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トモを殺せ

 アヤメと話していたときの恰好のまま目を覚ましたタクトは、じんわりとした頭痛と陰鬱な気持ちでいっぱいだった。酒はなんら嫌な記憶を忘れさせてはくれないらしかった。ああもう、と毒づいたけれども、それは脳裏をよぎる女の言葉に対してであって、嫌な記憶を忘れさせてくれると言い放ったアヤメに対するものではなかった。
 アヤメの社に持っていく道具は、二日目ということもあって、それほど多くはなかった。せいぜい水を入れたペットボトルがいくつかと敷石、といった具合で、半分ほどをアヤメに持たせた。タクトは昨日のリュックにペットボトルを詰めて、台車に敷石を乗せての移動となった。
 黒鳥居をくぐって下り参道を下りた先にあったのは、日曜の朝の静けさと空だった。周りを樹々で取り囲まれているということもあって、空を仰げば木の葉が額縁のようになるのだ。緑の額縁で彩られた空の絵は、絵具で塗ったような印象だった。
 タクトはアヤメからペットボトルを受け取ってから、黙々と作業に移った。再びモルタルを練り、つくり途中の小石用の土手に取りかかった。置いては塗って、それから重ねて、水平を整えて―同じ流れを繰り返すタクトはさながらロボットだった。
 タクトはひたすら作業に打ちこんでいた。それでも、ふと気を許した瞬間に、あの人が殺せとタクトにささやきかける。体がビクッとして手が止まって、なにかしらが落ちかける。レンガコテを落とすことは無かったけれども、レンガを落とすのは何度かあった。地面に横たわるレンガを見下ろして、タクトはため息をついてから首を横に振って、落としたレンガを土手の一部に加えるのだった。あの声は恐ろしいほどの力を以てタクトに迫るのである。
 タクトはレンガを並べることで声と戦っていた。思い出さないよう、気を抜いてささやき声の入る隙を与えぬよう、ますます作業の手を早めた。ロボットが進化して、レンガの長城が瞬く間に築きあげられていった。
 ぼろぼろの社を包囲する赤褐色の土手ができたとき、タクトは額から汗を垂らしていた。呼吸するのも忘れていたのか、最後の一個を置いた瞬間には音をたてて息を吸いこんで、地面にへたり込んだ。幾度か空気をのみこめば、呼吸はいつも通りに落ち着いて、機械の世界から戻ってきた。
「素晴らしい手さばきであります、タクト様」
「どうしても昨日のことが忘れられないんです。酒を飲んだのに、なにもかもが鮮明なんです。余計に気分もそれほどよくないですし」
「それが酒の悪しきところでもあります。清めの力は一時的なものゆえ、酒が切れれば耐えがたき苦痛にもだえ苦しむこともあります」
「それを先に言ってください」
「ですが、飲まなかったらあの夜はずっと苦しむこととなったのであります。それを踏まえれば、結果としてよかったのではありませんか」
 あの呪いの言葉を頭に抱えて一晩中眠らずにいるのは、想像に難しくはなかった。耳元のささやきが残像のように繰り返されたときに、タクトは平常心を保っていられようものか。酒があったからこそ昨晩は眠れたのであって、今こうやってレンガに触っていられるのだった。
「それはまあ、そうですけれど」
「タクト様はひどく言霊に毒されております。しばらくは酒で身を清めるのが得策かと存じます」
「酒以外にこれをなんとかする方法はないんですか」
「なにかに夢中になればよろしいかと存じます。今赤褐色の塊を積んでおられるのと同じような」
 タクトの頭に思い浮かんだものはいくつかあった。本を読んでもよかろう、ゲームでもよかろう、前々からやりたかった箱庭に手を出すのもよかろう。ただし、どれもが強大な言葉を防ぐための手段としてはいささか弱い気がしていた。どれも没頭しやすいタクトにはぴったりのアトラクションではあるけれども、タクトはあの言葉のおののくべきほどの力を浴びてしまっている。没頭しようとする段階から、ソイツはタクトに干渉してくるに違いない。没頭したいのに没頭することを妨害されるなんて、どこか詰んだような印象だった。
 具体的に、と問いなおしても、アヤメは答えを用意できなかった。わたくしは酒飲みをその頼りにしておりますゆえ、とタクト以上に詰んだ状態、半ばチェックメイトされている状態だった。
「わたくしが神の身分となってからは、そういったわき道に逸れる暇がなかったものですから、酒以外にはなにもなかったのであります」
「途中で探そうと思ったことは」
「そのときには神官がおらず、わたくしひとりではなにもできない状態に陥っておりました」
「自分で探そうとは?」
「右も左も分からぬ有様でどう動けましょう。まして――」
 アヤメの言葉が止まった。タクトに向けていた顔をすっと参道の上の方へやった。注意を向けてたたずむ様子をタクトは今までも見てきた、だからこれがなにを意味するのかを理解するのにそう時間はかからなかった。再び社の裏に身を潜めた。またもや、手にはレンガコテを握っていた。
 あの足音が徐々に大きくなってきた。タクトを恐怖に震えあがらせるその足は、昨日と変わらぬ様子で社へと突き進んできているらしかった。決して早足ではなく、威風堂々と歩いているときのような足音の間隔。この足音の感じは、昨日の人物と同じだった。
 足音が消えればたちまち悪夢の時間がやってきた。音のしない、けれどもタクトの背後では間違いなくなにかが起きている、いつ恐ろしい言葉が身を貫くのか分からない時間。まるで狩の標的になった鹿のようだった。いや、鹿よりももっとひどい。なにせタクトは逃げられない! 社にへばりついて、ひたすらに音の源が立ち去るのを待つばかりしかできないのだから。
 二無音、二拍手。
 沈黙。
 ついにはじまった。タクトはコテの持ち手を強く握りしめるが、あまりにも強すぎてコテやら腕やらがプルプル震えていた。音がないものだから、聞きたくなくても無意識のうちに耳を澄ませてしまう。境内をかき乱す音はどこにもなく、風さえもすっかり息をひそめてしまっている。老朽した社の周りにあるのは、たたずんでいるであろうアヤメと、あの声の主と、タクトを取り込もうとする恐怖、それと園芸用品に白砂利の袋だった。
 力みすぎで手が震えているのか、それとも、迫ってくる瞬間におびえて震えているのか。タクトには考える余裕はもはやなくなっていた。とにかく、逃げたいはずの言葉を待っていた。聞きたくもないのに、だが、その言葉を聞かなければならない。あの言葉が聞こえないかぎり、この悪夢は終わらない。あの言葉で撃ち抜かれればたちまち、悪夢の出口がぐっと近づくのである。相手が戦慄の言霊を放たなければ万事解決ではあるけれども、当然ながらそのようなことは頭になかった。
 さて、いつになるかとびくついていたタクトを震え上がらせたのは、声ではなかった。音が聞こえて、反射的に肩を縮こまらせたタクトに飛びかかってきたのは、紙を引き裂くような音だった。
 二拍手があって、足音が生まれた。最初の足音は耳を強く叩いて、それから徐々に弱くなってゆく。音が社の空間に溶けこんでゆき、ついにすっかり混ざりきって耳に届かなくなった。
 だがタクトは気を抜くことはできなかった。音の主はまだ参道をのぼっているに違いない、ここで見つかってしまったら、どうしたらよいものかさっぱり分からない。なにより、人を呪いでなんとかしてしまおうと考えるような人たちを前に、平然といられようか? 人を殺せという激しい気性の人間を前にして、はたして生きて帰れるだろうか?
 小さな祠の陰で小さくなっているタクトの視界にアヤメが脚を踏みいれてきてようやく、タクトのごちゃごちゃに絡まった緊張の糸がほぐれた。空を見上げて体の中に残っていた空気の塊を吐きだせば、体を縛っていた恐ろしさも一緒になって天へと昇ってゆき、腕の震えもどこへやら。
 空に向いていた顔を戻せば正面にアヤメがいて、それだけで―アヤメが近くにいてくれることで安心感が体いっぱいに広がった。
「タクト様、やはり疲弊しております。手荒な手を用いてでも言霊を体の中から抜きましょう」
「これを抜くなんてできませんよ。だって、すごく怖いんですから。想像するだけでいろいろなものを考えることができなくなって、ただビクビクするしかないんです」
「ですから、一刻も早く」
「取り除いたところで意味がないと思います。社にいれば必ず呪に触れますから。呪いを願う人の声が、俺には怖いんです」
 タクトはアヤメに背を向けて、境内の石畳から粘土の地面に下りた。視線を落とせば昨日作業をしたレンガの重なりがあって、しゃがみこんでモルタルの部分を指先でなでれば、表面は乾いている様子で、指の腹が白くならなかった。
 タクトは白砂利の袋を置いた一角へ向かおうと早足になったけれども、社の正面に出たところでふと足が止まった。視界の隅に入りこんだ紙切れに気づいてしまったからだった。祠の前に落ちている紙切れが二つ、ばらばらに落ちていた。
 タクトはすぐに目をそらしたけれども、全てはすでに遅かった。タクトは見てしまった、それが人の形に切られた紙であること、それを縦に裂いてあること、そして、神には太い線で文字が書かれていたこと。記された文字はひらがなだった。『と』と『も』が、縦半分で真っ二つにされていた。
 トモを殺せ。酒を入れて一時は忘れたけれども、起きてみれば結局記憶の引き出しからあふれていたことがら。それがいともたやすく、薄っぺらい紙切れで開けられてしまった。トモを殺せ。狭くて小さい引き出しから開け放たれた言葉はたちまちタクトの頭を占領した。トモを殺せ。
 タクトは頭を抱えてその場にうずくまってしまった。頭を蝕む言葉を投げ捨てようと頭をわしづかみにして引っ張っても、髪の毛が頭皮を持ち上げるばかりだった。タクトはそのことを分かっていないで、何度も毛を引っ張る。それでも言葉が抜けないと分かれば、別の言葉で打ち消そうとする、やめろ、やめろ、止まれ。タクトが出せる精一杯の声で叫びまくった。大声を出して、わめいて、罵って、しかし引き出しから言葉は収まってくれなかった。
 タクトはいよいよ打つ手がなくなってしまって、頭の中の声に抗うのをやめてしまった。声があっという間に細くなって、激しく引きはがそうとしていた手は言葉を押さえこむように頭に当てるだけとなった。乞い願う声はささやき声で、やめてくれ、やめてくれ、やめろ、と無駄だと分かっているのに口から漏れ出ていた。
 タクトの石畳で埋め尽くされた視界にアヤメの下駄が現れて、それからしゃがみこんで、着物の色合いが石畳にとって代わった。するとタクトの後頭部に手を添えられた。やわらかな手つきですっと引き寄せられて、タクトの頭がアヤメの胸に埋まった。
「タクト様、ひどくお疲れであります。言霊にもやられております」
「頭の中から言葉が消えないんです、殺せ、殺せ、トモを殺せ、その声が。これは言霊だからなんですか。それとも神代になったからなんですか」
「今は考えてはなりませぬ。今はとにかく、荒ぶる言霊が鎮まるのをじっと待つのみであります」
「こんなのが鎮まるわけがありません。ずっと頭から離れないんですから」
「考えぬようお願いいたします。安心して、なにも考えぬよう。わたくしがこうしておりますゆえ」
「そうすれば、鎮まるんですか」
「ですから、心を無にしてくださいまし。なにも口にせず、なにも見ず、なにも聞かず、なにも考えないで、無の深淵へ身を預けるのです」
 タクトは言われるがままにやりたいけれども、無駄だった。口にしないことはできたし、目をつぶることもできた、耳を手でふさいで外から音が入らないようにもできた。ただ一つ、『考えない』を除いて。頭を中を空っぽにしろと言われたって、あまりにもにぎやかすぎた。殺せという怒号が飛び交って、頭がい骨に反響して、それがさらに新しく怒号を生む。考えないようにしたところで、頭の中で響き続ける恐ろしい言葉を捕らえる虫取り網がまともに働かないだけであって、むしろ逆効果だった。
 タクト様、タクト様、わたくしに身を預けてくださいませ。アヤメは耳を覆う手のそばでささやきかけたものの、その言葉はしかしタクトには届いてないふうだった。アヤメに言われたがまま耳をふさいで目を閉じて、そして言霊を抑えこめずにいた。そう、タクトは一対一の決闘に追いやられているのである。タクトと恐ろしい、でも実体のない言霊。トモを殺せ。それがどこからともなく、まさしくこの瞬間に、タクトの体を打ち抜くのである。タクトはけれども相手の姿が目に見えないから、どう対処してよいのかも分からなくなってしまっている。アヤメが与えた制約のために、なにもできなくなっている。
 もしかしたら、このまま死ぬかもしれない。タクトがおののいていると、不意に体を、特に上半身を包む温かさに気づいた。お風呂に入っているときのような、ずっと湯につかっていたいと思わせるような温もりは、タクトの絶望的な気持ちを覆って和らげた。気持ちだけではない、言霊までもが抑えこまれた。虫取り網では捉えるのも一苦労なのに、さも芋虫をつまむように言霊を撃ち払った。タクトの周りを反響して分身して襲ってきた言霊は、すっかり消え去っていたのだった。
 耳をふさいでいた手を緩めて外の音を取りこんでみれば、しきりにアヤメがささやいていた。タクト様のそばにはわたくしがおります、だから、どうか――タクトはびくびくしながら目をあけた。目の前に流水のような着物の柄があって、生地がタクトの頬に触れていた。そこでようやく自分がアヤメにきつく抱きしめられているのを知った。
 タクトは耳を隠している手を離して、タクトを包みこんでいる腕を軽く押した。なにげなくしたタクトの行いに対して、アヤメは慌てるように反応した。タクトの体から振袖を引き離すなり立ち上がって、二歩後ずさりした。
「あの、タクト様、これは」
「いや、その、すみません。アヤメ様は俺のことが心配だったんですよね。なのに、腕を払うだなんて」
「いえ、大丈夫です。ただ、こういったことをしたことがなかったゆえ、タクト様の癪に触れてしまったのかと思ったのです」
「めっそうもないです。おかげで頭の中も落ち着いています。これもアヤメ様の力ですか?」
「いいえ、わたくしには呪詛の成就を約束する力のみであります」
「もしかしたら、アヤメ様自信で気づいてない力があるのかもしれません。こうやって恐ろしい言葉から逃れられたのですから」
 タクトがアヤメに見せた顔は、言霊に襲われているときとは打って変わっていた。タクトの周りには、今、その体に牙をむく言霊はどこにもいないのだから。だがタクトを苦しめる引き金となった紙があるじゃないかという話になるけれども、それはアヤメが脚で踏んづけていた。
 タクトはアヤメに一礼すると、作業に戻った。白砂利の袋をひとつ地面に立たせると袋の隅っこをわしづかみにして思いっきり引っ張り上げた。タクトの力に負けじと伸びるビニールはしかしあっけなく負けて、縁がよれよれの穴を開けた。タクトは下の隅を両方ともつかめば、ちゃぶ台返しさながらの動きで袋をひっくり返した。一瞬のうちに天地が逆転して、穴から白い砂利がぶちまけられた。
 タクトは地面に全てを出し切ってから、それを足でならして地面がちゃんと隠れるようにする。多少砂利の層が薄いのは分かっているのだけれども、用意した量で全域をまかなうにはぎりぎりの厚さだった。
 流しこんではならす。白砂利が生み出すけたたましい音の中を、アヤメの声が割りこんできた。
「タクト様、少しばかり申し上げづらいのですが、お教えしなければならないことがあります」
「もしかして、あの言葉が呪詛になったんですか」
「いえ、まだ足りません。ですが、その言霊に関することであります」
「これ以上俺が知らなきゃいけないことがあるでしょうか?」
「昨日も今日もいらっしゃった方、同じ言霊を乞われた者は同じ者でありました」
「つまり、どういうことですか」
「その者の言霊は、タクト様が大きな社から出てきたとき、あの、ひどく言霊に毒されていたときの、その言霊と瓜二つであります」

しおり