〇
おお、称えよ。我らが血を。
おお、称えよ。我らが友を。
おお、称えよ。親を、郷を。
おお、称えよ。我らが祖国を。
耳をつんざかんばかりのはずの大合唱が、何故か遠い。暴れ回る血流は、しかし冷たく、ハーゲルの身体を縛り付ける。
「やったなハーゲル、大手柄だ!」
駆け寄る部隊の仲間たち。その笑顔が輝いている。正義の体現がなったのだ――そう、疑っていないのだろう。
「あぁ、」
何か言葉を探そうとした。出てこなかった。自分の作る笑顔は自然なものになっているだろうか。この腕の震えには勘づかれていないだろうか。この指が、弓からまるで剥がれてくれそうにないことには。
――この胸に渦巻く、巨大な喪失感には。
死体に目をやる。たった今、射殺した者。屈強なる戦士、その死を衆人が大手を振って歓迎している。たちまち一部隊をあげて、馬上へとつるし上げられる。
「反乱軍の首魁フューレ・デアヴェルトは討ち果たされた! この勝利は、我々に偉大なる一歩をもたらすであろう!」
堂々たるカリュリスの宣言。歓声が、拍手が、歌が沸く。
指導者を失った反乱軍に、容赦なく掃討部隊が動きだす。抵抗するもの、逃げ惑うもの、まちまちだったが、もはやそこに勢いはない。
ハーゲルの部隊にも掃討命令が下った。しかし、ハーゲルの足は動かない。
「お前はもう、これ以上手柄立てんなよ」
冗談めいた同僚の声掛けに、曖昧な笑みで答えた。意気揚々と作戦に向かう背中たちを見送り、ようやく胸が開いた感じがした。漏らした息に、わずかに喘ぎが交じったのを気付かずにおれない。
フューレ・デアヴェルト。あの男が最後に見せた、あの笑顔の意味を、いったい誰が理解したことだろう。あの、血なまぐさい場にはあまりにも不似合いな。あたかも新しいおもちゃに出会った子供のような。
ハーゲルの射線に身を晒し、そう、確かにフューレは動きを止めた。その気になれば、避けられたはずの一射だった。
「こんなクリスマスプレゼントも、まぁ悪くねえよな」
聞こえるはずのないその声が、何故耳に届いたのか。
途端に腕が固まった。矢と、眉間とが分かちがたく結ばれた、としか表現出来そうにない。そうでもなければ、あれだけの極限状況の中、ハーゲルの矢がフューレを捉えられるはずもない。
「フューレ・デアヴェルト」
ハーゲルは呟いた。いつの間にやら弓を取り落としていたことにも気付かなかった。
視界がにじむ。
膝から崩れ落ちる。
喧噪が、更に遠くなる。
「軍属は、お前の美を損ねるものとばかり思っていたが」
カリュリスの親指が、ハーゲルの鎖骨をなぞった。熱さと冷たさがない交ぜとなるような、押し寄せる心地良い感触に声を上げそうになった。
「嬉しい誤算だ。若獅子となったお前には、今や以前とは比べものにならぬ生気が満ち溢れている」
「光栄です、閣下」
白金の波毛、その下の青い瞳が嬉しそうに細まった。しなやかで強靱な腕がハーゲルを力強く抱き寄せる。
「しかし、この掌だけは悲しまずにおれんな。尊い対価と呼ぶべきであろうが」
繋がり合う手の感触からは、以前ほどの明瞭さが失われていた――武器を取り、振るうのだ。当然マメも出来、皮も厚くなる。
「醜くなる自分を、それでもお受け入れ下さいました。閣下には、幾らの感謝でも足りません」
「何を言う、ハーゲル、我が蜜よ。我が元に侍るべきは強く、気高くあらねばならぬ。お前は、私の期待を遙かに上回ってくれているよ」
唇が重なると、逞しいその身体に熱がこもったのが分かった。全身の力を抜く。すべてを、カリュリスへと捧げる。
「恵みを賜る」――いつしかハーゲルは、カリュリスとの時間をそう呼び習わすようになった。
表現の仕方を変えただけで、予想以上に容易くこの境遇に順化ができた。自分の性愛指向などを介在させる余地もない。それは定められたことであり、ただ求めに応じるのが己に課せられた使命なのだ。
とはいえ、元よりカリュリスは偉大な存在である。どのような形であれ、その近くに侍ることが許されるのは、それだけ己を高めたいと願う動機にも十分に繋がってきた。
「今は弓矢の鍛錬が特に充実しております」
「そうさな、武芸一般は修めるべきこと――しかしながら、許されるのであれば剣槍の類いには接しないでいて欲しいものだ」
我が儘じみた諧謔には、どう返したものかで毎回迷う。どのようなことを言ったところでカリュリスの秀麗な眉目が曇ることはないだろう。しかし、どうせならば、その整った相貌を崩したい。笑いで、大きく。
「――これは忠誠心なのかな。それとも懸想なのか」
独りごちてみるも、容易く答えが出るはずもない。何度同じ問いを繰り返してきたことか。そして、回数を重ねれば重ねただけ、その二者から全く埒の外れた陰の存在に気付いてしまうのだ。正体は分からない。ただ、それは凶暴な膂力をもって「それがお前の見出した前途か?」と詰問してくる。
――そうだ。
これが自分に定められた道だ。
正しき道だ。辿ることの何が悪い。
だが、断ずる語気を鋭くすればするほど、その空々しさは募る。風穴は広がり、ひび割れはいや増す。
それは逃避か、あるいは昇華行為なのか――いつの頃からか、共にあったバイオリンにすがるようになっていた。
誰に聞かせるわけでもない狂奏である。当初それは悲鳴、奇声でしかなかった。だが、音と付き合ううち、その中に歌が現れた。
歌はささやかで、儚く、脆かった。少しハーゲルが気を緩めれば、たちまち元の嬌声と化す。それを歌へと戻すための尽力を、自分でも驚くぐらいの濃度で行うようになった。
元来、感情の狂奔をぶつけんがための手段だった。だが、バイオリンが歌うとき、己の感情が、闇雲に弦を掻き毟る時よりも遙かに広く解き放たれることに気付いた。
精度と放逸。一般に演奏と呼ばれる行為においては対極と思われたそれらがない交ぜとなり、感情極大の一助を担う。幾許かの戸惑いはあったが、己が欲望に即した結果をもたらすのであれば、抗う意味はない。
「アンタ、気持ちいい弾きっぷりだな!」
豪放磊落を絵に描いたようなその男に声をかけられたのは、どこの裏路地だったか。これまでになくバイオリンが歌ってくれていた折のことだった。大いに興を削がれ、思わず非難の目で男をにらみ付けてしまった。
「おいおい、物騒な目つきだな」
男がおどけて肩をすくめて見せる。ハーゲルもはた、と我に返った。
「いや、」
弓をレイピア代わりにしようとしたことに気付き、腕の緊張をほどく。
相手には驚くほど殺気がない。邪気もない。
それでいて、瞬時に悟らされる。
相手がその気になれば、こちらには為す術がない。
「済まない。誰の耳にも留まるようなところで弾いていたのは己だ。アンタは何も悪くなかったな」
素直に頭を下げる。目が合えば、そこには音にも聞こえんばかりの破顔があった。
「いい音出す、それでいて切符もいい! 気持ちいいな、おめぇさん!」
瞬く間に距離を潰してきた、と思えば肩を組んできた。荒々しい所作だが、しかし不思議と悪い気はしない。男の持つ雰囲気ゆえだろうか。
「おめぇさんのバイオリンで歌ってみてぇな! ちょっと、付き合ってくんねぇか!」
「かつて、袂を分かった友がいる」
いつのことだっただろう。あの大いなるカリュリスが、いや、その時も大きくはあったのだが、少しだけ小さく感ぜられたことがあった。寝台の横に、珍しく酒があった。
「私と正反対なその男とは、それ故に、なのであろうな。不思議と意気が合った。彼の者の存在は私を高めた。また恐らくは、彼の者にとっても」
余計な言葉は挟まない。眼差しでのみ相槌を打つ。ひととき視線が交わるとカリュリスの目が薄らいだが、即、彼方へと飛んでいってしまった。
「互いに譲れぬ物があれば、道を違えるのは因果なのであろうな。共に歩んだ日々は幻となり、今では干戈の向こうにしか彼の者はおらぬ」
さしものカリュリスとて神ではない。勝ちもすれば、負けもする。中でも大きな障害となっているのは反体制レジスタンス「炎の矢」との交戦だった。勝敗いずれにせよ、はかばかしい戦果が挙がることもない。その晩までは、単純に苦戦ゆえの苦悩、と思っていたのだが。
「嘗て友だった者。よもや斯様な形で、改めてその大きさを突きつけられるとはな」
懊悩に沈むカリュリスに対し、迂闊にもハーゲルは言葉を漏らしそうになった。決して言ってはならぬであろう一言は、その故に今も大きく胸中に残っている――閣下、私には楽しんでおられるようにも映りますが。
その晩以降、「炎の矢」団頭目フューレ・デアヴェルトの名が持つ意味が、ハーゲルの胸中で、大きく、歪んだ。
おお、称えよ。我らが血を。
おお、称えよ。我らが友を。
おお、称えよ。親を、郷を。
おお、称えよ。我らが祖国を。
主の恵みを満身に浴びて、
愛と正義が胸に満ちる。
輝かしき灯に、
導かれて頂へと。
意気投合、というよりは男の勢いに引き込まれた、と言うのが正しいのかもしれない。連れ込まれた酒場で何を弾かされるかと思えば、この国に住まう者であれば誰もが知る唱歌「おぉ、祖国よ」だった。前奏だけで喝采が起こる。もう、何者が歌うのかは酒場の誰もが知るところのようだった。
男の歌が始まれば、すぐにその理由は明らかとなった。
圧巻、の一言だった。
堂々たる体躯全てが拡声器となっているかのような声量。しかしそれは艶やかさを一切損ねることもない。
また、お世辞にもテンポ感に優れているわけではないハーゲルのバイオリンを導き、時には合わせ、調和させた。さも自分自身がわずか一晩で信じられないほどの上達を遂げたかのような錯覚にすら陥った。
「おぉ、祖国よ」は二連の詞を繰り返し、その中で言葉やメロディを崩すことが多い。当意即妙が要求されることも多いはずだが、不思議と男の歌とは噛み合い続けた。戯れにハーゲルが仕掛けた即興にも男は容易く合わせてくる。観衆が喝采をあげる。演奏が終われば、たちまちハーゲルは男と共に人垣のさなかの人となった。
「すげぇなアンタ! 親方をあんなに歌わせるなんてよ!」
「アンタの演奏も良かったぜ! 気持ち良かった!」
「ほんとに行きずりなのかよ! すげえ息合ってたじゃないか!」
もみくちゃにされ、賞賛の嵐を浴びる。冷静な気持ちが、所詮は男のおまけなのだろう、とも見切ってはいた。だが、惜しみない祝福を前に冷静な気持ちを留めおけるほど凍てついているわけでもない。
ただ、返す言葉は浮かばない。何よりもまず、今まで体験したことのない事態に巻き込まれているのだ。これを分析し、的確に処理するだけの能力をハーゲルは持ち合わせていなかった。
しかし、
「全く、綺麗なだけの嬢ちゃんかと思ったんだがな! やるじゃねえか」
喝采の中にふと交じった、粗野で下卑た声が矢庭に冷水を浴びせてくる――声の主とおぼしき手がハーゲルの尻に伸びてきたのもいけない。
「おっなんだ、疲れたのか」
そこからの流れは、ハーゲル自身にも咄嗟には理解しがたいものだった。
無法者の手をとらえ、捩じり上げる。そこまでは叶った。しかしその後、引き倒し、体重を預け、関節もろとも床に叩きつけ――ようとしたところ、すべてが叶わずに終わった。
男がハーゲルの肩を抱え込み、大袈裟なくらい心配そうな顔でこちらを覗き込んでいる。また、どのような魔法か、無法者をとらえた手からは力が抜けていた。後ろで無法者がたたらを踏んだ音がする。
「無理して連れてきちまったからな。おい! ちょっとこいつ休ませてくるからよ。もうちょいお前らで盛り上がっててくれ!」
遠い騒ぎを背に、男が頭を垂れてきた。
「済まねぇ。おめぇさんを守り切れなかったな」
何故その言葉が出てきたのか。既に高ぶりかけた感情は落ち着いていたが、熾火はいまだ燻っていた。理由はまるで分らない。とはいえ、男の言葉がこの熾火に向かって投げられたものだ、とはわかる。
酒場の二階。宿として提供されている部屋、とのことだった。
「おめぇさんが追い詰められてんのは、なんとなくわかっちゃいた。ただ、それがどういう方向なのかまでは全然読み切れてなかった。なんで、ちょっと強引かとは思ったんだが」
「――!」
驚きのあまり、返す言葉もない。
緊張の糸が切れ、思わずベッドにへたり込む。
「悪気はねぇんだ。ただ、手の速い奴らではある。あんなことでおめぇさんをボロ雑巾にすんのはしのびねぇ」
ベッド脇の水差しから、コップへと水を注ぐ。二つ分。先に自分から飲み干し、次いでハーゲルにコップを差し出す。
「ちょっと、落ち着いてからゆっくり話そうか」
「――済まない」
状況の整理がつかないハーゲルを二手三手と先回りする、その外見からはおよそ想像もつかないほどの配慮に舌を巻くしかない。
隣に男が腰掛ける。ベッドがギシ、と音を上げる。
おぉ、祖国よの鼻歌を、男が少しだけ口ずさんだ。
「あの歌な。大好きなんだよ」
努めて明るく話しているのがわかる。
「祖国、我ら、を称揚する曲ではある。けど、初めに来るのは血だ。つまり、俺自身だ。俺があって俺らがある。もちろん、どっちも大切なもんだとは思うんだがな」
「自分自身、か」
「あぁ。おめぇさんが一生懸命消そうとしてるやつだ」
「!」
不意に心臓を刺された気分になった。
顔を上げることができない。否定するには、思い当たる節が多すぎた。
男はそこから、あえて沈黙を破ろうとはしなかった。プレッシャーをかけられているのとは違う。待ってくれている。ハーゲルは胸の内を整理しようとしては諦めかけ、しかし男の厚意にはどうしても応えたい――そのような気持から、懸命に、言葉を探した。
「――尊敬している方がいる」
ようやく、端緒に辿り着く。
「偉大な方だ。己を寵愛もしてくださっている。それに応えたい、とは本心だと思う。だが、あまりにも大きなあの方に比し、自分はあまりにもちっぽけだ。それが、あまりにも惨めでならない」
「あまりにも、か」
ふう、と嘆息が漏れた。
「どれだけの期間、思い塞がれてた?」
「わからない。ただ、根深いことは確かだと思う」
「まっすぐなんだな」
「そうなのかな」
「案外わからんもんさ、自分のことなんて」
口の中がカラカラになっていた。ようやく水を口に含む。
思った以上に、言葉がスムーズに滑り出た。そして、腑に落ちてきた。そうだったのか、というのが正直な心情だ。「カリュリスに寵愛されるべき存在であること」。もちろん一面では責務である。そして、どこかで望んでいることでもあるのだろう。だが、喝破された今となっては、気付かないわけにはいかなかった。カリュリスと向かい合っている“自分自身”の存在感は、その中にあって、あまりにも、薄い。
――あぁ。
潤いが全身にめぐるかのような感覚だった。
だから、目からあふれかえった水が、漏れ出した。
「――おいおい」
男が苦笑し、肩に腕を回してきた。
水は留めようがない。胸が締め付けられ、痙攣する。
――己は、泣いているのか。
認めるしかない。今しがた出会ったばかりの男に、あっという間に胸の内を見透かされた。そして、こじ開けられた。あまつさえ、文字通り縋りついている有様だ。こうなってしまえば、もはや恥も外聞もない。涙はもう、流れるがままにしておく。
「吐き出せるもんは、吐き出せるうちにな」
それ以上、男は多くを語ろうとしなかった。
「落ち着いたか?」
「あぁ」
どれほどの時間を、その態勢で過ごしたのだろう。おそらく、ひどい顔にはなっているのだろう。だが、驚くほど心は軽くなっていた。
「ありがとう。――えぇと、」
「フューレだ。おめぇさんは?」
フューレ。……フューレ?
「ありがとう、フューレ。己はハーゲルという」
まさか。よくある名前ではある。
今更の自己紹介なんてな、フューレはそう言うと、ようやくハーゲルの肩から手を放した。
「しかし情けねぇやな、大の男がおいおいと」
全く返す言葉がない。顔を見るまでもなく、フューレがにやついているであろうことは分かる。だから、負け惜しみに反撃してやることにした。
「よく言う。アンタも泣いてただろうに」
「ほぅ? いつのことだ」
「歌ってるときだよ」
「!」
覿面だったようだ。ようやく流れを引き寄せた。余裕の笑みを形作るのも、これならば難しくなさそうだ。
改めて、フューレを見る。
拳一つ分。ほんの僅かだが、後退っている。顔は笑っているが、どう見ても余裕がない。
当然だ。確証があるから、ハーゲルもナイフを突きつけている。
「違和感があったのは1回目。我らが友、郷、親。元々高ぶるところではある。けど、アンタの歌はそこにもう少し上乗せがあった」
「ほう。それで?」
「だから試した。2回目、3回目。敢えて溜めた。引っ掛けた。全部アンタはついてきた。――愛する、とはちょっと違う気がした。あれは、もっと深い」
言い切ってから、深呼吸する。軽く引っ掻くだけの筈だった。だが、刺してしまった。思いがけず、全力で。
フューレが顔を背けた。「――参ったな」と口に手を当てる。
「やけに読めたわけだ。お互い様だったのかよ」
訪れる沈黙には、やはり沈黙で答える。ちら、とフューレがハーゲルを見た。互いにもう笑顔はない。その代わり、真摯な顔つきではいるように、と努める。
「――そう、だな。確かに、泣いてたのかもしれねえ。今でこそあいつらと笑っちゃいるが、ここまでに失ったモンは、あまりにも多すぎた」
こんな事話したなんて他の奴らには言わないでくれよ、と幾分か冗談めかした断りを入れてから、大きく息を吸う。
「元々は、俺もここの軍人だったんだよ。けど、まぁ何やかやあって脱出しなきゃいけなくなった。その時に仲間と、あと家族を失った。逆賊追討、ってな。戦争に負けたんだ、当然の報いさ。けどな、大切なモンを奪われた恨みって奴はそうそう払拭できるもんでもねえ」
追っ手を逃れ、各地を転々としていく中で、自然とフューレの周りには仲間が集まってきたのだ、と言う。ハーゲルにしてみれば当然の成り行きなのだろうとも思ったが、そこは口に出さずにいた。
「始めはな、そりゃ恨み辛みも抱えたまんまだったさ。けど、仲間を得て、戦い、また失って。そいつを繰り返してく中で、気付けば多くの仲間の運命、想いを背負う身の上になった」
顔面の前で拳を握る。
「正直、今振るってる拳の重さは嫌いじゃねえ。――だが、その為に失ったモンのことを思うと、時々立ち尽くしそうにはなる。そんなこと許されねえから、尚更、な」
力なく拳が開いた。
「――そうか。だから歌ってたんだな」
幾度目かの沈黙。
途方もなく広く感ぜられていたはずの背中が、今はこうも、狭い。
ハーゲルは自分の掌を見た。
自分に、何の言葉が掛けられるだろう。フューレがしてくれたような形では、その傷を受け止められそうにない。だが、何とかできないか、とは思わずにおれないのだ。
意を決し、手を伸ばす。
「フューレ」
「ん?」
振り向いたフューレの顔に腕を伸ばし、
――唇を、重ねる。
「!?」
驚愕と緊張が伝わってきた。
だが、不思議なほど、抵抗は、ない。
体重を預ければ、そのままベッドの上に折り重なった。
唇が離れる。その顔を見下ろす。
「おまっ、いったい何を――」
「アンタみたいに、うまく心を沿えられる気はしない」
思いがけず強い語気になった。フューレの顔から、もう動揺の色が抜けていく。強い男なんだな、と思う。改めて。
「けど、――身体なら、せめて寄り添わせられるから」
我ながら随分と破綻した物言いだとは思う。けれど、止まらない。
交錯した視線が一瞬外れた。
改めて交わったとき、そこに驚くほどの穏やかさが乗ったのを感じた。同時に感じてしまうのは、――憐れみ、だろうか。
「ダリルのいたずらに、やけにいい反応したわけだ」
ダリルと言うのが誰か、などあえて問う必要もないだろう。
優しく引き寄せられる。
「そうだな。おめぇさんとなら、そう言うのもいいかもしれねぇ」
初めてカリュリスの前に引き立てられた時のことを、ふと思い出した。特に粗暴な招集があったというわけではない。やってきた近衛兵の装備が煌びやかで憧れたことは覚えている。だが、それらはすべてカリュリスを目の当たりにすることで吹き飛んだ。
――なぜ、カリュリスのことを思い出しているのだろう。
緊張に対する斟酌、そして誠意のある謝罪。街中でハーゲルを見出した時のこと、願望と葛藤。家族とのやり取りも決して威圧的なものではなかったので、奇妙なほどすんなりと自分の身の上の激変を受け入れてしまった。
カリュリスの、宝石を慈しむかのような愛し方とはまるで違う。とはいえ先ほどまでの接し方から想像できたように、決してフューレのそれも粗暴、とは程遠い。決定的に違うのは、そこに激情があるかどうか、だろうか――どちらがどう、という話ではない。敢えて言ってしまえば、どちらも、愛おしい。
快楽を受容することを学んだ身体である。痺れ、霞がかった脳が、その感覚の奔流を浴びながら、しかし一方では冷静に、こうも呟くのだ。
――これが、フューレ・デアヴェルトか。
この時間が終わってほしくない。
快楽、感情。
二つのゆえにのみ、そう思えたのであれば、どれだけ喜ばしかっただろう。終局が近づくのを感じ、涙が改めて溢れてきた。
「――痛かったのか?」
「多少な」
そういうことにしておいてほしい。
それ以上のことには、気づかないでほしい。
脱力するフューレを抱きとめる。
呼吸が、拍動が同期しているのを感じる。心地の良い疲労と倦怠。強く抱き締める。フューレという男の存在感を、この肌に刻み付ける。
「――なぁ、ハーゲル」
「ん?」
「おめぇさんとは、もっと語り合いてぇ」
胸が締め付けられた。
叶わぬ願いだが、と言いそうになった。
「――あぁ」
ふ、と微笑したのが分かった。
起き上がり、シャツを着る。
背中を向けたまま、水差しから直接水を飲み乾した。
「12月25日。この町は火の海に落ちる」
「火の、海に?」
相槌は来ない。
来ないまま、言葉は続く。
「そのドサクサでおめぇさんが死んじまったりしたら、とてもじゃねえが耐えられそうにねぇ。――逃げてくれ、この町から」
その言葉尻に匂わされる、諦めの感情。
薄々ではあるものの、フューレも気付いてしまったのだろう。ハーゲルがどのような立場にある存在なのか。それが正確な理解なのかどうか、はこの際問題にはならない。
だから、問いを投げる。
「――アンタは、その後どうするつもりなんだ?」
「その後か?」
天井を見上げ、深呼吸を一つ。
振り返って見せたのは、悲しいくらいに明るい笑顔だった。
「そうだな。大切な奴の手にかかる――ってのも、悪くねえ」
これが、神の恵みか。
これが愛。これが、正義。
「比類なき殊勲だ、我が蜜よ」
遠い喧騒の中、カリュリスの言葉だけが、妙に近い。
「炎の矢団の動向を掴み、我らに機先を制する契機をもたらしたに留まらず、よもやフューレをも討ち果たすとはな。皆がお前を称えることであろう」
興奮したような、虚脱したような。大いなる勝利はまた、カリュリスにとっても大いなる喪失なのだろう。ことカリュリスに対しては奇妙なほど冷静な分析をすることができた。それが、無性に可笑しい。
「――はい、閣下」
顔を上げる。
目が合った瞬間、あの秀麗なるカリュリスの顔が大きく曇った。初めて見る表情だった。カリュリスをしてそうさせるほどの顔を、自分がしていた、ということでもあるのだが。
どのような顔をしていたのだろう。
歪な嗜虐心が疼いた――それだけは、覚えている。