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第一話 波乱の予感

それは唐突な話だった。
「海外に移住することになった。」
父親の言葉に、林条七世は目を点にした。
「………は?」
彼は決して頭が悪いという訳ではなく、むしろいい方だったが、このときばかりは間抜けな呟きが漏れるのを押さえきれなかった。
父と、その隣に座る母を交互に見るが、いずれも神妙な顔つきでいる。この話が冗談ではないことを悟った七世は、とりあえず、
「……えと、あー……なんで?」
と、当たり障りのない質問を口にした。
「伸一さんが海外転勤になったの」
答えたのは母親だった。重いため息をついて続ける。
「フランス支社ですって。遠いわよねぇ……」
―――フランス……
アメリカでもブラジルでも中国でもなく、フランス。転勤先としてはなかなかマイナーである。
七世の頭の中で、一枚の世界地図が広げられた。日本とフランスに赤いピンがうたれ、それらが赤い放物線で結ばれる。それを脳内で眺めて、七世はげんなりした。日本からフランスっていったら、ユーラシア大陸の端から端じゃないか。ユーラシア大横断の文字が頭の中で踊る。
すると、黙ってしまった七世に向かって、父親がゴホンと咳払いをした。
「そこでだが。七世、おまえはどうする。来るか?」
「え?」
七世は驚いたように父の方を向いた。
「行かないって選択自体あるんだ?」
頷く父親。
「おまえももう高校生だ。なかなかしっかりしてるし、そのへんは私もママも認めているんだ。なぁママ?」
「えぇ。七世くんは男の子だし、もう親についていく年齢でもないと思って」
「父さん……由利江さん……」
両親の言葉に、思わず目頭を熱くする七世。
だが彼にはひとつの疑問があった。
「出雲は? どうするの?」
出雲というのは七世の弟のことだ。まだ小学四年生のやんちゃな盛りである。
「出雲には悪いが、今のところ連れていくつもりだ。さすがに小学生を一人にするわけにはいかんからな。目を離したら何をするかもわからんし……」
「そっか。まぁ………そうだよな」
七世は頭の中で、今までの出雲の行動を振り替える。お湯が温まる仕組みが気になり、電気ポットをいじり壊した挙げ句火傷を負う(幸いちょっとで済んだ)。近所の大型犬が吠える理由が知りたくて、母親の香水を片っ端から付け、どの香りに最も反応を示すか実験、そして案の定噛まれる。
とにかく何もかもが知りたくて仕方がない、好奇心の塊のような弟だ。そんな出雲と二人で生活するとなると、七世の体力や精神が耐えうるか心配だし、なにしろ出雲自身が非常に危険である。
七世はうんうんと一人頷いた。出雲はフランスにいかねばなるまい。
「……一応聞いておくが……七世、おまえは残るってことでいいな?」
父親が、七世の目をまっすぐ見てきた。真剣な眼差し。息子が独り暮らしをするかしないかの大事な決断だから当然といえば当然だ。
七世は両親に深い感謝を込めて、「うん」と一言だけ言った。
「よし、わかった。父さんたちは一ヶ月後に日本を出る。それまでに母さんから料理を教わるといい。毎日コンビニ弁当じゃあ体にわるいからな」
「あら伸一さん。七世くんはお料理できるわよ? 私より上手かもしれないわ」
母親がそう言ってたのしそうに笑った。
「お、そうなのか? ははっ、さすが七世だなぁ」
両親の称賛が照れくさくて、七世は誤魔化すように頬をかく。
「まぁ、俺のことは心配しないで。なんとかやるよ」
「あぁ。寂しい思いをさせてしまうがすまないな」
17にもなって寂しいなんて―――そう言おうかと思ったが、七世はただ静かにこくりと頷いて、そして笑った。
「まかせてよ」




「七世くん」
その日の夜のことだった。ソファに座ってテレビをみていた七世の横に、母親がストンと座った。
「えっとさ………ごめんね、なんか」
言われた言葉は予想外で、七世は思わずテレビから目をはなして母をみた。
「なんで由利江さんがあやまるのさ」
「………私、七世くんになんにも母親らしいことしてあげれてないし。今回のフランス行きもさ、結局七世くんを一人にしちゃうわけで……」
「………由利江さん」
母親がうつむく。
「………気を、使ってくれてるのよね。出雲は私の子供だけど、《自分は違う》からって。でもね? 今私はあなたの母親で、あなたのことを出雲と同じように大切に思ってる。私は亡くなった夏子さん……あなたの本当のお母さんには到底及ばない。知ってる。でも気持ちは……気持ちは夏子さんと同じくらいもってるつもり。だから………だから………あーもうなに言ってるんだろ私……つまり……」
「わかってる。わかってるよ」
七世はゆっくり繰り返した。母親が顔をあげる。
「由利江さんは俺にとって十分母親だよ。母さんが病気で死んで、つらかったのを癒してくれたのは由利江さんだから。……父さんの傷も癒してくれた。そして俺に弟をくれた。今だって、俺がフランスに行かないのは自分達に気を使ってるからなんじゃないかって、それを聞きにきてくれたんでしょ?」
母親は何度もまばたきをして、しばらくしてからころころと笑った。
「ばれたか」
「由利江さんわかりやすいから」
母に向かって失礼な、とふざけながら、母が自らの頭をわしゃわしゃとかく。七世の顔に自然と笑みが浮かんだ。
一息ついて、七世は改めて母を見据える。そして、
「でも大丈夫。俺はこれを自分で決めた。ここに残りたいのは俺の意思だから。」
優しい声色で、だがきっぱりと言い切った。しばし見つめ会う両者。やがて母親はふっと微笑むと、ゆっくり、頷いた。
「ありがとう」
「俺も………といいたいところだけど」
そこで言葉を切る七世。立ち上がってキッチンへ行き、その場で、あらかじめ用意しておいた一冊のノートを、母親が見えるように手に持つ。
「できればこの『ありがとう』は料理を教わってからにしたいな」
ノートの表紙には、シンプルに「料理レシピ」と書かれている。それをみて目を丸くした母親は、しばらくぽかんとした後、実に嬉しそうに笑った。
「いやーね、言ったでしょう? 七世くんのほうがお料理上手だって。んもー」
しょうがないなぁと言う母は、言葉とは裏腹に暖かい表情をしている。
七世は安堵した。自分が彼女を不安にさせてしまっているのは、彼女を今だお母さんと呼べていないことも一つの理由なのかもしれないと、七世は考えていたからだ。実の母が亡くなったのは七世が五歳のときのことであるし、記憶も今はもうおぼろげだ。だが根拠うんぬんとはまったく違うところで、彼女を母とは呼べない―――新しい母と出会った幼い頃の七世はそう思ったのである。母は、由利江は、その小さな子供の葛藤を感じて、自らを母ではなく「由利江さん」という新しい枠におさめた。それは彼女にしてみたらとても辛い選択だっただろうが………しかしそれでもそうしてくれた由利江に、七世は今でも感謝している。
七世は隣で野菜を切り始めた母を見つめた。昔より背が小さくみえる母。否、大きくなった自分。自分にとって、彼女は本当の母親ではないが、真の母親だ。今の自分は、彼女のおかげでここにいる。
そう思うと、言葉は思ったより簡単に、するりと滑り出してきた。そう、昔感じた違和感などへでもないように、あっさりと。
「………ありがとう、母さん」
由利江は驚いたように七世を見たあと、ゆっくり、目を細めた。




「と、いうわけでして」
翌日の登校途中。クラスメイトであり親友でもある松島まつしま守まもるに、七世は昨晩の出来事をかいつまんで話した。
守は両親が多忙のため、親とは離れて独り暮らしをしている。今回、七世も独り暮らしをすることになったので、今のうちにお金のことや生活のことを、彼にいろいろ聞いておこうと思ったのだ。
「へぇー、じゃあ七世も独り暮らしデビューかぁ」
「うん。それでさ、守ってお金とかどうしてる? 親からの仕送りとか?」
「あー、そうだな。それが一番大きいかも。小さいものだと、まぁ自分で稼いだバイト代とか、あ、少しだけど喫茶店の収入もあるなー」
「あ、そうか。おまえ喫茶店のマスターだったな」
「あたぼうよ」
守は二人の通うこの高校の近くで、亡くなった祖父から受け継いだ小さな喫茶店を経営している。守いわく、祖父がこの世を去ったとき、両親は維持費がかかるからとその喫茶店を取り壊そうとしたらしいのだが、守は、自分が生まれたときからあるこの憩いの場を壊されたくはなかった。そこで、守自ら経営者となることで、喫茶店を守ることに成功したのだという。
「独り暮らしはたいへんだよ? 七世くん」
守がにまにましながら言った。
「なんでそんな上から目線なんだよ」
「俺の方がこれに関しては先輩だもんねー」
何も言い返せないのがなんとも腹立たしい七世。じとっとした視線を守に向けてみるが、守は気付かずに「あ、でもさ」と続ける。
「おまえんち一人で住むには広いだろ? 掃除とかめんどくさくないか? 防犯も不安だろ」
「不安って年じゃないけど……まぁ掃除は確かにな」
七世の家は普通の一般家庭よりは大きい。すべての部屋とはいかなくても、リビング、キッチン、風呂場、寝室………日常で使う部屋の掃除だけでも骨がおれそうだ。
「そのへんは父さんと相談してみるよ。まだあと一ヶ月あるし」
「それがいいさ。………ちょっと急ごうぜ、遅れる」
「なんで遅れそうかって、おまえが寝坊したせいだけどな」
「気にしない気にしない! ほら、行くぞ七世!」
「……………」
七世はため息をついてから、苦笑しながらも、守のあとを駆けていった。




その日の夜のことだった。父に呼ばれ、七世は書斎の重い扉をノックした。
「どうぞ」
声が聞こえてからノブを捻ると、まず飛び込んできたのは本の山だった。百科事典、世界の国々の歴史書、経済学、統計学………とにかく多くの種類の本が本棚に並べられている。あまり書斎に入ったことのなかった七世は、思わず言葉を失った。
「はは、すごい量だろう?」
父親が笑って言った。こくこくと頷く七世。
「俺がまえに書斎に入ったときはもっと少なかったよ、本。こんなになかった」
「ここ何ヵ月かでどかっと増えたんだよ。仕事の関係でな」
「へぇ…………」
「ほら、座れ七世」
そう言って、父は一人掛けのソファを目で指し示した。言われた通り、七世はそこにストンとおさまる。やがて父は書斎机を離れると、七世の座るソファの向かいにあった同じソファに、どっかりと腰をおろした。
「家のことなんだけどな」
父はそう切り出した。
「この家は借家にする」
「……………」
またなんと唐突な、という言葉を七世は書斎の唾と共に飲み込んだ。もともと父は事前に誰かに相談するタイプではないし、相談するにしても自分ではなく母にするだろう。とはいえ、この衝撃を何度味わえばいいのか、七世は頭が痛かった。
「………家のことについては俺も父さんに相談しようと思ってたところだよ。まぁでも」
「それでな」
「……………」
七世の言葉をぶったぎる父。
「実はこの近くに親戚が住んでるんだけどな」
初耳である。
「私のいとこの娘さんなんだが、アパートを経営してるんだ。親戚のよしみで家賃も安くしてもらえるし、おまえの高校とも近いからなにかと便利だろう? だから…………」
まさかと七世の頬に冷や汗が伝う。どうかこの予感が当たりませんように。
だが七世の願いもむなしく、父はにっこりと笑って告げた。
「おまえはそこに住みなさい。大丈夫だ、もう話はつけてあるから」
いったい何が大丈夫なんだ。七世はあまりの衝撃に笑顔さえ浮かべた。
「だから、お前も一ヶ月後、ちゃんと家を出れるように支度しておきなさい。あと………」
父の言葉は続くが、七世には既に届いていない。脳の思考回路が明らかに停止しているのがわかったので、なんとかして動かそうとしてみるものの、どうにも動きが鈍い。
親戚、借家、引っ越し………父はどれだけの爆弾投下をするというのか。
「………あ………ってことは、俺のはとこ?」
放心状態の中ぽつりと言葉が出た。頷く父。
「そうだ。あれ、言ったことなかったっけか?」
「ないよ…………」
七世はずるずるとソファにもたれた。そしてゆっくりと目を閉じる。いろんな情報が入りすぎて、彼の頭はもうパンク一歩手前だ。
「おい七世、寝るんだったら部屋にいけよ。話はそれだけだから」
ずいぶんと身勝手な父の言葉にため息をつきつつも、七世は立ち上がった。
まだ何かが起こる。父からかはわからないが、どこからか爆弾が投下される。そんな悪い予感がして、慌てて七世はそれをかきけす。だが自身の予感の的中率を七世は知っていた。それも、特に悪い予感に対して。
どうか、どうかこれだけで済みますように―――!!
それだけを願って、七世は書斎の扉を閉めた。

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