序章
真木アラタは今にも降り出しそうな曇天の空を眺めていた。
薄暗い教室では教壇に立つ教師が教科書を読み上げ、ノートにペンを走らせる音が聞こえる。六月の湿った教室は静かで、憂鬱な空気が籠っていた。
「真木、この問題を解いてみなさい」
よそ見していたのに気付かれたのか、アラタは教師に当てられた。シャーペンをノックして白紙のノートに問題文を書き、解答を導き出す。導き出された答えに間違いはない。その上でアラタは応える。
「すみません、分かりません」
アラタは学年で最も成績のいい生徒だ。この程度の問題を解けないはずがない。教師からしても他の生徒からしても、それは明らかな嘘だった。
しかし教師はそれ以上何も言わず、自ら黒板に問題を板書していく。
アラタは再び曇天を見上げた。
窓にいくつかの水滴が付き、やがて雨が降り始めた。
アラタの通う大音高校は全国でも名の知れた進学校だ。小学校から、あるいは幼稚園からエリート教育を受けてきた一握りの生徒達が通っている。
だがここもまだ途中経過に過ぎない。国公立や海外の有名大学を目指し、そこからまた一流企業や国家公務員など、勝ち組と呼ばれる様々な職種への就職を目指す。それでもまだ終わらない。就職が決まれば同期の誰よりも早い出世が求められる。
ゴールテープは遠く霞んでまだ見えない。
あるいはそんなものなど、初めからないのかもしれなかった。
「アラタさん、ここの問題教えて欲しいんですけど」
雨音の響く昼休み、走り続ける事を義務付けられた学生達のつかの間の休息。教科書を抱えた桜井さくらがアラタのもとへ訪ねてきた。彼女はアラタの同級生だ。内にはねた髪、太縁の眼鏡。いつも困ったように笑っているのが印象的だ。
母親の作った弁当を食べていたアラタは箸を止め、小さなため息をついて返す。
「雨なのに面倒だな」
「それ、関係あります?」
さくらの問いには答えず、アラタは黙って開かれた教科書を受け取る。
そこには黄色の小さな付箋が貼られ、丸っこい文字でこう書かれていた。
『京町筋二丁目、今すぐ!』
「少し難しいな。ペンは」
「もちろん用意してます。解けそうですか?」
ペンを受け取り、アラタは付箋に二本線を引いた。
「一問だけなら。他に問題があるようなら先生に聞いてくれ」
「分かりました。さすがアラタさんですね」
「そういうのはいらない」
弁当箱のふたを閉めてアラタは席を立ち、椅子に掛けていたブレザーに袖を通した。
「気分が悪いから保健室へ行ってくる。それは適当に処分しておいてくれ」
「やったー。アラタさんのお弁当、おいしいんですよね」
アラタの席に座り、さくらは嬉しそうに弁当箱のふたを開けた。
「ああ、それと」
思い出したようにアラタは振り返る。
「何ですか?」
「無意味にエクスクラメーションマークを付けるな」
「えへへ。すみません」
さくらは苦笑いを浮かべたが、アラタは見てもいなかった。
保健室に向かう事なく、アラタは学校を出ていた。雨を気にする様子もなく歩き、校門の外に停まる黒塗りの車、その後部座席に乗り込む。
車はすぐに発車し、急激に速度を上げていく。
「お食事中に申し訳ありません」
助手席の少年――『先生』は振り返りそう言った。申し訳なさそうな様子は一切ない無表情だ。この変わらない無表情とぼさぼさの髪、いつも同じブランドのジャージが彼の特徴だ。
「どうして先生が?」
「愛読している漫画の発売日なんですよ。作業が終わってから買いにいこうと思ってたんですが、丁度よく彼女を発見しましてね」
「漫画なんてネットで買えばいいじゃないか」
「店舗特典というものがあるんですよ。こればかりは仕方ありません。やはり愛読書は自分で買いたいですから、他の方に任せる訳にもいきませんし」
「……もういい。現状は?」
アラタと先生のあいだには理解し合えない溝があるようだ。それを悟ったのか、アラタは話題を切り替えた。
「テディロイドが三体――あ、たった今七体破壊されました。目標は黄色の魔法少女のみ、援軍は来なさそうです」
電子端末から投影された立体映像を見つつ、先生は報告する。
「曖昧な情報はいらない。来るのか来ないのかはっきりしてくれ」
「僕に言われても困りますね。あの子に直接聞いてください」
機動隊の包囲網が見えてきた辺りで車は止まり、降りたアラタに窓から先生が声を掛ける。
「迅速な対処と収穫を期待しています」
「黄色のは以前と変わらないんだろう。収穫は期待できないな」
「ではせめて迅速な対処を。包囲網が解かれなければ書店に行けませんので」
「……パーソナル迷彩は起動しているのか?」
「離れてから起動します。僕が見つかるとまずいですから」
パーソナル迷彩とは特定個人を同一人物として認識できなくさせるシステムだ。分かりやすく言い換えれば真木アラタを真木アラタと認識できないようにする。
こうした超科学的なシステムの開発を担うのが先生だが、なぜ彼のような少年がそれほどの技術と開発力を持つのか、アラタは聞かされていない。
「本当に大丈夫なんだろうな」
「僕がミスを犯すとでも?」
「ならあの魔法少女とやらは何だ。あれも計画のうちだと言うのか」
「結果的にはそう言えます。それでは」
窓が閉じられUターンして去っていく黒塗りの車を見送りながら、アラタは一人自問する。
「ミスを認めない人間は成長しないか?」
包囲網へ振り返り、まだ遥か遠くの魔法少女を見据えながら自答する。
「……分からないな」
一旦の結論に留め、アラタは両手で前髪を後ろへ流した。
その髪はやがて元よりも長くなり――合わせるように耳の先が尖る。伸びた髪は銀色に、瞳は赤色へと変色していく。
ブレザーもまた色を変えかたちを変え、漆黒のコートへと変換されていく。
真木アラタが別の何かへと変換されていく。
アラタ自身そう名乗った事はないが、先生の決めたコードネームは『ヴァンパイア』。
変貌を遂げた真木アラタは駆け出す。初速からトップスピード、その機動力はアスファルトを踏み砕くほど速く。
魔法少女を狩る者として、ヴァンパイアは単純な、それでいて超人的な速度と跳躍により包囲網を突破した。
打ち付ける雨の中、テディロイドは無残に破壊されていた。道路に叩き付けられ粉砕された部位から青白い電光が瞬いていた。
テディロイドに命はない。人型、鳥型、ものによってはクマのぬいぐるみを模したものまである、悪趣味な玩具のような兵器だ。異形に機能性はなく、これもまた先生の趣味が反映されているのだろう。
テディロイドが残した破壊の痕跡とは別に、ところどころ道路が丸く砕かれている。
「また来たわね、悪魔っ!」
その叫びは一つ、しかし一人から発せられたものではなかった。
ツインテールに幼い顔立ち、巨大な木槌を構え、黄色いワンピースを着た少女――黄色の魔法少女マナが、複数人。皆が皆同じように怒りを顔に滲ませていた。
「黙れよ失敗作。数だけしか芸のない無能が」
先程まで乗り気でなかったのが嘘のように、アラタは顔を歪めて嘲笑う。
「今日は前みたいにはいかないんだからっ!」
そう言ってマナ達は木槌を道路へと振り下ろす。
木槌はアスファルトを砕いて土を撒き散らし――新たなマナが飛び出してくる。新たなマナもまた飛び出した勢いもそのままに木槌で道路を砕き、また新たなマナを生み出していく。ものの数秒で数え切れないほどのマナが現れ、アラタを囲んだ。
個にして無限。それがマナの力だ。
「いい加減に気付け。無能は何人集まったって無能なんだよ」
「あんたの方こそ気付きなさいよっ! あんなやつのところにいちゃダメなの!」
「ああ、あいつの話を聞いているとおかしな趣味を押し付けられそうだ」
取り囲むマナ達を見渡しながら、アラタは心底嬉しそうに笑う。
「だが組織の目的はすばらしい。――さあ、始めようか。少しは楽しませてみろ!」
高笑いと同時、一瞬にして包囲の一部が崩れた。
アラタによる超高速の突撃。その両腕は銀色の槍のように鋭く長く変貌していた。
「今度こそ負けないんだからっ!」
全方位、そして上方からも巨大な木槌が襲い掛かる。
「進歩がない、進歩がないなッ!」
槍状の腕が更にかたちを変える。無数の針のように枝分かれしていく。
細い銀色の針が弾丸の如き速度で全方位に放たれ、木槌を止めマナ達を貫いていく。舞い躍るようにくるりと回り、切り裂いていく。
増え続けるより速くマナ達を殺していく。
死んだマナは霞のように消えていき、後続の盾にもなれない。
銀色の針は更に細く長く、既に糸の域に達している。それでも殺傷力は落ちない。ただひたすらに殺戮の範囲だけが広がっていく。
無限の優位性が、圧倒的速度によって追い込まれていく。
「何なの、どうなってるの……ッ!?」
そう呟いたマナは次の瞬間に霞と消され、アラタは余裕の笑みを浮かべて別のマナに答える。
「武器依存のお前らとは格が違うッ! 俺は新世界の礎となるのだッ!」
そして、鋼糸の乱舞は終わった。
アラタの圧倒的速度が無限のマナを残らず殺し尽くした。目に見えた血の惨劇はない。だが数え切れないほどのマナを殺した。
「――ははは」
アラタは笑う。人間のかたちに戻した両腕を天に掲げ、高らかに笑う。
「はははっ! ははははははッ!」
彼の勝利を祝福するように、いつの間にか雨は止み、曇天から光が差していた。
六甲山脈に連なる山の一つ、お椀を逆さにしたようなかたちの子浦山。その山頂付近にある別荘の一つに魔法少女達は身を隠していた。
「ただいまー」
力ない声でマナが帰宅の挨拶をした。マーメイドドレスの上にはんてんを羽織った青色の魔法少女、シヴァが出迎える。
「お帰りなさい……。元気ないね、どうしたの」
「何か今日に限って悪魔が現れてさー。ボコボコにやられた」
「えっ。じゃあ、頼んでたアイスは……?」
「ない。ごめん」
「ううん、いいの……。お茶淹れるね」
話しながら彼女らは和室に向かう。六月だというのにこたつが出ているが、さすがにヒーターはオフにしてある。
「あー疲れた」
マナは身を縮こまらせてこたつに入り、こう切り出す。
「やっぱ思うんだけどさー、あいつを生け捕りにするのって無理だと思うんだよね」
「じゃあいっそ殺っちゃう? うふふ……」
お茶を運んできたシヴァが妖しく笑う。
「そういう事言わないのー! 正義の魔法少女は人を殺したりしちゃだめなの!」
「ううう、ごめんなさい、ごめんなさい……」
肩を落とし、シヴァは定位置――部屋の隅にうずくまる。
「でも難しいよなー。私とシヴァは威力が高過ぎるし」
そう返したのは赤色の魔法少女リリだ。肩までこたつに潜り、みかんを食べながら漫画を読んでいる。ややきつめの顔立ちの少女だが、こたつの中にいる彼女に圧はない。
「ちょっと待って。その言い方じゃまるで私が弱いみたいじゃない」
「弱い弱い。マナは弱いよ。我ら四天王の中でも最弱」
「そんな事言うなー! あと私達三人だから! 誰よもう一人!」
「マナが増えればいいんじゃない? これで四天王完成」
「バランス悪い! バランス悪いよ! シルエットでもあれ? 被ってる? ってなっちゃうじゃない!」
「そうだなー。最弱が二人になっちゃうもんなー」
「最弱言うな! これでも私リーダーだかんね!」
マナは拳を振り上げたが、漫画に夢中なリリは見てもいない。
「マナちゃん、落ち着いて……?」
「そもそも何で買い出し私ばっかりなのさ」
不満げにマナはお茶をすする。
「だって、私やリリには代わりがいないから……」
「そうそう。マナが死んでも代わりはいるもの」
「ひどい言われようだ!」
「マナちゃん、落ち着いて……?」
「いやいや。先に煽ってきたのシヴァだよね? 私そういうのちゃんと覚えてるタイプだから」
「ううう、ごめんなさい、ごめんなさい……」
いつも申し訳なさげなシヴァとは口論にならない。マナは大きくため息をついた。
「あーあ。何かあいつを捕える名案はないかなー」
「まずは好物を調べよう」
漫画から目を離さず、こたつの上のみかんを手探りで探しながらリリはそう言った。
「好物? それでどうすんの」
「例えばあいつの好物がみかんだとする」
「うんうん」
「夢中でみかんを食べてるあいだに遠くからひもを引っ張って、かごの中に閉じ込めると」
「真面目に考えろー!」
マナの怒鳴り声にシヴァがびくりと震えた。
「じゃ、じゃあ、まずはバナナを用意して……」
「流れが一緒ーっ!」
憤るマナを気にも留めず、みかんの皮をめくりながらリリはぽつりと呟く。
「マナなら引っかかりそうだけどな」
「ムキー!」
こうして魔法少女達の不毛な反省会は続いていく。