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第2話闇オークション

 真鍮の枠にガラスをはめこんだコクーンの内部は蒸気で満たされ、中の様子をうかがうことはできない。それが鎮座する部屋の床と壁には平らな石が敷き詰められている。木枠の窓から見える空は橙に燃える雲が走り、夜の訪れを示唆していた。
 コクーンから延びる二本の管のうち一本をたどると、壁の外へ出て、煙突のようにそこから蒸気を出している。もう一本はすぐ後ろの蒸気機関に。足踏みポンプを二人の使用人が交互に踏む。その後ろには交代するためか、さらに二人が待機していた。部屋の中は漏れ出る蒸気と彼らの熱量によってかなり蒸しているようだ。汗が石床に染みをつくっている。
 しかし側に立つ初老の男は、汗ひとつかかずにじっと懐中時計を見つめていた。ポンプ踏みが交代してしばらくすると「ポンプやめ」と短く告げる。パチンと時計の蓋をたたみ、ポケットに忍ばせる。すぐに三人が出て行き、一人はコクーンの側にしゃがみこんだ。ややあって蒸気機関が正常に停止したのを確認した懐中時計の男は、今度は「回せ」と指示を出す。それを受けてポンプ踏みが小さなハンドルを懸命に回すと、蒸気を放出しながら徐々に蓋が開き始めた。うっすらと見えだした内部には、陶器で拵えられたカップ型の浴槽が収まっている。そして縁から底まで段差のつけられたミルク色のそこに、ひとりの少女が裸で座っている。長い金髪、意志の強そうな碧い目、結ばれた唇から細く長い息を吐いた。
 ポンプ踏みと代わって部屋に入ってきていたメイドの一人が、大判の布を持ってカップから出た彼女に近づく。
「失礼いたします」
 断ってからわずかに湿った体を拭っていく。もう一人のメイドは細長い布で彼女の髪を撫でつけていく。
「ドナルド、時間は?」
 少女の問いに、懐中時計の男は盤面を見せながら
「午後六時二十分です。支度に時間をかけても十分間に合うかと」
 ゆったりと答える。そう、とこぼすように言葉を返した少女の体には、コルセットがあてがわれた。順にリボンを締めていくたびにわずかに体が揺れる。きゅ、とおしまいをきれいに結ばれたあと、ドロワーズとタイツを身につけ、ボタンの開かれたブーツに足をさしこんだ。メイドが計十六個のボタンを丁寧に留めているあいだに、バッスルを取り付けられる。そうして、深紅のドレスが着せられた彼女の金色の髪にブラシがとおされる。豊かな髪は結い上げられ、後頭部に収まった。ベルベットを張ったトレイに並べられたチョーカーの右端、大きな石が中央に下がったレース仕立てのものに指を置いた。取り上げたメイドがするりと首に回し、後ろで丁寧に結ぶ。レースの端が首筋をくすぐった。
 恭しく頭を垂れた彼女たちをあとに、ドナルドを引き連れて少女は浴室を出る。
「覚悟はできましたかな」
「愚問よ。楽しみでしかたないわ!」
 試すような口振りで尋ねる男に、高らかに言い放った。その声は廊下だけでなく屋敷全体に響きわたるようだ。メイドや使用人は彼女を見つけると順々に頭を下げていく。
 ドナルドの手を借りて階段を下りた。すでにホールには見送りの人々がずらりと並んでいる。その真ん中を颯爽と進むとドアの手前に立つメイドによって帽子がかぶせられる。顎の下で手早く、それでいて美しくリボンが結ばれた。
 リーゼロッテ・オズボーンはこうして完成する。
「さあ、行くわよ!」
 ドアが開き、ヒールが石段を叩いた。
「いってらっしゃいませ、リズお嬢様」
 まるい月が街並みの向こうに頭をのぞかせていた。

 まだ点灯夫がガス灯に明かりを宿している最中のようで、ストリートの片側は暗いままだった。リーゼロッテを乗せた馬車は街中をゆっくりと進んでいく。
 たどり着いた先は、かつて修道院だった建物の前だった。
 馭者の隣から降り立ったドナルドが外装に取り付けられたネジを巻ききった。初めはぎこちなく、やがてゆっくりと戻っていくネジに呼応して、パタパタと段差が現れる。最後、一斉に支柱がのびて地面を削るとリーゼロッテは腰を上げた。縁に手を置き、ドナルドの腕を持ってくぐり出る。彼女が降りたのを確認すると、馭者は帽子を胸元に置いて「お気をつけて」と声をかけた。にこりと微笑むだけで返事をしたリーゼロッテは、ドナルドから受け取った仮面を手に門をくぐっていく。
「これ、ずっと持ってると疲れるのよ」
 重厚な鉄扉の前までやってきた。二度、リングをノックする。
「好奇の目を向けられるのとどちらがいいですか?」
 ドナルドが二つに折られた紙を隙間から差し入れると、彼の問いに答えるように仮面を目元にかざす。満足したようにひとつ頷くと、
「これより先、私は入れませんので馭者とお待ちしております。どうかお気をつけて」
 そう言って少し離れ、頭を下げた。
「ええ。行ってくるわ」
「招待状が確認できました。どうぞお入りくださいませ」
 中から声がかかり、同時に扉が開いていく。どうやら全開にはしないらしい。ささやかな幅が彼女を招いている。「御武運を」ドナルドの言葉に押されるように一歩、足を踏み入れた。その言葉に違えることなくそこは、リーゼロッテにとって戦場であった。

「闇オークションへようこそ! 神に誓って! 偽物はひとつたりとてありません!」
 仮面をつけた男が神前の台座で誇らしげに叫んでいる。
「さあお時間までじっくりとご検討ください!」
 本来あったはずのベンチは取り払われ、壁際にぐるりと〈商品〉が並んでいた。絵画、壷、像、宝石、展示品は様々だ。仮面をつけたり素顔だったりする貴族たちが、思い思いに商品や、それに関するキャプションを読んで談笑している。リーゼロッテはくるくると見回し、見つけた。
 ポールと鎖に阻まれた向こう側。〈商品〉に与えられるキャプションの隣に座る男を。リーゼロッテのドレスと同じ色のベルベット張りで、椅子の脚や背もたれの縁にはシンプルでいてセンスのいい彫りが施されている。商品を見て回るふりをして通り過ぎた。今から競りにかけられるというのに、落ち着き払った様子で悠々と腰掛けている。身形がいいのはそうされたのか、自前のものか。
【ダニー・ベイル 詐欺師】
 そんなかわいいもんじゃないわ、とキャプションを見たリーゼロッテは胸中で呟く。見たところ彼以外に生きている人間の出品はないようだ。
 最低落札額を優に越える金貨を持ってきてはいるものの、彼女の緊張が解れることはない。
「お嬢さん。見たところ年若いのにこんなところへいらっしゃるとは、なかなか……」
 絵画の前に立っていると、恰幅のいい男に話しかけられた。商品でもないのに品定めをするような視線。
「あら。このような場所で詮索は褒められたものではありませんよ」
 ごきげんよう、と口早に告げて男から離れる。
 目的のものは決まっている。一刻も早く始まってほしい、とリーゼロッテは思った。
 ――たしかにここは、ろくでもない人間が集まるところだわ。

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