一
夕方の陽が差し込んでいる。
あかい、むらさきの、おれんじの光が差し込んで、畳の床を照らしていた。
頭の中は文字がぎっちり詰まっているみたいに重くて、吐き気すら覚えるほどだった。
「ゆうきさん」
乳母、昔だったらそういったのかもしれないが、まあ私は彼女を誰かに紹介する時は“お手伝いさん”とそういうことにしているから、彼女はここでは“お手伝いさん”なのだ。
背後から静かに入ってきたお手伝いさんは、ゆっくりとした動作で持ってきた茶を私の文机の上に置いて、人好きのする笑みでこちらを見ながら、私の名前をひとつ呼んだ。
「今日も一日が、終わりますね」
「ああ、うん。もうそんな時間か。私宛に何か届いたかい」
「いいえ。そういえば、今日は文昭さんがいらっしゃいましたよ。あの方は紳士ですねえ」
「そうかい。もうそんなに」
知り合いは皆、一様に通り過ぎていく門の淵で、私、いや、私たちだけがここに留まっていた。
門番の代わりを出来るくらいにはずっと、随分と動けないでいる私の記憶も、僅かずつではあるが霞んできているのがわかる。
「義之さんは、どうなりましたかねえ」
「私の息子だ。知ったことじゃあありませんよ」
「あら。もうすぐここを通られると思いますけれどね」
「……。それより、美代子はどうしているか」
「美代子さん……」
微笑んで、お手伝いさんは小首を傾げた。
「まだ此処を通られては、いらっしゃらないかと」
「そうか」と。そうひとつ呟いて、私はまた本に目を戻した。
美代子。私の妻。門の淵で美代子を待つと決めてから、私は延々と待ち続けた。待って、待って、もう幾年が経ったのかわからない。飽き性の私は年が十を過ぎたところで数えるのをやめてしまった。あちらとこちらでは時間の流れも違うのだから、こちらの時を幾ら数えても仕方なかろう。
こちらへきてすぐに、乳母がやってきた。とおくから来た乳母をお手伝いさんと呼ぶようになって、また延々と時が過ぎた。
頭が重い。最近はずっとこの調子で、本を読んでも頭に入らず寝てばかりいるわけにもいかず、苛々と一日を過ごす羽目をみている。
「どうしたんだい、そんなに考え込んで」
目の前で考え込んだ顔のお手伝いさんの視線が、私と畳をゆるゆると往復した。
「また一日が、終わりました」
「そうかい。私宛に何か来たかい?」
「いいえ旦那様。なにも」
思考の泥に足を突っ込んだまま帰ってこないお手伝いさんに、苛々としている私は言葉を荒げそうになった。私が勝手にむかむかしているだけだから、それではいけないだろう。彼女を不快にさせないようにいつも通りの会話をつとめた。お手伝いさんとはいえ、長年の付き合いだ、彼女だって、私のことをわかっているに違いない。
急かしている私の視線に気づいていたのだろう。言いにくそうにしながら、彼女はゆっくり口を開いた。
「ゆうきさん」
「なんだね」
「…旦那様」
「だから、なにか用事でもあるのかい」
私を旦那様と呼んだのはこの乳母と、美代子の二人だった。狭い家の、狭い部屋を取り合って、やっと私は書斎を手に入れたのだ。
屋敷が広く感じた。ざわりと揺れたのは風だろうか、世界だろうか、それとも、私の視界だろうか。
私には、わからない。
「旦那様。わたし、もうじき此処を出なければなりません」
ずっと、待ち続けて居りましたが。
そう細く言ったお手伝いさんの口元には、紅が引かれていた。あかい、その紅の色は、私が美代子に薦めた色。白い肌によく合う、あかい紅。奇麗な、奇麗な、
「…美代子?」
眉尻を下げて笑うのは、私の目の前にいるのはお手伝いさんの筈で、それなのにこの女は。
「もう、その名前を呼んでは頂けないかと」
花が咲くように、美代子は笑った。そうして、私の眦に親指で触れ、背筋をぴんと伸ばし、門を通り過ぎて行った。
風が吹き抜けて、思わず振り返ると、私が前に住んでいた古くて汚い、小さな家が視界の遠くで霞んだ。