8:ファイナル・デッドフライト
「ソフィー、どうだった!? 食ったバカは居るか!?」
「んなもん分かるだろォ!? あんな与太話に乗るバカ居るかよ! 私だって乗らねえよ!」
数分後――旅客機はどうにか高度を保とうとしながら、しかし叶わず、地上千メートル付近にまで降下した。
「だいたいイカれてんだろ! あのイリーナって女も! アデラって男女も! どっちも気が狂った変態どもだ!」
「ああ、同感だよ! けどな、その変態以外に何かできそうな奴も居ないんだ! 全くふざけた観光ツアーだよなぁ!」
シェイマス・ダッドリーとソフィー・リーは、エコノミークラスの座席に腰掛けて悪態を吐いていた。彼らが持つビニール袋の中には、イリーナの脳の小片が収まっている――それぞれ八つずつ。
イリーナに、〝これを機内の人間に食べさせるように〟と言われたからだ。護衛の兵士が二十人、それに厨房担当が数名。機長と副操縦士は死んだ為、機内に〝まともな〟人間は三十人未満。その全てに、生きた人間から切り出したばかりの脳の破片を食わせろと、彼女は言ったのだ。
狂気の沙汰の言葉だ。そもそも話を聞こうとする者さえいなかった。地上へ向けて降下を続ける機体の中、狂乱の渦中にあって、誰が〝この脳味噌を食えば助かる〟という言葉を信じるだろうか。しかし彼女に言わせれば、それだけが生き延びる術。現時点でシェイマスとソフィーの申し出を拒否した十数人は、そのルートに乗らないことを表明したも同じだ。
イリーナ自身は座席に深く腰掛け、思考を巡らすかのように目を閉じている。呼吸が早いのは痛みが残っているのか、それとも己の意識を保ったまま頭蓋を開くという蛮行に、遅れて恐怖が湧いたか。
そしてアデラは、一人でも多く助けようと願って機内を駆けずり回り、しかし誰にも相手にされぬまま――最後に駆け込んだのは、自らの体を酷使してこじ開けたコクピットの中だった。
「……話は分かった」
「じゃ、じゃあ――」
やっと、やっと救えそうな人間を見つけて目を輝かせるアデラの前で、40代前半だろう兵士は、未だ操縦桿を握っていた。墜落は免れないだろう機体を、せめて地上との接触速度を抑えようという試みを続けているが、彼自身、それは無駄なのだと分かっていた。
コクピットには、機長の座席に座っている兵士の他にもう一人、20代半ばの若い兵士もいる。彼は逃れ得ぬ死という絶望に放心し、壁に寄りかかって立ったまま、天井を見上げて何かを呟くばかりだった。
「〈積荷〉さん、あんたの言うことは信じるが、一つ聞きたい」
「……なんでしょう?」
「あんたどうして、俺達を助けようとする? あんた、人殺しなんだろう」
兵士達は、自分達が運んでいる〈積荷〉の罪状を知らされている。護送する四人の内、最も罪状が重く、また危険とされているのがアデラ・アードラーだ。上役からは、〝猛毒を持つ四足獣を扱うように〟接しろと命令を受けている。到底心を許して良い相手ではない。
だが、この熟練の兵士は、アデラが炎に踏み込むのを目の前で見た。己の体を道具として用い、コクピットをこじ開けた様も。アデラの自身の苦痛を顧みぬ献身と、話に聞く大罪人のイメージが、まるで重ならないのだ。
熟練の兵士は首を横へ向けて、消えない疑念に細められた視線をアデラへ向ける。
「僕は、一人でも多くの人の役に立ちたいんです」
慈悲の微笑を浮かべて、アデラが言う。
「その為に背負う罪ならば、僕は全てを抱えて地獄に落ちましょう。大丈夫。神は僕のような悪魔でさえ救ってくださった。ですから必ず、善良な人も救ってくださいます」
捨身の幸福に浸る、夢見心地の告白。嘘を吐けない生き物の臭いを、熟練の兵士の鼻が嗅ぎとる。
「……分かった、乗ってやろう」
操縦桿を握ったまま、兵士は口をぐわっと開く。緊張で乾いた口内で、舌がピクピクと痺れたように震えている。
「ありがとうございます……!」
何への礼か。信用への返礼か、はたまた〝救わせてくれた〟ことか。アデラは兵士の口内へ、イリーナの脳小片を投げ込んだ。
兵士が、噛む。途端、彼の喉から、屠殺場の牛の如き苦悶の呻きが鳴る。
「不味っ! なんだこりゃあ、クソ不味いな! 盗み飲みした洗礼用の水よりまだ不味――」
舌に合わぬ聖餐を罵る口が、歪んだままで硬直する。
瞬きもせぬまま、数秒。
「……はーぁ」
熟練の兵士は短い溜息を吐いて、計器盤のスイッチを押し、機内にアナウンスを開始した。
『通達。通達。この機は2分以内に墜落する。安全な不時着は不能、おそらく救助は来ない。確実な死が約束されている。天国に行きたければ懺悔をしろ、地獄を這う気があるなら〈積荷〉のガキに従え。楽な道は前者だ、良い旅を。さようなら』
別れの言葉を告げた兵士は、とうとう操縦桿を手放した。機体の落下速度は変わらない。元より無益な足掻きだったのだ。
「おい、ジェルジオ! 口開けろ!」
熟練の兵士は、壁際で放心している若い兵士の名を呼び、応答より先に大股の一歩で近付くと、若い兵士――ジェルジオの顎を掴み、口を強引に開かせた。その口内へアデラは、嬉々として友人の脳片を押し込む。
火を噴く翼が、ついに爆ぜた。
鯨の如き巨体は黒煙を棚引かせ、東方の雪原へとその身を墜落させ――。
雪原を、二台スノーモービルが、積雪を白波と蹴立てて行く。
旅客機が墜落し、爆破炎上してから数分後のことだ。
あまりに迅速な到達であるが、無論それは、〝事前にある程度の事情を知っている〟からこそできること。上空で航行不能となった旅客機の墜落地点を予測するなぞ、機体を手配した側には容易いことであろう。
その〝誰か〟の通報を受け、日照を空へ返す雪原を行くのは、〈氷の聖母守護騎士団〉に所属する二人である。
「おお! なんたる悲劇か! 人は天地を支配したと自惚れるが、その実はただ道を行くことさえままならぬ!」
クロード・エンリ・ド・ラヴァル。白髭白髪、腰には華美な宝剣。時代錯誤の男は、歌劇の如き大仰なそぶりで嘆く。黒鉄のブーツ、手甲、鎧、艶消しの黒のフード付きローブ。騎士団の正装、戦場衣装である。
「空々しいお人。悲しみなど抱いておられぬのでしょう」
シノ・イザベラ・アリマ。普段は自らの民族の伝統的な衣装を好む彼女だが、今は、クロードと同様の正装。身には武器を帯びていない――スノーモービルの後部に大きなケースを取り付けている。
「無論、悲しいとも! 我らと世界を分かち合える数少ない同胞が、おそらくは幾多の死を迎えたのであろうからな! 想像するだに堪え難い苦痛であったろう! 墜落死! 焼死! そして今も尚、窒息で死に続けるか!」
首を仰け反らせて空を睨み笑うクロード。己の言葉すら愉快でならぬのか、エンジン音にも負けぬ大笑声を張り上げる。
「変わらずの悪趣味。その舌を貫けば、舌禍は遠ざかりましょうか? それとも捩じ切った首を高く掲げましょうか」
対して、眉根に皺を寄せながら、静かに毒を吐くシノ。冗談ごとには聞こえぬ口調だが、無論、一部の隙も無く本心である。
「その風習は知っておるぞ、イザベラ嬢。サラシクビであろう? 民草の良き娯楽であると聞いておる。我が領内でも行うべきであったな」
「貴方には胴裂きが似合いかと存じます。故、どうか静粛に。私めの手は、時折我を忘れます故」
クロードとシノは視線も合わせぬまま、慳貪の気を張り巡らして言葉をぶつけ合う。時折、二人の手がスノーモービルのハンドルから浮いてぴくりと震えるのは、相手よりの〝先手〟を警戒しているからだ。
二人は〝死なない〟――故に二人とも、日頃より戯れのように〝死に至る一撃〟を与え合う。お互いの首を落とした回数は、百や二百では収まるまい。
とは言え、険悪な仲でもないのだ。
憎まれ口を叩き合いながらも、この二人以上に、互いの手の内を知り尽くした者はいない。犬が唸り合う程度の気軽さで殺し合う、それがクロードとシノであった。
些か子供じみた口喧嘩が、広い雪原に染み渡る。声を聞いて逃げる獣も無く、木々から飛び立つ鳥も無い。白雪の上には足跡も無く、半径数十キロに渡って滑らかな積雪が広がっている。
新雪に轍を刻んで、スノーモービルは旅客機の残骸の元へ辿り着いた。
かつて雄大に空を飛んでいた巨体は、今は原型も分からぬほどに細かな金属片となって雪に埋まっている。
墜落の衝撃と、炎が雪を溶かしたが為に、雪上にはクレーターが生まれていた。その縁に、クロードとシノはスノーモービルを停車させた。
「何か、見つかりますものは」
「死肉の臭いだ! 焼け焦げておるな、喰いごろはとうに過ぎておる!」
あくまで横を見ぬまま問うシノへ、クロードが、鼻をひくつかせながら答える。
「ベリー・ベリー・ウェルダン。機体と共に撒き散らされたのであろう、方々に炭化した肉の臭いがある。食欲をそそられるとは言えんな」
と言って、クロードは高笑いを響かせた。〝人喰い貴族〟と称された男のジョークセンスは、比較的〝まとも〟な倫理観を持つシノには理解しがたい。嫌悪を隠さず渋面を作り、ことさら視線を背けて言った。
「貴方の趣味の話に興味はございませぬゆえ。……して、生者の臭いは?」
「しばし待て。爆薬やら油やら、随分と混ざっているでな――む?」
犬のように鼻を鳴らしていたクロードが、急に怪訝な顔をした。すり鉢状になった雪に腰を下ろし、ローブをソリの代わりにして、クロードはクレーターの底へ降りて行く。
「居たのですか!?」
シノがクレーターの縁から、滑り降りて行く背へ叫ぶ。するとクロードは、首だけをぐりんと百八十度後方へ向けて叫び返した。
「恐らァく! しかし奇妙であるぞ、まっこと奇妙である! 生者の臭いが〝六つ〟有る!」
〈時間鉱学〉は教国の最高機密。それについて知る者は、少ないに越したことは無い。だから
地上三千メートルから墜落した機体の中、生き残れる者などいない。ありえるとすれば、〝一度死んでから生き返る者〟のみ。
「急に人数を増やしたとも考えづらいのですが……クロード、どこです!」
「そこだ! 私の右手側2m、深さ1m!」
雪土の一点をクロードが指差すと、シノはスノーモービル後部に取り付けたケースを開けた。
長大な鎖が、ケースの中に収まっていた。
先端に碇のような金具を取り付けた、太い金属の鎖。総重量は数十キログラムを超えるだろう代物を、シノは投げ縄のように、頭上高く振り回し――投擲。先端の碇は狙いをあやまたず、クロードが指差した地点へ沈んだ。
「はっ!」
裂帛の一叫、シノは鎖を引く。再び雪上に現れた碇は、屈曲部に人間を二人引っ掛けていた。衣服は墜落の衝撃でところどころ破れ
焼けていたが、間違いなく旅客機に乗っていた兵士であった。
しかも、人間の形を保っている。死臭が無い。意識こそ失っているが、ペースの整った呼吸音が聞こえる。
「クロード、〝これ〟は……」
「兵卒であるな。破片となって撒き散らされているべきものだ。……むぅ?」
シノとクロードは、今日初めて顔を見合わせ、同じ角度に首を傾げた。