままの数字で構いませんから」
「それは困ったな、僕が父に叱られますよ」
「だったらお父様には一万円だけ渡してください。あとはあなたへの慰謝料ということで、受け取ってください」
「う~ん、どうしましょうか?・・・・じゃあ取り敢えず僕が預かっておきます」
 友樹が「返す」と言っても、彼女は絶対に受け取らないだろうと思ったので、そう言ってこの場は治めた。その話が終わると二人はお互いのことを話し始めた。
 
 優子は地方公務員で、長浜市役所の湖北支所に勤めているとのことだった。高校を卒業して勤続は約二年半、年齢は二十歳。彼女の目は二重瞼で、少し大きめの瞳が印象的だ。髪には軽くパーマを当てていて、肩まで届いていない程度の長さにしている。少し卵型に近い顔に、その髪型は合っていて素敵な女性だった。身長は百六十センチだそうで、太からず細からずの体型に合わせて、健康そうに見えた。それと親の教育が行き届いているのか、仕事柄なのかは分からないが言葉遣いも丁寧な女性だった。
 
 片や、中川友樹は親の仕事を継ぐために自動車整備士の専門学校に行っている。京都府にある学校で現在四年生なので、あと半年もすれば卒業する見込みだ。その学校は自動車の一級整備士の資格はもとより、自動二輪(バイク)の整備資格も取れるので田舎町の、いわゆる何でも屋さんみたいな小さな修理工場では打ってつけの学校だった。もちろん通うには遠いので寮生活をしている。今は夏休みで帰郷しているが、間もなく京都へ戻らなければならない。彼は中肉中背の体型で身長は百七十五センチ、髪は自動車整備学校の学生らしく短くしていた。きりっとした顔立ちが特徴で女性に好かれそうなタイプに見える。
 
 友樹は優子と話しながら、何でも気軽に話せそうな感じで気が合いそうな女性だと感じた。優子のほうは友樹に対して、このまえ彼が工場で言った「家まで送るよ」とか、今日も「修理代金を工場へ持って来て」とは言わずに二人の家の中間付近にある、この喫茶店まで取りに来てくれるところをみると、きっと優しい男性だろうと思った。
 あれこれと話していたら一時間ほどが経ち、時計を見ると十二時を過ぎていた。友樹はあと数日で京都に戻るので、出来ればもう少し一緒に過ごして彼女のことを知りたいと思ったので聞いてみた。
「十二時を過ぎてお腹も空いたので、もし差し支えなかったら昼食を食べに行きませんか?」
 そう言った後、友樹は思わずハッとした(車の修理代を安くしてあげたのだから、僕の言うことを聞け)と言っているように思われたかもしれないと。決してそんなつもりはないが、もし彼女にそう思われたら嫌なので言葉を付け加えた。
「急にそんなことを言ってすみません。知り合って間もない人を誘うなんて軽率でしたね、昼食の件は撤回します。本当にすみませんでした」
「いえ、そんなに謝っていただかなくても・・・中川さんって本当によく気を遣われるかたなのですね。このまえも「家まで送ります」と言われて、今日もわざわざ取りに来てくださるなんて、私のほうから工場までお金を持って行くのが普通でしょう」
「そんなに気を遣ったつもりはありません。僕のしていることが普通だと思っていますけど」
「そうですか、でもそれは他人から見ればよく気を遣っているとしか思えませんわ。じゃあせっかく誘っていただいたので、どこかへ食事に行きましょうか」
 彼女はそう言うなり自分のバックと、テーブルの上に置いてあるコーヒー代の伝票を取った。友樹は彼女の素早い行動を驚くとともに呆気にとられて、一瞬ぽかんとしていた。
 慌てて立ち上がると彼女の後を追いかけてレジで財布を出した。すると彼女は「私が払います」と言って、先に払ってしまったのだった。そんな彼女こそ気遣いのできる女性で、それと見た目以上に積極的なタイプかもしれないと思った。優子は店から出ると友樹が乗って来た車を見て、何か考えているようだった。
 そして彼に聞いた。
「中川さん、今日も工場の代車ですか?」
「そうですけど」
「じゃあ私の車に乗って行きましょう」
「えっ、どうしてですか?」
「私は煙草(たばこ)の匂いが嫌いなんです。あなたは吸わないのでしょうけど、代車は色んな人が乗って煙草を吸われているので、匂いがしますから」
「そうでしたか、それは申し訳ありません。あなたの車で構わないのですか?」
「軽自動車なので少し狭いですけど我慢してくださいね」
 優子はそう言って車の鍵をバックから取り出した。どこに乗ろうかと迷っていた友樹に、彼女は助手席に乗れとばかりにドアを開けた。
 喫茶店の駐車場を出ると国道八号線を南に向かい、びわ町にあるレストランへ入った。昼時とあって混んでいたが、空いている席があったのでそこに向かい合って座った。
 優子は笑うと頬にえくぼができて、少し大きめの瞳と相まって可愛い顔をしていた。二人は相性が合ったのか、話が弾み話題が途切れることはなかった。
 昼食を食べ終えた後、友樹は「ここの食事代は僕が払います」と彼女に言うと「いえ、ここも私が払います」と言ったので、少し押し問答になったが話し合った結果、先ほどの喫茶店で彼女から預かったお金で払うことになった。そして余ったお金で「また次に会ったら一緒に食べに行こう」と約束をしたのだった。優子が友樹に渡した余分の一万円は、意外にも二人を結ぶキューピットになるのかもしれない。
    
      三   優子の決意
 数日後、京都へ戻った友樹は整備の勉強に明け暮れた。整備士免許の取得試験が迫っていたので、一日もおろそかにはできなかったのだ。秋も深まった十一月の半ばに友樹は整備士の資格を取り、平成二十五年の三月初めに学校を卒業すると自宅へと戻った。すでに四月も半ばに差し掛かったが、横田優子とはあれ以来会っていないし、電話も掛けていなかった。
 
 一方、優子は中川友樹と知り合って一度だけだが昼食を伴にして、それなりに親しくなったつもりでいた。彼の優しさや気遣いのできる人間性には好感が持てた。しかしそれは自分が勝手に思っているだけであって、彼は私のことなど気にしていないかもしれない。いや、もう忘れているかもしれない。もし忘れていないのなら、そして少しは気にしていてくれるのなら、この半年の間に電話の一本くらいあってもいいと思う。すでに記憶の中から消えてしまっているのだろうか?
 あれから半年以上が過ぎ、彼の話だと三月には京都から帰って来ると言っていたので、もう帰っているはずだ。「また次に会ったら食事に行こう」という約束をしたので、何か連絡があるだろうと電話を待っていた。しかし一向に掛かってくる様子がないので、どうしたものかと考えていた。あの日に約束した言葉は「また次に会ったら」という微妙なニュアンスの言葉で「また会って行こう」と「また会ったら行こう」では、大きな違いがある。「会ったら」では、偶然に会えればというふうに受け取れるし、会わなかったら行かないということになる。優子はあれこれと考えた結果、今度の土曜日に友樹の働いている工場へ行ってみることに決めた。そしてどちらかと言えば消極的な性格だが、彼のことになると積極的に動こうとしている自分に、新たな一面を見たような気がした。
 
 土曜日になると優子は時計を気にしていた。工場は日曜日と祭日以外は開いていると聞いたが、何時頃に行けば彼と話ができそうかと考えていた。自分の車を修理してもらうわけではないので仕事中は迷惑を掛けそうだし、お昼休みのほうがいいかなと思った。お昼休みが何時までかは知らないが、十二時半には着くように家を出た。
 工場へ着くと小さな事務所の前に車を停めて中へ入った。事務所の中には中年の女性が一人だけで、他には誰もいなかった。そこで優子はその女性に尋ねた。
「こんにちは、湖北町の横田といいますが、中川友樹さんはおられますか?」
「はい、おりますが」
「ちょっと会いたいのですけど、どちらに行けば会えますか?」
「えーと、今は昼休みなのであそこかな?少しここで待っていてください、呼んできますので」
「ありがとうございます」
 事務員の女性は友樹を探しに出たが、ものの数分で戻ってきて優子に言った。
「すぐに来ると思いますので、そこに座ってもう少し待っていてくださいね」
 事務員はそう言うと気を利かせて奥の部屋へ入った。
 
 その時、友樹は昼食が済んで車の雑誌を読んでいたところだった。そこへ事務員さんが来て言った。
「友樹さん、湖北町の横田さんという可愛い女の子が、あなたに会いたいって来ているわよ。友樹さんの彼女かな?ふふふ、事務所で待っていてもらうから早く来てね」
 友樹はそれを聞いて(あっ、あの横田さんが来てくれたのか)と思い、思わず椅子から立ち上がった。そして雑誌を片付けると事務所へ向かった。
 ドアを開けて中に入ると、彼女はお客さん用の椅子に背中を向けて座っていた。友樹が後ろから「横田さん」と声を掛けると彼女は振り向いた。そうまぎれもなく、あの日一緒に食事をした横田優子だった。
「お久しぶりです。元気でしたか?」
「はい、中川さんも元気そうですね」
「元気ですよ、今日は仕事休みですか?」
「土曜と日曜は休みです」
「それで来てくれたのですね」
「もう京都から帰っていると思って」
「一か月半ほど前に帰って来ました」
「そうでしたか・・・あの~中川さん、まだ覚えていますか?昨年の八月に一緒に食事に行った時のことを、その日の帰りに「また会って食事に行こう」と約束をしたので、こちらに戻られたら何か連絡をもらえると思っていたのですが、連絡がないのでここへ来てみました」
 優子は「また会ったら」と言わずに、敢えて「また会って」と言った。ここではそう言ったほうが話を進めやすいと思ったからだ。
「そうだ、あなたから預かったお金がまだ残っているんだった。このまえ食事して残ったお金で、また食べに行こうって話していましたよね」
 友樹は半年前に彼女から貰ったお金を食事代に使い、その残金を自分の部屋の引き出しに入れて残しておいたのだった。
「そうです。もう忘れてしまったのかと思いました」
「忘れてなんかいませんよ。じゃあもし良かったら明日の日曜日、僕も休みなので行きませんか?」
「明日なら特に用事もありませんわ」
「じゃあ、どうしようかな?・・・僕はまだ自分の車を持っていないんですよ」
「だったら私がここまで迎えに来ます」
「そうしてもらえるとありがたいです」
「何時頃がいいですか?」
「何時でも構いませんよ」
「じゃ昼食にはちょっと早いかもしれませんけど、十時でどうでしょうか?」
 優子は昼食までの時間にどこかへ行こうと考えて、十時と言った。
「それでいいです」
 話し終えた時に友樹の昼休みが終わったので、優子も帰ることにした。久しぶりに会ったので、ゆっくりと話をしたかったが、彼は仕事なのでそうもいかない。明日また会えるのだから、その時は色々話そうと思った。
 
 優子が帰った後、友樹が仕事の用事で事務所へ行った時、昼休みに自分を呼びに来てくれた事務員の新井和子(あらい かずこ)が友樹に言った。新井はこの工場で十五年ほど働いているベテランの事務員で、友樹が小学生の頃から勤めている。
「ねえ友樹さん、お昼に面会に来ていた女の子だけど付き合っているの?」
「いえ、そんな仲じゃありませんよ」
 友樹はそう言って彼女との出会いを簡単に説明した。だが食事に行ったことは話さなかった。
「今日は改めてその時のお詫びにでも来られたのかしら?でもそうじゃないわね、あの子の顔を見ていると、多分あなたに会うために来たのよ。つまり友樹さんのことを好きなんじゃないかな?」
 新井は同じ女性目線から優子の心中を察したのか、友樹にそう言った。彼女と会ったのは事故の日を含めても今日が三回目で、まともに話したのは一度だけだ。だから新井の話は信じ難かったが、男女の間で恋愛感情を持つのは会った回数の問題ではないだろうと思った。それに某テレビ番組でもこう言っていた。
「ひと目会ったその日から、恋の花咲くこともある」と。
 
 あくる日、優子は約束どおり十時に迎えに来ると、彼はすでに外へ出て待っていた。半年前と同じく助手席に乗ってもらうと、彼女は車を発進させて国道を南へと走った。友樹は助手席から優子の運転する横顔を間近に見ながら、再び会えたことに対して改めて嬉しいという気持ちが沸いてくるのだった。
「中川さん、お昼にはまだ早いのでどこか行きましょうか?」
 優子は自分が昨日から決めていた言葉を友樹に言った。
「そうですね、天気もいいので行きましょうか」
「じゃあそう遠くない所で、グリーンパーク山東に行きましょう」
 
 グリーンパーク山東には三島池があり、池の周りに遊歩道が作られていて歩道沿いにはたくさんの花が植えられている。そして池には多くの水鳥が生息していて悠々と泳いでいる。また色々と施設も整っていてキャンプもできる。若い人はテニスを、年配の人はゲートボールを楽しめて宿泊もできるという総合レジャー施設なのだ。
 
 車を駐車場に停めると二人は池の周りの歩道を歩き始めた。近くに見える滋賀県で一番高い山の伊吹山がきれいだ。
 池をひと回りしてからベンチに腰掛けると、池の中を泳ぐ水鳥の姿を見ながら友樹は優子に話し掛けた。
「昨日はわざわざ工場まで来てくれてありがとう。久しぶりに会えて良かったよ」
「私もよ。車の修理でもないのに工場へ行くのは(仕事の邪魔になるかな?)と思って、少し迷っていたのですが、昼休みだったら少しくらいはいいかなと、思い切って行ったの」
「そんなに気を遣わなくても、別にいつ来てくれたって構わないよ。少しの時間だったら仕事の邪魔なんかにならないから。それになんなら君の車の点検とか言って、車を診るふりをしながら別の話をしていればいいのだから」
「まあ中川さんったら、うまいことを考えるのね。仕事をさぼっていると、お父さんに叱られるわよ」
「あはは、それは冗談だよ。でも君がこれからお客さんになってくれれば、いつ来てくれてもおかしくないから」
「次からは修理とか点検をあなたにお願いするわ」
「分かりました。横田優子さま、是非とも一級整備士の資格を持っている僕にお任せください」
 友樹が真面目な顔をしてそう言ったので、優子は声を出して笑った。良い雰囲気に包まれた二人は時の経つのも忘れたかのように話していたが、ふと時計を見ると十二時を過ぎていたので昼食に行こうと車に戻った。
 
 長浜市内のレストランで食事をして半年前の残金から食事代を払ったが、もう一~二回は食べに行けるだけの金額が残った。店を出て時計を見ると午後の一時半を指していたが、帰るにはまだ早いので、二人は相談をして長浜港に向かった。今の優子は行き先とか関係なく、どこでもいいから顔を見て話をして、彼との時間を共有できればいいのだった。
「中川さん、今日は楽しかったわ。ありがとう」
「僕のほうこそ楽しかったよ」
「また、一緒に行きませんか?」
「ええ、是非行きましょう」
 こうして二人は時々会って、遊びに行くようになった。
 
 やがて数か月が経ち、月に二回から三回のペースで会うまでの仲になったが、友樹は優子に好きだとか、交際しようなどと言わないまま会っていた。言うきっかけがなかったのか、それとも言い出す勇気が出なかったのか分からないが、そんなことを改めて言わなくても交際は暗黙の了解になっていると思ったのかもしれない。ただ優子の立場から言うと、はっきりと言ってもらい安心感を持ちたかった。女性の自分から、そういうことを言い出すのは嫌だったので、ただひたすら彼から言ってくれるのを待っていた。お互いの気持ちは分かっているつもりでも言葉に出して言ってくれないと、時には不安になり疑心暗鬼になることもあった。さらに数か月が過ぎて、二回目の食事に行ってからすでに半年が過ぎようとしているにも関わらず、彼の態度は全く変わらずに、会っていても普通の話をするだけで恋だの愛だの、ロマンチックな話をすることはなかった。
      
四   突然の告白
 秋も深まった十一月の初め、友樹に一通の手紙が届いた。その手紙は京都の整備士専門学校で一緒に学んだ、秋田麻理絵(あきた まりえ)からだった。真理恵は、どちらかといえば男社会の自動車整備士専門学校で数少ない女子生徒の一人だ。「子供の頃から車が好きで車の仕組みを覚えて、それに携わる仕事をしたい」と言っていたのを覚えている。車といえば販売の仕事や製造工場に勤める仕事もあるが、彼女はそれだけでは物足りないのだろう。積極的で負けず嫌いなのか、他の男性にも負けないくらい熱心に勉強をしていた。そして彼女も整備士免許試験に合格して卒業したのだった。
 友樹は手紙の封を切ると、取り出して読み始めた。

 「前略、元気で過ごしておられることと思います。学校を卒業して八か月が過ぎましたが、もう仕事は慣れましたか?私は京都の、ある自動車整備会社に就職しました。その会社は工場ではなくて、修理の出張サービスをしている会社です。例えばエンジンが掛からなくなったとか、溝に落ちたなど電話が掛かって来ると、そこの現場へ行って直す仕事です。女性スタッフは私だけですが、他の皆さんに大変良くしていただき喜んでいます。また車が直った時に、お客様の笑顔を見るのが嬉しくて、とてもやりがいのある仕事です。それはさておき、実は中川さんに改めて話したいことがあります。近いうちに一度会っていただきたいのですが、もし良ければ日曜日で構いませんので、会っていただけませんか?私の携帯電話番号を書いておきますので連絡をください。突然こんなことを言い出して申し訳ありませんが、私のお願いを利いてもらえると信じてお待ちしています。ではこれで失礼します」                   草々
 
 麻理絵の手紙は短いものではあったが、何やら切実に訴えるような内容だったので気になった。僕にどんな話があるのか予想もつかないが、いずれにしても一度は連絡をしなければ悪いと思い、その日の夜に電話を掛けた。
「もしもし秋田さん、中川です」
「麻理絵です、お久しぶり」
「元気そうで何よりです」
「ありがとうございます。わざわざごめんなさいね、こちらから掛けると良かったのですけど、中川さんの番号を知らなくて手紙を書きました」
「それは構いません。それより話したいこととは何ですか?」
「電話だと長くなるかもしれないので、一度会ってほしいのですが?」
「いいですよ」
「じゃあ私のほうからお願いしたので車で高速道路を走り、そちらに伺おうと思います」
「そうしてもらえるとありがたいです。なにしろまだ自分の車を持っていないので。じゃあ今度の日曜日でどうですか?」
「はい」
「待ち合わせの場所は判りやすい所で、高速道路の木之本インターチェンジを降りた所で待っています」
「そうしていただけますか。時間がはっきりと分からないので、近くまで来たらパーキングエリアから電話をします。多分午前中の十時頃になると思いますので、よろしくお願いします」
 
 友樹は電話を切ると麻理絵のことを思い出していた。彼女は小柄で身長も百六十センチを切っているだろう、やや痩身の体でスタイルも良かった。髪はやや長めで肩付近まであったので、その髪を頭の後ろで、ひとつに結んでいたのを覚えている。目鼻立ちの整った、どちらかといえば可愛いと言うよりも美人と言えるタイプの女性だ。そして友樹は学生の頃、そんな麻理絵に好意を持っていたのだった。しかし勉強はもちろんのこと、資格試験は絶対に合格しなければならないという中で、恋だの愛だのと言っているわけにはいかなかった。それに何より彼女のほうは友樹に対して、恋愛感情など全くないだろうと感じられたので勉強以外の話はしないまま卒業をして、離れ離れになってしまったのだった。そんな彼女が友樹に手紙を送り、会って話したいことがあると言ってきたのだ。
 
 次の日曜日、麻理絵は約束どおりに木之本インターで車を降りた。待っていた友樹と再会をした後、彼が時々コーヒーを飲みに行っている木之本駅前の喫茶店、憩(いこい)へ入った。話の内容は分からないが、込み入った話かもしれないので、いつものカウンター席ではなくボックス席に座った。彼女も向かい合って座ると「たまの休みにごめんね」と言って謝った。友樹は久しぶりに会った彼女を見て、卒業してから一年も経っていないので当たりまえだが、学生の頃と少しも変わっていないので安心した。彼女の仕事も大変だと思うが、辛い思いをしながらしているようには見えなかった。むしろ自分の希望していた仕事に就けたことで、生き生きとしているように感じられた。
 コーヒーを二つ注文すると、ママがにっこりと笑いながら言った。
「中川さん、今日はきれいなお嬢さんと一緒なのね」
「ママさん、この子は専門学校の同級生です」
「そうだったの、私は彼女かと思ったわ」
「あはは、そうじゃありませんよ」
 ママがキッチンへ戻ったので友樹は真理恵に話し掛けた。
「麻理ちゃん、話ってここでも話せることかい?」
 友樹は彼女のことを学生の頃から「麻理ちゃん」と呼んでいた。また彼女も彼のことを「友ちゃん」と呼んでいたのだった。
「ここで構わないわ。大きな声で話さなければ誰にも聞こえないでしょう」
「じゃあ聞くよ」
「友ちゃん、驚かないで聞いてほしいの。実は私ね・・・・以前から、そう二年生の時ぐらいからかな、あなたのことを好きだったのよ。友ちゃんに車のことを色々と教えてもらったでしょう、本当に教えるのが上手で分かりやすくて嬉しかったわ。友ちゃんは元々、修理工場の息子さんだったから車のことをよく知っていたものね。そんな優しいあなたを好きになるのに時間は掛からなかったわ。でもお互いに目標がある大切な時期に、そんなことを言えば嫌われてしまいそうだから、三年間何も言わずに終わってしまったけど。それに友ちゃんは私のことなど、異性としては何とも思っていなかったでしょうから。でも卒業してあなたと離れてから半年が経ち、まだ自分の気持ちが変わらないのだったら結果はどうあれ、はっきりと告白して自分の気持ちにけじめをつけようと思ったの。私も最近は仕事に慣れたから、気持ちに少し余裕ができたのかな、就職した頃は仕事を覚えることに一生懸命だったので、こんなことを考える余裕もなかったけど、最近は友ちゃんのことをよく考えるようになったわ。それで今すぐにじゃなくてもいいから、あなたの返事を聞きたいの。決して良い返事をもらえるなどと期待はしていないわ。あなたにふられたら新たな出会いを探すから、私のことは気にしないで言ってね。ただ自分の気持ちにけじめが付けばいいと思っているの。話はこれで終わりよ。一気に話したから少し疲れたわ、ふふふ」
 
 麻理絵は話し終えると、なぜか笑った。大切な話をいかにも簡単に話したようにみえるが、実際はすごく勇気がいったと思う。そんな話をしたことで最後は照れくさくなり、ごまかし笑いをしたのかもしれない。友樹は麻理絵の話を聞き終わってから、どう返事しようかと考えていた。
「よく話してくれたね。ちょっと場所を変えて話そうか」
 友樹がそう言ったので麻理絵も頷き、コーヒーを飲んだ後、二人は店を出た。

 二人は商店街を歩いて、木之本の地蔵さんと呼ばれるお寺へ向かった。その理由のひとつは、わざわざ京都から来てくれた彼女に湖北の名所を一か所でも見てもらって、帰ってもらおうと思ったからだ。それに込み入った話でも、そこなら落ち着いてできるだろうとも思った。
 ちなみにその地蔵さんは建立が明治二十七年で、高さが六メートルもある大きな銅像だ。そして眼病平癒の地蔵様として、多くの人々から信仰されている。

 五分余り歩くとお寺に着き、境内に入ると休憩用のベンチがあったので、二人は腰掛けた。
 友樹は大きな地蔵さんを見ながら麻理絵に言った。
「さっき喫茶店で君の話を聞いてから今まで返事を考えていたけど、やはりしばらく考えさせてもらうよ」
「いいわよ」
「ただその返事とは別に話しておきたいことがあるから、聞いてくれるかい?」
「何でも聞くわ」
「君は二年生の頃に僕のことを好きになったと言ってくれたけど、僕もちょうどその頃、君のことを好きだったんだ。だけど君が言ったように、大事な時期で一生懸命に勉強している君を見ていると、好きになったとか交際してほしいとか、そんな話はできなかったよ。もちろん僕にとっても大切な時だったので、そんな話をしなかったことは、それはそれで良かったと思っているけど」
 友樹はそれだけ話すと少し間をおいた。すると麻理絵が話し掛けてきた。
「そうだったの、友ちゃんも同じ気持ちだったとは思わなかったわ。でもあなたは「君のことを好きだった」と言ったけど、その言葉は過去形よね。それはつまり、今はなんとも想っていないということなのね?」
「ははは、麻理ちゃんは言葉の揚げ足を取るのがうまいね。いや決してそういうつもりで言ったわけではなくて、僕の片想いだからと諦めていただけだよ」
「じゃあ今でも私のことを好きでいてくれるの?」
「そういう気持ちがないわけではないけど、片想いだと諦めて卒業を機に忘れようとしていた矢先に、君からの手紙が届いて先ほどの話だろう。君の話を聞いて、それは僕も嬉しかったよ。でも僕にも事情があってね、すぐに返事はできないので待っていてくれるかい?」
「そうなの分かったわ。どんな事情だか知らないけど返事はいつでもいいわ。友ちゃんの気持ちが決まったら言ってね」
「ありがとう。悪いけどそうさせてもらうよ。じゃあ今から昼飯でも食べに行こうか?」
「そうね、ちょうどお昼だわ」
 二人は地蔵さんを後にして喫茶店に停めておいた車に乗ると、近くのレストランへ向かった。昼食が済むと、しばらくして真理恵は高速道路で京都に帰った。
 
 友樹は家に帰ると麻理絵のことを考えていた。(焼けぼっくいに火がついた)というわけではないが、諦めて忘れかけていた彼女からの突然の告白は、友樹の心を揺さぶった。学生時代に好きだったという気持ちが、また甦(よみが)ってきたのだった。「交際しよう」とひと言、電話で言えば今すぐにでも交際できるのだ。しかし今の友樹には優子の存在がある。優子に「交際しよう」と口に出して言ったわけではないが、交際しているのと変わらないような付き合いをしている。もちろん好きという気持ちも持っている。彼女も僕のことを想っていてくれるだろう。だから月に何回か会っているし、誘っても断られることなど一度もない。今の自分は二人の女性を同時に好きになっているのか・・・そしてその二人ともが僕に好意を持ってくれているのか・・・友樹はそう思うと嬉しい気持ちよりも、むしろ辛い気持ちが強くなったのだった。二人同時に付き合うわけにもいかず片方を選ぶこともできず、どうすればいいのか分からなかった。もし別れたら、より多く悲しむのは優子のほうだろう。すでに暗黙の了解で付き合っているのだから。それに比べて麻理絵のほうは良い返事を期待しているわけではないと思うし、実際に一度もデートをしたことがなく、単に気持ちだけの問題だ。悪い返事をしても「だったら仕方がないわね」と言って諦めるだろう。しかし優子はそういうわけにはいかない。辛い思いをさせることになるだろうし、そんな思いをさせたくはない。それに優子とは何よりも別れたくない。だったら麻理絵に断りを入れるべきだと誰でもが思うだろう。しかし人の心はそんな単純なものではない。なぜなら彼女のことも好きなのだから。それで友樹の心の中は嬉しい気持ちよりも、辛い気持ちが勝(まさ)っているのだ。でもいつかは結論を出さなければいけないので、少なくとも麻理絵にはそう遠くないうちに返事をしないと、あまり待たせるわけにはいかない。悪い返事ならなおさらで、新たな出会いを少しでも早くしてもらうには無駄な時間を彼女に使わせたくない。返事を待っている時間が無駄な時間かどうかは彼女の考え方次第だが、一般常識としてそう思った。

       五   正直な人
 次の週の日曜日、以前からの約束で友樹は優子と会った。いつものように彼女の車に乗せてもらって、ドライブというほどでもないが、少し走っては景色が良い所や、ここという所で停まっては世間話をしていた。
 そんな話の途中で優子が聞いた。
「友樹さん、何かあったの?いつもと少し様子が違う感じがするわ」
「・・・・やっぱりそう見えるかい。優子ちゃん、実は君に聞いてほしいことがあるのだけど」
 二人は最近になって、お互いに名前で呼び合うようになっていた。いつまでも他人行儀に苗字で呼ぶのもどうかと思って、そうすることにしたのだった。
「話してちょうだい」
「最初に言っておくけど、僕は優子ちゃんを好きだよ。それを前提にして聞いてくれるね」
「分かったわ」
 優子は彼に好きと言われたのは嬉しかったが、一体なにを言おうとしているのか、想像もつかず、好きだと言われた喜びよりも不安のほうが大きかった。
「僕が京都の学校にいた時、同級生に好きな女の子がいてね。だけど僕の片想いだろうし、大事な時に変なことを言い出して勉強の妨げになってはいけないと思って、彼女には何も言わずにいて、そのまま卒業してしまったんだ。卒業する前に打ち明けようかと迷ったけど、勇気が出なくて言えなかったよ。それで彼女とは離れ離れになり、もう一生会うこともないと思っていたけど、今から半月ほど前に、彼女から僕に手紙が届いて「話があるから会ってほしい」と書いてあったんだ。それで先週の日曜日に会って話を聞いたら、彼女が僕に「学生の時、好意を持っていた」と打ち明けてくれてね「急がなくてもいいから僕の返事を聞きたい」そして「返事が悪くても、自分の気持ちにけじめが付けばそれでいいの」と言っていたよ。それでこの一週間、僕なりに色々と考えたけど、結論が出なくて悩んでいるというわけだよ。そんな僕のわずかな変化に気付いて聞いてきた君の洞察力には改めて脱帽するよ」
「そうだったの、それで友樹さんは今でもその人のことを好きなの?」
「その子は三年ほど前に好きになったけど、僕の気持ちを打ち明けることもなく卒業して、こちらに帰って来た時、君が工場に来てくれた。そして徐々に仲良くなり、彼女のことはもう忘れられると思っていた矢先に手紙がきて、打ち明けられた。せっかく忘れかけていたのに、また思い出させるきっかけを彼女は作ってしまったよ。それで「今でも好きなのか」という質問の答えだけど、正直に言って三年間も想っていた女の子だから、片想いじゃなかったと分かったら気になってね。つまり気になるってことは、好きという気持ちが残っていたと言ってもいいと思う。でも僕が最初に言ったように君のことも好きだよ。だからどうしたらいいのか悩んでいてね。二人を比重計に掛けて、重いほうを選べと言われてもそれはできないし、そんな失礼なことはしたくもないから困っているんだ。人の気持ちって、そんな簡単に割り切れるものじゃないからね」
「そうなの・・・私、なんて言ったらいいのか分からない。あなたから好きと言われたのは素直に嬉しいけど、その人のことも好きだと聞いたら複雑な気持ちよ。友樹さんからそんな話を聞いて今までと同じような気持ちで会うなんて、できなくなるかもしれないわね。でも今は別れようとは思わない。あなたと別れる時は、あなたからふられた時よ。それともうひとつ、友樹さんって本当に正直な人なのね。正直の上に馬鹿が付くくらいよ。普通は好きな子に対して、そんな都合の悪い話は秘密にするでしょう」
 優子にとっては、出来れば聞きたくない話だった。しかし聞いてしまった以上、もう後戻りはできない。最後は彼が必ず私を選んでくれると期待するだけだ。
「ごめんよ、僕が優柔不断だから君に悲しい思いをさせてしまうね。本当はこんな話を正直にしないほうが良かったのかい?」
「そうね・・・それは難しい問題だわ。友樹さんは女心というものをよく分かっていないから正直に話したけど、あなたを好きだったら、そんな話を聞いて笑っている子なんていないわよ。殆どの女性は気分が悪くなる話だわ。私だって知らないほうが幸せだったかもしれない。ただ知らないままで会っていて、後から知ったとしたら、今以上に悲しくて腹立たしい気分になるでしょうね。知らないのなら最後まで知らないのが一番いいのだけど、後から知るよりは先に聞いたほうがましだわ。少なくとも騙されていたような気分にはならないから」
「じゃあ、いま話したほうが良かったんだね」
「ええ、あくまで後から聞かされるよりはという意味においてはね。ただ他の女性はどう言うか分からないけど。確かに誰だって過去には色々あるし、二人の女性を好きになってしまったことは仕方がないけど、ただいつまでもそういうわけにもいかないでしょうから、いずれはっきりしなくちゃいけない日がやって来るわ。その時にあなたがどんな判断をするのか、私にとってはその判断が重要なの」
「そうだね、君の言うとおりだよ。いずれ僕の気持ちが決まったら必ず言うから、すまないけどそれまで待っていてもらえるかな?」
「分かったわ。あなたが納得するまで考えたらいいわ」
「ありがとう、こんな話をしたら君は怒って家に帰るかもしれないと覚悟していたけど、よく話を聞いてくれて嬉しいよ」
「最初は少しむかついたけど、そこで怒れば終わりになるからと思って抑えたわ。あなたの言い訳も聞きたかったしね、ふふっ・・・それでその人に私のことは話したの?」
「まだ話していないよ」
「話すつもりなの?」
「次に会った時に話そうと思っている。君にだけ話して、その人には君のことを話さないなんてできないからね。それで話した後、その子がどう言うのか聞いて、どういう態度を取るのか見て、それをひとつの判断材料にしたいと思っているよ」
「私とその人とを比較されるのは面白くないけど、私のことも話してくれのだったら許すわ。でも私と同じように『友樹さんは正直な人ね、ますます好きになったわ』なんて言うかもよ、うふふ」
 優子は気分が良いはずもないのに、なんだか楽しんでいるかのように笑った。
「そんなことは絶対に言わないよ。怒りもしないだろうけど『もう会わない』って、言うかもしれないな」
「そう言われたらどうするの?」
「その時になってみないと分からないけど、それがその子の本心だったらそうするかもしれない」
「私がその子の立場だったら『もう会わない』とは言わないわね。そう言ったら終わりになるからよ」
「でも『もう会わない』と言いながらも、僕から『会わないなんて言わないでほしい』という言葉を待っているのかもしれないよ」
「ううん、そんな返事を待つなんて大きな博打を打つようなことは言わないわ。あなたが『じゃあそうしよう』って言ったら本当に終わりになるのよ」
「そうか、やっぱり僕は女心が分かっていないのだね」
「そうよ、私はその子がどんな性格の子か知らないけど、普通だったら好きな男の人とは別れたくないし、最後は自分を選んでくれると信じて会い続けると思うわ」
「じゃあ君も僕とそうするつもりかい?」
「私は普通の女だからそうするわよ。会い続けて、あなたに自分のいいところを見つけてもらわなくては、と思っているわ。会わなければ自分をアピールすることができないじゃないの」
「そうなの、君は何でも前向きに考える子だね、まあそんなところも好きだけど。今の話だけでも充分アピールしているよ、ははは。 でも良かったよ、君がそんな性格だったから、僕の打ち明け話で痴話げんかにならなくて」
「これでも精一杯涙をこらえているのよ、うふふ」
 優子の言った言葉はどこからどこまでが本当か分からなかったが、案外そうなのかもしれないと思った。
 彼女は話を続けた。
「私たちって、まだ交際していないよね。あなたの口から『交際しよう』っていう言葉を聞いた覚えはないわ。だから私たちがうまくいかなくなったとしても、別れるんじゃなくて会わなくなるだけなの。付き合ってもいないのだから、別れるという言葉は不適切よね」
「確かに交際をしようと言った覚えはないよ。でもこうやって月に何度も会っているのだから、すでに暗黙の了解で付き合っているようなものだよ」
「だからあなたは女心を分かっていないと言うのよ。女はね、いくら仲良くしていようと何十回会っていようと、はっきりとした形を求めているの。それは口に出して言ってもらうことなのよ。そうじゃないと不安になるの。(本当はどう思っていてくれるのだろう?)と、疑心暗鬼になる時があるの」
「僕が『交際しよう』って言わないから、時として疑心暗鬼になっているの?」
「そうよ。そのうち言ってくれると信じて待っていたのよ。それなのに何も言わないままで先ほどの話でしょう。疑われて当然だわ」
「ごめんよ。それは謝るけど、ひとつだけ言い訳をさせてくれるかい?」
「どうぞ言ってちょうだい」
「先ほどの女の子だけど、忘れかけていたと言ったよね。その言葉の裏を返せば、まだ完全に忘れていないと言えるよね。だから君に交際を申し込むのは、その子のことを完全に忘れてからにしようと思って、今まで申し込まなかったという訳だよ。自分の気持ちに区切りを付けてから申し込むつもりだった。それが僕の言い訳だよ」
「そうだったの、よく分かったわ。でもそんなあなたの考えも、その人から届いた一通の手紙ですべてが狂ってしまったってことね」
「そういうことになってしまったね」
「今さら何を言っても始まらないから、あなたと時間が解決してくれるのを待つしかないわ」
 長かった二人の話し合いも終わり、帰宅した。

 その日の内に麻理絵に電話を掛け「話したいことがあるから」と言って、次の日曜日に会う約束を交わした。京都からこちらまで来てもらうのも遠いので滋賀県の彦根市にある高速道路の彦根インターチェンジで待ち合わせをした。それでも友樹のほうが、かなり近いだろう。
 時間を午前の十時前後と決めていたのだが、彼女はまだ来ていなくて先に着いた友樹はインターの料金所を出た所にある駐車場で待っていた。彼女は距離が遠いので彦根に着く時間が予想しにくく遅れているのだろう。十一月も末になると寒いので、車の暖房を掛けて待っていると、ほどなくして彼女が到着した。
 車を降りた友樹は、麻理絵の所へ行くと「乗って」と言われて助手席側に回った。
「麻理ちゃん、遠い所まで来てもらってごめんよ。電話だと長くなりそうだから」
「いいのよ。高速道路だからそんなに時間は掛からないわ」
「それで早速だけど、君に僕の話を聞いてくれるかい?」
「ええ、聞かせてもらうわ」
 麻理絵は興味津々とばかりに友樹の顔を見た。
「このまえ木之本で会った時に、君から『好きだった』と言われて『返事を聞きたい』って言っていただろう。あれから色々と考えたけど、まだ自分の気持ちが決まらなくて、もう少し返事を待ってほしいのだけど」
「それは別に構わないけど」
「ありがとう、なるべく早くするよ。それと『僕にも事情があるから、すぐに返事はできないと』言ったのを覚えているかい?」
「しっかり覚えているわよ」
「その事情というのも、君に話しておきたいのだけど」
「分かったわ、話して」
「今から一年と三か月ほど前の八月の夜のことだけど、僕の住んでいる町の近くで花火大会があってね、そのとき夏休みで京都から帰省していて、花火大会を友人と見に行っていたんだ。そして花火が終わって帰ろうと思い、車で細い田んぼ道を走っていたら一台の車が前から来て、そのまますれ違うのは道が狭くて無理だと思ったから、僕のほうが少し広くなっている所までバックしてすれ違おうとしたんだけど、すれ違いざまに接触してしまったんだ。まあ軽い事故が起きたというわけだよ。運転していたのは若い女の子だった。車の傷は軽くて良かったんだけど、当然修理は必要だろう。それで相手の子に「僕の家は車の修理工場をしているから、家(うち)で修理したらどうですか?」と聞いたら「そうします」と言うので、翌日の日曜日に直してあげたんだ。もっとも直したのは僕の父だけどね。それで車の修理が終わってから何日か後に修理代金が分かったので、連絡をして近くの喫茶店に代金を受け取りに行ったのだけど、その子は修理代金の二倍のお金を僕に渡そうとしたので、僕は言ったよ。『領収書に金額が書いてあるので、その金額しか受け取れません』とね。しかしその子が『どうしても受け取って』と言うので、仕方なく『一旦、預かります』と言って預かり、それで話は終わったんだ。でもその後、コーヒーを飲みながら色々と話している内に、なんて言うのかな・・・気が合ったと言うか、話が弾んで一緒に昼食を食べに行くことになり、レストランへ行ったんだ。食べ終わってから、代金をその子が払うと言うので『ここは僕が払います』と言ったんだけど、押し問答になってね。最後は多めに頂いた修理代金で、払うことに決まったんだよ。だけど、まだお金が余っているので『また次に会えたら食事に行きましょう』と言って、その日は帰ったんだ。前置きはそれくらいにして、今から本題に入るよ」
 
 友樹は彼女が買ってきたペットボトルのお茶を飲むと、続きを話し始めた。
「先ほどの話の中で、僕が『その子』と言っている接触事故を起こした相手のことだけど、名前は横田優子さんといって、今年二十歳になったばかりの女性だよ。それでその横田さんとは、それっきりで僕は京都に戻ったけど、学校を卒業して家に帰った一か月半後ぐらいに、彼女が僕を訪ねて工場へ来たんだよ。ちょうど昼休みだったので少しばかり話をしたけど、短い時間だったから(わざわざ来てもらったのに、少ししか話せなくて申し訳ない)と思い、以前多く貰った修理代を預かっていた僕が『明日、昼食を食べに行きましょう』と言って、その日は帰ってもらったんだ。そして翌日会って、食事はもちろんだけど少しばかりドライブなどをして、久しぶりに会ったということもあるけど、楽しくてこれからも会いたいと思った。まあ彼女に少なからず好意を持ったというわけで、それからも何度か誘って会ったんだけど、僕の誘いを断ることなく受けてくれたので、彼女も僕に好意を持っていてくれるのだ、と思うようになったよ。それで近い内に交際を申し込もうと思っていた矢先に、君から手紙が来て僕の予定が狂ったというか、すっかり変わってしまってね。だから横田さんには、まだ交際を申し込んでいないけど、何度も会っているので実際には付き合っていると言っても過言ではない間柄なんだよ。つまり僕にそういう女性がいるので、君にはすぐに返事をできなかったし、僕にも事情があると言ったんだよ。話が長くなったけど分かってもらえたかな?」
「よく分かったわ。友ちゃんはその女性を好きなのね」
「もちろん好きだけど君のことも以前から好きだったし、僕の片想いじゃないと分かったからには、何らかの形で付き合えるといいなと思っているんだ」
「つまり友ちゃんは同時に二人の女性を好きになり、そして二人とも付き合いたいと思っているわけね」
「二人同時に付き合うのは君や横田さんに失礼なことだから、それはできないけど、取り敢えず二人とも何度か会って話していく内に、僕の気持ちもはっきりするんじゃないかと思っているよ。そうすれば二人に対してちゃんと返事ができるはずだよ」
「そうなの、じゃあ友ちゃんの思ったようにすればいいわ。私はあなたに選ばれなかったら諦めるから。未練たらしく『そんなことは言わないで、私と付き合って』なんて言わないから心配しないで」
「ははは、麻理ちゃんはなかなかドライだね」
「そうよ。だってあなたとはダメもとで、自分の気持ちにけじめを付けようと思って打ち明けたのだから。未練たらしく思っていたら、けじめなんか一生付けられないわ」
「それじゃ最初にも言ったけど、もうしばらく返事を待ってくれるかい?」
「オーケーよ、待っているわ」
「じゃ今から昼飯でも食べに行こうか」
 昼食を食べた後、二人は別れてそれぞれの自宅へと戻った。

       六   二兎を追うもの
 月日は流れ、平成二十六年の年が明けたと思えば、早くも三月を迎えた。友樹は麻理絵とは月に一回、優子とは月に二回か三回会っていた。しかし今でも一人の女性に絞ることができずにいたのだった。
 
 そんな三月のある夜のことだった。友樹の携帯電話に麻理絵からの着信があった。
「もしもし麻理絵だけど、少し話したいことがあるから十分ばかりいいかしら?」
「ああ、いいよ」
「実は今年の正月のことだけど、三が日に交代で仕事に出ていたの。それでその日に三年先輩の男の人と、二人で一緒に仕事をしていたのだけど、お客さんからの電話も少なくて事務所で話していた時に、その人から交際を申し込まれたの。その人は私が入社した時から、丁寧に仕事を教えてくれて『困ったことがあったら何でも言えばいいよ』と言ってくれたりして、とても優しくていい人なの。そんな人から突然交際を申し込まれちゃって、友ちゃんのこともあるから返事は待ってもらっているのだけど、もう二か月以上も待たせているので申し訳なくて、色々と考えたんだけど・・・私、その人の申し込みを受けることに決めたわ。お付き合いをしようと決めたの。友ちゃんのことは今も好きだけど、あなたはどちらの女性に転ぶのか分からないという、不確定なものだから返事を待っていると、新しい出会いまで失ってしまうわ。それでそろそろあなたとのことは、けじめを付けて新たな道を歩もうと思うの。それに私が引き下がることによって、友ちゃんも横田さんという女性一人に決められるでしょう。もう何も悩むこともなくなるわ。分かってもらえたかしら?それじゃあそういうことで、もう会えないかもしれないから元気でね。その彼女とうまくいくことを祈っているわ。さようなら」
 
 麻理絵は一人で一方的に話すと電話を切った。話を聞いた友樹は(いつまでも返事をしない僕が悪いのだから、それも仕方がないな)と思った。それに彼女の話を聞き終わっても、あまり心は痛まなかった。それが何故なのか分からないが、そこまで彼女のことを愛してはいなかったのかもしれないと思った。そしてその時、友樹の頭の中に優子の顔が浮かんだ(やはり僕が一番愛していたのは優子だった)と、はっきり気付いた瞬間でもあった。
 
 その翌日、友樹は優子に電話を掛けて次の日曜日に会う約束をした。二月の中旬から後半に掛けては例年になく大雪となったので、友樹も工場や自宅の除雪で日曜日も忙しく、優子とは三週間以上も会っていなかった。三月に入ると、さすがに雪もほとんど降ることがなくなった。
 
 日曜日、優子は十時に工場まで迎えに来た。彼女は黒くなった雪が道路脇に残っている国道を南へと向かい、途中で西に右折して琵琶湖のほとりで車を停めた。三月に入ってもまだ寒いので、車のエンジンを切らずに暖房を少しばかり弱めに調整している優子に、友樹が話し掛けた。
「君には長いあいだ返事をしなくて、申し訳なかったね。僕の気持ちがようやく決まったよ」
「じゃあ聞かせて」
「優子ちゃん、僕と交際をしてほしい。やっぱり僕は君を一番愛していたよ。どうか僕の申し込みを受けてほしいのだけど、いいかい?」
「友樹さん、その返事をする前に私の話を聞いてほしいの」
「うん、何?」
「私もあなたのことはたくさん考えたわ。あなたが好きだと言った、もう一人の女性の話を聞いてから今まで色々考えた。あなたは私のことを『好きだ』と言ってくれた。そしてその人のことも『好きだ』と言った。好きになり始めた時期は違うけど、二人の女性を同時に好きだという気持ちを持っていたということよね。以前あなたに言ったけど誰だって過去には色々あるし、二人の女性を好きになったことも仕方がないけど、過去はそれでも構わない。過ぎたことはもういいけど、これから先はそうはいかない。この先、交際をしている時に好きな女性ができたとか、結婚をしてから別に好きになった人ができて、浮気をするなんて許せることではないわ。私は友樹さんのことを愛していたわ。ううん、今でも愛している。愛していればこそ他の女性を好きになってほしくはないし、付き合うようなことは絶対にしてほしくない。でもあなたは京都の女性と私の二人を、同時に好きになったという既成の事実があるから、今後そんなことがないという保証はできないと思う。そんなことはしないと約束をしても、気持ちなんていつ変わるか分からない。そんな人と交際をして、まして結婚でもすれば私は毎日毎日、不安の中で過ごしていかなければならないわ。だから好きな人と一緒になれたことに対しては、幸せを感じるよりも辛さを感じてしまうと思う。もしあなたが、その女性のことを私に話さずに、お断りの返事をしてから私に交際を申し込んでくれたら、あなたの過去を何も知らない私は喜んで申し込みを受けたでしょう。いえ、その女性のことを話してくれたのは構わないわ。ただ私に話した時点で、その女性には「私という存在があるから断った」と言ってほしかった。そう聞いたらどんなに嬉しかったでしょう。あなたが同時に二人の女性を愛せると知った今は、怖くて交際の申し込みは受けたくありません。私はあなたのことを愛した・・・・いや愛しすぎてしまったと言ったほうが正しいでしょう。愛しすぎたがゆえに、あなたの心の中に他の女性が何時(いつ)入ってくるのかと思うと不安ばかりで気がおかしくなりそうなの。私は生涯、私だけを見てくれる、私だけを愛してくれる、そんな男性と結婚をしようと思う。決してあなたがそうではないと言わないけど、信じたくても信じられない気持ちが心のどこかにあるの。だから交際をするのはやめましょう」
 優子は話の途中から目に涙を浮かべ、最後は頬を伝ってこぼれ落ちていた。

 友樹は彼女の話の途中(優子は一体何を言いたいのだろう?)と、話の意味を理解することができずにいた。しかしすべてを聞き終えて、ようやく理解したのだった。つまり僕のような男とは付き合えないと言っているのだ。僕のことを愛してくれている彼女の返事が、まさかのお断りとは自分の聞き間違いじゃなかったのかと耳を疑った。
 二人の女性を好きになり、その二人を追いかけたために、結局二人とも失ってしまったのかと、今さらながら後悔をしたが、もう後の祭りだった。
【二兎を追うものは一兎をも得ず】という、ことわざどおりのよい見本のような話だ。今の優子には、もう何を言っても無駄だろう。それに自分の責任だから言い訳もできない。話し終えた後の二人は、ひと言も話さないまま帰宅した。優子が最後に言った『交際をするのは、やめましょう』という言葉は、二人の永遠の別れを意味するものだと友樹は思った。                                 
                                     第一部 完

 第二部       
      一  再会
 月日が流れるのは早いもので友樹が麻理絵と優子の二人と、ほぼ同時に別れてから二年あまりの年月が流れた。気象庁からは梅雨明け宣言が出され、暑い夏がやってきた平成二十八年七月半ばのことだった。友樹の元に一枚の葉書が届いた。差出人は岡本麻理絵と書いてあるが、苗字は違っていても住所は京都なので間違いなく、あの麻理ちゃんからだと分かった。その葉書は絵葉書でハワイの景色が印刷されていた。絵葉書を読むとこう書いてあった。

「友ちゃん元気ですか?久しぶりですね。以前あなたに話したけど、交際をしていた同じ会社の先輩と先月結婚をしました。ジューンブライドです、ふふふ。
 また京都に来る機会があったら家に寄ってください。電話番号は以前から変わっていません。簡単ですが、これで失礼します」
 そうか、あの麻理ちゃんが結婚をしたのか、あの時『交際を申し込まれた』と言っていた人と。友樹は二年余り前の過去を振り返りながら、思い出に浸っていた。
 
 その日の夜、友樹は麻理絵に電話を掛けた。
「麻理ちゃん、結婚おめでとう」
「ありがとう」
「幸せそうだね」
「ええ、とっても。それで友ちゃんはどうなの?」
「どうなのって?」
「あの時の彼女とはどうなっているの?」
「ああ、あの子・・・・実は君と最後の電話で話した後、その子に交際を申し込んだけど見事に断られちゃってね、それからは一度も会っていなくて、つまりふられてしまったというわけだよ」
「ええっ、そんなことだったの。てっきりうまくいっているとばかりに思っていたわ」
「いや残念ながらうまくいかなかったよ」
「でもその子は友ちゃんのことを好きだったのでしょう?それなのに何故断ったのかしら?」
「それだけど、彼女が言うには『二人の女性を同時に愛せる人なんか信用ができない、今後もそんなことが起こる可能性があるから』と言っていた。それと『自分の愛した人が、何時(いつ)ほかの女性を好きになるか分からないなんて、不安で付き合えない』とも言っていたよ」
「そうなの、そう言う彼女の気持ちは私にも分かるわ。若い男女が交際をするのなら、お互いに百パーセントの信頼感がなければいけないと思うの。たとえ百パーセント信じているつもりでも、女は心の中に不安が付いてまわるのよ。だから彼女も友ちゃんのことを愛しているから、百パーセント信頼できないあなたと付き合うのは、却って自分が辛い思いをすることになるので交際を断ったんだと思うわ」
「そうだね、麻理ちゃんの言うとおりだよ。すべては僕の蒔いた種だから仕方がないよ。出来ればその種を自分で刈り取るチャンスがあれば良かったんだけど、もう会えないからそれも無理だね」
「つまり友ちゃんは、今でもその子のことが好きなのね」
「嫌になって別れたわけじゃないからね」
「そうでしょうね、なんだか私も多少の責任を感じるわ」
「君には少しも責任はないよ」
「でも私が友ちゃんに手紙を出さなければ良かったのよ」
「それは違うよ、僕が君と会わなければ良かったんだ。たとえ会ったとしてもそれから進む選択肢を僕が誤らなければ、こんなことにはならなかったと思っているよ。どちらの女性を選ぶにしても返事をすぐにして、そのことは選んだほうの女性には言わずにいるのが正解だと、後で思ったよ」
「でも終わってしまったことを蒸し返しても仕方がないから、また他のいい子を見つけなさいよ」
「そのつもりではいるけど、あれから二年以上も経つというのに何だかそんな気になれなくてね、まだ彼女に未練があるのかな、あはは」
「元気を出して、早く新しい出会いを求めて頑張りましょうよ」
「分かったよ。ありがとう」
「いいえ、こちらこそわざわざ電話をありがとう。元気でね」
 
 その後、友樹は麻理絵の住む京都には行く機会がないまま、平成二十九年の年が明けた。そして迎えた春の三月、友樹が高校時代に仲良くしていた同級生の男から手紙が届いた。その文面には「このたび結婚することになったので、是非とも式に出席してください」との内容で、招待状と一緒に出席の有無を知らせる往復葉書が入っていた。もちろん出席に丸印をして葉書を送付したのは言うまでもない。
 
 やがて五月に入り、同級生の結婚式の日がやってきた。式場に着いてから招待された他の同級生と共にテーブルに座り、昔話に花を咲かせながら周りを見ていたその時だった。少し離れたテーブルに座っている優子を見つけたのだ。友樹は一瞬自分の目を疑い、見直したが間違いなく彼女だ。(どうしてここに?)と思ったが、新婦の友人とか同級生だったら来ていてもおかしくはない。彼女は自分より前の席にいるので、気付いていないようだ。それからの友樹は新郎新婦には失礼だが、結婚式よりも優子のことが気になってばかりいた。そして式が終わったら彼女に声を掛けようと決めたのだった。二時間ほどの式が滞りなく終わると、今日の主役が新婚旅行に行くので二人を見送った後、優子に近づき声を掛けた。
「優子ちゃん、久しぶり元気そうだね」
 名前を呼ばれた優子が後ろを振り向くと、そこに友樹が立っていたので驚いて聞いた。
「あらっ、友樹さん・・・どうしてここに?」
「今日の新郎は高校の同級生で仲良くしていてね、それで式に出席したというわけだよ」
「そうだったの、私も同じよ。新婦の女性とは高校の同級生で友人なの」
「でも偶然だなあ、こんな所で会うなんて。かれこれ三年ぶりくらいだよ」
「あれから元気にしていたの?」
「体のほうは元気だったよ。でも君にふられて心は病んでいたけどね。あはは」
「何よ、それは私のほうが言いたいわ。あれ以来、電話の一本もくれないのだから」
「そりゃあ、交際を申し込んで断られた僕が、君に電話なんて掛けられるわけはないだろう。もし掛けたとしても出ないだろうと思ったよ。それにそうなったのも、すべて僕の責任だから君には辛い思いをさせて、申し訳なかったと反省しているんだ」
「いいえそうじゃないわ。あの時の私は、確かにあなたの申し込みを断ったけど、もう二度と会わないとか、会いたくないとは言っていないわ」
「それってどういうこと?僕の立場から言うと断られたことはイコール、今後もう会わないと捉えるのが普通だろう」
「私はそんなつもりで断ったわけじゃないわよ。それまでだって交際はしないで会っていたのだから、これからも当分の間は今までと同じような形でいようと思ったの。それで友樹さんが自分のしたことを充分に反省して私への信頼を取り戻せたら、その時は改めて交際をしようと考えていたのよ」
「なんだか話がややこしくなってきたな・・・ここで立ち話もなんだから、もし良かったら場所を変えて話そうよ」
「そうしましょう」
「じゃあ僕の車に乗って行こうか、君の車はここに停めさせてもらえばいいから」
「実は一年ほど前に車を買ってね、この車だよ」
「そうなの、真っ白できれいね」
「ありがとう、じゃあ乗って」
 
 優子が助手席に乗ると友樹は車を出した。そして運転をしながら彼女に話し掛けた。
「この車を買ってから一年が過ぎたけど、乗ってもらった女性は母を除いては君が初めてだよ」
「そうなの、それは光栄だわ。じゃ、あなたは今も付き合っている人がいないということね」
「残念ながらいないよ」
「どうして誰とも付き合わなかったの?」
「それは好きな子ができなかったからだよ。僕のことより君はどうなの?誰かと付き合っているの?」
「誰も付き合っていないわ」
「だったら、また以前のように僕と会ってくれないかな?」
「まだ私のことを好きなの?」
「そりゃあ嫌いになって別れたわけじゃないからね。てっきりふられたと思い込んで諦めただけだよ。優子ちゃんのほうこそ、僕に電話を掛けてくれたら良かったのに」
「だってあの時に断ったせいで、友樹さんは怒っていると思ったから怖くてできなかったわよ。それであなたの怒りが治まったら、また連絡があるだろうと思って待っていたのよ」
「なんだかお互いに大きな誤解をしていたようだね。もし先ほどの結婚式場で再会しなかったら、こうやって話すこともなかったし、僕たちは誤解をしたままで終わっていたのだろうな」
「そうね、いくら隣町に住んでいるとはいえ、偶然に会うなんて滅多にないことだわ」
「今日の再会は、神様が『おまえたちは別れてはだめだぞ』と言って、引き合わせてくれたのかもしれないな」
「きっとそうだわ、ただ友樹さんは自分が起こした過去の過(あやま)ちを反省しているでしょうけど、私はあなたを百パーセント信頼するには至っていないわ。だから今は会うだけにしましょう」
「僕は会えるだけで嬉しいよ」
「友樹さんのことを好きという気持ちは今も変わっていないけど、心の中の不安が取り除けるまではそうしてほしいの。それであなたのことを百パーセント、いえ百二十パーセント信頼できるようになったら、そのときは改めて交際しましょう」
「分かった、信頼されるように努力するよ」
 友樹は優子にそう言って、失った信頼を回復する努力を惜しまずにしようと、心の中で誓ったのだった。
 
 それからも以前のように月に二回か三回会った。二人は県内の観光地はもちろん、時には隣県の福井や岐阜県まで足を延ばして遊びに行った。一度は友樹が勝手知ったる京都まで行き、優子を名所旧跡などに案内した。

二   恋人のふり?
 月日は流れ師走に入った十二月の最初の日曜日、その日も友樹は優子を車に乗せて、心地よい日差しの中を走っていた。そんな中、優子が「ひとつ相談したいことがあるの」と言った。「なんだい?」と聞いたら、彼女は話し始めた。
「私の住んでいる近くの村に、親戚で山下という苗字の叔母さまが住んでおられるのだけど、その叔母さまが一週間ほど前に私の家に来られて、母と何やら話をしていたの。話が終わって帰られた後で、母が私のところへ来て『優子、山下の叔母さまが、おまえにお見合いの写真を見てほしいと言って、持って来られたわよ』って言うの。お見合いをする気はなかったから写真も見ようとは思わなかったのだけど、母の義理を立てて見るだけは見たの。だけど特に何も感じるものはなかったわ。それから三日ほど後に叔母さまがまた来られて、今度は直接私に話し掛けて『お見合いの写真を見てくれたと思うけど、どう思った?』って聞かれたの。でも『どう思った』と聞かれても、特に何も感じなかったので返事のしようがなかったわ。それで仕方がないから『一流大学を出て、一流の会社に勤めておられるかたですね。私のような高卒の女にはもったいなくて釣り合いませんわ』と答えたの。そうしたら叔母さまは『向こうのかたは、そんなことはちっとも気にしないとおっしゃっておられるので、何も気にしなくていいのよ』って言われるの。そして最後に『結果は別にして、一度だけでも会ってもらえない?返事は一週間後でいいから考えておいてね』と、言って帰られたの。それで私はどうしようかと、迷っているわけなの。ねえ友樹さん、私はどうしたらいいと思う?」
「う~ん、それは中々難しい相談だね。そうだなあ・・・迷うのは分かるけど、君の気持ちの中で見合いをしてみようと思う気持ちと、したくないという気持ちの比重はどちらが重いのか、それとも本当に五分五分で決められないのかを教えてくれないか」
「そうね・・・私の本心はしたくないの。でも叔母さまと母に義理立てして、一度はしないと悪いかなとも思っているわ。だから五分五分というのが本音よ」
「そうか、ますます難しいな・・・僕の本音としては優子ちゃんのことが好きだから、断ってほしいと思っている。でもその叔母さまも親切で君に見合いの話を持ってきてくれたのだから、それはそれで仕方がないと思うよ。それに僕はまだ君と交際しているわけじゃないから『見合いなんかするな』と命令のように言うこともできないので、これは僕の願望として断ってほしいと君に言うよ。それともうひとつは見合いをした後、断るつもりで一度だけ会ったけど、話をしている内に会話も弾んで妙に気が合ってしまい、また会おうということになるかもしれないじゃないか。そうなったら話がとんとん拍子に進む可能性もあるからね。そして僕は再び君にふられてしまうという、僕にとって最悪の結末を迎えるわけだよ。その人と見合いをしなければ、そんなことになる心配はないだろう」
「ふふふ、友樹さんの願望ね。あなたの望みどおりになればいいけど、取り敢えずもう一度よく考えてから叔母さまに返事をするわね。でも友樹さんに相談して色々と参考になったので良かったわ」
 
 数日後、優子から友樹に電話があり「話があるから次の日曜日に会ってほしい」と言ってきた。
 約束の日曜に会うと、優子はすぐに本題を話し始めた。
「先週話したお見合いの件だけど叔母さまにお断りしたの。それで断る理由を聞かれたから『私、お付き合いをしている男性がいますから』と言ったのよ。そしたら叔母さまは『あなたのお母さんに聞いた時は、娘は誰も付き合っている人はいないと思う、って言われたからお見合いの話を持ってきたのよ』なんて言うの。確かに私は恋人として付き合っている人はいないので、叔母さまに言ったことは半分くらい嘘で、母も知らなくて当然だから『付き合っている人はいないと思う』って答えるわよね。それはいいのだけど、問題はその後なのよ。母が私に聞いたの『優子、あなたお付き合いしている男の人がいたの』って。それで叔母さまに嘘を言ったとも言えず、母に言ったの『ええいるわよ、そのかたは高月の中川さんという男の人よ』って。母はそれを聞いてこう言ったの、『じゃあ、一度家に連れてきて私に紹介してちょうだい』と。それで友樹さん、一度家に来て母に会ってもらえないかしら?交際はしていないけど、恋人のふりをしてくれればそれでいいから」
 優子の話を聞いた友樹は信頼を回復するチャンスだと思った。それと彼女の母にも会えるので、母に自分の存在を知ってもらう絶好の機会だと思った。
「そう言って断ったの。まあ僕としては嬉しいけど、お母さんは気になって当然だよね。それと別に恋人のふりはしなくても、君を好きなのだから普通にしていても大丈夫だと思うけど。じゃあ、いつ家に行こうか?」
「今日、帰ってから母と相談して決めるわ」
「じゃあ決まったら連絡して」
 
 その日の夜、優子から連絡があった。
「例の件を母と相談したところ、十二月は何かとせわしいから年明けの二日に決めたのだけど、どうかしら?」
「正月早々に行くの?」
「父も仕事が休みで家にいるから。それに正月だったら近所の人に見られても変な詮索はされないと思うの。親戚が年頭の挨拶に来ているくらいに思うでしょう」
「ははは、僕は見られても構わないけど。そうかお母さんだけでなく、お父さんにも会うのだね。そりゃあ大変だ、僕も気を引き締めてかからないと」
「じゃあそういうことでお願いね。時間はまた今度会った時に言うわ」

 新しい年が明け、平成二十九年の一月二日になった。友樹は優子と約束をした訪問時間の十一時に間に合うようにと、十時半に家を出て途中にある店に寄って、手土産を買った。彼女の家には少しばかり早く着いたが、遅れるよりは良い。玄関のチャイムを鳴らすとすぐに優子が出てきた。
「あけましておめでとう、これ口に合うかどうか分からないけど」
 友樹はそう言って、買ってきたばかりの洋菓子を彼女に差し出した。
「あら、そんな気を使わなくてもよかったのに」
「いくらなんでも家に招かれて手ぶらで来るわけにはいかないよ」
「じゃあ頂きます。ありがとう。さあどうぞ寒いから早く入って」
「お邪魔します」
 家の中に入ると優子は彼を応接間へと案内した。椅子に腰掛けると、ほどなく両親が挨拶にやってきた。友樹はすぐに立ち上がり
「初めまして、中川といいます。正月早々にお邪魔してすみません」
 そう言って挨拶をした。すると優子の父が「いらっしゃい、まあ座ってください」と言って自分たちも正面に腰掛けると挨拶を始めた。
「優子の父で、敏夫といいます」
「母の佳奈子です、よろしくお願いします。日頃は娘が大変お世話になり、ありがとうございます」
「僕のほうこそ、仲良くしていただいて喜んでいます」
「そうですか、あなたがこの優子とお付き合いをしている中川さんですか。このまえ優子から聞いて大変驚きまして、ぜひ一度お目に掛かりたいから家に来てもらえないかと、この子に話したわけです」
「僕も一度はお伺いして挨拶をしたいとは思っていたのですが、中々その勇気が出なくて遅くなってしまい、すみませんでした」
「それは仕方がないことですわ。何かきっかけがないと伺いづらいものですよね。でも今回はそのきっかけがあったので、こうやって来ていただき、お目に掛かることができて良かったと思います」
「僕も挨拶ができて嬉しいです」
「じゃあゆっくりしていってくださいね。それと中川さん、今からお昼の用意をしますので食べてくださいね」
 母はそう言うと部屋を出た。すると今度は部屋に残った父が話し掛けてきた。
「娘に聞きましたが、家で車の修理工場をされているそうですね」
「そうです、中川自動車修理工場と言いまして高月町でしています」
「なんでも京都の専門学校へ行かれて整備士の免許を取られたとか」
「はい」
「仕事は忙しいですか?」
「今の季節はスノータイヤの交換とか、雪が積もるとスリップ事故も増えるので忙しいです。それ以外の季節は車検や点検、あとはオイル交換などで特別に忙しいことはありません」
「そうですか、しかし手に職を持っているというのは心強いことです。定年がないので体さえ問題なければ、いくつになっても働けますよ。あっそうだ、中川さんは、いける口ですか?」
 父はそう言うと指でお猪口(おちょこ)を持つ仕種をして、口元に持っていった。つまり酒は飲めるのかと聞いているのだ。
「少しは飲みます。十二月にも工場の忘年会がありまして、働いてもらっている方々と飲ませていただきました」
「それは良かった。じゃあ昼飯の時に一杯やりましょう」
「でも僕は今日、車で来ていますので」
「いやいや、そんな心配はしなくていいよ。帰りは娘に送ってもらえばいいから。明日また君を迎えに行ってもらうから、車を取りに来たらいいよ」
 友樹は父にそう言われると断る理由も見つからず、飲むことにした。間もなく母がやってきて「お昼にしましょう」と言うので、友樹は優子に案内されるままリビングへ付いて行った。四人掛けの長方形のテーブルで友樹と優子が並んで座り、両親は向かい側の席に並んで座った。父はさっそく徳利を手に取り、友樹に「さあ、どうぞ」と言って差し出した。友樹は注いでもらった猪口を一旦テーブルの上に置くと、父が持っていた徳利を受け取り注ぎ返した。優子と母は酒を飲まないのでウーロン茶をコップに入れた。そして四人の用意が整うと、父が「さあ、乾杯をしよう」と言って猪口を持った手を前に出した。
「今年も私たち四人が健康で幸せでありますことを祈って、乾杯」
 他の三人も父の音頭に続いて「乾杯」と言って飲み物を口にした。そして母が友樹に「さあ、どんどん食べてくださいね」と言うと、優子が気を利かせて小皿に食べ物を入れて友樹に渡した。四人は一時間余り、飲んだり食べたりしながら喋っていたが、話題の中心はどうしても友樹のことになるのは仕方がなかった。父は普段から酒を飲んでいるが今日は友樹と一緒に飲み、いつも以上のペースで飲んだせいか酔いの回りも早く、食事が終わると友樹に「私は少し休ませてもらうから、ゆっくりしていきなさい」と言って、自分の寝室へ行ってしまった。母と優子は食事の後片付けをしていたので終わるのを待って、それから優子と一緒に応接間に入った。しばらくすると母がお茶を持ってきて、自分も椅子に腰掛けると友樹に話し掛けた。
「今日はお父さんの、お酒の相手をしていただいてありがとう。息子もいるのだけど、お酒を飲まないのでお父さんはいつも一人で飲んでいるから、あなたと一緒に飲めたのが嬉しかったみたい」
「そうだったのですか、僕もおいしく飲ませていただきました。それにお母さんの手料理が、とてもおいしくて少し飲みすぎました」
「あらあら中川さんはお世辞が上手ですね、ふふふ」
「本当ですよ。優子さんもお母さんから教えてもらって、きっとおいしい料理を作られるのでしょうね」
 友樹はそう言って彼女の顔を見ると、優子は笑いながら言った。
「おいしいかどうかは分からないけど、今度は私の料理を食べに来てね」
「じゃあまた来させてもらおうかな」
「ぜひ来てください」
 母は隣で二人の話を聞きながら、にこにこと笑っていた。その顔は友樹がまた家に来ることも、優子と付き合っていることも許したように見受けられた。
 そして友樹に言った。
「もう聞いていると思いますが、このまえ親戚のかたが優子にお見合いの話を持って来られましてね、この子はその話を『付き合っている人がいるから』と言ってお断りしたのですよ。それで私はどんなかたと付き合っているのか、どうしても知りたくて中川さんに今日来ていただいたという訳です。滅多なことはないと思いましたが、この子の付き合っている男の人が、もし変な人だったら許すわけにはいかないでしょう。でもあなたと会って、あなたと話して納得しました。
中川さん、これから先のことは分かりませんが、少なくともお付き合いしている間は娘のことをよろしくお願いします」
「ありがとうございます。僕のほうこそよろしくお願いします」
 友樹と母の会話を聞いていた優子は、複雑な心境だった。それというのも彼とは正式に交際しているわけではなく、今日は恋人のふりをしてもらっているだけだからだ。もし本当に交際していて恋人と言える間柄なら、二人の会話は笑って聞いていられたのに。優子は彼のことを、まだ百パーセント信頼していない部分があったので、正式に交際を受け入れることはできなかったが、彼の今日の言動を見ていても徐々ではあるが、信頼を取り戻しているのを感じたのだった。
人は信頼を失うのは一瞬だが、取り戻すのはその何十倍もの時間が掛かるという良い見本だ。一旦失った信頼は、それを取り戻すまでに二年も三年も掛かるということを忘れてはならない。そうならないためにも、人は信頼を失わない努力を常にしなければならないのだ。何度も同じ間違いを繰り返すとか、回復不能なほどの大きい失敗をしないように、努力をすることだ。

 翌日、友樹は車を取りに行くため、優子に迎えに来てもらって家に行った。「少し家に寄っていかない?」と彼女は言ったが、昨日の今日なので断って自宅へと帰った。友樹も冬期間は仕事のほうが忙しいので、優子に会うのも月に二回と減った。工場の従業員は休んでもらっても、父や自分はお客さんの要望があれば、日曜を返上してでも仕事をしなければならないのだ。
 
 一月も半ばが過ぎた日曜日、久しぶりに仕事を休んだ友樹は優子と会った。
「優子ちゃん、ちょっと久しぶりかな?正月は色々とありがとう」
「こっちこそ無理を言ってごめんね」
「僕は楽しかったよ。お父さんもお母さんも気さくなかたで話も弾んだしね。それにお母さんの料理は本当においしかったよ」
「ありがとう。その時も言ったけど、また私も作るから食べに来てね」
「必ず行くから呼んでよ。でもまた恋人のふりをしなくちゃならないね」
「そうね、そのことでちょっと聞くけど、このまえ来た時は友樹さん、恋人のふりをしていたの?」
「ははは、実はしていなかったよ。て言うか、いつも君と僕が会っているのと同じように接していただけだったよ。でも君の両親から見れば恋人同士のように見えたのかもしれないね。だから今度伺う機会があっても、自然に振る舞えば問題ないと思うよ」
「じゃあそうしましょう」
「でも優子ちゃん、僕はまだ君と本当の交際はできないのだろうね?」
「友樹さん、私もあなたのことは好きなのよ。だからこうやって何度でも会っているわ。もちろん家に遊びに来てもらっても構わない。交際はしていなくても実際は交際しているようなものよ。ただ交際という二つの文字を使っていないだけなの。極端な話になるけど、このまま会い続けていて、あなたのことを完全に信頼できる人と思うようになった時は、交際をしないまま結婚のことを考えるかもしれないわ。そうなったとしても別におかしくはないでしょう。ほかのカップルはどういう手順を踏んでから結婚するのかは知らないけど、私たちのようなカップルがいてもいいと思うのだけど」
「それはそうだけど・・・僕としては交際という言葉を使って、君を束縛したい気持ちも持っているよ。でも交際しないままで会い続けて君とゴールインできたら、それはそれで最高の形だから僕は今のままでも構わないけど。それと君が僕のことを『好きだ』と言ってくれるだけでも、とても嬉しいからね」
「分かってもらえて私も嬉しいわ」
 
 そんな会話を幾度となく繰り返しながら月日は流れ、二人が再会してから一年が過ぎた。優子は友樹が過去に犯した過ちについては、自分の気持ちの中ですでに許していた。それと彼のことを信頼もしていたが、敢えてそれを口に出さずに会っていたのだった。もし彼に言えばもちろん喜ぶだろうけど、信頼してもらえるように頑張っているのだし、言ったからといって特に何かが変わることもないだろうと思って、言わないことにした。しかしその優子の考えが、後に仇(あだ)となって返ってくることを、今の優子は知る由もなかった。

三   お見合い
 やがて秋になった十月半ばのある日の夜、友樹は家族と一緒に晩御飯を食べていると母が聞いて来た。
「あなたも来年は二十八になるけど、どうなの誰かお嫁さんに来てくれるような子はいないの?」
「全然いないというわけじゃないけど、結婚してくれるかどうかは分からないんだ」
「お嫁に来てくれるほどの仲ではないということなの?」
「そうだなあ・・・そうかもしれないな。付き合っていないから、話が前に進まなくてね」
「それじゃただの友達なの?」
「そうでもないよ。もう数え切れないくらい会っているし、付き合うかどうかの話もしているんだけど、なかなか良い返事がもらえなくてね」
「おまえがその人に申し込んでも『はい』と言ってくれないのかい?」
「そうだよ、だから話が前に進まないので結婚の話までいかないのだよ。そうだ父さん覚えているかな?僕が整備士学校の四年の時、夏休みに帰省して軽い事故を起こしただろう。その時に相手の車を父さんが修理したんだけど、その車を運転していた若い女の子のことを?」
 友樹がそう聞くと父が答えた。
「それは覚えているよ。しかし随分前のことだろう」
「そうだね、かれこれ五年以上も前のことだよ。さっき話した子は、あの時の女の子のことだよ」
「そうだったのか、じゃあもう五年も仲良くしているのか?」
「色々とあって丸々五年というわけではないけど、でも仲良くしてから三年くらいは経つかな」
「三年も仲良くしていたら結婚の話をしても、おかしくはないだろう?その子の歳はいくつだ?」
「二十三歳だよ」
「そうか、まだ早いといえば早いが、嫁に行ってもおかしくない歳だよな」
 そこで母が口をはさんだ。
「三年も仲良くしていて話が前に進まないようだったら、もうだめなんじゃないのかい?」
「僕は決してそうは思っていないけど、確かに不安なところもあるよ」
「他には誰かいい子がいないのかい?」
「今のところはいないよ」
「友樹、今晩この話をしたのはほかでもない、おまえにお見合いの話を持ってきてくれた人がいるからだよ。それで、おまえが誰とも付き合っていないのなら、一度お見合いをしてはどうかと思って話を始めたのよ。お見合い用の写真じゃないけど、個人的に写したのを預かっているから、それを見て気に入ったら会うだけでも会ってみたらと思うのだけど」
「少し考えさせてよ」
「別に急がなくてもいいけど、先方さんに返事をしないといけないから一週間ほどで返事しておくれ」 
 
 両親との会話も終わり、友樹は自分の部屋に入ると優子のことを考えた。彼女から信頼を取り戻そうと一生懸命に頑張ってきたが、彼女は相変わらず正式に付き合おうとは言わないし、こちらから何度も申し込むのは気が引けた。自分が交際したいことは彼女も十分承知しているので、もし付き合う気があれば、彼女から『そろそろ正式に交際をしましょう』と言ってきてくれても良いと思うのだが、いつまで経っても言ってくれないのでは先ほど両親にも話したように話が前に進まず、結婚どころではない。優子は『交際しなくても結婚のことを考えるかもしれない』とは言っていたが、『結婚をしてもらえませんか』と言うのは男のほうから言うべきものだと思っているので、今の二人の状態を考えると、それを言えるような雰囲気ではない。どんなカップルでもその場の空気を読んで、それを言うなら【今でしょ】という時があるのだが、その(今)が全くと言っていいほど無いのだ。彼女とこのままの状態をいつまで続けるのか、そろそろ真剣に考えなければならない時期がやって来たのかもしれない。自分は優子のことを愛していても、彼女の言う友樹に対しての『好き』は程度も分からない。好きと愛しているでは大きな違いがある。友樹は未(いま)だかって、優子から愛していると言われたことがなかった。だからといって、そんなことを聞いても悪い答えが返ってくるのが嫌だし、聞く気にはなれなかった。そんなことで最近は少々ストレスが溜まり気味なので、母が言っていたお見合いを、結果は別にして(一度してみようかな)と考えていた。
 
 数日後、友樹は母に言った。
「先日、話してくれた見合いの話だけど、してみようかと思っているんだ。それで話を進めてくれないかな」
「それは良かったわ。お相手の写真はもう見たの?」
「いや、まだだけど」
「写真も見ないで決めるのかい?」
「それはそうだけど、写真は今の技術なら奇麗に見えるように加工できるし、人柄も分からないから、まずは会うのが大切だよ」
「おまえがそう言うのだったらそれでいいよ。それとおまえも普通の写真でいいから、一枚もらえるかい。相手に見せないといけないからね」
 友樹はいよいよ決心をしたのだった。見合いとは結婚を前提にしているのだから、もしお互いが気に入れば話はとんとん拍子に進むだろう。今は十月だから、早ければ来年には結婚できるかもしれない。但し、この見合いの話は優子には絶対にしないでおこうと思った。また三年前の二の舞になるのは決まっている。今まで頑張って回復してきた信頼を、一気に失うことは目に見えていた。
 
 二週間後の日曜日、お見合いの日がやってきた。場所は長浜市内の広い庭園がある懐石料理のお店で、時間は午前の十時。時間前に母と一緒に部屋に入った友樹が相手を待っていると、時間どおりに、仲介してくれた女性が母と本人を連れて入って来た。仲介してくれた女性は、昔からの母の友人で、名前を坂田と名乗った。今でも時々は食事に行ったりして、付き合いを続けているそうだ。
 最初にその坂田さんが話を始めた。
「お待たせしてごめんなさい。本日はお日柄も良く、お見合いを祝うような秋晴れになりましたね。では早速ですけど、お二人の紹介をします」
 そう言って、初めに友樹を彼女に紹介した。
「こちら中川友樹さんです。中川さんは自動車の一級整備士免許を持っておられ、自宅でお父さんと一緒に修理工場を経営なさっているの。お歳は二十七歳です」
 次は友樹に彼女を紹介した。
「こちら、藤川江梨香(ふじかわ えりか)さんです。お歳は二十五歳です。藤川さんは長浜の田村町にある文教短大を卒業されて、今は地元の幼稚園で働いておられます」
 友樹は紹介されながら彼女を見たが、照れくさいのか少しうつむきかげんだった。洋服姿の彼女は中肉中背といったところか、健康そうに見える体つきだった。髪は少し長くて肩の付近まであった。それを染めることもなく、黒髪のままだが光ってきれいだった。たまに顔を上げる彼女の顔を見ると、割と小顔で卵型をしている。化粧はそれほど濃くはなく、目鼻立ちの整ったいわゆる美人系の顔をしていた。しかし裏を返せば、こんなきれいな女性が、それも二十五歳なのに恋人のひとりもいなくて、お見合いをするのはおかしく感じた。しかしそんなことは聞くわけにもいかない。
 しばらくは四人で話していたが、ほどなくして坂田さんが「じゃあ天気もいいことだし、今からはお二人で庭園でも見ながら散歩をして、話をしてらっしゃい」と言ったので、そうすることにした。
 
 二人が並んで歩くと、彼女の身長は友樹の百七十五センチと比べて十センチあまり低く、おそらく百六十を少し上回った高さだと伺えた。初めての出会いということで当然のことだが、最初は会話も少なくて少し気疲れしたが、ある話題をきっかけに話が弾みだした。
 彼女の苗字が藤川だったので、プロ野球の阪神ファンだった友樹は「藤川さんといえば、プロ野球の阪神タイガースに藤川という投手がいますけど、ご存知ですか?」と聞いたのだ。すると彼女は「私の父は野球が大好きで、阪神を応援しています。それで私も子供の頃から父に洗脳されまして、阪神のファンになりました。だから藤川投手はよく知っていますし、応援しています」と、笑いながら答えたのだ。その話題をきっかけに野球の話で盛り上がり、二人の仲は急速に接近したのだった。

 一時間ばかり話した後、部屋へ戻ると二人の母と坂田さんが待っていた。
「今から昼食にしますので、ここへ持ってきてもらうように言います」
 坂田さんはそう言って、部屋に備え付けてある電話の受話器を取った。ほどなく運ばれてきた料理を食べながら、坂田さんが友樹と江梨香に話し掛けた。
「お二人で色々と話をされましたか?」
 友樹は江梨香の顔をちらっと見てから先に応えた。
「はい、藤川さんは知識も豊富で話題にも事欠かず、楽しく話ができました」
 じゃあ藤川さんはどうでしたか?」
「ええ、色々と話しましたが、中川さんがプロ野球の阪神ファンだということが分かり、私と同じだったので、その話が印象に残りました」
 江梨香がそう答えると、坂田が彼女に聞いた。
「そうですか、それじゃ気が合って話も弾んだでしょう?」
「とても楽しい時間を過ごさせていただきました」
「それは良かったですね」
 昼食の終わりが、お見合いの終了時間を告げたが、友樹は江梨香と話して楽しかった時間の余韻がまだ残っていて、もう少し二人で話をしたいと思い、坂田さんに言った。
「あの~、藤川さんさえ良ければ、もう少し二人で話をしたいのですが?」
 友樹の言葉を聞いた坂田が答えた。
「あらあら、それは気が付かなくてすみません。私もお見合いを取り持つのは今迄から何度もありますけど、いつもは昼食が終わるとお見合いも終わって、帰っていましたので。じゃあ藤川さんが良ければ構いませんよ。どうですか、藤川さんは?」
「私もそうしたいと思います」
「じゃあ私とお母さん達は先に帰りますが、ここは予約時間がきていますので、お二人はどこか別の場所へ行って話してくださいね。それと中川さん、お話が終わったら藤川さんを自宅まで送ってさしあげてください。私はあなた達のお母さんを送りますから」
「分かりました。ご迷惑をお掛けしますが、母をお願いします」
 
 そこで五人は別れ、友樹は自分の車に江梨香を乗せた。そしてすぐ江梨香に非礼を詫びた。
「無理を言ってすみませんでした。坂田さんが言われたように、本来は食事が終わったら帰るのでしょうけど、僕の勝手で引き留めてしまいました」
「構いません。私も午後は別に用事もありませんでしたし、食事が終われば別れるという、型にはまったお見合いじゃなくてもいいと思います」
「そう言ってもらえると嬉しいです。延長料金は払いますので」
 友樹が冗談でそう言うと、江梨香は声を出して笑いながら言った。
「中川さんは、面白いかたですね。もちろんいい意味でね」
 友樹は車を走らせながら江梨香に聞いた。
「どこか行きたい所とかありますか?」
「特にはありません」
 江梨香がそう言ったので、友樹は湖岸道路を長浜から彦根方面に向けて車を走らせた。そして今の時期は静かな彦根の松原海水浴場へ着くと、車を停めて二人で湖岸を散歩しながら友樹が話を始めた。
「実は今日のお見合いですけど、母が『藤川さんの写真を預かっている』と言っていたのですが、それを僕は見ないまま、あなたとお見合いをしました。なぜ見なかったのかと言いますと、写真を見て見合いをするか、しないかの判断をしたくなかったのと、よけいな先入観を持ちたくなかったからです。まずはお見合いの席で本人を見て、話をして、それから判断をしたかったのです。写真を見て気に入らないとか、好きなタイプじゃないと言って断るのは、相手にも失礼になると思いました。それが写真を見なかった理由です」
「そうでしたか、お心遣いありがとうございます。お見合いの件では私からも中川さんに話しておきたいことがあります。本当のことを言いまして、私は今日だけでなく今後も含めて誰ともお見合いをするつもりはありませんでした。私は仕事が保母という性質上、若い男性と知り合う機会が今までありませんでしたので、本当はお見合いをして知り合うのがいいのでしょうけど、私の性格ではとても恥ずかしくて、それと何を話せばいいのかも分からなくて、したくありませんでした。ではなぜ今日に限ってお見合いを受けたのかと言いますと、それはあなたの写真を見たからです。お見合い写真といえば、普通は背広を着てネクタイを締めて、写真屋さんで綺麗に撮ってもらうものでしょう。それなのに中川さんの写真は、自宅の修理工場で汚れた作業服を着たままで写したものでした。そんな写真をお見合いの相手に見せるなんて、一体どんな人だろうと逆に興味を持ちました。そんな理由で今日のお見合いを受けた訳です」
「分かりました。その写真に関しては失礼かなとは思ったのですが、最近の写真が他になかったので仕方なく渡しました。何年も前の写真ならあったのですが、そんな古いものでは今よりもかなり若くて、詐欺罪で訴えられると困るので止めました」
「詐欺罪ですか、ふふ、本当に面白い人」
「じゃあその写真が却って良かったというわけですね」
「ありきたりのお見合い写真だったら受けなかったと思います。それともうひとつは、私の写真もそこらへんで写した普通の小さな写真だったのですよ」
「それは確か母がそう言っていました」
「最初からお見合いをする気がなかったので、お見合い写真なんて作っていませんでした。しかし、母から『友人に義理があるから』とか言われて、仕方なく普通の写真を渡しました」
「そうだったのですか、あなたから頂いた写真を見なくてすみませんでした」
「いいえ、写真を見てから実物を見て(全くの別人じゃないか)と思われたら、それも詐欺になるから、見ていただかなくて良かったと思います、ふふふ」
 江梨香も友樹に感化されたのか、軽く冗談を言った。
「それでその汚れた作業服を着て撮った写真に興味を持たれ、実際に実物の僕を見て、どんな男だと思いましたか?」
「そうですね、やはり思ったとおり飾り気がなくて、ありのままの自分を見せている人だと思いました。それにちょっと予想外でしたが、面白い人です」
 江梨香は笑いながらそう答えた。そして続けて聞いた。
「中川さんは私を見てどう思われましたか?」
「率直に言って第一印象は、きれいな人だと思いました。それにも関わらず話しやすくて、棘もない人だと。きれいな女性はイコール、冷たいとか棘があるのでは、という先入観を持ちがちですが、あなたにはそういうところが全然なくて、素敵な人です。ただこれは失礼な言い方で、気に障られたら許してほしいのですが、そんなきれいで素敵な人なのに、なぜ今まで付き合っている人がいなかったのか、それが不思議で少しばかりあなたを疑っている部分はあります」
「とても褒めてばかりいただいて恥ずかしいですわ。中川さんの言葉を素直に受け取ってもよろしいのかしら?『今まで誰とも付き合わなかったのか?』その答えですけど、今は誰とも付き合っていませんと答えておきます。つまり今の言葉の裏を返せば、過去には付き合っている人がいたということです。残念ながら別れるという結果になりましたが、そんなこともありました」
「そうでしたか、それは当然です。あなたのような女性が、過去に一度も浮いた話がないと言えば嘘に聞こえますから。その話を聞いて少し納得しました」
「あら少しですか?」
「ははは、藤川さんの話は信じていますよ。ただ現在は誰とも付き合っていないけど、あなたさえその気になれば、今後いくつも良い話があるだろうなと思いますし、僕にとってはそれが心配の種です」
「今後ですか、どうでしょうね?その気になるような人が現れるかしら?私をその気にさせないようにするには中川さん次第かもしれませんよ、ふふふ」
「これは参ったな。では頑張ります」
 二人は今日が初対面だと思えないほど気軽に話すとともに、かなり突っ込んだ会話をしたのだった。
 
 自宅まで送ってもらった江梨香はその夜、今日のお見合い相手だった中川友樹のことを思い出していた。時々冗談を交えながら話す彼の話は楽しかった。それに加えて女性に対する細やかな気遣いも感じられた。会話の端々に自分という男を信頼してもらえるような努力も伺えた。それは彼の生まれついての性格なのか、それとも今まで生きてきた中で、自然に培われたものなのかは分からなかった。いずれにしても優しくて、頼れるタイプの人だと感じたのは事実だ。

四   嘘
 それから一週間が過ぎて、仲介をしてくれた坂田さんから電話が入った。
「もしもし中川さん、先日はどうもありがとうございました。藤川さんからお話を伺いましたが、見合いの日にお二人で出掛けられた時も会話が弾んだそうですね」
「はい、こちらこそお世話になり、ありがとうございました。おかげさまで有意義な時間を過ごせました」
「それは良かったですね。それで藤川さんにお伺いしたところ、中川さんさえ良ければ、またお会いしたいとの返事をいただきましたが、どうされますか?」
「もちろん喜んで」
「そうですか、じゃあ二人はこれからもお会いになるということなので、あなたには藤川さんの自宅の電話番号をお伝えしておきます。携帯電話の番号は私も知りませんので、必要ならご自分で聞いてください」
「分かりました。近い内に電話を掛けて、今後のことを相談します」
 番号を聞いてメモをした友樹は、坂田さんにお礼を言って電話を切った。お見合いの日の午後に二人で会い、その別れ間際に『また会ってもらえますか?』と聞こうかと思ったが、もし断られると恥ずかしいし、仲介の坂田さんにも失礼にあたるだろうと思って聞かなかった。次に会うかどうかは、もちろん本人同士が決めるものなのだが、仲介してくれた坂田さんが双方に連絡をして聞くのが筋なのだ。だから自分勝手によけいなことを言ったり、したりしないほうが良いだろうと思った。
 
 三日後の夜、友樹は江梨香に電話を掛けた。
「もしもし中川友樹です。先日はどうもありがとうございました。坂田さんから電話番号をお聞きしまして、掛けさせていただきました」
「こんばんは江梨香です。こちらこそ、ありがとうございました」
「寒くなってきましたね」
「もう十一月も半ばに入りましたから」
「風邪を引かないように気をつけてください」
「ありがとうございます。中川さんも」
「はい・・・それで三日ほど前ですが、坂田さんから僕に電話がありまして『藤川さんが中川のことをもっと知りたいから、また会えるように取り計らってくださいとのことでした』と言っておられたのですが、それは本当でしょうか?」
「そうお答えしました」
「そうでしたか、ありがとうございます。じゃあ早速で申し訳ないのですが、また会ってもらえますか?」
「取り敢えず何回か会って、お互いのことをよく知らなければと思っています」
「僕も同じです。もっとあなたのことを知りたいと思いました。ただ僕は仕事の都合で、昼間だと日曜日しか休めないのです。それでもし差し支えなければ今度の日曜日に会っていただけないでしょうか?」
「はい」
 友樹は約束を交わして、その場はそれだけで電話を切った。
 
 次の日曜はすぐにやってきた。母には「先日、お見合いをした藤川さんと会ってくる」と言ってから家を出た。母は嬉しそうな顔をして「事故を起こさないように、気を付けて行ってらっしゃい」と友樹に言った。
 約束の時間に約束の場所へ行って待っていると、彼女もすぐにやってきた。今日は江梨香も自分の愛車で来たので、彼女の車はそこの駐車場に停めておき、友樹の車に乗った。
「いい天気になりましたね」
「ええ、とっても」
「じゃあ、どこか紅葉でも見に行きましょうか?」
「今が見頃でしょうね」
「そう思います。それじゃ湖東三山にでも行きましょうか?」
「どこでもお任せします」
 友樹はそう言うと車を発進させた。滋賀県は主に四つのブロックに分けられ、琵琶湖を中心にして湖南、湖西、湖北、そして湖東で、湖東三山はその名のとおり湖東にある。最初に行ったのは西明寺(さいみょうじ)で、次は金剛輪寺(こんごうりんじ)最後は百済寺(ひゃくさいじ) この三つのお寺は全て天台宗で、十数キロの近くに建立されている。そこ以外にも百済寺からは約十キロばかり離れているが、永源寺も紅葉では有名な所だ。湖東三山のいずれもが全国的にも有名で、今日も多くの観光客で賑わっていた。
 友樹は江梨香の許可を得ると、持ってきたカメラで紅葉をバックに彼女の写真を何枚も撮った。もちろん彼女にも撮ってもらった。そして見ず知らずの観光客にも、お願いをして二人一緒に並んだ写真を何枚か撮ってもらった。三つのお寺の観光も終わり、時計を見ると正午を過ぎていたので帰り道にあったレストランへ入り、昼食を摂った。その席で江梨香が友樹に話し掛けた。
「ひとつお願いがあるのですけど」
「何ですか?何なりと言ってください」
「近い内に、私の父に会っていただけませんか?お見合いをしたのですから、あなたのことは父も当然知っています。私は以前から、両親に『お見合いはしません』と言っていたにも関わらず突然お見合いをする気になり、それも一度会うだけで当然断るだろうと思っていた両親に「今日、また中川さんに会います」と言ったら、大変びっくりしまして『じゃあ帰ったら家に寄ってもらって、私に紹介をしてくれないか』と父が言うものですから、寄っていただけますか?」
「分かりました。少し怖いですけど」
「いいえ父は怖くはありませんよ、どちらかと言えば温厚なタイプですから」
「そうですか、じゃあ食事が終わったら帰りましょうか?」
「今日は一日家にいると言っていましたから、何時でも構いませんわ」
 
 そうして二人は帰路に就いた。その帰り道に江梨香が友樹に聞いた。
「初めて会った時に、中川さんは私にこう言いましたね『あなたのような女性が今まで誰とも付き合っていないのは不思議です』と。それじゃあ、その言葉をそっくりそのまま、あなたにお返ししたいのですが、中川さんは今まで誰ともお付き合いをされていなかったのですか?」
 江梨香にそう聞かれた友樹は優子の顔が頭に浮かんだ。交際という言葉こそ使っていないが、実際は交際しているのと変わらないような付き合いをしている優子の存在を、江梨香に正直に話すべきか、それとも話す必要はないのか?もし話せば話がややこしくなるに違いない。「付き合っている人がいるのに、なぜ私とお見合いをしたの?」と、突っ込んで聞かれるのは目に見えている。友樹はその時、ふと四年前のことを思い出した。秋田麻理絵と優子を好きになり、二人にそれを話したために、二人とも失う結果になったことを。そしてその時に(これからは同じ過ちを繰り返さないようにしよう)と反省したことを。だから江梨香には優子のことを過去の話として言うのはいいが、今も良い仲であることを絶対に秘密にしなければならないと思った。
「僕は今まで二人の女性を好きになりました。最初の子は付き合うことなく終わり、その人はもう結婚されています。そして次に好きになった子に、僕は交際をしてほしいと言ったのですが、見事に断られました。それで今に至っています」
「そうでしたか、じゃあ中川さんも今は誰とも付き合っていないのですね?」
「そうです」
 友樹は優子と交際こそしていないが、実際は誰が見ても付き合っていると思われる仲だ。そのことでは嘘をついているのと変わらないので心が痛んだ。しかし本当のことを言えば江梨香の信頼を失い、もう会ってはもらえないだろう。江梨香に好意を持ち始めた友樹は、彼女を失いたくなかった。今も交際をしてくれない優子の態度にも将来的に見て不安があるので、お見合いという結婚を前提とした付き合いができる江梨香は、うまくいけば将来の道も決まってくるので易々と手離したくはなかった。
 
 江梨香が車を停めていた駐車場に着くと、彼女は自分の車に乗り込んだ。そして友樹は彼女の車の後に付いていった。
 江梨香の家に着くと家の中へと招かれた。
「ただいま。中川さんがいらっしゃったわ」
 優子が少し声を大きくして、家の奥に向かって言うと母が出てきて
「お帰りなさい、中川さん今日は無理なお願いをしてすみませんでした」
 そう言って友樹に詫びた。
「そんなことはありません。むしろこうやって仲良くしていただき、喜んでいます」
「さあ上がってください、汚くしておりますけど」
「失礼します」
 応接間に招かれた友樹が椅子に座ると、間もなく江梨香の父がやってきて挨拶を始めた。
「始めまして、江梨香の父で民男といいます。よろしく」
「中川友樹です。こちらこそよろしくお願いします」
「今日は私のお願いを聞いてもらい、ありがとうございます。娘とはまだ今日を含めて二回しか会っていないのは知っていますが、私はあなたがどんな人なのか早く知りたくて、来ていただくようにと娘に頼みました。お見合いなんかしないと言っていた江梨香が、お見合いをすると言ったばかりか断ることもなく、また会うなどとは夢にも思いませんでしたから、ははは」
「江梨香さんにそう思っていただいて、僕としては大変光栄です」
「娘は君と話していて気が合うと思ったのだろうな、私も江梨香から君が阪神タイガースのファンだと聞いて嬉しくてね、それだけでも君を気に入ったよ。やはり人間というのは、知らない者同士でも同じ趣味だったり、共通の会話ができる何かがあったりすると、急速に仲良くなれるからね」
「それは分かります。僕も江梨香さんと最初は会話も少なくてぎこちなかったのですが、同じ阪神ファンだということが分かってからは話が弾みました」
「そうでしょう、そうでしょう。まあ今日はゆっくりとしていってください」
 江梨香の父はそう言って部屋を出た。そして入れ替わりに母がお茶を持って入ってきた。
「先日のお見合いの時に少しばかり話させていただきましたので私は存じておりましたが、お父さんはあなたのことを知らなくて『一度、会いたい』と言うものですから、すみませんでした」
「先ほどお父さんにも言いましたが、江梨香さんにまた会えて喜んでいます。これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ、ふつつかな娘ですけど仲良くしてやってくださいね」
 友樹は両親との挨拶を終えると、二人きりになった部屋で江梨香と話した。
「江梨香さん、あっ名前を呼んでもいいですか?あなたの家で話していると、お父さんもお母さんも藤川さんなので名前のほうが呼びやすくて」
「ええ構いません。外で会っても名前で呼んでください」
「でも、まだ二回しか会っていないのに馴れ馴れしいかなと思いまして」
「そんなことはありません。男女の仲は会った回数で全てが決まるとは思っていませんから。初めて会った男女が、その日の内に交際を始めることだってよくある話です」
「そう言ってもらえると気軽に江梨香さんと呼べます。それで今後のことですけど、また会ってもらえますか?」
「はい、喜んで」
「ありがとう、それを聞いて安心しました。じゃあ今日はそろそろ帰りますけど、湖東三山で写した写真を今度会う時に持ってきます」
「楽しみにしています」
 友樹は両親にも、暇(いとま)の挨拶を交わして家路に就いた。そしてその夜、江梨香と優子のことを考えていた。(もし江梨香との付き合いが続けば、そう遠くない将来に結婚の話が出てくるだろう。そうなれば優子と今の状態を続けていては、面倒なことになりかねない。先々不透明な優子とは、会わないようにしたほうが良いかもしれない。それよりも確実に結婚を前提とした付き合いができる、江梨香を大切にすることが大事だろう)優子には悪いが近い内に別れ話をしようと思った。
 
 今年も終わりに近づいた十二月、友樹は優子と二回会ったが、別れ話を切り出す勇気が出なくて、まだ言えずにいた。
 平成三十年の年が明け、一月は正月休みもあるので二人と会う回数も多くなり、江梨香とは徐々に親しくなっていった。優子とは長い付き合いだから、特に気を使わなくても構わないほどの親しい関係だ。しかしそうも言っていられない、江梨香との縁談の話が何時(いつ)出てくるかもしれないので、早く優子に別れ話をしなければと思った。
 
 月日は流れ三月になった。友樹が江梨香と見合いをしたのは十一月の初めだったので、それから数えると四か月が過ぎた。このまま、あと数か月もすれば間違いなく婚約の話も出てくるだろう。二人の仲はそれほどまでになっていたのだ。
 そして、ついに友樹は決心をした(次に優子と会った時、別れを言おう)と。

        五  結末
 いよいよその日はやってきた。優子が友樹の車に乗ると、すぐに話し掛けた。時間が経てば言おうと決めた勇気が、萎(しぼ)みそうだからだ。
「優子ちゃん、君に話したいことがあるから聞いてほしい」
「改まって、なあに?」
「うん・・・君には大変申し訳ないと思うけど、僕と別れてほしい。いや、交際をしていないのだから、別れてほしいと言う言葉は適切じゃなかったかな?言い直すよ、今日を最後に、もう会うのを止めたいんだ」
 優子は話を聞いて、当然のことながら言葉に言い表せないほど驚いた。そう言う友樹から、訳を聞くのは当たり前の行動だ。
「どうして急にそんなことを言うの?」
「実は昨年の十一月のことだけど、母から『そろそろ結婚のことを考えなさい』と言われてね、君のことを話したけど『そんな仲では結婚なんて、いつできるか分からないじゃない』と言われたよ。それで母が『私の友人がお見合いの話を持ってきてくれたからしなさい』と言うんだ。お見合い用の写真なんて作っていないから、工場の前で撮った普通の写真を渡しておいたのだけど、その写真を見た先方さんが『是非とも会いたい』と言ってきて、見合いをしたんだ。会うだけで、どうせ断られるだろうと思っていたけど、もう一度会いたいと返事があったので、また会って話している内に何だか意気投合したって言うか、気が合ってね。それからも何度か会っていて、近い内に婚約の話が出てくるかもしれないのだよ。そうなると、いつまでも君とこんなふうに会うわけにはいかないしね。優子ちゃんとこうやって会っていても結婚の話なんて全く出そうにないから、それよりも結婚を前提とした彼女との付き合いを優先したいと思っている。だから君とは今日で終わりにしてほしい」
 
 優子はしばらく考えてから友樹に話し掛けた。
「私が以前言ったことを覚えている?私は『あなたとは交際しないけど、結婚のことは考える』と言ったわ。言葉の上では交際をしていなかったけど、交際をしていると言っても過言ではない、お付き合いをしてきたつもりよ。そして私は実際に結婚も考えていた。もし求婚されたら受けようと思っていた。あなたはそれほど、私に対しての信頼感を取り戻していたのよ。それなのに、どうして見合いをする前に求婚してくれなかったの?もし万一、私に断られたら、その時はお見合いをすれば良かったのよ。それが一連の流れというものでしょう。あなたと私の仲なのに、何も言わず何も聞かず勝手にお見合いを優先するなんて信じられない。私に以前お見合いの話があった時は、友樹さんに言ったよね。その結果、私はお見合いをすることもなく、その話は終わって、こうやってあなたと会い続けているわ。もし私が友樹さんに何も言わずに勝手に見合いをしたら、そしてそのことを後で知ったら、あなたは私のことをどう思った?きっと不愉快になるはずよ。そんなあなたの気持ちと今の私の気持ちは全く同じ、いえ私の場合は不愉快を通り越して、怒りすらおぼえているわ。何故ならあまりにも突然の別れ話だから。もう少し前から『結婚してくれないのなら別れることも考えている』とか言って、別れを臭わせているのなら分からないでもないけど、突然そんな話を切り出すなんて寝耳に水とは、まさにこのことだわ。よく分かりました、今度こそ別れましょう。そしてもう二度と会うのをやめましょう。そんな簡単に人を裏切るようなあなたとは、一生を伴にできないということが、はっきりと分かりました」
 それだけ言うと、車から降りて自分の車に乗り走り去った。友樹は車の中で優子が言ったことを思い出しながら考えていた(そうかそうだったのか、僕が求婚したら彼女は受けいれてくれたのか。まさか彼女がそこまで自分のことを考えていてくれたとは思わなかった。しかし今となっては何をどうしようと、すでに手遅れだ。これからは江梨香との将来を考えて優子のことは忘れよう)心の中でそう決めて家に帰った。
 
 それから二週間後のことだった。江梨香から電話があって「話したいことがあるから会ってほしい」と言ってきた。いよいよ婚約の話でもあるのかと思った友樹は、次の日曜に会う約束を交わした。
 
 日曜日になり約束の場所で待っていると、江梨香が車でやってきた。車から降りた彼女は、少し大きめの茶色の封筒のようなものを持っていた。そして友樹の車の助手席に乗ると、すぐに話し掛けてきた。
「ちょっとこれを見てほしいのだけど」
 そう言いながら、持っていた封筒を渡した。その封筒の表には(近江探偵社)と書かれている。友樹は封筒の中から何枚かのA四用紙を取り出して読み始めた。そして読んでいく内に自分の顔色が徐々に青くなっていくのが分かった。そう、その用紙に書いてあったのは素行調査の結果だったのだ。友樹と優子が会っていたことが全て書かれ、写真まで撮ってあった。一度だけ会ったことを書かれているのなら言い訳もできるが、同じ光景が二ヶ月分も書いてあると言い訳もできない。会った日時も場所も行き先も、別れた時間まで丁寧に書かれてあった。友樹は用紙の全てを読み終えることなく封筒に戻した。そして黙ったままでいると江梨香が話し掛けた。
「その調査は、父が『私の一生の問題だから念のために』と言って、探偵社に頼んでしてもらったものです。私はそんなことはする必要がないと思いましたが、父のすることに口出しするのもどうかと思い、任せきりにしていました。そうしたら結果がそれです。私は初めてあなたと会ったお見合いの日に、あなたの言った『今は誰とも付き合っていません』という言葉を信じていました。それでそこに書いてあることが本当なのかどうかを、あなたに直接聞きたくて今日会っていただきました。それに書いてあることは本当のことですか?」
「・・・ええ、本当です」
 友樹はこの場に及んで嘘をついても無駄だと悟った。あれだけ詳しく調査されていては言い訳ができない。
「しかし彼女とは半月あまり前に、話し合って別れました。だから今は誰も付き合っていません」
 優子と別れたことまでは調査表に書いていなかった。しかしそれに関しては本当の話なので言い訳をした。
 すると江梨香が言った。
「あなたがその女性と半月ほど前に別れたというのは問題じゃないの。問題なのは、あなたが私に対して『付き合っている人はいない』と、なぜ嘘をついたのかということなの。私としては正直に話してほしかった。その話を聞いても私は友樹さんに好意を持ったら、その女性と、あなたを取り合ってでも付き合おうとしたでしょう。たとえその日に言わなくても、探偵社が調べる前に言ってほしかった。私が探偵社から聞くまでに、あなたから直接聞きたかった。そしてその人とは必ず別れると約束をしてくれたなら、お付き合いを続けたでしょう。あなたはその女性との関係を私に知られない内に、こっそりと別れたつもりでしょうけど遅かったわ。今は信頼していたあなたに裏切られたとの思いしかありません。だからこれ以上お付き合いを続けることもできません。短い間だったけど、私に夢を見させてくれてありがとう、そしてさようなら」
 江梨香は話し終わると、ドアを開いて静かに車から降りた。

 ドアが閉められると同時に友樹は独り言を呟いた。(やはり、二兎を追うものは一兎をも得られないな)と。
                                        完
                               

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