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「これは……やはり、香月には来させなくて正解だったな……」
屋内に足を踏み入れた途端にツンと鼻を衝く腐臭に眉間に皺を寄せながら、要は独り言ちた。
濡れる事を予想してポケットに入れてきていた大判のバンダナで鼻と口を覆うように巻く。
大島が蹴り広げてくれた穴はもともとダムの水を抜く前から開いていたのだろう。
二階部分だというにも関わらず、様々な生物の死骸があり、床が見えないほどに泥と共に堆積している。
一歩踏み出す度に足が沈むブヨブヨとした気色の悪い感触。
安全を考えたら、体重が軽く体の小さい香月が一番安全と言えば安全なのだろう。
だが、まだ幼い香月に行かせるにはなかなかに悪影響のありそうな光景がそこにはあった。
第一、大人として今にも倒壊しそうな建物に子供を行かせられない。
「しかし、香月の
要の歩く少し前に、シロがいた。
香月が願った通り、香月に触れていないにも関わらず、はっきりとその姿が視える。
こちらを案じるかのように少し進んでは立ち止まり振り返り、明らかに誘導している。
時おり戻ってきて身体をぐいぐいと押し付けるのは、早く来いという催促なのか。
姿が視え、触れているという感触まで感じる今、香月のように何かしらシロの考えが読めないかと触れてみるが、要にはシロの考えを読み取るどころか感じることもできなかった。
「そんな都合良くは行かないか」
香月の能力を怖いと感じたことは要にはなかった。
考えを読まれたところで、後ろめたいことなど何一つない。
香月が自分を否定せず、のびのびと生きれるよう全力でサポートすること。
それが要が香月を引き取ることになった際に決意したことだった。
だからこそ、その能力を完全に理解してやれないのが、要は口惜しかった。
あの日、香月の能力を通じて伝えたことは要の本音だ。
香月を理解したい。香月が視ている世界を、共に視て感じて歩んでやりたい。
そういう意味では、他人には言えない能力と過去を持った楓の方が適任と言えば適任だったのだが。
(俺が引き取ろうか?)
そう言った楓から半ば強引に香月を引き取ったのは、要の完全なエゴであった。
交通事故によって突然ポッカリと空いてしまった場所を埋める存在が、要には必要だった。
臨月だった愛する妻。男の子だとわかってから、二人で話し合って、名前は克希にしようと決めた。
突然失われた現実を受け止めきれずにいた要の前に現れ、その手を必要としたのが奇しくも同じ音の名を持つ香月だった。
香月を引き取ることで、献身的に面倒を看ることで、要はやっと日常を送れるようになった。
香月を助けるつもりで、実際に助けられているのは要自身でもあったのだ。
「さて、香月を安心させるためにも、さっさと戻りますかね」
シロを撫でるのをやめ立ち上がった瞬間だった。
左足が何かを踏み抜いた。一瞬で体重が持って行かれる。
しまった、と思った瞬間、シロが体当たりをして支えてくれた。
「……あ、ありがとう、シロ」
擦り寄ってくると見えたのは、「そこは踏むな」の合図だったようだ。
今度こそ慎重に、シロの歩く場所を見てしっかりついていく。
「確か天井裏、だったか」
チラ、と天井を仰ぎ見る。
この調子で、果たして登れるだろうか。
だが、そんな心配は無用だった。
シロが立ち止まった場所。
他よりも堆積物が積もったように見えたのは、天井が崩れて落ちたようだった。
そこに、
瓦礫に身体が半分埋もれていたが、顕わになっている部分には、幽霊のシロがつけているのと同じ鈴付きの和布の紐があった。死後腐敗して漏れ出た体液を吸い込んだのか、白い部分は黄ばみ、さらに泥で汚れている。
完全に白骨化した死骸に手を合わせると、要は紐を抜き取った。
その一連の様子を、ただじっとシロは見ていた。
「一部だけでも、一緒に帰るかい?」
骨を全て拾い集めることはできない。
だけど、ここにそのまま置いて行くのも忍びない、と思ったのだ。
シロはこちらの言葉がわかるかのように、自分の頭骨をちょいちょいと触る。
正しくは、触ろうとしようとしているように見える。
実際には触れられずにスカスカとすり抜けているのだが。
これを持って行け、という意味と捉えて要はそっとシロの頭骨を拾い上げる。
顔を覆っていたバンダナで首紐と頭骨を包むと、顕わになっている他の部位に土を被せ、再び手を合わせた。
「さぁ、帰ろう。義夫さんの所へ」
立ち上がった要を、来た時と同じようにシロが慎重に誘導していく。
夜明けが近いらしく、入ってきた穴から見える空は少しだけ明るく見えた。