何もない場所の真ん中
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17歳の春休み、俺は京都の叔父の家へ遊びに行った。
特に予定もなかったし、なにより家にいると父親の顔を見なくてはならない。それなら、仲のいい叔父の家に、観光がてら出かけた方が良かったわけだ。
叔父は喫茶店を経営していて、住宅の一階部分が店だ。店をはじめた当初、かなり苦労したそうだが、今は軌道に乗ってるとのこと。
「お前、家にいてばかりだな」カウンターの向こうにいる叔父は、カフェオレを出しながら言う。
んん、と俺は言いスマホから顔を上げる。
「せっかく京都まで来たんだから、観光でもしてこいよ」
「初めはそのつもりだったんだけどね。なんか面倒臭くなって」そう言って俺は熱いカフェオレを飲む。
「……。ところでお前、絵はどうした?」
「最近、描いてないな」
「オッサンになってから後悔するぞ。青春は有意義に使わないと」
「じゃあ、叔父さんは後悔してるんだ」
なにィ、と叔父がにらんでくる。
「怒るってことは図星なんだろ?」分かりやすい人なのだ。
カランカランと涼しげな音と共に客が入ってきた。
その客は、歳は俺と同じくらい。すらっとした体型をしている。金属縁の眼鏡をかけていて、青いシャツにカーキ色のチノパンツという姿だった。
「おう、しばらく」と叔父は言った。
「久しぶりです、マスター」と彼は笑みを浮かべた。綺麗で自然な笑顔だった。
「常連さん?」と俺は叔父にきく。
ああ、と叔父は答えたあとで、「何にする?」と彼にきく。
「アイスコーヒーを」彼は言い、俺から一つ空いた席に座る。
叔父は俺に向かって顎をしゃくる。「俺の甥っ子だ。同い年だし、話し相手になってくれよ」
「こんにちは」彼は俺の方を向き、また自然な笑みを浮かべる。
……どうも、と俺も笑顔をつくるが、なんだか俺のはぎこちない。
「君、ここらへんの人じゃないよね?」と彼がたずねる。
「ああ……東京の方から」
「やっぱり。雰囲気がなんとなくそうだ」
……俺はそんな東京っぽい雰囲気を出してるのだろうか (東京といっても住んでるのは足立区だが)。むしろ、彼のほうが垢抜けた感じがする。
「僕は北村せいじといいます」よろしく、と彼が手を差し出してくる。
「俺は松本ゆうじ」俺も手を差し出し、ぎこちなく握手する。
……それが北村と俺との出会いだった。北村との出会いが俺の人生を大きく変えるとは、当然だが、このときは知るよしもなかった。
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夕食をとっていた時、テーブルの向こうの叔父が言った。「今日来た子いるだろ」
「あの眼鏡で体の細い?」俺は言い、煮魚をつつく。
テーブルの上にあるのは白米以外、インスタントと店の残りものだった。店を閉めてからだと料理をしてる暇がなかったからだ。
俺がつくればいいのかもしれないが、残念ながら料理をしたことなど1度もなかった。調理実習のときもサボって遊んでるくらいだ。
「彼、作家をやってんだよ」と叔父が言う。
「……。作家ってプロの?」
「らしいな。去年、新人賞でデビューして、いま二冊目を書いてるとのことだ」そう言って、叔父は味噌汁をすする。
「……。すごいヤツなんだな」思わず箸が止まってしまう。
翌朝の10時ごろ、俺は京都駅のロータリーをぶらついていた。
京都まで来たのに家でゴロゴロしてるのは確かにもったいないので、家から出てきたのだ。が、特に神社仏閣に興味があるわけじゃないので、こうしてブラブラしてる。
駅前は人でごった返していた。大半は、リュックサックを背負っていたり、キャリーバックを転がしていた。外国人の姿も、ちらほら見える。
彼らを尻目にカフェに入った。朝飯を抜いていたので、モーニングでも食べようと思ったのだ。
カウンターで注文したあと席を探していたら、偶然、彼に会った。北村だ。大学ノートに書きものをしていた。
俺に気づくと北村は微笑んだ。「座る?」
「お邪魔します」そうおどけて、俺は腰を下ろす。「執筆活動?」
「マスターから聞いたんだね」と北村は言う。「あまり進まないんだけどね」ノートを閉じ、うーん、と伸びをする。
「スランプってやつだ」
「スランプは天才が煮詰まったことを言うんだよ。残念ながら僕はそうじゃないな」
「でも、その歳で作家ってなかなかいないぞ」
「現役高校生で作家なんていっぱいいるさ」
「……。……俺には自慢できることは何もないな」と自嘲気味に笑う。
「そんなことはないだろう」と北村が言う。
「……。まぁ、絵は好きでノートによく落書きしてる」身の入らない授業中なんかは特に熱心に。
「僕は絵心がないから羨ましいな」と北村が微笑む。そして「なんか描いてみせてよ」と、ノートの何も書かれてないページを開き、俺に差し出す。
「嫌だよ」と言っても「是非」と返され、埒が明かないので、仕返しとばかりに北村の顔をデフォルメして描いてみせた。
「上手いな」と北村は目を丸くする。「……いやお世辞抜きに。イラストレーターとか漫画家とか目指してるの?」
「まさか」と俺は苦笑する。なれるハズないだろ、そんなもん。
そこで、俺が注文したモーニングが来た。テーブルにコーヒーとトーストが置かれる。
店員が去ったあと、俺は北村を見やる。北村はまだ絵を見ている。「いや、本当に上手いって」と繰り返す。
「……」お世辞だとしても嬉しかった。
そのあとで「映画でも観に行かないか?ちょうどチケットが2枚ある」と北村が提案したので、俺たちはショッピングモールにある映画館へ行った。
その映画はアニメだったが、かなり難解だった。監督が押井守だからだ。俺は途中で眠りかけたが、隣の北村は真剣だった。
観終わったあと、そのショッピングモールの中にあるマックで食事した。
「悪かったね。あんなに難しい話だとは思わなかった」と北村が言った。
「有名だぞ、あの監督の映画は超ムズいって」と俺は不平を言う。内容の10分の1も理解できなかった。タダで観といてなんだが。
「いや、アニメや漫画は詳しくないんだ」
そのあとで、映画は小説の勉強になる、と北村は話した。「映画1本で小説1冊分ぐらいだからね、構成の勉強にいいんだ。他にも、映像を文章に置き換えることで、文章力も鍛えられる」
「そうやって観るの、あまり楽しくなさそうだな」そう言って、俺はビッグマックにかじりつく。
「ほとんど職業病だ」と北村が笑う。「でも娯楽としてもちゃんと観るよ。で、しっかり感動する。感動は創作のモチベーションでもあるしね」
「押井守の映画で感動するのは、俺にはムズいな」と茶化す。でも『感動は創作のモチベーション』というのは分からなくもなかった。
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翌日の午後、俺は叔父の喫茶店でダラダラしていた。
「お前、いつもそうやってダラダラしてるのか」と叔父はグラスを磨きながら言う。
まあね、と俺はカウンターに突っ伏しながら答える。別にしなくちゃいけないこともないし、当面。
「彼女とかいないのか?」
「一瞬いたけど別れた」
「喧嘩か?」
「エッチさせてくれなかったから」
「アホか」と叔父は呆れたように言う。
実際は叔父の言うとおり喧嘩だった。LINEで口論してそれっきりだ。いま思うと、しょうもないことで言い合ったもんだ。
「……。ところで、北村って彼女とかいるのかな?」
「2、3回見たぞ、ここで」
「へぇ」女に興味がないのかと思った。ストイックという意味で。
そこでドアの鐘が鳴った。北村だった。
北村は叔父にアイスコーヒーを注文したあとで、俺の横に座った。
「今日はここで執筆ですか?」そう敬語でおどけて、俺はきく。
「いや今日は……というか当分書かないことにしたんだ」
「スランプか?」叔父は北村にアイスコーヒーを出す。
「スランプは天才に対して使う言葉ですよ」北村が昨日と同じようなことを言う。「まあ、煮詰まってるのは確かですけど……」
「しばらく僕に付き合ってくれないかな」北村が唐突に俺に言う。「ちょっと話し相手が欲しいんだ。君も暇をもて余してそうだしいいだろ?」
「失礼な」と俺は返す。さっきまでダラダラしてた身だが。
「月並みなようだけどさ、スランプの解決法は気分転換なんだよ」
「スランプって言ってんじゃん!」
「便宜的にそう言っただけだ」と北村が微笑む。
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……という理由で、俺と北村はそれからも会うようになった。
どうせならということで、街を散策したり、有名な神社仏閣を回ったりした。北村からすれば京都は地元だが、退屈そうにしてる様子はなかった。
俺の金はすぐに枯渇したが、途中で北村が『出世払い』という名目で出してくれた。「気にしなくていい。新人賞の賞金がまだ残ってるんだ」
行きつけのロシア料理店にも連れて行ってくれた。外観も内装もなんだか高そうだったが、ランチが千円ちょっとで食べられたので、俺は内心ホッとした。
ロシア料理を食べながら、二人でとりとめもなく話した。話題はもっぱら映画だった。今のところ、共通の話題はそれだけだったからだ。
北村が、カツレツをナイフとフォークで切り分けながら言う。「『イエスマン』は面白いし構成も分かりやすいから教材としてもよく観返すんだ。それで……」
「……いや、そういう踏み込んだ話はやめてくれ」……そこまではついていけん。
そのあと2日間、雨が続いた。バケツをひっくり返したような、どしゃ降りだった。
さすがに北村からの連絡はなかったし、俺からも連絡をしようとは思わなかった。
雨のあいだ叔父の喫茶店で、ひたすら絵を描いて過ごした。それに飽きると、叔父の部屋から本や漫画を借りて読んだ。
「おい、どういう心境の変化だ」と叔父は不思議そうに言った。
「反動だ、反動」俺は叔父の方を見ずに答えた。
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雨があがった日の夜、自室のテレビで古い映画を観たあと、ベッドに入った。……少ししてスマホが震えた。
北村からのLINEだった。『よければ、今から会わないか?』とのことだった。相変わらず、絵文字もスタンプもない、乾いた文面だった。
俺は自転車で待ち合わせ場所の荒神橋まで行った。暗闇の中、人影が橋の欄干に寄りかかっていた。「……なんか眠れなくてさ」と北村が笑った。
河川敷のベンチに俺と北村は座った。
雨のあとだから、草木の匂いが鼻をついた。鴨川には、明るい月が揺らめいてる。
「差し入れだ」北村がコンビニの袋を2つ置く。中身はチューハイ数缶とスナック菓子2袋。
「優等生が酒を買っちゃダメだろ」俺はニヤニヤしながら、チューハイのプルタブを開ける。プシッと小気味いい音が、辺りに響く。
「酒くらい構うもんか」北村もプルタブを開ける。「だいたい優等生じゃないよ、僕は」
「1人称が『僕』で、眼鏡をかけてて、小説を書いてるのに?」
「おもいっきり偏見だな」と北村が笑う。「そもそも、僕は学校に行ってないんだ。そんな優等生いないだろ?」
「……そうなのか?」
「馬が合わなくてね、クラスメイトや担任と。ある日、何もかも面倒臭くなって、それ以来、不登校さ」そう言って、北村は缶に口をつける。「……まあ、よくある話だな」
「……」
「君もそういうのはないか?」北村がきいてくる。
「いや、俺はわりかし器用だからな。うまく立ち回っていけてる」なんだかその台詞は、皮肉のようだった。自分自身への。
……そうか、と少し寂しそうに北村は言った。
……しばらくして北村が言った。「君は死にたくなったことはないか?」
「酔ってるな」と俺は茶化す。
「どうなんだ?」と北村が続ける。
「……そうだな」俺は、水面の月を眺める。風が吹いて、月が揺れた。「……ないな、今のところは」
「僕はあるんだ」と北村が言う。「生きてても仕方ないと思ったんだ」
「……生きてても仕方ない?」
「全部、無意味に思えたんだよ。自分も家族も学校も。世界とか未来とか。いわゆるニヒリズムだ」
「……」
「だから死のうとした。ドアノブにベルトをかけて」
「……」
「でも怖気づいたんだ。ニヒリズムより恐怖心の方が強かったわけだ」
「……。それでどうしたんだ?」
「結局、生きるしかないと思った。事故や病気や寿命で死ぬまでは、生きるしかないんだって」
「……」
「そのときに小説を書こうと思ったんだ」
「……何で」
「人生とは大いなる虚無だ。死ぬまでは、何かして時間を潰さなきゃいけない。どうせなら興味のあることで潰したほうがいい。それが理由だ」
本当は映画をつくりたかったんだけどね、と北村は続けた。「でも映画は1人じゃつくれないし、お金も必要だ。だから代償行為として小説を書いてる。小説なら1人でも書けるし、お金も必要ない」
「……」
「それで今に至るというわけだ」
「……。北村、お前さ」
「?」
「サバ読んでるだろ、歳」
北村は笑った。「まさか」
……同じ年月を生きてても、いろいろ考えてるヤツもいれば、そうじゃないヤツもいるんだな。
……そうじゃないヤツというのは、もちろん俺のことだ。
「……俺も何かやろうかな」酔ったはずみで言ってみた。「まぁ、人生が長いのは確かだしな」
北村が俺の顔を覗き込む。「何をするんだ?」
「秘密だ」俺は笑って、缶の残りを飲み干した。
(第2話に続く)