異能ものの一話目
積みあがった課題から、少しでも目をそらしたかったのだ。
今日のうちにすべて終わらせてしまおうと思ったのが間違いだったのだろうか。
ただ土日を心おきなく楽しみたかっただけなのに。
いや、どの先生も、期末テスト前だからと課題を積みあげるのが悪い。
なかでも、担任でもある古文教諭の課題がいちばんえげつなかった。あれで生徒からの人気は高いのだから理解できない。
恨めしげな視線の先には、分厚いプリント。有名な昔話の元となった竹取物語が、みっちりと全編書いてある。
それをすべて現代語に訳すという課題なわけだが、ちょっと意味がわからない。
たった二日とちょっとでできるような分量ではない。
そもそもテストに出るのは簡略化されて教科書に載った、さらにその一部だけ。古文の現代語訳に慣れるだとか、和歌の読解だとか、たしかに利点はあるのだろう。だからといってまったく、納得はできないが。
まだ、五人の貴公子が求婚してくるところまでしか訳せていない。
十章あるうちの、まだ二章目だという事実に涙が出そうになる。
数学だとか日本史だとか、ほかのプリントだってやらなくてはならないのに、古文だけで土日がつぶれてしまいそうだ。
視界に入ったクラスのグループチャットも、阿鼻叫喚の嵐だった。まじめにやるのも馬鹿らしいと、範囲を決めて答えを写しあおうとする流れになってきてすらいる。それが賢明だと綾香も思った。
終わっている課題と、強敵である古語の現代語訳が済んでいる範囲をメッセージに打ち込むと、深くため息をついて背もたれに体を預けた。
目を閉じて大きく伸びをする。
首筋や肩が、ひどく凝っている気がする。
「もーやだぁ……疲れたぁ……」
軽く体を動かさないと、このまま固まってしまいそうだ。もともと、得意なのは体を動かすほうで、頭を動かすのはあまり好きではないのだ。
気分転換に星でも見ようかと、ストレッチしながら窓辺に寄る。
カーテンを引いた先には、窓ガラスに映る自分の疲れた顔。
その裏に、ぽっかりと大きな丸が浮かんでいた。
窓を、開ける。
湿気を帯びた生温い風が露出した肌を滑り、冷えた室内に入り込んでくる。
だが、そんな不快感は一瞬で吹き飛んだ。
雲ひとつない夜空に、普段より一回りは大きな月が、穏やかに昇っていた。
自ら発光できないというのが嘘のように、周りの小さな星の光を飲み込み煌々と輝いている。
さっきまで竹取物語の現代語訳をしていたからか、かぐや姫もあの月を見て涙したのだろうかと子どものようなことを考えてしまう。
お伽噺の登場人物なのだから、現実のこの月を見ていたわけでは、ないのに。
そうして頭が冷静になれば、月に釘づけられていた視界は開け、耳も正常に音を取り戻す。
「……野良猫? 多すぎない?」
住宅地なのだから、たまに犬の鳴き声が聞こえてくるのは今までもよくあった。
野良猫の、縄張り争いや繁殖期の声も耳にしたことがある。だいたいは二、三匹での争いだったが、さすがにちょっと今夜は多すぎる気がする。
低く唸るような猫の声が、あちこちから聞こえていた。
近隣の野良猫が、一斉に抗争でも始めたような合唱具合だ。
クーラーをつけて閉め切っていたさっきまでは、全然気づかなかった。
たまに聞こえる衝突時の甲高い攻撃的な声が、少しずつこちらに、近づいてきているような。
背筋をなにかが這いあがってくるような感覚に、冷たい汗が出る。
気づけば口の中が、カラカラに乾いていた。
「な、に……?」
二つ先の角を曲がって、人影が飛び出してきた。
ジョギングなどの軽やかなものではない、全力疾走と呼ぶにふさわしい必死さで、人影が走ってくる。
焦るような足音が、もう耳に届くほどまでやってきた。
月明かりに照らされて、長い黒髪とスカートがひるがえる。
「!」
本能がけたたましく警鐘を鳴らしているが、同じくらい、彼女を救わねばと突き上げてくる。
考えるより先に、体が動いていた。
窓枠を蹴り、猫のような身軽さですぐ下の塀に飛び移る。
どくどくと跳ねる鼓動が、興奮とも恐怖ともつかずに耳を叩く。
視線を下ろせば人影はすでに目と鼻の先で、その人物が自分とさほど変わらない年頃の少女だと稜香は気づいた。
助けなきゃ。
なにから?
わからない。けど、助けなくちゃいけない。
視線が、ぶつかる。
どくん。
心臓が、跳ねた。
「えっ!?」
小さく声をもらす少女の前に降り立ち、稜香もまた、息をのむ。
少女の目の中に、さっきまで見上げていたのと同じ満月が、あった。
目が、離せなくなる。
同時に、全身が鈍く軋んだ。
体の中心に熱が生まれ、血が沸き立ったかのように体中をかけめぐる。
存在を、むりやり作りかえられる。
目が、熱い。
永遠にも似た一瞬のうちにすべてが起こり、目眩がする。
「──っ!?」
酩酊感につい伏せた目を開ければ、世界が一変していた。
少女の足元だけでない、自分の足元にも、建物の影にも、見渡す限りすべての影の中に、影が濃く集まったような、何かが蠢いている。
それにも程度はあるようで、街灯や月明かりの届きやすい薄い影のものは元気がなく、逆に、濃い影の部分はもぞもぞと今にも抜け出してきそうな具合だ。
それらがなんなのか。
少女は何者なのか。
知りたいことは山ほどあったが、稜香はひとまずそれを黙殺して少女の背後を見やる。
自分の家より少し先に、故障だか寿命だかで街灯が途切れている場所があった。
つまりそこは、影がこの辺りよりよほど濃い場所だというわけで。
さっき助けなきゃと思ったのは、このよくわからない影の住人から、ということだったのだろうかと思いながら綾香は駆けだした。
影は、すでにぶくぶくと膨れ上がって地面から這い出ようともがいている。
本能で、あれに素手で触ってはいけないと理解する。
ではどうやって。
この身に集まる熱を利用すればいい。
空手の試合の時のような闘争本能とも呼べる思考に、頭はすっきりとクリアになる。
相手を倒す、それだけを考えて、グッと拳を握った。
「はっ!」
影の前で足を止め、一突き。
ふわふわと実体がないのかと思いきや、予想以上にしっかりとした手応えに眉を寄せる。
ちらりと視線を落とせば、拳に薄い金色のもやがまとわりついていた。体の中にあった熱がそれだろうと、適当にあたりをつける。
ついでとばかりに蹴りも見舞えば、影は一度ブルりと震えて霧散した。
あまりにもあっけなく消えてしまった影に、拍子抜けしてしまう。
たっぷりと呼吸をして、動揺を抑え込んで振り返る。
まだ、こっちは終わっていない。
少女の浮世離れした月色の目と視線を合わせようとすれば、相手の姿は見えず。
「あれ?」
山ほどあった聞きたいことは、少女の姿を探しているうちに、いつの間にかどこかへ消えてしまった。