アルゼンチンバックブリーカー
「これはこれは、我が愛しの妹君じゃありませんか」
「……やあ、兄さん」
三人組の中心となっていた男が、萌へと向かって話しかけてきた。
小柄で、まるで爬虫類を彷彿とさせるような目をしたこの男は、どうやら彼女の兄上であるらしい。
制服から見るに、どうやら同じ新入生の様だ。
「なんだお前、お友達が出来たのか? どこの奴らだ」
「兄さんには関係ないよ。それじゃあ、ボクたち行く所があるから」
素っ気なく言い、萌は男から離れようとする。
あまり兄妹の中は睦まじくないようだ。
「おいおい、冷たいじゃないの。もうちょっとお兄ちゃんに優しくしても、罰は当たらないんじゃないか」
フラレたにも関わらず、男は未練がましく彼女の腕を掴んで引き留めた。
「痛っ……。ちょっと、離してよ」
「ホンっとなってないなあ我が妹は。これは、躾が必要だなあ」
兄の腕にギリ、ギリと力が入っていくのがわかる。
次第にボクっ子の表情が歪んでいく。
思わず一歩出ようかとした矢先、今度は俺の腕を奏が掴んで引き留めた。
「何をするのだ」
「ダメよ、挑発に乗っちゃ」
……彼女が言わんとしている事はわかっている。
これは、俺と奏に仕掛けられている罠だ。
兄は、あえてこちらに伝わりやすいように萌に危害を加えている。
そして、男のやや後ろに控えた二人は、最初からこちらに注意を向けていた。
こちらが動けば、すぐにでも反応できるようにだ。
「あらら、お友達は冷たいね~。助けてくれないんだ。あ、もしかしたら友達とも思ってもらえてないとか?」
ヒッヒッヒッヒ……。
何とも意地の悪い声で、後ろの男たちが嗤う。
「もういいでしょう! 離して!」
萌が男の腕を払おうとするそぶりを見せるが、ビクともしないようだ。
逆に、男はさらに腕を締め付けるようにして力を込める。
「なあ、こいつの苗字知ってるか? "海藤"なんだぜ、俺と同じく。つっても俺は正妻の子供で、こいつは妾のだけどな。あーきったねえ汚ねえ」
男が、空いている方の腕で自身の鼻を掴む。
まるで、掴んだ生ごみから漂ってくる異臭に拒絶反応を起こすように。
俺の足が一歩、勝手に前に進む。
が、奏も引き留める腕の力を緩めようとはしない。
「初めまして、海藤さん。ワタシは桜川です」
奏が自信の苗字を告げると、萌兄から少し驚いたような反応があった。
「桜川? へえ……大和国の桜川奏か」
「ええ。安芸国(あきのくに)の海藤(かいとう)豪(ごう)さん」
安芸国――現在の中四国圏において存在していた旧国だ。
奏とは顔なじみではなかったようだが、お互いに名前では認識しているらしい。
と、いう事は。相手も相手にして、一国を代表する王子様とでも言うわけだ。
「どうでしょう、萌えちゃんの腕を離してあげてはもらえないでしょうか」
「もし、イヤだと言ったら? 力づくで来るか?」
尖った歯を覗かせ、やはり挑発染みた口調で兄は言う。
「平和的に行きましょう、平和的に」
それに乗っかる事ともなく、あくまで落ち着き払ったように楓は返した。
俺の腕を掴む力は随分と増していたが。
どうやら、俺たちは兄妹喧嘩の様なものに巻き込まれているらしい。
旧国を代表するであろう、王子と王女の諍いにだ。
さらに面倒な事に、相手の本命は妹君ではなく――その友人たる俺たちに狙いを定めている。
その理由には想像がつく。
見せしめの為、だろう。これから学園生活で妹が友人を作る度に、きっと奴らは繰り返すはずだ。
助けなければ、その後の気まずさからボクっ子とは距離を取らざるを得ない。
もしも助けに入れば、俺たちを力づくでねじ伏せるつもりだろう。痛みによる恐怖を与えるのだ。
そうなれば、害を受けた者、それを見知った者たちは二度とボクっ子に近づく事すらしなくなる。
気に入らない者を孤立させるための簡単な方法だ。
――あまりにもありきたりで、よくある話。
だが、この方法には大きな欠点がある。
この男たち、腕には少々の自身があるようだが……。
「平和的、ねえ……。如何にも大和らしいなあ。如何にもうちの妹が縋りそうな相手だ。逃げてばっかり、隠れてばっかりの大和狸ども。もっとも、本当の狸とは違ってお前らの腹は真っ黒だって父上から聞いてるけどな。引ん剝いて確かめてやろうか」
このあからさまな挑発を受けて、奏は逆に冷静になったようだ。
腕の力が戻り、小声で俺に囁いてくる。
「ジャーマンスープレックスでも食らわせてやりたい気持ちはわかるけど、落ち着いて。ここは人気のない裏路地なんかじゃないわ。もう少しすれば人通りも見られるでしょう。そうなれば、アイツらも引くしかなくなるわ」
確かに、ここは体育館からでて少し進ん程度の場所だ。少しばかり人波を避けた道ではあるが、皆無という訳ではないはずだ。
「ホラホラ、どうすんの? このまま折っちゃおうかなあ、ポキポキっと入学祝いに景気良くな。目の前でこんなに苦そうにしてるってのに、立ったまま狸寝入りカマそうなんて、お前も中々いい友達を持ったもんだよなぁ」
更に力を加えている様だ。
苦痛も限界まで達しているのだろう。唇を噛んで耐え忍んでいた萌の瞳から、雫が流れ落ちる。
「……わかった」
「それは良かっ……って、え!?」
迷わずに駆ける。
奏が捕えていた制服の袖は、簡単に千切れた。
パンクス風アレンジが役に立ったのだ。
「うわっだっせえ! こいつ泣いてやがるぜ。安芸国王女の一人ともある女が、ほんっと情けないわ~」
――遂に訪れた、我慢の限界。
「いや、情けないのはお前の方だろう」
「ん……? な、なんだお前! 何故俺の背後にッ……!」
問いに答える必要はないだろう。
私はただ、一直線に駆けただけだ。注意を逸らすようなこともせず、愚直に駆け抜けただけなのだ。
だからこそ、情けない。
たった今、男たちは注視しているはずの俺の姿を目で捕えることすら出来なかった――未熟者だという事を証明して見せたのだから。
「うわッ!」
「きゃっ!」
間髪を入れずに、俺は間抜けな兄の足を払った。
兄は簡単にバランスを崩す。萌の腕を掴んだまま、受け身を取る事も出来ずに地面へと倒れ込んだ。
唐突に倒された彼女からも、可愛い悲鳴が上がってしまっている。
……彼女には、後で謝罪をする事にしよう。
「こいつ!」
「何という事を!」
後ろに控えていた男たちは、驚きの為か反応が遅れていた。
ようやく状況を理解したのか、こちらへと動き出そうとする。
「えー……っと……。もう!」
しかし、その動きは奏からの援護によって阻まれた。動き出そうとした男たちの足元に、彼女から投擲されたナイフが深々と突き刺さる。西洋風の石畳に、突き刺さっているのだ。
―-これは、彼女が持つ"才覚"の一端による現象。
「こいつ……!」
「正気じゃないぞ、こんなところで!」
「それはお互い様、でしょう」
男たちは、その場から一旦下がる事を余儀なくされる。
「この野郎、ふざけやがって……」
倒された男が、その場で立ち上がろうとする。
「素直に倒れている事も出来ないのか。これは、躾が必要だな」
背中を取られたという事は、俺にその気があればその命さえも取られていたということだ。
どうやら、足払い程度で済ませてやったせめてもの温情が、この男には伝わらなかったらしい。
起き上がろうとしていた兄の頭を押さえ、その腹部に俺の頭を潜り込ませる。
最後に腿に手をかけて持ち上げ、自分の首に巻き付けるようにした。
まさに、人間マフラーの様な形で俺は彼を抱えている。
「ちょ、ちょっと……空人何する気! ダメよ、ジャーマンスープレックスとかしちゃダメだからね! もういいでしょうお兄さん、平和的に話し合いを始めましょう」
「何しやがるんだボケ、オラ降ろせ! ブッ殺してやる! あのクソ妹とお前、両方まとめてブッコロだ!」
奏よ、それは少々というか、かなり無理な相談なようだ。
上で少々暴れているようだが、こちらが関節をしっかりと決めている為、その衝撃は大したものではない。
「勿論。奏よ、俺はわかっていると言っただろう。ジャーマンスープレックスはダメなのだな」
ウインクを一つ返しておく。
そして、俺は自分の首を支点として、男の体を弓なりに反らせるように腕に力を込めた。
「あがああああああ!」
「あまり大きな声を出すんじゃない。男の子だろう」
ここまでの痛みを与えても、未だに抵抗をやめようとしないその意思は称賛に値する。
だが、その声は大いに耳障りだ。スグに終わらせてやる事としよう。
「では、兄上よ。歯を食いしばりたまえ」
少しだけ体を浮かせ、一気に地面へと片膝をつく。
その一瞬で、背中の男にさらなる衝撃が加えられた。
「かっ……」
ストン。と、堕ちる音が聞こえる。
「あ、ア……」
奏が口を大きく開いて呆然として声を漏らしている。
しかし、一瞬で気を取り戻し、大きく息を吸い込んで叫んだ。
「アルゼンチンバックブリーカーもダメーーー!」
その声が、木霊するように天響く。
ふと天を見上げると、雲一つない清々しい青空が広がっていた。