第8話 急転
艦橋のほぼ中央に、長方形のテーブルと数脚の背もたれ付きの椅子が置かれている。
テーブルの上には回廊の地図や測量などの為の計器が多数広げられ、俺はそれを立ったまま睨みつけている。
「ようやく3分の1ってとこか……」
テーブルの角に固定されている置時計を見ると、先程の話し合いから1時間半ほど経過している。
検問を抜けた時刻、何度か変更を加えた船速の経過記録、周囲の地形、そして現在の時刻からおおまかな現在位置を割り出す。
「夜までには抜けられるな」
椅子に座って懐中時計を見ながらオルがそう判断する。
少しズレが生じていたのだろうか、彼は置時計を覗き込みながら懐中時計をいじり、時刻を修正し始めた。
「検問所で言われたが、向こう側は天候が荒れているらしい。高度も高くなってきたし、気流も乱れてくるだろうから、途中でどうしても速度は落とさにゃならん」
「そうか……確かに、前方にモヤがかかってるな」
言われて艦橋の窓から進行方向を見ると、上空に厚く垂れ込めた雲が青空を閉ざし、近くの山々の稜線よりさらに遠く、突き抜けて見える山の姿が薄くぼやけている。
トントンと雨粒に船体をノックされる音が、そこかしこから断続的に聞こえてくる。
その中を進み続け、しばらくすると、その音がにわかに激しさを増す。
外を見るとかなり視界が遮られつつあるのが分かる。
「周囲に船は?」
伝声管に向かい、艦橋よりさらに高い位置にある監視塔から周囲を警戒している者に問い合わせる。
≪前方から1隻来ます≫
「高度は?」
≪向こうもこっちを視認できてるみたいです。高度を上げてます≫
「よし。引き続き頼む。地形にも気を配ってくれ」
≪はいはーい≫
回廊内ですれ違う際は基本的には上下、それが難しい場合は左右で分かれるようにしてすれ違う。
同盟と帝国を結ぶこの回廊では、同盟から帝国に向かう場合は向かって下か左、その逆は向かって上か右を通るように決められている。
それは回廊を挟む両国の間の協定の中で定められる。
理由としては当然、衝突を避けるためだ。
回廊内に進入する船はそのほとんどが貨客か貨物に携わる船のため、すれ違いには相当に神経を使う。
「天候のせいか、帝国側から来る船は少ないな」
オルが呟く。
「ああ、その点では気楽に構えられていい」
「荒れてる中でのすれ違いは胃が痛くなるからな」
「まったく」
顔を見合わせ、苦笑を交わす。
後方で扉が開く音が聞こえたので振り返るとラフナが立っている。
「艦長、お食事です」
「ああ、分かった」
昼食の時間にしては若干早いが、部下が程よい時間に食べるために艦長は早めに摂ることになっている。
なぜ艦長からなのか、と問われれば……そういう慣習だからとしか言いようがない。
艦長が食べ終わった後、副長と共に早番の乗員が、艦長と遅番の乗員に運行を引き継ぎ、昼食を摂る。
その後に遅番の昼食となる。
艦内で夕食を摂る場合は日が落ち、回廊の中だろうが外だろうが運行を停止してから、各々の好きな時間に摂ることになる。
酔えるほどの度数の酒類を飲むことが許されるのも基本的には夕食時になる。
周辺警戒要員のみは4交代で少しややこしい。
6時から12時の第1哨戒時、12時から18時の第2哨戒時、18時から24時の第3哨戒時、24時から翌朝6時の第4哨戒時と、6時間ごとに振り分けられている。
あまり人間的な生活の間隔ではないし、大きな責任が伴うことから、あまり好ましく思われていない。
うちの商会ではそれらの責任は最終的には艦長に帰されると規定されているので、幾分か忌避感は和らいでいる……と思いたい。
軍においても、おおよそ同じ形ではあるが、場合によっては軍事法廷で裁かれるので重圧は結構なものになる。
「ラフナはどうする?一緒に摂るか?」
「はい、お供します。というか、その……そうした方がいいでしょうし……」
事務方面で補佐に当たってくれている彼女との意見交換ないし交流は非常に重要だ。
決して下心からではない。
それは周囲も理解してくれている……はず……。
しかし、ちょっと引っかかる物言いだな。
まぁ、おおよその見当はつくが……。
*
食堂の扉を開けた瞬間にゲンナリする。
「ほぉー!ほひほうひはっへはふー」
口いっぱいに物を頬張りながら俺に声をかけてくるピオテラがいた。
リスみたいに頬を目一杯に膨らませているその顔は可愛らしい……と言うとでも思ったか!
「良いご身分だな」
「んひひひ」
口の中の物を咀嚼し終わり飲み込むと、俺の言葉に、幾度か見せた無邪気な笑顔で返答する。
「ここの料理は美味しいね!量もいっぱいあるし……久しぶりに人が用意してくれた物を食べた気がする!」
「おお、そうか!まぁ、艦長の愛人だからな!精をつけにゃならんだろう!はははは!」
彼女が心底嬉しそうに大きな声でそう述べると、調理場の中から自分の手腕をはやされ、嬉しそうな声が返ってくる。
「違うからな!誤解だからな!」
調理場に向かい否定するが、多少の含み笑いが聞こえてくるだけだった。
またこいつは余計な事を……。
いや、あとは帝国側の検問を抜ければ終わりだ。
気にしすぎると回廊内での運行に支障を来たす。
もう判断を誤るのは御免だ。
ピオテラと同じテーブルの、彼女からは対角線上にある椅子に座り、隣にラフナが腰を下ろす。
「チッ……俺の分も早く出してくれ……」
ぼやくようにそう言ってから間もなく、俺とラフナの前に食事が供される。
料理長のいやらしい笑顔に少し腹が立つ。
あとで徹底的に否定しよう。
いや、必死になると逆効果か……?
「なんか汁気が少ないな~。口の中がパサパサだよ」
「水は色んな所で使うから、節約しないといけないの。我慢してね」
「そっかー。じゃあ、しょうがないね。このぶどう味の水も美味しいからいいけどね」
ピオテラが食事に文句をつけ、ラフナが子供をあやすように諭す。
清々しいほど自分勝手な物言いに怒鳴りつけたくなるが、葉野菜の酢漬けで喉の奥に押し込む。
「んー!このやたら塩っ辛いお肉!脂が体に染み渡るぅ~。んふふふ」
「幸せそうだな」
「うん!幸せ!」
「あとで代金請求するからな」
「お金ないよ」
「…………」
千切って口に放り込もうとしていた堅パンを、思わず手から取り落としてしまう。
こ、こいつ……。
そうじゃないかなとは薄々勘付いてはいたが……。
「出世払いでいいかな?」
「……どこでどう出世するんだ?」
「うーん……泥棒から、大泥棒に……かな?」
「まともなところで出世してくれ……」
あんまりにもあんまりな話に、彼女に……いや、それ以上に、彼女に関わることになってしまった自身に憐れみを感じる。
とりあえず、落としてしまった堅パンを拾おう。
食糧を粗末にするわけにはいかない。
堅パンだし、息を吹きかければ大丈夫だろう。
いつものように安易な考えで拾おうとしたその時、代わりに拾ってくれようとしたのか、隣に座っていたラフナの足が俺の手を踏みつける。
「いてっ……」
「あ、すみません!」
すぐに足がどけられる。
「い、いや、大丈夫だ」
咄嗟のことで思わず「痛い」と唸ってしまったが、体重はほとんど乗っていなかったので、そうでもなかった。
一度拾い上げたパンが再び床に落下してしまう。
うーん……大丈夫だろう。
いけるいける。
「す、すみません……本当に……」
「いや、本当に大丈夫だから」
申し訳なさそうに俯く彼女に優しく諭す。
「そう……ですか……。良かったです」
安堵に満ちた……ようなニュアンスで呟く彼女。
「……ああ、全然大丈夫。痛みもないし、平気だよ」
「そうですか。次からはちゃんと、しっかりしますね」
「そうしてくれると助かるよ」
「はい」
体を起こす中で彼女の表情を見上げながら答えると、いつもの優しげな笑顔でそう応じるラフナ。
緊密に協力し合わなければならない彼女との間の意思疎通に支障が生じてはならない。
業務に係らないささやかなミスにいちいち目くじらを立ているようでは、器量が疑われる。
自らの責務に思いを馳せていたその時、船が若干揺れ、頭上からかすかに、自艦以外のプロペラが風を裂く音が聞こえる。
「わ、わ、何?」
ピオテラが上を向き、驚いて声を上げる。
「他の船とすれ違ったんだよ」
「あ、そうなんだ」
「回廊だからな。船も行ったり来たりだ」
「なるほどなー」
食堂の天井を見つめながら、俺の言葉に得心している様子を見せる。
そうしているのも束の間、最後のパンの欠片を口に含み、しばらく咀嚼した後に薄めたワインで流し込む。
「美味しかった!」
大きな声で空腹が満たされた事を喜ぶ。
「満足したならラフナの部屋に戻れ。一歩も外に出るなよ。日が落ちる前には帝国側に抜けるから」
「うん、わかった」
「くれぐれも言っとくが、検問に差しかかったら……」
「分かってるって!あたしは失敗から学ぶ女だから!」
……だといいけどなぁ……。
静寂を取り戻した食堂で食事を摂る間、穏やかな声量でラフナと帝国側での検問について話を詰めていく。
*
「悪い、今戻った。行ってくれ」
ラフナと共に艦橋に戻ると、既に遅番の乗員が出てきており、早番の者と引き継ぎについてか、話している様子が目に映る。
食事を終えたあと、謎の腹痛に襲われたので少し遅くなってしまった。
何か悪い物でも食べただろうか……?
まぁ、もうすっきりしたり、深く追及する必要はないだろう。
「おう」
窓の外から進行方向をじっと見ていたオルが振り向き、頷く。
「何も問題はなかったか?」
「ああ。雨にみぞれが混じり始めたくらいかな」
「そうか……。少し速度を落とした方がいいかな」
「操艦に関してはお前の方がよく分かってる。任せるよ」
「分かった。任された」
「ああ、頼む」
そう言うと、彼は俺の肩を軽く叩いて食堂へと向かっていった。
「艦長、私は書類の整理をしてますね」
「お願いするよ」
彼女は笑顔で頷き、艦長室へと入っていった。
さ、て……と……うーん……やることないな……。
どこかの掃除でもしようかなぁ……。
そんなことを考えながら机の上の地図をぼんやりと眺めていると、ふと周囲の状況についての引き継ぎがなかったことに気付く。
警戒要員に確認せねばならない。
「監視塔、周囲の様子は?」
≪んー……特に問題はないと思います≫
「前方から来る船は見えないか?」
≪若干見通しが悪くなってますが、見当たりませんね≫
「そうか、了解。他に何か気付いたことがあったらすぐに知らせてくれ」
≪はい≫
伝声管を通して警戒要員と会話を交わす。
先ほどと声が変わっているが、第2哨戒員と交代したのだろう。
≪あ、そうだ≫
再び伝声管から声が聞こえた。
「なんだ?」
≪前は問題ありませんが、後には小型の船が追いついて来てます≫
「そうか。追い越しをかける様子はあるか?」
≪いえ、ほとんど同じ高度を維持してるので、そんな様子には見えませんね。ちょっと距離が近すぎるように思えますが≫
「そうか。大変だろうが、そちらの方にも注意を向けてくれ。ケツを掘られてもかなわないし、事故でも起こしたなら救助せにゃならんからな」
≪了解≫
会話を終えると、窓の外へと目を移す。
雨の音とはまた違う、コンコンという音が船体から鳴り始めた。
どうやら雹かみぞれが混じりだしたようだ。
陸にいる時の話だが、俺は雨音が好きだ。
雨音が街の中の雑音をどこか遠くへと追いやり、唐突で不思議な静謐さをもたらす。
多くの人々は屋根のある場所へと入り雨を避け、更に喧騒を追い立てる。
屋根から落ちる雫が、床板や地面を叩き、妙に心地の良いリズムを奏でる。
トン、トタン、タタトン。
決して一定ではないそのリズムが、心を弾ませる。
景色もその鮮やかさを薄め、どこか不思議な世界へと迷い込んだ錯覚に陥る。
とても奇妙で、とても面白い。
そんな雨音が好きだ。
但し、船内で聞く雨音。
テメェはダメだ。
船が雨の中を突き進むせいで、雨に対して積極的にぶつかりに行き、まったく間断がない。
情緒もクソもヘッタクレもない。
ただただ耳障りな雑音でしかない。
周囲の音が聞こえづらくなる分、目視での警戒の必要性が増し、鬱陶しさや煩わしさしか感じない。
不思議なものだ。
同じ物の筈なのに、状況によってまったく真逆の印象を抱いてしまう。
もう少し状況が違えば、ピオテラとの関係もまた、違っていたのだろうか。
雨音以外にほとんど何も異音が聞こえない状況の中にいるせいか、思考があちこちへと飛んでいる。
いかんいかん、集中せねば。
ここは回廊内なのだ。
気付けば、すでに雨音という生ぬるい区分を通り過ぎ、ガンガンと船体を叩く雹やみぞれの中、船は進む。
それでも一定の音量の中、急に、その中でも比較的大きな音と、船体を揺らすほどの衝撃に襲われる。
な、なんだ?
でかい雹でもぶち当たったのか?
≪か、艦長!≫
わずかばかりうろたえていると、伝声管から慌てた声が聞こえてくる。
「何が起きた!?」
≪こ、後方の船から……≫
……さっき言っていた“小型船”か?
≪アンカーが伸びてます!≫
冗談はよしてくれ。