VS宿屋の店員
久しぶりに布団で眠ったネロは、その寝心地の良さからか――かれこれ何度目かになるのか分からない、異世界の夢を見た。
もう一人の自分。食べ物に不自由せず、日々を幸せに寝ていられる、
否、生き残れていた――と言った方が適切か。
実家からは『自立しろ』との一言で追い出され、少ない仕送りとアルバイト代で食いつなぐ。深夜帯の仕事をいいことに、賞味期限の切れた食べ物を、こっそり持ち帰るのが日課になっていた。
唯一、趣味と呼べるものは読書。ジャンルを問わず、ファンタジーからコメディ、果てはミステリーと広く雑多だ。それは、やはり良く眠れるという理由で続けていた趣味だった。幼い頃から通算すると、その数は背の高い本棚が百にも届くだろうか。
就寝前に読み、そして膨らませたイメージを夢に見る。人ひとりの物語は一つだが、本の中には何十人もの登場人物が住み、息づく。そんな世界に身を投じることこそが、彼にとって何よりの幸せだった。
夜中は働き、持ち帰った食料を朝に食べ、書物を読み漁っては昼間に寝る。昼夜逆転の生活。それの繰り返し。彼の目線から見た日常は、常人にとっては酷く退屈に映ることだろう。
しかし、おとぎ話のような異世界ではなく、辛く険しい現実を生きるネロにとっては――
(いいなぁ)
それは、羨む対象でしかなかった。
▼△▼△
「お客さん……お客さん! 起きてくださいったら」
若い女性の声がして、体を左右に揺さぶられる。
けれども弱い力しか掛っておらず、その
「なんで余計に寝ちゃうんですか、もぉ。ネロさん!」
名前を呼ばれたことによって、ネムイ=ネロは現実へと引き戻され、薄く
「……誰」
「昨日、助けてくれたじゃないですか。忘れちゃったんですか?」
「ん、そぅ。助けたぁ、ねぇ……ぉやすみなさぃ」
「だから寝ちゃダメですってば、ネロさん!」
呼びかけるも反応なし。頬を膨らませた店員は、強硬手段に打って出た
。
カーテンが開かれ、淡い光が魔法使いの顔に差す――のも束の間、すぐに掛け布団で
「うぅ、長旅で疲れてるんだ。頼むから、もうちょっと寝かせてくれ」
「もうちょっと、て……」
女性店員が窓の外に目をやると、
「お昼ですよ? いつまで寝るつもりなんですか」
「朝まで」
「そんな、困りますっ」
「羊が一匹……にひ、き……」
「もー! いい加減にしてください、ネロさんっ」
今度は強く揺さぶりを掛けるが、元が非力なのだろう、やはりネロの睡眠欲を妨げるには足りなかった。そうしている合間にも、布団の中からは安らかな寝息が聞こえてくる。驚くほど寝つきはいいようだ。
「どうしよう……」
酔っ払いから助けてもらった手前、痛がるような真似はしたくない。かと言って他の客ならば、とっくに宿を後にしている頃合いだ。
今晩にも別の客が来るかもしれない。ネロが寝ていては、部屋の掃除や布団が干せなくなってしまう。王都の城下町だけに、くたびれた宿でも、それなりの客入りはある。しかし満足いく生活には程遠いのだ。恩人とはいえ、タダでネロに割く寝床はない。
悩んだ挙句、店員は床に伏している母のもとへと行き、知恵を借りることにした。
「お母さん、入るね」
小さくノックし、軋みと共に木製の扉が開かれる。中にはベッドの上で半身を起こした母が居た。店員と同じく黒髪で、頬が少しばかりこけている。しょげた女性店員の顔を見て、柔らかい笑みを浮かべていた。
「てこずってるわね、マリー」
「えぅ……き、聞こえてた?」
「うちは薄壁だもの。あんな大声を出されたんじゃ、ね。昨日のお客様、起きないんでしょ」
「うん。今までも寝起きの悪いお客さんは居たけど、あそこまで頑固な人、見たことないよ」
しかめっ面でマリーが溜息を吐くと、再び彼女の母はクスクスと笑みをこぼした。
「笑いごとじゃないってば、もぉ」
「ごめんなさいね。でもマリーったら、お父さんと出会った頃の私みたいで、可笑しくって」
「……お父さんは、あんなお寝坊さんじゃなかったよ」
「マリーが生まれる前は、そうじゃなかったの。けどマリーが生まれて、この宿屋を盛り上げたいって思ってからは、一度も朝寝坊をしなかったわ。まあ、初めの内は私が起こしてたんだけどね」
「お父さんも、寝起きが悪かったの?」
「ええ、そうよ。揺すっても声をかけてもダメ。布団に包まっちゃうんだから」
同じだ、とマリーは思った。だとすると母は、あの魔法使いの起こし方を知っているはず。
前のめりで訊こうとする看板娘を、けれども『安眠荘』の店主は一言で制した。
笑顔のまま、薄目を開けて。
「我が家秘伝の極意、教える時がきたようね」
▼△▼△
マリーは、もう一度ネロの部屋を訪れた。その顔には不安の色が見える。
「ほんとにアレで上手くいくのかな……」
こうして、いざ熟睡しているネロを前にすると、気が引けてしまう。布団に包まっていて表情までは見えないが、心の底から気持ち良さそうに寝ているのだ。
「だけど、お店の為だもんね」
意を決して、マリーはネロの布団を強く揺さぶる。
「ネロさん! 起きてください! もうお昼ですよ」
「……ん……んー……まだ朝じゃないんだろぉ」
「とっくに朝は過ぎてるんです! 寝すぎです」
「むぅ、しつこいな」
「どっちがですか!」
「聞き分けがないぞ」
「どっちがですか!?」
やはり問答だけでは埒が明かない。マリーは台所から持ってきた鉄鍋と
「おーきーてーください。ネロさん?」
「……間抜けめ。耳に指を突っ込んでいるとも知らずに」
「ほんとは起きてますよね?」
「………………」
返事がない。こうなると、いよいよ最終手段である、母の秘伝その二を試さなければいけない。マリーは家具を床に置き、袖をまくった。
(ようやく諦めたかな)
騒音が消え、ネロは店員が部屋を出て行った思い、またぞろ眠りにつき始めた。長旅で疲れているというのは本当で、故郷から王都までの道のりは、決して楽なものではなかった。数え切れないほど野宿もしてきたし、魔物や野党にも襲われた。安心して休める時の方が珍しい。あの異世界とは、違うのだ。
(あー……うとうと来た。寝れる)
そう思った矢先、足元が冷えた。
(今度は何だ。布団でも剥がそうってか。無駄無駄、がっちりガード固めてんだぜ)
ネロは布団を握る手に力を込めたが、それは結果的に意味がなかった。
もぞもぞと、布団の中に、何かが入り込んできたのだ。
「ん、しょっと」
「おい……まさか」
跳ね上がる鼓動。じわりと
ネロは目を開けた。
「おはようございます、ネロさん」
「うぉおおおおおあ!?」
がばっと布団を払いのけ、飛び起きる。後ずさり壁に手を当て、ネロは布団に入ってきた人物を見下ろした。
黒髪の女性店員。年端もいかない十五、六の少女。マリーである。
「お母さん凄い。ほんとに起きちゃった」
「な、なに、なにしてんの。なにしてくれてんの」
「おはようございます、ネロさん。もうお昼ですよ。起きてくださいね」
完敗。その二文字がネロの脳裏によぎった。満足気に微笑むマリーに向け、引きつった笑みのネロは、わなわなと口を開いた。
「おはようございます……」