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口チャック

  
  
 あら、こんにちは。最近よく会うね。
 わたしこのスーパーの常連。あなたも? 最近越してらしたの? これからもよろしくね。
 そうそう、わたし、一言多いっていつも主人に怒られるの。「口にチャックでもしておけっ」って。だから何か気に障った時は許してね。
 この前も向こう隣に越してきた新婚の奥さんを泣かせてしまって。その満田さん、妊娠中で悪阻がひどかったみたいで、毎朝仕事に行くご主人を見送りもできなかったらしいの。で、たまたま外に出て来たところを見かけてね、悪阻は病気じゃないよとか、ご主人に浮気されちゃうわよって、もちろん悪気があったわけじゃない、「元気出してね」のつもりだったの。でも、情緒不安定だったのか、泣き出してしまって。
 それを見ていた隣の宮井さんに叱られて――宮井さんにはいつも叱られるんだけど――で、わたし反省。
 ほんとにごめんなさい。いつも一言多いの。でも言いっぱなしってるだけで本音じゃないの。すぐ忘れちゃうの。って言い訳したんだけど、それを聞いてまた宮井さんに叱られて。
 やだ、あなた今引いたでしょ。
 そうよね。言った人は忘れるけど、言われたほうは忘れられないわよね。
 本当わたしってだめだわ。真向いにご主人を早くに亡くされた石野さんって方がいるんだけど、その方、子供も小さい頃に亡くされててね。それなのにとても優しい人で、ご近所みんなに信頼されてて、いらぬ一言どころか、愚痴も悪口も全然言わない人なの。で、宮井さん、彼女を見習えってわたしに言うわけよ。で、はい、わかりましたって。
 あ、その目は信用してないなー。
 まあ、とにかく謝りに謝って、満田さんのご主人が帰ってきた後も、うちの主人ともども謝りに行って許してもらったの。満田さんもいい人で、わかってますよ。気になさらないで。これからも仲良くしてやってくださいって。
 そ、いい人なの。奥さんも泣いた自分が逆に申し訳ないって謝られてね。もう、わたし、恐縮しまくり。主人には何百回目かの「口チャック」って注意されて、はいって即返事したわよ。
 あ、またぁ、その目は全く信用してないなー。
 でもね。満田さんご夫婦、それからすぐそこを出て行ってしまったの。出産準備で実家に帰ったとかじゃなく。
 もちろん宮井さんに怒られたわよ。あんたのせいよって。しばらくの間、隣近所誰もお話してくれなくなっちゃった。あ、石野さんだけは別。わたしを慰めてくれて。で、それを宮井さんに見られて、あんまり甘やかすなって石野さんに忠告してたわ。わたしの目の前で。ひどくない? 自業自得っちゃ自業自得なんだけど。
 それからしばらくして気晴らしにあそこのショッピングモールに行ったのね。そうそう新しくできたとこ。
 そこでね、満田さんに偶然出会って。もう悪阻も治まっててお母さんらしい顔になってたわ。
 わたしったら思わず満田さーんって手を振っちゃって。相手の気持ち考えたら気まずくなっちゃったんだけど、上げた手、下ろせないじゃない? うわっどうしよって。
 だけど満田さんにこにこ笑顔で久しぶりですってそばに来てくれたのよ。で、カフェに入ってお茶して。
 もちろん謝ったわよ。わたしのせいで家まで手放したんだから。もう誠心誠意、謝り倒したわ。
 でも満田さんきょとーんとしててね。何のこと? って感じ。
 そうなのっ。出て行ったのはわたしが原因じゃなかったの。
 実はね、ここだけの話よ。
 お向かいの石野さんがね、満田さんからしたらお隣ね。その石野さんが夜な夜な満田さんの枕元に立ったんだって。
 はじめは変な夢見たなくらいにしか思ってなかったらしいのね。なんで無表情な顔で夢に出てくるんだろって。
 それが次第に恨めし気な眼で満田さんの顔を覗き込んでくるようになって。悪阻がひどくて体調も悪くなるし、ますます気持ちも沈んでくるしで最悪なコンディションだったらしいの。
 そうそう、そこにわたしのデリカシーのない一言があったしって。オイっ。まあそれは事実だから、もう一度ちゃんと謝ったわよ。
 でもね、それは全然関係なかったんだって。
 とにかく怖かったのは石野さん。夢に出てくる彼女は日に日に恐ろし気な顔になっていくのに、実際の石野さんは優しくにこにこ微笑んでいるので余計怖くなったらしいの。
 とにかく一人で抱えているのが怖くなってようやくご主人に相談したんだって。
 そしたら、ご主人も色目を使う石野さんが枕元に毎晩立つって。ご主人にしてみたら夢だと思うじゃない? 無意識だけど自分が彼女に邪な考えを持っているんじゃないかって思い悩んでいたんですって。
 親類にいる拝みやさんに視てもらったら、石野さんに生霊を飛ばされてるって言われて、で、お札をもらったんだけど元凶が隣にいるって怖いでしょ。もう引っ越すしかないってことになったというわけなの。
 引っ越したとたん体調は良くなるし、もちろん枕元に石野さんも立たなくなった。念のため部屋にはお札を貼っているらしいけど。
 わかってるわよ。満田さんに出会ったことや聞いたこと絶対石野さんには言わないわ。
 あっ、その目――大丈夫、信用して。
 だって誰もが信頼している石野さんの本性を知ってるって、本人にわかったら怖いもの。
 え? わたし? 妬まれないかって? 石野さんに? だーいじょうぶよぉ。
 だってわたしいつも主人に口チャックって怒られてるし、ご近所のみんなにも注意されっぱなしだし。
 底辺にいる馬鹿だから、笑われこそすれ誰からも妬まれたり怨まれたりなんかしないの。
 そうやってずっと人生歩んできたのよ。
 あなたも妬まれないよう気を付けて。じゃ、またね。

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