第3話「怪しげな視線とお人好し店長」
『カンッ! カンカンッ――』
夜の静けさの中に、棒で何かを叩くような音が絶え間なく辺りに鳴り響く。
「ハァッ、ハァッ……うぉらっ!!」
公共訓練場……。そこでは白いシャツと真っ黒いズボンというこの世界では、あまり……というか全く馴染みのない服装をした一人の男が、滝のような汗を流しながら木製人形相手に修練に励んでいた。
左手に付けているデジタル腕時計の数字が「23:12」と羅列している。男がこの木製人形を叩き始めたのは約三時間前……
ということは、この男は単純計算で三時間ぶっ続けけで木製人形を叩いていたことになる。
男の木刀を握る手には手汗、ではなく真っ赤な血が溢れ出ていた。
どれだけの過酷さはその手を見れば歴然だった。
「あっ」
そうポツリと呟いた男の手からは木刀が無くなっていた。その直後、一真の背後にカランッという音を立てて、木刀が転がった。
木刀を縦に振り抜こうとした際、血で滑って手から離れたみたいだった。
「木刀がすっぽ抜けるなんて俺もマヌケだな……いてっ?!」
一真は自分のことを「マヌケ」と哀れみつつ、木刀を取りに行こうと振り向こうとしたその時、両手に激痛が走った。
いや、修練に夢中で一真は気付かなかっただけで、手にはずっと痛みがあったはずだった。それに気付かないほど一真は真剣だったのだ。
震える両の手の平を見ると、血豆なんか可愛いもので、手の平の皮が破れ、肉が露わになってしまっいた。
「グロ……。よし、今日はこれぐらいにしとくかぁ」
一真は絶叫を上げないにしも、もっと他の感想があるだろうと思っていたが、一真の感想は「グロ」の一言だった。
いや、この言葉が今の現状に一番適切な言葉選びだったのかもしれない。
一真は痛みを我慢しつつも転がる木刀を拾い上げ、元あった籠の中に差し込んだ。
「しゃっ! 帰ろ!」
そう言って、地面に置いていたスーツのブレザーや鞄などの持ち物を拾い上げ、軽く土を落とすと公共訓練場を後にした。
手は一日では治らないほどボロボロになっていたが、また明日、必ず一真はここに来ることを心に決めていた。
それは、元の世界にいた時と同じ精神で、
一真は店に戻りながら「帰ったら店長に頼んで包帯とか貰わなきゃなぁ」などと独り言を呟きながら歩みを進める。
その時だった――
「――?!」
一真の背中を舐めるような悪寒が走った。
「誰かに……見られてる……?」
そんな感じがした。ただ見られているのではなく、監視されているような気持ちの悪い感覚。
日本では監視をされたことも無いから、感覚が敏感になっているのか、それとも視線を浴びせらる謎の人物の気配が強すぎるのかは一般人の一真には分からなかった。
とにかく、危険な眼差しが向けられているのは明らかだった。
「なんか、やばい気がするな……」
一言そう言うと、一真は急ぎ足で戻っていき、結局店までの帰路ではそれ以上のことは起こらなかった。
店に戻った一真は店長に貰った寝巻きに着替え、毛布にくるまるった。
白い天井を眺める。一真の頭は、つい先程のあの怪しげな視線のことを考えていた。
(あの視線、なんだったんだろうか……)
思い出すだけで背中にぞくりと悪寒が走る。
その視線は、果たして一真に災いをもたらすものなのか、はたまた特に害はないものなのかは知るよしもなかった。
そして、視界は段々と薄くなり、数分もすれば睡魔に誘われるように導かれ、気付けば眠りに着いていた。
――翌朝
一真の目覚めは自発的なものではなく、怒鳴り声という最悪の目覚まし時計によって叩き起こされる。
「一真ぁぁぁぁぁああっ!!!」
「っ?!」
「お前はいつまで寝てやがるっ!! さっさと起きやがれぇっ!!」
店を揺らすほどの大声は一真に取り付くしぶとい睡魔を追い出すどころか蹂躙し、跡形もなく消え去った。
一真は飛び起き、未だ健在のデジタル腕時計を覚めきっていないぼやける視界で凝視した。
店を開ける時間は早朝の六時からなのだが、時計は「6:30」と表示していた。
(嘘だろ……)
元の世界でも一度もしたことがなかった「寝坊」。
それは一真のメンタルを破壊し、絶望の淵に叩き落とすには十分な威力だった。
体から血の気が引いていくのがよく分かった。
寝坊の原因は日々の鍛錬による疲労からなのか、それとも、昨夜の怪しげな視線が原因なのかは明らかでは無かったが、とにかく今は急いで起きることが、更なる地獄に落ちない為の方法だった。
だが一真は半端呆然としながらも立ち上がろうとするが、一真の腕がそうはさせてはくれなかった。
「な、なんだ?!」
腕に力が入らない。
これまで軽い筋肉痛はあったものの、それ以外にはなにも体に影響は出ていなかったのに今頃になって一週間の鍛錬のツケが回って来たのか……
それでも一真は起きようと必死になった。
仕事をしなければ自分の信念が曲がることになる。それだけは避けたかった。
それに、
「一真ぁっ! いつまで寝てやがるって言ってんだよ……って、おめぇ、何してやがる……?」
「テンチョウ! 今行く……ノデ、マッテテ……」
一真は下手くそな、と言っても以前よりはマシになった言葉使いで、いつまでも来ない一真を見に来た店長に今行くと伝えた。
一真はこの人にお世話になりっぱなしだった。だから、この人にだけは迷惑をかけなく無かったのだ。
このお人好しの店長にだけは……
必死になって立ち上がろうとする一真を無言で眺め、店長は言葉を発した。
「いいっ! もう、今日は仕事に出てくんな!」
「ケ、ケド……」
尚も引き下がらない一真を見て、店長は怒鳴った。
「いいって言ってんだろっ!! そんな、起き上がれもしない体で仕事やられちゃ、こっちも困るんだよっ!!」
一真の動きが止まる。流石の一真でも食い下がることはもうしなかった、いや、出来なかった。
「困る」。その言葉は一真の心を抉った。
店長はそんな一真を数秒間凝視すると、バックヤードを後にした。
一言、ポツリと呟いて……
「しっかり休んどけ……」
「――?!」
それは、初めて店長から掛けられた優しい言葉だった。
いつも厳しい店長の振る舞いから、突然な優しい言葉の、その破壊力は絶大で、先程の一真の心を深く抉った「困る」というその言葉を帳消しにするどころか、一真の心に安心をもたらした。
例え信念を曲げても、店長の迷惑にはなりたくなかった一真にとっては一番の心の安定剤となったのだ。
その言葉に従って、一真は仕事には出ずに今日一日は日頃の疲れを癒すために使おうと決心した。
店長のためにも……
(何すっかなぁ……)
突然に暇になった一真は、その場に倒れ込み何をするか考えていた。
ここに来てからは覚えることが沢山で、休みというものとは無縁な生活を送ってきた一真にとって、今日は異世界に来てから初めての休日だった。
そのため、思いつくのは図書館で勉強か、公共訓練場で鍛錬に励むかの二択のみ……
そんな頭に呆れながらも天井を眺めつつ考えていると、店長の声が聞こえた。
「一真ぁぁあっ!!」
「はい?!」
先程のこともあって、返事とともに勢いよく体を起こした。
やって来た店長の手の平には、歩くたびにチャリチャリと音を立てる小袋が手に収まっていた。
「ほれ! 少し早いが給料だ! これでも使ってなんかしてこい!!」
おもむろに投げられた小袋を慌てて受け取ると、それは結構な重量を有していた。
「じゃあなっ!」
一々声を張る店長に、そのでかい声をなんとかしてくれという叶わない切実な願いを抱きつつ、さっさお去って行く店長に感謝の念を送った。
お金を貰えれば、やることは一つだった。
「よし! 街に繰り出すか!!」
何をするかが決まってしまえば、そこからはあっという間だった。
どうにか体を起こし、寝間着のまま身支度を整え「イッテキマス!」と、店長に挨拶をして朝方の街に繰り出した。
太陽の光が心地いい……
一真の目指す歩みには迷いがなかった。