奪いたい乙女
私には友人から借りたまま、返していない本がある。
しかし、私たちの仲にひびが入ることはなく、今でも彼との交友は続いている。
私が借りた本と同じものを購入し、表紙や中のページまで、印刷時についたであろう、小さな汚れまで丹念に模倣した上で、渡しているからだ。
彼は私が用意した「贋作」を、あたかも、かつて自分が購入した本物であるかのように接していることと思う。
返していない、という真実を知っているのは、私のみということだ。
なぜ、このような手間のかかることをするのか。
端的に言えば、私の中にうずく愛情によるものだ。
新品の本を購入すれば、大抵の人が、当初は汚れを知らない処女のごとく、蝶よ花よと愛でながら、そのページを手繰るだろう。
しかし、一週間、二週間と時間が経つと、邪魔臭くなった古女房にふるまうような態度に、変わりはしないだろうか。
ぞんざいに扱い、いつのまにか、ページの端が折れていたり、ふとした油断で破れてしまったり、雨の日対策を疎かにして、その紙を、老婆の手のひらのように、しわくちゃにしてしまう。
そうなってしまうこと、私はとても残念に思う。だから、相手の本への愛が薄れないうちに、私は申し出るのだ。
「その本を貸してくれないか」と。
すると、許してくれた誰もが、こう言う。
「汚さないでくれよ」と。
この言葉を聞く時、私はたまらなく胸が躍るのだ。
友人は、買った当初こそ、本が汚れることを嫌う。ブックカバーをかけた上で、電車の中など、人が大勢いるところで、読んだりしない。
だが、生来の本好きである彼が、一冊に注ぐ愛情は、持って数週間。早ければ毎日、相手が替わる。
彼の家はドア付き本棚が溢れていて、読む時以外は光が当たらぬように、徹底していた。ふたたび、彼の気が向くその時まで、彼女らが構われることはない。そうして、表紙もページもゆっくりと老いていく。まるきり、心の「大奥」だ。
そうして閉じ込められた彼女たちを、私は連れ出す。こそこそせずに、堂々と。
大奥から、私の下に外出することを許可してくれるのも、彼との間で築いてきた信頼あってのものだ。
彼は快く、私に女たちを預けてくれる。それが実は、永い別れになっているとは、露知らず。
家に帰ると、私は彼女たちを、思い切り可愛がる。
彼女たちは、彼の手元にいた時よりも、長い時間をかけて私と一緒に過ごす。
やがて私の皮脂を帯び、手垢がついて、汗が染み込み、徐々に私のものになっていく。
真新しい娘相手では味わえない、征服感が心の中からこみ上げるのだ。
真っ白なものを、私で染めるのではない。
元々、色のついていたものが、私の色に浸されて、「彼を含んだ」私の色に染まる。
私一人では成しえない色彩であり、これと出会うことが、私の人生の楽しみとなっているのだ。
想像するだけで、私の背筋に、電流にも似た甘い陶酔が駆け巡る。
だから、私はやめられない。
今日も私は彼に会う。
寸分たがわぬ「真っ白い娘」を抱きながら。
そして、娘を彼の下へと送り出しつつ、心を込めて告げるのだ。
「ありがとう」と。
無垢な娘を受け取り、彼は笑う。
「どういたしまして」と。
この言葉を聞く時、私はたまらなく胸が躍るのだ。