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 もう僕は三十歳になった。ちょうど今日が誕生日だ。職場で付き合い始めた僕より二歳下の女が隣にいる。僕らは同棲していて、部屋の中から街並みを眺めていた。
「ねえ、ベランダに出てみない?」と僕は言った。
「うん」
 彼女はそう言って、僕らはベランダに出た。マンションから見えるのは煌めく街並みだ。近くにはぼんやりとした街灯の光や車のヘッドライトが見える。
「煙草吸ってもいい?」
 僕はそう言った。
「うん」
 僕はポケットから煙草を取り出して、火をつける。
「あなたは煙草好きね」
「そうだね」
 僕は夜の街並みを眺めながらベランダで煙草を吸うのが好きだった。
「せっかくの誕生日なのに、こんな夜でいいの?」
「別に。昔からこんな感じだから」
 僕は煙を肺から吐き出した。こうしているのが幸せだった。
「ねえ、私達もうそろそろ結婚とか考えてもいいんじゃない?」
「そうだね」と僕は言った。
 煙が宙に消えていく。
「結婚か」
 僕は街並みを見ながらつぶやく。彼女は不思議そうに僕の目を見ていた。なんだか僕は気まずくなって目をそらす。
「ずっと結婚したかったよ」
 僕はそう言って嘘をつく。
「本当に?」
 彼女はそう言って笑う。本当は彼女のことが好きじゃない。ただ寂しいから、安心したいから側にいるだけだった。
「ねえ、さっき行ったレストランにおじさんと若い女のカップルがいたでしょ?」
「ああ、いたね」
 僕は見てなかった。
「なんか訳ありって感じね」
「そうだね」
 僕は聞いていなかった。昔から記憶力が悪く、人に興味がないせいだった。それでも勉強だけはいやにできた。あまりにすんなりと頭に入ってくるので奇妙に思ったくらいだ。それでせっかくなら誰かに勉強を教えようと大学院まで行った後に高校の教師になった。
「ねえ、私のこと好き?」
「そりゃあ、好きだよ」
「じゃあさ」
「なんだよ?」
「私に言わせるの?」
「わかってるよ。僕と結婚しよ」
 僕はそう言って、ポケットからおしゃれなダイヤの指輪を取り出した。
「嬉しい」
 彼女は僕に抱き着いてきた。僕もなんだか安心してしまった。それでさっきまで無機質に見えた世界がやけに色付いて見えたような気が一瞬した。
 僕はベランダで彼女のことをただ抱きしめた。彼女がそっと僕の背中に手を回す。なんだか、これでいいのかなと僕は内心思った。魅力的だし、一緒にいると安心できた。僕は幸福なはずだった。
「幸せか」と僕はつぶやく。
「幸せ?」
「もちろん。幸せだよ」
 僕は酒にでも酔ってる気分だった。そしてその幸せという宝箱をどこかに放り出してしまったようだった。全く彼女のことが好きになれない。かといって他に好きな女はいない。別に男が好きなわけでもない。

 翌日目覚めた僕は彼女と一緒に朝食を食べた。テーブルの上には目玉焼きとサラダとトーストが並んでいた。
「おいしそう」と僕は言った。
「でしょ?」
 彼女は嬉しそうにほほ笑んだ。二人で朝食を食べて、俺は一口食べた瞬間に目玉焼きが焦げていて、トーストもおいしくないと思った。
「おいしいよ」
「ありがとう」
 全て食べ終えると、僕は食器をシンクに持って行った。シンクの中で僕は食器を洗った。
「ありがとね」
 僕は彼女が皿を洗うのを好きではないことを知っていた。だから僕は手早く食器に洗剤をつけて洗う。こうしているとなんだか安心することができた。
「食洗器買う?」
「そうね」
 彼女は洗面台で化粧をしている。たぶん僕が言ったことを聞いていなかった。なんだかそれが寂しかった。
 家を二人で出て、それぞれ別の職場へ向かう。僕は彼女と高校で出会って、それを機に付き合い始めたのだ。
 一緒に最寄り駅まで歩いて行った。太陽がやけにまぶしくて、それが美しかった。穏やかな春と夏の間の季節だった。僕はポロシャツを着ていて、彼女はTシャツを着ている。どことなく僕のファッションを彼女が真似ていることに気付いた。
「なんだか綺麗な太陽だね」
 僕は隣にいる彼女に話すことがなくて、そう言った。
「そうね」
 彼女はぼんやりと空を見上げた。彼女がいる世界ほど自分の世界は輝いていない。それが寂しい。
 駅で彼女と別れ、僕は一人で電車に乗った。車内の人を僕はじっと見ている。そして彼らは僕の視線には気づいていない。
 高校まで電車に乗っていき、歩いた。生徒が来るより早く出勤しなければならなかった。
 職員室の自分のデスクに座る。
「おはようございます」
 向かいの席に座る、僕より年下の教師がそう言う。
「おはよう」
「今日、飲み会やるみたいですよ」
「そうなんだ。僕も行こうかな」
 彼女にプロポーズしたことはなぜか黙っていた。僕は特に話す必要もないと考えてしまう。
始業時間になると担任をやっている教室へ向かう。教室のドアを開けると、十代後半の若者が一斉に席に座った。
「これから出席を取ります」
 誰も僕の授業やホームルームでは私語をしなかった。それがなんだか心地よかった。こうやって人前でしゃべることが僕は好きだった。
 そんな風に僕はこの高校で楽しく授業をしていた。なぜだか、授業の時、皆が僕のいう事を聞いていることが心地よかったのだ。
 どうせ大事な部分は伝わらない。彼らにとって僕はただ授業が面白い教師と思われることが重要だった。そしてそれだけできていれば問題ないのだ。
 その日の午後、個人面談があった。十七歳の生徒達が今後の進路について話をしにくる。一人の眼鏡をかけた生徒が俺のいる部屋にやってきた。
「よろしくお願いします」
 そう言って小柄な眼鏡をかけた女子生徒は僕に軽く頭を下げた。
「じゃあ座って」
 僕がそういうと生徒は席に座った。
「君は国立の大学を目指しているんだね?」
 僕は成績表を見ながらそう言った。
「はい」
「いいと思うよ。何か聞きたいことはある?」
「特に」
「わかった。じゃあ頑張って」
 僕はそう言って、その生徒は部屋から出た。次々と生徒が入ってくる。僕は特に干渉もしなかった。そのせいか、誰も僕に何も悩みは話さなかった。個人面談はすごく早く終わりそうだった。
 最後に入って来た男子生徒は教室で、一人でいる真面目そうな生徒だった。
「じゃあ、座って」
 俺はそう言った。
「はい」
 生徒はそう言って椅子に座る。
「君は、将来は私立大学に進学を希望しているんだね?」
「はい」
 彼の成績はクラスの中でも最下位だった。そして何か悩みを抱えていると僕は思った。僕が何かすれば、せめて成績くらいは上げられるかもしれない。
「ちょっと今の成績では厳しいかもしれないね」
「そうですか?」
「よかったら勉強を放課後に教えようか?」
 生徒は少し悩んでいるようだった。
 そして「お願いします」と言った。
 僕はその時、少しやっかいなことになったと思った。

 家に帰ると彼女が料理を作っていた。
「今日はカレーを作ったの」
「へえ」
 僕はなんとなくそう言ってシャワーを浴びた。一人でいるときが心地よい。でも彼女といても気分は悪くない。僕はシャワーを浴びている時、ふとクラスで楽しそうに遊んでいる連中のことを思い出した。なぜか頭から離れない。もしも僕も高校時代にああやって楽しく過ごしていたら今みたいになっていなかったと思う。
 シャワーを浴びているうちに少し自分が惨めになった。なんだか彼女にも誰にも愛情を感じることなく、周りと合わせることに必死になっていて、疲れていた。なんの苦労もせずに生きていたらと僕は思った。そうしたらきっと僕の人生も今とは違ったかもしれない。
 ただ目的のために生きていた。そして彼女には隠し事ばかりしていた。もし僕が全てを
話せば彼女は離れていってしまう。そんな気がした。
 シャワーを出ると、彼女がカレーを作っていた。僕は疲れていた。
「今度、生徒に放課後に授業をすることになったんだ」
「へえ」と彼女は言った。
「さっきの僕の真似?」
「え?」
「僕の話聞いてる?」
「ごめん。聞いてなかった」
 彼女はそう言ってくすくす笑う。
「君は今何を考えているの?」
「そんなこと恥ずかしくて言えるわけないでしょ」
 彼女はまたそう言ってくすくす笑った。
「疲れた。ただ疲れた。世界は無機質だ。何も感じない。悲しくもない。怒りも感じない。ただ寂しい」
「ん?」
 彼女はそう言った。
「なんでもないよ」
 僕はカレーを食べ終えるとベランダに出て煙草を吸った。とても心地よい冷たい風が吹いている。その風は優しく僕のことを励ましているかのようだった。
 僕は部屋に戻る。彼女はソファに横になってテレビを見ている。
「ねえ」
 僕は問いかける。
「何よ?」
「なんでもない」
「ふーん」
 僕は相変わらず部屋の中ですることもなく、冷蔵庫からウイスキーを取り出して飲んだ。酒なら何でもよかった。そしてただ流れていく時の瞬間を味わっていた。
「ねえ」
 彼女の隣りに座り、ウイスキーを飲み干す。
「何?」
「なんの話をしたらいいんだろう?」
「悩みならなんでも聞くわ」
「悩みがないのが悩みかな」
「へえー。私なんて悩みだらけよ。後輩が全然仕事できないのよ。失敗しては私の責任にされるの。でもその後輩私よりずっといい大学出てるのよ」
「そうなんだ」と僕は言った。
「そうよ。本当にどうにかしてほしいわ。あなた彼の教育係になってよ。私より人に何か教えるの上手そうじゃない」
「そりゃあ確かにそうかもしれない」
 僕はそう言って彼女の横になるソファの背もたれに背中をかけて、力を抜いた。

 次の日の放課後、担当の生徒を空いている教室に呼んだ。
「君はあんまり基礎ができてないから、簡単なところから始めるよ」
 そう言って僕は高校一年の最初のところから授業を始めた。熱心にその生徒は僕の言葉を聞いていた。本当に僕のことを大人の教師だと思い込んでいるようだ。自分では全くそんな気がしないのだけれど。
 三十分ほど授業をして僕は「一緒に帰ろうか?」と提案した。
「はい」とその生徒は言った。
 僕は職員室で荷物をまとめて、生徒と一緒に帰った。途中カフェを見つけたので、僕は一緒に入ろうと提案した。落ち着いた店内で彼の悩みでも聞こうと思ったのだ。彼は黙って注文したコーヒーをすすっているだけだった。
 僕は「趣味は?」とか「家ではなにしてるの?」とかいろいろな質問をしたが、「音楽です」、「ゲームをしてます」とかありふれた質問が返ってくるだけだった。僕の後ろの席では老人が四人で仲がよさそうに話をしていた。僕もきっと彼もああいう親密さが苦手なのだろうなと思った。僕は絶対に他人に心を開かない彼と向き合い続け、そしてコーヒーをストローで飲み続けた。
 もしも後ろの老人たちがこの会話の中に入ってきてくれたのなら、きっと彼も僕も楽になるだろう。でもやはり他人という境界で僕らは隔てられていた。なんとなく人間関係に
希薄さすら感じていた。
 彼はカフェを出るまで僕に心を開かなかった。そして内心僕は彼に馬鹿にされているのではないかという強迫観念に捕らわれた。
「じゃあ、また明日学校で。頑張れよ」
 僕はそう言った。
「ありがとうございます」
 彼はそう言って去っていった。

 休日、僕は彼女と二人で映画を見に行った。彼女は僕の隣りでただ笑っていた。僕はあまりその時を覚えていなかった。
 そして映画館の中で放課後授業をしている彼に出会った。彼は僕らを見つめていた。
「やあ」と僕は声をかけた。
「こんにちは」
 彼はそう言った。彼の周りには友達はいない。映画館の中は様々な喧騒に包まれている。彼はまるでそんな世界から断絶されたように見えた。そしてそれは昔の僕自身のようだった。
「なんの映画見るの?」
 僕はそう聞いた。
「いや、特に決めていないです」
 今後の彼の人生はどうなるのだろう。卒業した後、彼はどうしているのだろう。改めて意識してみると奇妙だなと思う。
「あなたの生徒さん?」
 彼女はそう言って僕と彼に声をかけた。
「そうです」
 やけに元気そうに彼は答えた。それから彼と彼女は打ち解けたように、何か通じるものがあるように話をしていた。僕はそんな彼らをただ眺めていた。そしてふいに、昔の鮮やかな景色が頭の中をめぐる。
 高校生の時、この映画館に来た時の記憶だった。やけに鮮明に記憶は蘇った。僕は友達と二人で何の映画を見ようか話し合っていた。どうしてあの頃はあんなに幸せだったのだろう。ふいに映画を見た帰りに二人で何かを話しながら、家に帰った時、目の前にオレンジ色の夕日がかざして美しかった。大気も何もかもが美しく輝いて見えた。そんな日々を僕は今思い出す。
 彼女と生徒は意気投合したのだろうか。まだ二人で話をしている。それがなんだかうらやましくて、そして自分の中に彼に伝えなければならないことはたくさんあるはずなのに、何も伝えられないことに気付く。
「じゃあ」
 僕たちが別れるとき、彼はお辞儀をした。
「頑張って」
 僕は精一杯の言葉を伝えた。
 彼と別れる。僕は断絶された虚無の世界を眺める。チケットを買いに行く彼女の後ろ姿を眺めて、この過剰な自意識にうぬぼれていた。

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