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みそぐ

 タクトはてっきり、懲罰はアヤメによる神ならではの力によってなされるものだと思いこんでいた。人間の一切に分からないなんらかの力でいじめっ子たちが抗いようのない苦痛に襲われるのである。しかも直感的に、自分が嫌な思いをさせたからこんな苦しみになる、と分からせる。同じことをしたらまた同じ苦痛が与えられる、とも。神様の力なのだからなんでもありなのだろう、とも。
 けれども、アヤメの口から出てきたのは、アヤメの『お願い』のもと、タクトが当人たちを懲らしめる、というあまりにも現実的で人間的な方法だった。
 あまりに普通すぎる、とタクトは自分の部屋に帰ってきてから訴えるものの、アヤメはブランディーの瓶をあおっていた。どこからそのようなものが出てきたのかタクトには分からなかったけれども、まず正しい方法で購入されたものではないのは明かだった。
「わたくしの力は呪詛が現実になるようにするものでありまして、呪詛そのものをなす力ではありませぬ。神官は民どもから預かった言霊をわたくしにささげ、それら言霊が必ずなされるものとして、それを神官が実行に移すのであります」
「想像してたのとは全く違うんですけど」
「どのようなものをご想像になられていたのでしょう」
「アヤメ様の一言で相手全員に天罰が下るような、そういった不思議な能力を期待していたんです」
「わたくしにはそのようなことはできませぬ。できるのはただ、さきほども申した通り、民が願った呪詛が実行されれば必ずなされるようにすることのみであります」
 どうしてこのような中途半端な神をこの土地の人々は崇めたのだろうか? 日本のどこかしらにきっと一言で呪詛成功まで一直線の神様がいるだろうから、そこから分社して社を建立すればよかったろうに。
 アヤメは目の前で新しい酒瓶の栓を開けて、またもや瓶に直接口をつけていた。着崩れた着物はそのままで、顔もまたそのままだった。度数の高い酒を一本まるまる飲み干して、それで顔色を変えることなく平然と二本目に取りかかっている有様だった。
「どれだけお酒を飲まれるんですか」
「酒には身を清める力がございます。わたくしは、やっていることがやっていることでありますゆえ、清めるための酒があまた必要なのであります」
「にしてはおおすぎません? しかもそれ、ブランディーですよね。清めの酒といったら日本酒では?」
「清酒は昔、うんざりさせられるほどに飲まされた嫌な記憶がございまして、清酒の瓶をまなこに収めるのさえ嫌なのであります。ですが、洋酒とやらは、いろいろな味わいがあるので楽しいのでありますよ。それにほら、瓶の形もおもしろい」
 アヤメは二口目を口に含んでから、手にある瓶を差し出した。色のついていないガラスの瓶は角の取れた三角錐の形をしていた。瓶の胸を隠すラベルには額の広い男が描かれていて、顔を隠すように筆記体がぐねぐねとうねっていた。ぽっかりと口を開けた口に鼻を近づけると、さわやかさが鼻を通り過ぎたけれども、いままでかいだことのないにおいだった。
 アヤメは、それ木の実を漬けたはジンという酒であります、となんども匂いを嗅ぎなおすタクトに言葉を投げかけた。へえ、と感心しているタクトに対して、さらに言葉を預けた。
「それを、口にしてくださいな」
「いや、なにを言ってるんです? 酒ですよね、これ? しかもすごい匂いですし」
「さようでありますが、身を清めるためには必要なのです。呪詛をなすためには、わたくしだけではなく、タクト様のお体も浄めなければなりません」
「いいんですか?」
「もちろん、一口で構いませぬ。これを呪詛がなされるまで、毎日口にしていただきます」
 においをかいだ時点で、正直なところ、非常に味が気になっていた。さぞさわやかな味わいがするのだろう。タクトはちょっとした期待を持って透明な液体を揺らした。それからアヤメの目を見つめた。コクリとうなずいて、静かに促してきた。
 タクトもうなずきを返して瓶に口をつけた。口の中にさわやかさとともにアルコールの鼻に刺さる感覚が痛かったけれども、つんとくる感じをやり過ごして尻を持ち上げる。口に流れこむ液。たちまち舌が焼けて、味どころではなくなってしまった。口の中にライターやらチャッカマンをつっこまれて火をつけられたような感じだった。
 反射的に吐き出してしまいそうになったけれども、次の瞬間には、これがただの酒ではないことを思い出して、口を開けたい欲求をなんとか押しとどめた。意地でものどの向こう側に液を送らなければならない。万一吐き出した場合にどうなるのか、それはさっぱり分からなかったけれども。
 目玉をつぶさんとするほどの力を瞼にこめて、顎にも思いっきり力をこめた。火がついて痛い舌を上に押し上げて液を押し出し、狭まって拒否をしている喉を無理やりこじ開けた。胃に落ちてゆくジンは、食道にも火を放った。
 体の中が燃え盛るような熱を帯びて、口の中は痛みで唾液が止まらない。天井を仰ぎながら、口を大きく開けて熱を冷ましているタクトに、アヤメは笑みを投げかけていた。やはりそうなりますよね、とアヤメは座卓に両ひじをついてタクトのもだえる様子を眺めていていた。
 どこかしてやったり顔なアヤメに口答えがしたいタクトではあったものの、口の中の炎が消えるにはまだほど遠くて、しゃべることもままならなかった。のみこむために余計な力を入れたせいで、顎の関節にほのかな痛みとだるさが生まれていた。
「タクト様、これでタクト様の準備は整いました。明日のうちにわらべの言霊を成就させられれば良いのですが」
「あ、あの、水ありませんか」
「ありませぬ。清めの酒を薄めてしまうなど言語道断であります、いまは我慢なさるよう」
「清めの水、みたいなものは」
「わたくしには水を清める力はございませぬ」
「お酒しか清められないんですか」
「酒はそのものがすでに清められているものであります。しかし水についてはそうはいきませぬ。水は地が清めるものであります」
 なんじゃそれ、とはじめてアヤメに毒づいたとき、口の中は唾液の水槽状態だった。舌の下の限られたスペースいっぱいに唾液がたまって、飲めども飲めども、底からドバドバ液が湧きあがってきた。
 大量な唾液のおかげでジンの匂いやら味やらが薄くなってはいるものの、タクトには後味がかなり気持ち悪く感じられた。唾液で薄まったとしても、舌にはジンの味が残っていて、唾液によってしびれが取れてきたころからひどくなりだした。唾液で味が薄くなって、もっとひどくなった。
 水でもなければ酒でもなければ、となればジュースとか牛乳でなら言い逃れできよう。アヤメの言葉の隙間を抜けるひにくれたアイディアが頭に浮かんで、すぐに足が動いた。が、立ち上がろうと足に力を入れた瞬間にアヤメの言葉が脚を刺してしまった。本日はこれより一切の水分を口になさらぬようお願いいたします。もちろんですが、酒は清らかでありますのでいくらでも構いませぬ。
 これにはタクトもあからさまなため息をついて、アヤメにはっきりと不満を示した。
「そういうことは先に言ってください。喉が渇いた状況でコレだから、飲むに飲めないじゃないですか」
「大変失礼いたしました。今後はこのようなことがなきよう気をつけておきます」
「ほかになにか言ってないことはないですか」
「明日からは、わたくしはわらべの言霊をなすべく、呪詛の相手を調べてまいります。なにか分かり次第すぐにお知らせいたします」
 アヤメは少し体を浮かせてからそのままの姿勢で横にずれた。ちょうど前をさえぎるものがないところで正座をして、土下座の恰好ですっと消えてしまった。空になっていた酒瓶とジンはしかし残ったまま、未成年であるタクトの部屋にはあってはならないものを置き去りにしてしまった。
 手の中の三角錐にはっとしたタクトは、体も頭の中もふわふわとした奇妙な感覚に陥ってしまっていた。考えるにも体がちゃんとした反応をしてくれなかったり、遅かったり。頭の回転も鈍ってしまっていた。だから慌てた様子で瓶をベッドと壁の隙間に滑りこませたのだった、ふたを座卓の上に置いたままで。

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