始まりの夕日
「いいこと、この力は決して簡単に使ってはいけないよ」
柔らかな笑顔、温かい眼差し、髪を優しく梳いてくれる細い指。お母さんに抱かれながら、私は首を傾げる。
「どうして? 痛いのは、嫌でしょ?」
頬に浮かぶ笑窪をより一層深くして、お母さんは私を掻き抱く。
「貴女は本当に優しい子ね。でもね、この力は秘密にしておかないといけないの」
静かな一室、その西側にある唯一の窓からは、慈愛に満ちた黄昏の光が差し込み、私とお母さんを包み込む。
「でも、使わないとお母さんずっと痛いままだもの。お母さんが痛いの、私、嫌だもの」
どうして分かってくれないのだろう。私はこんなにも、お母さんを心配しているのに。こんなにも、お母さんを愛しているのに。
眦に光を携え縋り付く。それでも、お母さんは笑みを変えず、その優しい手つきに、より一層の慕情をこめて私の頭を掻き撫でる。
「いつか、きっとこの力が貴女と、貴女の大切な人を助けてくれるときが来る。だから、それまでは人に知られてはいけないの」
分からない。痛くなくなるのは、とっても良い事なのに。分からない。良い事なのに、なんで秘密にしないといけないの。分からない。お母さんの言葉……
「分からないよ」
困惑する私をよそに、お母さんはもう何も言ってくれない。温かいその手が、私の頭から離れてゆく。お母さんの温もりが離れてゆく。その事だけが、ただただ恐ろしかった。
沈んだ意識の中、薄らと優しい光が混ざり込む。深い海底に届く一条のように、雲の切れ間から差し込む梯子のように。
「あら、目が覚めた? おはよう」
耳に届く声に導かれるように、まどろみに委ねていた思考を手繰り寄せる。まだ起きたくない、そんな思考から顔を背けながら。
んぅと、口の端から漏れる私の呻きに、あらあらと苦笑する気配を感じつつ、瞼を持ち上げ、朝の挨拶を返す。
「良く寝られたみたいね、でもそろそろ到着するから、ちゃんと起きないと危ないわよ」
寝ていた、そうか、私は寝ていたのか。夢……そう、夢だ、夢を見ていた気がする。思い出せない、それはいつもの事か。到着……到着。どこに。誰が。
纏らない思考、纏らない世界。ゴトゴトと規則的に訪れる振動。夢と現が交わり何とも言えない幸福感に晒される。
「もう!シャンとしなさい!」
向かい合った正面で、呆れた様子を見せる母に謝りながら、起きているよ、と投げかけて、ついと視線を左に向ける。
一面に窓、その先には見知らぬ懐かしい町並み。私と母を乗せ、進む電車に合わせて動く、絵に描いたような清閑な町並みがそこにあった。
「懐かしい……気がする、この景色」
「あら、覚えているの? 愛美がまだこーんなに小さかったときに少しだけ居た町よ」
言いながら、右手の親指と人差し指を近づけて片目を瞑る母に、またそんな、とそっけなく手を振る。
「ううん、覚えて無いと思う。それに、なんだかちょっと怖い気がして」
「怖いだなんて、高校生にもなってお友達作りの心配? 初めてのお引越しじゃあ無いのだし、みっともないわよ?」
「もう! そんなんじゃ無いったら!」
えー、間もなくー終点―次はー……
じゃれ合う私と母の頭上から、やや間延びした車掌の声が響き、女二人の小さな旅が終着に至る。
「さ、遊んでいる暇は無いわよ、荷物をまとめて。今日中にやらなきゃいけないことがいーっぱいあるんだから」
そういって手早く自分の荷物を網棚から降ろす母をジト目で見上げながら、私もしぶしぶと腰を上げた。
「信じらんない!」
悪態とともに、両手に持つ丸々と太ったスーパーの買い物袋を、床へ降ろす。その衝撃で額に張り付いた汗が髪を伝い落ち、袋の隣にぽたりと弾ける。
「ごめんねー、前に車で来たときはそんなに遠く無かったから、大丈夫かと思っちゃって」
「車と徒歩の違い位分かるでしょうに……ああ、腕が痛い」
家に向かう前に駅前のスーパーに寄りましょう、そんな母の軽い言葉を鵜呑みにし、はて目的地は駅近か、と安易に考えた三十分前の自分をひっぱたいてやりたい。
「もう、愛美ったら、そんなに怒らないで。お詫びに、お昼ご飯は腕によりをかけちゃうから」
私は、廊下に置き去りにされた買い物袋を再び拾い、腕まくりをしつつ奥の扉へと向かう母を追いかける。
「買って来たもの使わないで何を作る積もりなのよ、まったく」
「さぁ、着きました! 今日からここがお母さんと愛美の愛の巣です!」
扉をくぐった先には、十二畳程度の広さの部屋。宿主が変わるその時に見せる、二度ある殺風景の一回目。そんな部屋の哀愁はどこ吹く風で、母のとても嬉しそうな声が反響する。
「やめてよ恥ずかしい! 大体、親子で住むのに愛の巣って表現おかしいでしょう」
「あら、そんなこと無いわよ。愛する愛しの愛娘との生活ですもの」
「意味被りまくりだからね、それ」
新しい環境に不安を感じないといったら嘘になる。そんな私の心情を察したかのような母の軽口に感謝しつつ、私も軽口で答える。
「じゃあ、お母さんはご飯作るから、愛美は荷解きをお願いね」
つい、と動く母の右手を視線で追うと、そこに積まれたダンボールの山が目に飛び込んでくる。二人分の荷物とはいえ、それは女所帯特有の嵩張りを伴って、威圧するかのように存在を主張している。
部屋は、と簡潔に問う私に、視線を寄越すでもなく返す母。
「廊下の扉、向かって左が愛美の部屋よ」
そのまま、壁で仕切られた台所と思われる場所へ、二つの袋と共に姿を消した。
「さて、お片付けと参りますか」
ひとり言ち、ダンボールの山に手をかける。差し当って、自分の荷物を部屋へ移動してしまおうと仕分けを進めてゆく。最優先で展開すべきは身の回りの共用物であり、個別の荷物は後々緩りと紐解いてゆけばいい。
そうして自らの荷物だけを、母に言われた自室へと運び、室内の確認もせずに踵を返す。再び対峙するダンボールの山、先程より数が減り、可愛げの出てきたそれを、さらに展開してゆく。
こうして荷解きをするのは何度目だろうか、最初の記憶は小学生だったが……二度三度と繰り返すうちに数えるのをやめてしまった。
「あいたっ」
耳に届く母の声に、物思いに耽っていた思考が浮上する。
「どうしたの?」
言いながら台所をのぞき込む私の目に、右手で包丁を掴んだまま、左手の人差し指を口に咥える母の姿が飛び込んでくる。
「ひゃっちゃっは」
「やっちゃった、じゃないでしょう、切ったの? 見せて」
おどけようとする態度を窘め、咥えられた指を左手ごと引っこ抜く。
どれ程の勢いをもって包丁が走ったのだろう、第二関節側面から指先へ、パックリと裂けた傷口からは、真っ赤な鮮血が流れている。
「ごめん愛美、救急箱探してきてくれる? どれかに入ってるから」
当事者は呑気な雰囲気を発しているが、出血量はかなりのものであり、あまり悠長にしてもいられないだろう。
「じっとしてて」
母の指を両手で包み込み、自分の手元へと引き寄せる。全身の血管が脈打つ感覚を覚え、熱を伴わない熱さが手のひらに集まってゆくのが分かる。
「愛美」
呼び声を黙殺し、集中を続ける。一分にも満たないほどの短い間、私は慈しむように母の指を抱き締める。
「これでもう、大丈夫でしょ」
「愛美、この力は────」
「分かってる、安易には使わないよ、今は緊急だったから」
解いた私の手の中には、年の割にキメ細やかな、傷一つない綺麗な母の指がある。
「なら、いいの。ありがとう、もう痛くないわ」
救急箱は探しておくわ、と背を向け歩き出す私に、もうしないわよ! と吼える声が叩きつけられた。
気付いたのはいつだったか、初めて使ったのはいつだったか。たどる記憶は曖昧で、モヤがかかったように不明瞭。
現代の常識に、真正面から喧嘩を売るような存在で、大変に恐縮ではあるのだけれど、私、周防愛美はいわゆる────
魔法使いである。