怠惰な死体・5
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【怠惰な死体が語る現代の闇 】
怠惰な教団に悲しみの遺体が語る無念の叫び
「もう我慢ができない」
西荻窪市の男性会社員(29)が東京駅で遺体で見つかった事件から一週間。都内では聖創学協会被害者の会や市民団体の抗議が相次ぎ、やり場のない怒りや悔しさが渦巻いた。
これまでに何度、「またか」という言葉を繰り返してきただろうか。教団による被害者は数知れず、若い命が無惨にも散っていく様をまざまざと見せつけられた筆者は、断腸の思いでこの事件を受け止めたものである。
たとえば協会員による詐欺事件がらみの抗議件数は昨年度だけで202件。盗撮盗聴犯の検挙件数は187件。いくら再発防止を求めても対策は長く続かず、教団あるが故に、悲劇が繰り返される。聖創学協会教主の木村太輔氏の責任は免れないだろう。
17日、都庁で記者会見した8の女性団体の代表は時に声を詰まらせながら、口々に無念の思いを語った。
「被害者がもしかしたら私だったかもしれない。家族だったかもしれない。大切な人だったり友人だったかもしれない」。
「教団がなかったら、こういうことは起こっていなかったんじゃないか」。
「腐敗できない遺体に、怠惰な教団に対する無念の叫びを感じる」
-涙ながらにそう語ったのは、男性と同世代の玉置優衣さん(会社員7年)。
2012年度に死体遺棄容疑で逮捕された元聖創学協会員の男性が勤務する西荻窪教団施設本部前では、市民らが『全施設撤去』のプラカードを掲げて事件発生に激しく抗議した。
都政によって『命の重さの平等』が保障されないとすれば、私たちは私たち自身の命と暮らしや人権と民主主義を守るため、立ち上がるしかない。
西荻窪の新施設内建設に反対するだけでなく、悪質な宗教団体による事件が今もなお続く都内で、安全な市民活動を守る為に我々は一歩踏み出す時がきたことを痛感する。
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都庁の「迅速な対応」がどこか芝居じみて見えるのは「最悪のタイミング」という都知事の言葉に象徴されるように株価や参院選への影響を気にするだけで、市民に寄り添う姿勢がまったく感じられないからだ。
もはやマイノリティーではない市民達の怒りの声は、もはや彼らには届かないのか?
施設維持と教団施設の円滑な運用が優先され、喉元過ぎれば熱さ忘れるのたとえ通り、またかまたか、と事件が繰り返されバラバラ殺人さえ現れた様相は戦後間もなくの暴力団同士の抗争すら予期させるものである。
かつての宗教テロ事件を経て我々は何を学んだというのだろう?
荒れ果てた大地に回る水車はない。カルト集団を放置する都市であることは則ち、人々の笑顔や民意や安全、都市部に生きる人々の平穏な営みがもたらす水の流れを否定するが如く人の流れを滞らせ、人心は淀み、人を呪う毒のみ垂れ流す腐敗した街となるだろう。これはけっして都民だけの問題ではない。日本の国際都市としての品格に関わり、その魂が試されている問題なのである。
都内の戦後史は凶悪犯罪と事件事故の繰り返しの歴史である。事態の沈静化を図るという従来の流儀はもはや通用しない。
筆者は20日に京都を訪ねる。
『真言宗十八本山』とよばれるお寺のうち、京都には真言宗大覚寺派大本山の大覚寺(京都市右京区)や真言宗御室派総本山の仁和寺(京都市右京区)など、この場では書ききれないほど数多くのお寺があり、真言宗系で言えば多くの分派がある。
この機会に京都まで足を伸ばし、読者の皆さんも雅なる古都の歴史と現状と心の深奥を揺り動かす真言に触れてほしい。新しいアプローチがなければ協会問題は解決しない。そのことを肌で感じてほしいのである。
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都庁勤務OBの天田司さんは退職後、独力で『聖創学協会犯罪事件帳』を執筆し、出版した。教団絡みの訴訟問題に関する資料を整理・編集したもので、教団信者による強姦事件、盗聴盗撮事件、脅迫・恐喝事件、殺人事件などの凶悪事件が列記されている。あまりの数の多さに息が詰まるほどである。
戦後に勢力を拡大してきた新興宗教団体という本来は精神的な拠り所となるはずの信教の自由が人の心の居場所を奪い、なぜ今もなお、教団関係者による事件が絶えないのか。
根本的な問題は「小さな籠に、あまりにも多くの卵を詰めすぎる」ことだ。この事実から目を背けてはならない。
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(A新聞朝刊社説より抜粋)
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【ICレコーダーによる聴取・1】
西荻窪A棟にて
丸の内警察署・西園寺班
松岡浩之の報告より作成
2014/01.19 10:25
「…では、まずあなたの氏名と年令をお聞かせ下さい」
「何の聴取かね? まさか、この私を疑っているのか? 君はどこの署の何という刑事だ?」
「警視庁丸の内警察署・刑事課強行犯1係の松岡浩之と申します。聖創学協会の教祖、木村太輔氏の次男で真鍋政義さん56才でいらっしゃいますね?」
「分かっているなら聞くんじゃない! まったく無礼だな、君は…。最近の刑事は目上に対する口の聞き方や態度も弁えんのかね? 言っておくが、私の機嫌を損ねるような真似はしない方が身のためだ。然るべき筋を通して訴え出てもいいんだぞ? 」
「あいにくと、この会話は正式な調査報告書として記録されております。今のは脅迫と受け取ってよろしいのでしょうか?」
「チッ…何が聞きたいんだ?」
「こちらの施設で殺害された、被害者の河西夫妻の件について、お聞かせ下さい。
…河西祐介氏はあなたのお兄さんにあたる訳ですが、彼が殺された理由について、何か心当たりはありますか?」
「ウチの兄貴か! そりゃいい! 正直に言えば義姉さんや憲仁共々、消えてくれて私はホッとしているよ。親父の遺産相続候補が二人…いや、若い有力候補の憲仁も含めて三人も消えたんだからな。松岡君と言ったかな? 動機なら私にはあるぞ。実の兄だが死ねばいいのに、と思ったことなら何度もある。もちろん、私だけの話じゃないがね」
「…………。
河西祐介氏が特定の誰かから恨みを買っている、というようなことはありませんでしたか? または誰かからそうした噂なり何なりがあれば、お聞かせ下さい」
「そりゃ世間からこれだけやっかまれてるんだから、中には殺したいほどの恨みを持っている人間なんか、一人二人どころか山ほどいるだろうさ。
兄貴は暴力団とも繋がりがあった。君らなら当然知っているだろう?
山城組系直系・銀政会の加藤組だよ。刑事に隠し事なんかしても無駄だから、身の潔白を証明する意味でも教えてやるがね。
聖創学協会が巨大権益にまつわるトラブル処理のため、加藤組を用心棒として使った上でダーティワークも任せていたというのは本当だ。兄貴が死んだ今となっては、具体的な内容は私には解らないがね。
銀政会とは主に兄貴しかパイプ役がいなかったし、私は単純に兄貴のそうした強引なやり方には常日頃から義憤を感じていたからな。復讐や怨恨に兄貴や義姉さんが関わっている可能性は高いと思うね。むしろ殺されない方がおかしいくらいだ」
「そうした組関係やそれ以外でもかまいません。具体的に何かご存じはありませんか?」
「さあね。だが、兄貴はスジ者のヤクザ達からも相当恨まれていた。プロに始末された可能性は高いと思うぞ。あの手口が物語っているだろう? バラバラにするなんてヤクザらしい報復の仕方じゃないか。さらに兄貴は首を絞められて殺されたそうじゃないか?
死体の解体現場はしかも施設内のB区画。あの工事現場だ。ヤクザと建設会社の相性のよさは君も知っているだろう? あの電気代だけで都民から年間二億円もふんだくっている馬鹿のような都庁舎がいい例だ。兄貴のやっていた建設会社の傘下にも関係者はいるはずだ。探し出してしょっ引くがいい」
「なるほど、真鍋さんは暴力団と繋がりのある何者かが二人を殺害し、協会への報復と見せしめの為に彼らをバラバラにしたと考えているのですね?」
「そりゃそうだろう。兄貴は本職のヤクザを散々利用し、仕事が終われば後は知らんぷりだった。それで彼らがちょっとでも物言おうものなら、今度は警察権力を使って潰しにかかる。暴力団とて今は堅気の商売をしているこの御時世に、兄貴はブローカーを何人も雇って株価を釣り上げたり落としたり妙な噂を流したりと、商売上の圧力まで掛けて、プロのヤクザを脅すようなこともしていたらしい。これで恨まれない訳がない。で、それが五月蝿いマスコミにバレそうになったら、頬かむりだ」
「そうですか…。では、次に彼の奥様の河西麻未さんについて教えて下さい」
「強突く張りな女だったよ。金と宝石に目がなかった。
…あの、なんと言ったっけかな。五人組のアイドルグループがいるだろう? あの金田一耕輔や明智小五郎役をやったことがある俳優のいるグループで“ちゃん”付けされている。アレに大層熱を上げていた。ガハハと下品に笑いながら、部屋のテンキーのナンバーまでそれに、なぞらえているとまで言っていたよ。…馬鹿な女だ。
酒好きで大の酒豪だったよ。ウィスキーなんぞ一晩で二瓶空けるほどの大酒飲みで、行が終わったら酒とツマミとTVにかじりついてるような、典型的な俗なババァだった。自分の子供のように宝石を愛でながらな。楽しみを邪魔されるのを何よりも嫌う女で酒癖も悪い女だったから、私達は絡まれるのが嫌で、いつも部屋には行きはしなかったがね。
よくウィスキーの氷が足りないと他の部屋にまで怒鳴り込んでくるものだから、義姉さんの部屋の飲み物だけは常に大量に用意して何でもいいから冷蔵庫は常に冷やしておけと幹部付きの係には伝えていたよ。一応あれで幹部でもあるし家族でもあるんだが、仕事以外で関わりを持とうとは思わなかったよ。それ以外のことは知らないな」
「彼女が殺される理由について、何か心当たりはありませんか? 」
「信者達からの評判はよくなかったな。教団の、特に女性部を使ってやりたい放題していたと聞いている。
…ああ、女性部というのは教団の女性信者達で構成されている、要は女性ならではの広報部署だ。義姉さんはその代表だった。
義姉さんの鶴の一声で女性部の団体が軍隊のように動くとまで言われていた。一般からはストーカー紛いの集団は主に女性部だという悪評は流れていたようだな。その女性部とて信者からは厄介ごとの種のように思われて女性部からの突き上げまで食らっていた矢先だったのだから、つくづく因業な義姉だよ」
「お二人が行方不明になった経緯はご存知かと思いますが、1月4日に行方不明になっていたというのは、真鍋さんは、いつお知りになりましたか?」
「ふん、アリバイ調査の前振りか?」
「失礼ですが、形式的なことなのでお聞かせ下さい」
「…ふん、まぁいいさ。ええと、2日の日に大同集会が始まって全国から信者が集結し、3日から勤行が始まった訳だから…4日の日といえば三斉勤行二日目だな。
いつも始まるのは朝の9時からだから…そうそう、8時に女達に起こされて着替えて講堂に行こうとしたら政樹から聞かされたんだよ。兄貴と義姉さんを見かけなかったか、とな。どうしたんだ、と聞くと朝から誰も見ていない。部屋にも誰にもいないというのさ。信者が動揺しないように警備員に探させているとも言っていた」
「そうですか。A棟は四階建で河西麻未さんの部屋はA棟4階の角部屋側でしたね?」
「ああ、私が半分を占有している。自分の部屋は施設内全部が見下ろせる場所じゃなきゃ嫌だと親父に義姉さんがせっついたのさ。親父は3F全ての占有スペースを使っている。義姉さんは建物の上から三斉勤行に来る信者達を眺めながら酒を飲むのが楽しみだと言っていた。ふん、くだらん。とことんゲスで下品で高飛車な女だったのさ」
「では、次は東京駅で発見された木村憲仁さんについて聞かせて下さい」
「真面目一辺倒としか言いようのない若造だったよ。幹部候補ともなれば、将来は保証されたようなものなのに、奴はとにかく馬鹿がつくほど真面目に修行していた。信者達からの受けもよくてな。お嬢様育ちの美也子が惚れるというのだから相当な切れ者だ。
餓死して死んだらしいが、私はこれもヤクザの仕業じゃないかと睨んでいるよ。監禁して拷問されていたに違いない。親父からの受けもよくて正直、親父の跡を継ぐのに一番近かったのは奴だったかもしれん。そう思うと、些か鼻につく奴ではあったな」
「形式的なことなので、お気を悪くなさらないで聞かせて下さい。
警備室の入室記録から河西夫妻がA棟4階と2階の自室で殺されたのは、どうやら深夜の23時17分という時間にそれぞれの自室で、カードキーによって入室した何者かによって、ほぼ同時に襲撃されたようなのですが、真鍋さんはその時間は何をしていましたか?」
「私がさっき何と言ったか覚えているか? 朝に女達に起こされたと言ったんだ。アリバイならその女達に聞くがいい。愛人なら五人もいるし、信者達も知っているはずだ。その中の二人を部屋に呼んでいたのさ。そいつらが証明してくれるぞ。
何しろ一晩中、取っ替え引っ替え、そこのベッドの上でヒィヒィ泣かせてやっていたのだからな。あんな愉しいことがなきゃ、誰が正月早々こんなところになど来るものかよ。このA棟の幹部用の個室が完全な防音の部屋でよかったよ、ハハハハ!」
「解りました。確認させて頂きます。では、事件の起こった3日の夜から4日にかけては一度も部屋を出ていないのですね?」
「女の一人に酒とタバコと食い物は買いに行かせたがな。もう一人が休ませてくれなかったんだ。12時になるとB棟のコンビニが閉まってしまうんだ。女に私のセキュリティーカードを渡して買いに行かせたから、入室記録が残っているはずだ。女とコンビニの店員に訊くがいい」
「解りました。それも確認させて頂きます」
「まぁ君達がどう動こうが、我々は揺るがないがね。全国212万世帯以上の信者を擁する我々を…聖創学協会を舐めないことだな」
「宗教で人心は操れませんよ、真鍋さん」
「はは、随分と威勢がいい正義感の強い刑事だ。お前の事など調べることはたやすいんだぞ?
…お前、家族は? 恋人はいるか?
これからはせいぜい電車に乗る時は気をつけるんだな。気の短い信者はいるからな。都会じゃ呆れるほど多い人身事故が、またどこかの駅で起こらなきゃいいがな」
「………!」
「んん? 何か言いたそうだな? 特別に私が聞いてやってもいいぞ? ははは!
…いいか、若造。聖創学協会は、いや木村家は死なんよ。この日本という国家を乗っ取るまでな。私は兄貴は大嫌いだったが、この点だけは共通している。
宗教を利用して何が悪い? 人を集めて信者にして、その協会員から金を上納させて何が悪い? 彼らは救われているじゃないか? 我々は感謝だってされている。年寄り共はいつも拝んでくれているぞ? 協会の真言は有り難いありがたいアリガタイとな。
お前らは認めなくとも政治家にだって信者はいる。芸能界だってマスメディアだって我々の手の内だ。医者にも弁護士にも、警察にだって信者はいるぞ?
殺人の被害者を事故死に見せかけることだって、死亡診断書を書き換えることも、そもそも捜査すらされないことだって出来るぞ? 裁判なら裁判員制度を利用することすら可能だぞ? 完全犯罪すら不可能ではないのさ。
…いいか、お前ら屠殺場の豚共が断末魔のようにピーピーどう喚こうが、腐った世の中は何一つ変わりゃせんのだ。
…お前らはしょせん、長いスパンで物事を考えられない愚民共でしかないんだからな!」
「その割には、最近の協会の叩かれ方は相当なもののようですが? 人の怒りは操れませんね」
「はっ! 恨み辛みに妬みに嫉みで世の中が動くものか! 人の怒りは操れない?
操る必要などないさ! 我々は既にあらゆる業界の中にいる。何をしようと無駄なほどに大量にな。
我々の存在など気にも留めやしない奴らが、今日も変わらずTVを観ては協会の息がかかった報道や芸能人らの番組で喜び、我々の息のかかった企業の商品を買い漁り、飲食店で飯を食らい、通信教育や資格の取得に入れ揚げて、出版物を読んで一喜一憂しているのだ。我々の息のかかった首都圏のラブホテルでいいだけセックスして夫婦や恋人達は夜を過ごして子を為すのさ!…痛快な話だろう?
世の中を動かすものはな、金だ。我々とのコネクションは則ち、票や金や知名度と直接コンタクトすることなんだよ!
この国はそれを認めている。我々は必要とされているってことなんだ!」
「日本では政教分離が大原則だ! 政治への介入は許されません!」
「青臭いな、若造。お前らごときに我々を止めることなど出来まい? 我々が悪だと言うなら、なぜ政治家共は金を欲しがるんだ?
…なぜ、芸能事務所や芸能人共は我々とのコネクションやバックアップを欲しがるんだよ? えぇ? 選挙の時には彼らは喜んで協力してくれるぞ。広報係としてな!
…メディアは小うるさい蝿のような一般人共に叩かれようとも、せっせと我々を取り上げず、叩こうともしないで守ってくれるじゃあないかよ! これがなぜか、お前に説明できるのか? えぇ?
なぜ政治家共は我々や信者の票を欲しがるんだよ、説明してみろよ。…えぇ?
世の中はな、しょせんやった者勝ちなんだよ、小僧。綺麗事で何が動くものか。
民主主義なんて、今やいくらでも金で買える時代さ。信者を丸ごと引っ越させて特定の候補を当選させることだって不可能じゃない」
「それも公職選挙法違反だ! どこまで腐ってるんだよ! アンタ達は!」
「ははは! 吠えろ吠えろ! お前ら蛆虫共がいくら集ろうと、個々に散らばった事件の信者達を虱のように捕まえたところで蜥蜴の尻尾切りにしかならんぞ? 信者はいくらでもいる。金に名声に名誉を求めてコネを欲しがり、いくらでも涌いて出てくるさ。ウジャウジャとゴキブリのようにな。
日本中…いや、これからは世界中にまで、それが広がるぞ?
それが証拠に兄貴や義姉さんや憲仁が死んだからといって、我々は傷一つ付いてなどいないぞ。残った家族が引き継ぐだけのこと。殺せるものなら殺してみるがいい。
私はいずれ政党を立ち上げて政治の世界にだって入り込むつもりだ。その為に大学まで作ったんだ。優秀な人材を官僚にし、法曹界を牛耳るために人を送り込むことだって可能になる。もちろん、お前ら警察組織にもな」
「宗教の為に国会や官僚組織に入り込むというのは、筋が違うんじゃありませんか? 宗教の理屈を国に持ち込み、さらにはそれで牛耳ろうとするのは、少なくとも自由主義国家じゃ許されることじゃない! この国をどこまで守銭奴にして腐らせたいんだよ! この国の人間は高い税金を払う為に生かされている奴隷なんかじゃないんだ!」
「ははは、国家権力の野良犬風情がせいぜい高尚な綺麗事に酔って吠えていろ。
…そうだ、お前だけに、いいことを聞かせてやろう。外務省には親父にノーベル平和賞を取らせるためだけに動く、協会の組織だってあるぞ? 法務省にも親父を守るための組織があるぞ? 我々はな、求められているんだよ! この腐った国にな! 裁判沙汰にしたいのならしてみるがいい。検事だって弁護士だって我々には逆らえはせんのだ。
…ほぉ、お前、結婚指輪をしているな?
まずはお前の子供から…あっ! き、貴様ぁ! な、何をする! やめ…」
(何か争うような激しい音と共に音声はここで途切れている)
※※※
【ICレコーダーによる聴取・2】
水道橋施設書庫
丸の内警察署・西園寺班
竹谷美玲の報告より作成
2014/01.19 13:47
「警視庁丸の内警察署強行犯1係の竹谷美玲といいます。この度は…本当にお悔やみ申し上げます。フィアンセの憲仁さんのことは、お辛いでしょうが、どうか捜査の為に…事件解決の為にご協力をお願いします」
「はい…私なら大丈夫です」
「先ずあなたの氏名と年令、所属やご職業をお聞かせください」
「聖創学協会教主、木村太輔の孫。三男の木村政孝の娘で長女の木村美也子と申します。年令は25才。一応は幹部と呼ばれてはいますが、教団施設本部やこちらの施設で司書のようなことをしています。東京駅で死んだ木村憲仁の…婚約者です…でした…」
「………。あまりお時間はとらせません。殺害された河西夫妻の件について、お聞かせ下さい。河西祐介さんは、あなたの伯父にあたる訳ですが、彼が殺された理由について、何か心当たりはありますか?」
「祐介伯父さんは、こう言っては何ですが凄く傲慢な人でした…。死んだ人を悪く言いたくはないんですが、教団を広げることを第一主義と考えていて人を置き去りにしているような感じで…。そうした意味では叔母の影響を凄く受けていたように思います。
教団がここまで大きくなったのは佑介伯父さんや政義伯父さんの功績ですが、信者の広報活動のやり方で世間の皆さんから、とかく批判されがちな部分の大半は、伯母の意見が取り入れられているからだと聞いています」
「祐介氏と麻未さんのお二人には、お子さんはいらっしゃらなかったのですか?」
「過去に二人いたそうですが、二度の出産とも赤ちゃんは死産だったそうです…。ウチの家系は割とそれが多いらしくて…。口さがない世間の噂では、六部殺しの祟りみたいに言われているようですが…」
「六部殺し?」
「ただの悪質な噂ですよ。日本各地に伝わる民話や怪談の一つで、ある農家が旅の六部を殺して金品を奪い、それを元手にして財を成したが、生まれた子供が六部の生まれ変わりでかつての犯行を断罪する、というのが基本的な流れです。ウチの家でだけ起こる訳ではありませんでしょう?
要は富の盛衰に関わるやっかみです。儲けている者がただで儲けられたはずがない。悪いことをして財を成したに違いない。過去の罪業で罰があたったに違いないと言いたいのです。この平成の世の中に、本当に馬鹿げた話です…」
「まったくです…。では、お二人は赤ちゃんの死産を二度も経験している訳ですね。それは何といいますか…それがお二人が形振りかまわなくなった原因だと?」
「はい…。私がそう思いたいだけなのかもしれませんが、伯父さんや伯母さんが決定的に変わってしまったきっかけではあったかもしれません。
教団が大きくなるにつれて、伯父も伯母も人が変わったみたいにビジネスライクになって、それ以外だと自分の趣味にやたらお金をかけるようになったというか…。お金や不動産とか美術品や宝石とか、物にやたら執着するようになりました…。
教団がここまで大きくなれたのは、もちろんお父さんや政義伯父さんや政樹叔父さんも含めて家族全員の力でもありますが、祐介伯父さんや麻未伯母さんの実務的な力の影響のおかげで信者の方々が増えたのですから私も悪くは言えないし、言える立場にもありません」
「なるほど…。祐介さんの奥様の麻未さんについてはいかがですか?」
「アイドルグループの追っかけと宝石とお金に何よりも生き甲斐を感じているようでした。近頃ではお酒の量が増える一方で、よく一階の私の部屋にまで氷はないかと凄い勢いで駆け込んでくることがありました。毎回の話なんで慣れていましたが。年に三回くらいは教団をあげての、ああした勤行がありますから」
「美也子さんは二人がどうして殺されたか、何か心当たりはありますか?」
「多くの人から相当な恨みは買っていたと思います…。強引なやり方で信者を獲得しようと他宗の信者や信徒さんに人を使って強引な改宗を迫ったり、ノイローゼになるまで追い込んで自殺させてしまうような騒ぎも一件や二件ではありませんでしたから…。
財務といって信者の方々がご喜捨するお金をかなり強引なやり方で巻き上げたりとか…。二年前に起こった殺人死体遺棄事件で逮捕され、起訴された信者の人を実際に指示していたのが、祐介伯父さんと麻未伯母さんだという噂まであったほどです…」
「そうですか…。話しづらいことを色々と話してくださって申し訳ありません。
これは皆さんにお伺いしているんですが、美也子さんも2日の日に西荻窪の本部施設に他の幹部の方々と一緒に入られたのですか?」
「いえ、他の幹部と一緒に最初は政樹叔父さんの持ってる運転手付きのロールスロイスで送ってもらえる予定でしたが、憲仁さんに着替えを届けにいく用事があったんで、茅場町の施設に寄ってから、夕方に他の多くの信者の方々と一緒に入りました。
電車とタクシーを使ったのなんて久し振りだったんで新鮮でした。憲仁さんが読みたい本があるから届けてくれと、係のお婆さんに朝に言いつけてあったようなんです。電話が来たのが昼頃でしたから、本部に入ったのは2日の日の夕方6時頃だったと思います」
「そうですか…。あなたには大変聞きづらいことですが、ここはやはり単刀直入にお聞きします。警備室の入室記録から河西夫妻がA棟のそれぞれの自室で殺されたのは、どうやら深夜の23時17分という時間にそれぞれの自室で、カードキーによって入室した何者かによって、ほぼ同時に襲撃されたようなのです。事件の起こった1月3日の深夜から4日にかけて、この教団本部施設で、美也子さんはどこで何をしていましたか?」
「ずっとA棟の一階の部屋にいました…。部屋からは一歩も出ていません。三斉勤行は基本的には世間一般の年始のお祝いムードとは無縁の世界なのです。信者の皆さんと共に、衆生救済を願って心安らかに静かに過ごすのが決まりです。真言を唱え、斎戒沐浴して精進潔斎していました」
「要するにお風呂に入って身を清めて静かにしていた、と?」
「有り体に言えば、その通りです」
「わかりました…。確認させて頂きます。
…ところで、先ほどから気になっていたんですが、ここって凄いお部屋ですね。あちらの壁一面に掛けられてあるのは曼陀羅ですか? 二組あるようですが?」
「金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅といいます。二つで両部界曼荼羅とか両界曼荼羅と呼ばれます。聖域や仏の悟りの境地、世界観などを仏像やシンボルや文字、神々などを用いて視覚的・象徴的に表したものです」
「申し訳ありません。真言密教どころか仏教自体に疎いものでして。有名なもので見たこともあるのですが、正直、圧倒されます…。後学の為に教えて頂きたいんですが、何か違いがあるのでしょうか?」
「左が金剛界曼荼羅。金剛とはダイヤモンドを意味し、大日如来の智慧が堅固な悟りで、何ものにも傷ついたり揺らぐことがないということを表わしています。
金剛界曼荼羅は、大日如来の知徳の世界を表現したもので、全体が九つに区切られた複合型の曼荼羅です。
九つの会から成るので九会曼荼羅とも呼ばれます。9世紀に天台宗の円仁が、中国から持ち帰った曼荼羅と言われています」
「金剛界ですか。とても男性的な印象を受けますね。
…では、右が女性でしょうか? 胎内の胎という字からきた連想なのですけど」
「…ふふ、そうです。そのような理解の仕方で私はいいと思いますよ。何をどう感じて、どう思うのかは見た人次第ですし、そこにどんな真理を見出だすのかも、その人次第だと思いますから。それは文字や言葉にできないもので人の心の奥底に芽生えるものです。
不立文字に教外別伝といって、それが信じるということだと思いますから。
不立文字とは言葉にできないもの。教外別伝とは教典や書籍では学べないこと。どちらも禅宗の教義を表す言葉で、文字や言葉による教義の伝達のほかに、体験によって伝えられるものこそ真髄であるとするものです。だから、そこに意味を見出だして救われる人も赦される人もいるでしょう。右の胎蔵界曼荼羅は正しくは大悲胎蔵生曼荼羅といって、母親の子宮の中で眠り、育まれていく子供のように、人間が本来もっている仏性の種子が仏の慈悲によって目覚め、育ち、花を開き、最後には悟りという形で実を結ぶまでが描かれているといいます。
確かに象徴的な男女の合一を説いているという説もあるようです。男と女、どちらが欠けていても世の中は成り立ちませんから…」
「すみません…。刑事なんて粗野な仕事をやっているせいか、色々と気を回せない女でして。思い出させてしまいますよね?」
「いえ、女性なのに刑事だなんて、立派だと思います。カッコイイじゃないですか。私と憲仁さんのことなら気にしないで下さい。
…美玲さんと仰いましたよね? あなたは誰かと付き合ってたりしますか? 年も近いようですし、あなたとは気兼ねせずに話したいんです」
「あいにくと片想いです。粗野でぶっきらぼうで口が悪くて皮肉の効いた台詞ばかり言う人なんですが、凄く面倒見がよくて優しい人で、いると本当にホッとする男性です」
「ズバリ年上で、直属の上司でしょ?」
「…! ど、 どうして解ったの!?」
「私と一緒だからです。あなたとは何か近しいものを感じたというか、私と似ているなって思ったものだから。短所の部分をあなたはよく知っていて、それでも好意的に受け取っているっていうのが伝わるもの。あと面倒見がいいなんて言葉は年下や同年代にはあまり使わない気がしたんです。きっと憲仁さんのような人かもしれないなって思って…」
「憲仁さんはどんな人だったんですか?」
「凄く優しい人だった。動物や植物が大好きで茅場町の施設の植え込みで、猫や犬と遊んだり土いじりをしたり。ここの隣にある託児所のお手伝いにもよく来てくれて。ここと茅場町の施設って修行場なんですけど、普段は働いてる忙しい信者さんが子供達やペットを預けにきたり、信者の方々が禅や教典を学んだりする場所なんです。
憲仁さんは医務室の係で本を読むのが大好きな人だったけど、それ以外だと子供達と遊んだり一緒にご飯を食べてる時が一番楽しそうでした。子供達と一緒に泥だらけになって帰ってくるし、食事の支度なんかもよく手伝っていたから、係でも役目でもないのに、茅場町の施設では洗濯場とお風呂場とお台所でいつも何かしてる常連でしたよ。よく失敗したりもしていましたけど。
子供を笑わせるのに天才的な技術でも持ってるんじゃないかってくらい、泣いてる子も憲仁さんにかかると、あっという間に笑ってしまうんです。親御さん達から自然に任されてたようなとこがありました。
“生きて何かするのが作務であり修行だ。これが修証一等の極意だッ”と言って。“修行だけで人が救えるかッ。僕は人でも金魚でも救えるものは何でも救うぞッ”って。とにかく語尾を強調する、勢いのある人でした」
「何というか…万能型というか破天荒というかチャレンジ精神旺盛というか…。宗教施設では、あまりいないような色々とエネルギッシュな方だったようですね」
「ふふ、可笑しな人でしょう? 汚れて着るものがなくなったんだとパンツ一丁で施設内をよく、うろつくものだから、その度に皆から笑われてました。憲仁さんがやることだからと皆は許してましたけど。私も教祖の孫娘だし、会う度に注意してたんですが、何度も咎めてるうちに、私も何だか皆につられて可笑しくなってきちゃって…。
とにかく人と接するのが楽しくて仕方がないって人でした。信者さんやご近所の方々や関係ない人まで名前をすぐに覚える人で、困ってる人を見ると放っておかない性格というか、お年寄りから子供まで憲仁さんとか憲仁おじさんとか憲仁お兄ちゃんとか慕われていました。下の名前できちんと呼ばれてたのは、きっとあの人だけだったんじゃないかしら…」
「凄いですね。私達も関係者の皆さんによくお話は伺いますが、記号のようにメモを見ながら、きちんと確かめてお名前を呼んでる感覚です。凄く頭のいい方だったのですね?」
「ええ、それもありますが性分だったのでしょう。来て一年くらいの人なんですけど本人が“僕は新参者だからなッ”って初対面の人でも名前をちゃんと覚えてて次に会ったら、すぐに昨日会ったみたいに相手の名前を呼んでたから、相手の方でも憲仁さんには気を許しちゃって、何でも相談できるような雰囲気が自然にできていたんです。
お爺ちゃんも、憲仁さんのそうしたところを買ってくれていて、儂の跡を継げるのはお前しかおらん、お前には神通力があるとよく言っていましたから」
「神通力…ですか? それはまた何というか…やや怪しい印象を受けますが」
「お爺ちゃんなりの褒め方ですよ。お爺ちゃんは滅多に人のことを褒めません」
「なるほど。信者からは信頼されていた方だったのですね。教主の太輔さんには人の心を掴む彼の存在が魔法のように感じたということなのでしょうか。本当に面倒見のよい人だったのですね」
「とにかく何にでも首を突っ込みたがる人でした。私も訊いたことがあるんです。何でそこまでして他人のことを自分のことのように思えるんだって? 本人は“好きでやっているんだよッ”っていうのが口癖でした。本当によく笑う人でしたから、出入りする業者さんともすぐに仲良くなっちゃって。お肉屋さんとか魚屋さんとか八百屋さんとか、近所付き合いを凄く大事にしていました。憲仁さんに会いにくる近所のお爺ちゃんやお婆ちゃんもいたくらいで孫みたいに思われてたのも、あの人くらいだったかもしれません」
「なるほど、それ以外だと何が?」
「とにかく真面目に修行していました。本を読んだりお経を詠んだりしている以外だと、そこにある仏像の前で座禅したり、壁を背にしてひたすら真言を唱えたり、かと思えば壁を前にして考え事をしていたり。この部屋で一番よく見掛ける人でしたから」
「この仏像にですか…? 凄い顔をした仏様ですね。立派な光背に座っているのは蓮華の花ですか? 頭が二つで手が一、二…八本もある!?
…二面八臂の仏像なんですね。二面というか二頭ですが」
「ふふ、凄いでしょう? 両頭愛染明王といいます。この仏像はレプリカですけどね。手の数は四本だったり六本だったり八本だったりするんですが、異形といってもいいお姿です。
インドにもアルダー・ナリシュヴァラといって男らしさと女らしさを兼ね備えた男女両性の神で、シヴァ神の右半身とその妻パールヴァティーの左半身の合体した姿の、ヒンドゥー教のシャクティ信仰の象徴とされる神様がいますが、それと比定して語られることもあるようです。
あの曼荼羅に描かれている金剛界が智慧で胎蔵界が慈悲ですよね? 先ほど美玲さんは男性と女性にたとえましたけど、それは卓見かもしれませんよ」
「なぜですか? あまり深く考えずに発言したんで申し訳ないんですが」
「なら美玲さんの直感が優れているということですね。
金剛界が理論または父親。胎蔵界が愛情または母親ととれるからです。金剛界を代表する明王が不動明王で、そして胎蔵界を代表する明王が愛染明王なのです。
不動明王が理や智慧や衆生救済の為の怒りと闘争や天魔降伏を司る父親であり、愛染明王が慈悲や愛情を司る母親であり、不動明王とは逆に庇護や守るものとして調和しているのです。その二体が同時にあると考えれば、智慧と慈悲、理と情と相反する矛盾として存在するのでなく、その両者が合体した完璧な状態で、その完璧な姿を現したのが、この両頭愛染なのです。智慧と慈悲、理論と愛情、怒りと慈しみ。父と母の統合型です」
「男女の完全な合一ということですね。どうりで圧倒されると思いました。今の時代に最も必要な仏様なのかもしれませんね」
「立川流のシンボルでもあります」
「たちかわりゅう? 始めて聞く名前です。真言宗の流派の一つなのですか?」
「平安末期の高僧である仁寛が流祖とされ、南北朝期に文観によって大成されたと伝えられ、およそ600年以上前にとっくに絶えたと言われている流派です。宥快らによって邪教とされ、立川流の典籍は全て焼き捨てられたそうです」
「経典を焼き捨てられた? それって仏教じゃよほどのことじゃありませんか? 何か理由があったのでしょうか?」
「ええ。立川流は男女の交合…その、言いにくいんですけど…要はセックスによって男女陰陽の道を示し、即身成仏の秘術として男女交合により悟りに至ることを認めている内容だというのです」
「オーガズムで悟りに至るという訳ですか…。確かに凄い内容ですね。仏教とは思えない」
「そうです。これが仏教にあるまじき淫らで明け透けな内容だというので宥快の『宝鏡鈔』という書で批判されたのです。立川流は伝存する資料が少なく、実態は不明と言われています。人間の頭蓋骨を本尊にするとか、何かと淫祠邪教の烙印を押される教義ではあったそうなんですが…」
「セックスにドクロですか…。壮絶ですね。確かに仏教とは余りにかけ離れた世界観というか…それも教義のうちなんですか?」
「もちろん大袈裟な嘘に決まっています。実際は逆で敵対者を“邪教”の開祖にまつり上げて歴史から葬り去るために、真言立川流が創造されたと見るのが一般的です。あるいは僧侶の権力争いや、政治的駆け引きが流派が絶えた大きな理由だったとされています。
あとは、怪談と同じです。できるだけ怖く不気味に、いかにおどろおどろしくエロチックに真言立川流を仕立てるかに後世の僧侶達は躍起になったのです。
密教は元来そうした部分がある宗教でもあるのです。密教はインド仏教やチベット仏教を介して伝わりましたが、インドのタントラの流れを組んでいた可能性すらあるのです。それを淫らだ邪だと異常なものと考えてしまう日本人のほうに、実は限界があるのだと思うんです。
インド仏教やチベット仏教では密教が発展し、多くの研究が今でもチベットなどで行なわれています。そうした意味では、あらゆる物事に開放的で開けっ広げな性格のインド人やチベット人の方が高い密教のセンスがある民族だと言えるかもしれません。潔癖性な日本人には、灼熱のインドで広まった純正密教の、実際は想像もつかないくらいのダイナミズムを理解し得ないだけのように思うのです」
「この国では本来の意味が失われている…と?」
「はい…。私は絶えてしまった真言立川流は今こそ本場の密教を取り入れて、新しくなって現代に復興すべき教義だと考えているのです。少子化や高齢化を支える助けになるものだし、男女の在り方の教義や教え自体が尊いものとして日本の仏教界が認めれば、それは何よりも衆生救済になる」
「なるほど、かけ離れた男女が完全な形で手を取り合い、結ばれてあらゆる困難をはねのける必要があると考えてるんですね」
「そうです。憲仁さんが思い入れのある、この両頭愛染のところにいれば、いつか彼が帰ってくるんじゃな…うっ…!」
「美也子さん!? ど、どうしたの!? いきなり口を抑えたりして? 気持ち悪いの? 具合が悪いの!? 大変だわ、すぐに誰かを…」
「だ、大丈…夫…だから…うぅっ…!」
「美也子さん…。あなた、まさか…」
(誰かが慌てて走っていく足音と共に音声はここで途切れている)
※※※
【ICレコーダーによる聴取・3】
茅場町施設食堂
丸の内警察署・西園寺班
梅田隆史の報告より作成
2014/01.19 14:09
「警視庁丸の内警察署強行1係の梅田隆史といいます。本日はどうも、御協力よろしくお願いします。教主の四男で、木村政樹さん。年令は47才でいらっしゃいますか?」
「うん、そうだよ。
…ああ、見慣れないスーツ姿の人を随分と見掛けるから誰かと思ったら、アンタも刑事さんだったのかぁ…。失礼だけど随分と小さい刑事さんだねぇ。悪いけど僕、見ての通り食事中なんだけどな。
…アンタも食べるかい? ここのデミグラスハンバーグとラグーソースのパスタが超上手くてね。ソーセージ入りのマッシュポテトも鳥の唐揚げもミルクセーキもイケるよ。昼飯は食ったかい? 一緒にどうかな?」
「ああ、いえ…僕のことならお構い無く。どうぞ、食べながらでかまいませんので。お話、聞かしてもらってもいいでしょうか?」
「うん、いいよ。なぁに?」
「殺害された河西夫妻の件について聞かせて下さい。河西祐介さんは、あなたの一番上のお兄さんにあたる訳ですが、彼が殺された理由に何か心当たりはありますか?」
「まぁ祐介兄は人からは恨まれてたね。やっぱり長男だしさ。親父の作ったこの教団をデカくする為に形振り構ってないって感じでさ。
不動産の売買とか美術品を捌いたりとか、かと思えば企業の相談役だったりビルテナントのオーナーだったりマンション経営だったりと、かなり手広くやってたからね。やり方もかなり強引でさ。もうちょっとスマートに普通にやってりゃいいのに、敵を作ることばかりしてたんだよねぇ」
「本職の暴力団からも狙われていたとか?」
「そう。あの指定暴力団の山城組傘下の銀政会の加藤組ってとこ。加藤忠雄ってヤバい組長とその手下のヤーさんに色々とやらせてたみたい。どんな内容かは弟ではあるんだけど全然知らなくてさ。内容までは解んないんだけど相当恨まれてるって話があるの。
経営してるマンションに火炎瓶を投げつけられたことがあってね、火炎瓶だよ火炎ビン。普通じゃないよね。ちょうど、そのマンションに祐介兄が視察に来てた矢先に起こった出来事らしくてさ。どうも暴力団から報復を受けてたのは間違いないみたい。祐介兄は外出の時にSPみたいな護衛までつけるようになったから。女遊びに行くのも命懸けとか笑えないよね」
「なるほど…。奥さんの麻未さんはどうですか?」
「麻未義姉さんは兄さんとはまた違う強引さがあったなぁ。祐介兄と同じように恨んでる人は相当に多かったと思うよ。夫婦揃ってヤバい橋渡ってるって感じでさ。義姉さんは主に一般の信者達からの評判が、物凄くよくなかったんだよねぇ。
そりゃそうだよ。女性部を軍隊の特殊部隊みたいに使って信者の獲得に躍起になってた訳だからさ。入信に渋る一般の人に、女性部の何人かの女の人に交代で夜中に迷惑電話を何回も鳴らさせてさ、相手が根負けして入信するまで続けさせたり、若い綺麗な女性信者を使って結婚詐欺とかネズミ講みたいなことまで平気でしたりさ。高い壺とか数珠とか仏像を買わせたりとかも、主に義姉さんの発案だったしね。ノイローゼで自殺した人や会社をクビにされた人もいたらしいしね。
刑事さんなら知ってるかもしれないけど、ウチら聖創学協会ってさ、ネット辺りだと糞味噌に貶されてるのね。集団ストーカーとか狂信者集団とかさ。梅田さんも聞いたことくらいはあるっしょ?」
「はぁ…まぁ答えにくいんですが、聞いたことはあります。政樹さんだから話しますが、いい噂はあまり聞きませんね。あそこはヤバいから、職場とかでも滅多に話題にするなって。どこに信者が紛れていて、いつ密告されて嫌がらせされるか解らないからって。自分がその施設の支部に来といて言うのも何ですけど」
「あはは、刑事さんも見かけによらず度胸あるねぇ。それに正直だ。…いいね、アンタ。超クール。嫌いじゃないよ、そういうの。僕も一応幹部なんだけど、本人を前にして言う? 普通」
「本当にスイマセン。なんか勝手なんですけど、政樹さんなら別にぶっちゃけてもいいような気がしたもんで。刑事の勘というより僕自身の直感というか、政樹さん自身はそんなに悪い人に見えないっていうか、毒気を抜かれるタイプっていうか。刑事がいい人だの悪い人だのって尺度でモノ考えちゃいけないし、言ってもいけないんスけど…」
「うん。梅田さんの印象も大体、僕と同じだねぇ。のんびり焦らないのが一番だよね。殺されるのはさすがに嫌だから僕も警戒くらいはするけどね。
…まぁ、でもウチがストーカー紛いのことしてるのは本当のことだからね。僕は飲食店とかラブホテルとか当たり障りのない商売してるからさ。金にも困ってないし、好きなことしかやってないし。別に嫁さんや子供なんて後々骨肉の争いみたいな禍根が生まれるような面倒臭いのもいらないしね。次期教祖とか興味ないし。末っ子だからかなぁ」
「なるほど…。そういえばこれを聞いてこいってウチのボスが言ってたんで聞くんですが、犯人は二人を殺害して、あそこのB区画っていう工事の作業現場に運んだらしいんですが、祐介さんの身長と体重って政樹さんは知ってます?」
「祐介兄はけっこうデカいよ。174cmで体重は89Kgはあったから。筋肉質でもうムッキムキ。僕はボヨンボヨンしてるけどね」
「まぁ、政樹さんはデカいですね。ここだけ知らない人が見たら僕がやたら小さく見えるでしょうね。奥さんの麻未さんはどうだったんですかね?」
「麻未義姉さんは160くらいで体重は70Kgくらいだったんじゃないかな。よッく酒を飲む人でね、ビールに焼酎にウィスキーにチューハイと、もう酒豪ってレベルじゃ利かないほどの大酒呑みでさ。僕ほどの肥満体じゃなかったけど、ぽっちゃりはしてたね。
…だからさ、この事件の犯人って多分だけど一人じゃないと思うんだよ。あの二人を殺してバラバラにするなんて普通じゃないもの。デカいの二人だよ? ぶった切ってパーツにして送るとか、考えもつかないよね? 梅田さんは凄く軽そうだけどねぇ」
「はぁ…確かに僕は軽いです。刑事の癖に弱いですし。祐介さんは筋肉質だったようですが、スポーツジムか何かに通ってたんですか?」
「うん、あの有名な芸能人とかがCMとかでやってるじゃん? 変なBGMでブヨブヨの人がいきなりテッカテカのムッキムキに日焼けしてパーッと変身して、いかにも私はこれで変わりました~ってヤツ。ちゃんとしたコースは高いらしいけど。アレに通ってたよ。
まぁ暴漢対策だよ。ヤクザに狙われてるとなりゃ、鍛えたくもなるんじゃない? ここにもジムはあるのにねぇ。格闘技なんかも習ってたみたいだしさ。その祐介兄を平気で殺っちゃってるんだからさ、この犯人って凄いと思うんだよ。
少なくとも祐介兄を殺った方は相当な力持ちだと思うよ。不意をついたにしても手際が鮮やか過ぎ。あっという間だったんじゃない? 義姉さんは毒殺されてるから、死体を運び出すだけでよかったろうしね。これは手口がなんか女っぽいっていうかさ、誰でも出来そうじゃん?」
「政樹さんは佑介さんとは同じ2階ですが、争う物音とかは聞いてないんですか?」
「ないない。聞こえる訳ないもん。僕らが毎回泊まるA棟ってさ、梅田さんも見てきたと思うんだけど、部屋の中が完全な防音ってだけじゃなくて、廊下に有線放送のBGMまで流れてんのね。ホテルのロビーみたいにさ。犯人は台車を転がして死体を運んだって話だけど、部屋の中にいたら、まず聞こえないよ。床のレッドカーペットまで柔らかい素材使ってるから、物音なんて静かなもんなんじゃない?
エレベーターで家族同士が、“ち~っス”って、お互いが会うなんてことくらいは、それなりにあったけどさ。普段から業者とかもコンビニのあるB棟にはよく来てはいたけど、あそこのA棟は静かなもんだよ。家族同士でも勤行以外じゃ顔を合わせないもの。犯人はその辺、知ってて西荻窪のあそこを選んだんだと思うよ」
「そういえば、これも聞いてこいって言われてたんでした。1月3日の夜に二人を殺害する際に、犯行には二枚のセキュリティーカードが使われたようなんですが、ひょっとして幹部の中で今、セキュリティーカードを持ってらっしゃらない人っていますか?」
「これのこと? 麻未義姉さんは確か持ってなかったと思うよ。紛失したらすぐに届けなきゃいけないんだけど面倒くさいからそのままにしてるってさ。あそこの本部ってウチら幹部は泊まり込みで大体、年に三回は使うんだけど、自分が設定したテンキーの番号さえ覚えときゃ別に困らないからね。あれ…? ひょっとしてカードが犯人に盗まれた可能性がある訳?」
「スミマセン。それは捜査上の秘密で、いくら政樹さんの質問でも、申し訳ないんですが答えられません。申し訳ないついでに、形式的なことをお尋ねするんですが…」
「アリバイかい? 別に気を悪くなんてしないけどな。第一さ、殺ってないなら普通に答えればいいじゃん」
「まぁ、それはそうです。なにぶん人を疑う刑事なんかやってると色々と気を使うもんでして。じゃあ質問さしてもらいます。
警備室の入室記録から河西夫妻がA棟の自室で殺されたのは、1月3日の深夜23時17分にそれぞれの自室で、恐らくは盗まれた二枚のカードキー…あ、言っちゃった。…まぁいいか。盗まれたカードで入室した何者かによって、ほぼ同時にそれぞれ襲われたようです。政樹さんはその時は何をしていましたか?」
「ああ、二人が殺られた日って訳か…。朝に遅いから政孝兄に起こしにいけって言われて行ったんだけど、いなかったもんな。そりゃそうか。殺されてバラバラにされてたんだものね。
三斉勤行って退屈だからさ、二日目は部屋でずっとヘッドフォンしながらゲームしてたよ。PS4でFPSの最新作の日本語版。
…って言っても刑事さんには分かんないかな。要は銃で撃ち合うゲームだよ。相当メジャーなゲームで毎年新作を出すんだ。オンライン対戦モードが面白くてさ」
「ひょっとしてCodゴーストですか? 僕、アレ得意なんです。最近プラチナトロフィー獲りました」
「マジで! そりゃ凄いなぁ! 梅田さんさ、これ食い終わったら一緒にゲームしようよ。梅田さんも悪いんだけど食べるの手伝ってよ。別ゲーの俺のクランに入らない? 最強のオレ達になろう! 」
「そうですか。それじゃ遠慮なく…」
(ムシャムシャと何かを食べる盛大な物音と共に音声はここで途切れている)
※※※
【ICレコーダーによる聴取・4】
西荻窪B区画作業現場にて
丸の内警察署・西園寺班
班長・西園寺和也が作成
2014/01.19 12:16
「クソッ…ここもか。何でないんだ…」
「…ひょっとしてセキュリティーカードをお探しなんじゃないですか? 木村政孝さん。年令は52才で聖創学協会教主の木村太輔氏の三男。同じく幹部の美也子さんのお父さんでもある」
「だ、誰だね、君は?」
「警視庁丸の内警察署捜査一課一係の西園寺和也といいます。午前中はウチの若いのが、お兄さんの政義さんに大変なご無礼を働いたそうで、ご迷惑をお掛けしました。よッく言い聞かせておきますんで、ご容赦下さい。
…迷惑ついでに政孝さん、あなたからもお話を伺わせてもらってもいいっスか?」
「あいにく静かで神聖な教団施設の、それもその本部施設を掻き乱すような無礼な警察になど、何も話すことはないな。これから部屋で…」
「いやいや、政孝さん。そいつは苦しいなぁ。
…部屋でこれを探す予定、でしたか? ある訳ありませんよ。あなたを泳がせておいて大正解でした。
騒ぎが起これば警察が引き上げるからバラバラ死体の現場を探せるとでも? それとも昼飯時で怠惰な警察なら、どうせ休憩するとでも?
…ざ~んね~ん! 俺は無茶した直属の部下を逆に誉めてやりましたがね。よくやったと。おかげでこちらから落とした相手を探す手間が省けました」
「そ、それは私のセキュリティーカードじゃないか! か、返せ! 返すんだ。さもないと…」
「おっと! そうはいきませんね。申し遅れました。私、西園寺和也は一応一課では班長をしております。階級は警部補で、今日はこの現場で指揮もしております。…この意味が、お分かりですね?」
「………」
「そんなに身構えないで下さい。こっちもこのカードの件について政孝さん、あなたからはじっくりとお話を訊かなくちゃならない」
「何が訊きたいんだね?」
「だ~か~ら、そんなに眉間に皺を寄せて身構えなくても取っ捕まえたりしませんって。やましいことがないなら協力してくれりゃそれで済むのに、頭でごちゃごちゃ考えるからややこしくなる。まぁ気持ちは解りますよ。
…TVドラマや推理小説によッく出てくるんスよ、この関係者のアリバイってヤツ。お前ら刑事かよってくらい数字と証言とをにらめっこさせて、最後には崩して探偵役や刑事や視てる視聴者までドヤ顔ってヤツ。後から読者や視聴者がビービー喚いて俺は解ってたとか言い出す奴。作り手に石を投げるようなこと言う奴。
…まぁ色々です。禿げたいなら勝手にしろって言いたいんスが、こちとら仕事でやってるもんでね。不在証明ってな、実際は厄介なもんなんス。そうした余計な思い込みを世間様に与えちまってる訳ですからね」
「何が訊きたいんだと聞いているんだが? 班長の割には若いな。それに随分と饒舌だな、君は」
「性分でして。協力してもらう為にも、こちらも手札を晒しましょう。相手が嘘つきでもいいから関係者とは信頼関係が大事で、相手との駆け引きも楽しめってのが俺の持論でしてね」
「ほお、面白い。聞こうじゃないか」
「この西荻窪の教団施設を訪れた犯人は1月3日の深夜23:17分に二枚のカードで部屋に入室して河西祐介さんと河西麻未さんの二人を殺害しています。ここで肝心なのは、誰がやったのかってのは一旦置いといて、そのカードが“いつ盗まれたのか?”ってことです。
こちらの調べで河西麻未さんの方は、去年の年末の12月15日に、この西荻窪の教団施設で紛失していたことが判りました。入退室システムってな便利なもんですね。いつ、どうやって入室したのかが記録を見れば一目で判る。河西麻未さんは15日以降はテンキー入力でしか自室に入室していないんです」
「テンキー入力すら義姉さんはよく間違えていたがね。あまりに頻繁に警備室で警報音が鳴るもので警備員が一度A棟に来たことがある。麻未義姉さんはシステム側に文句をつけていたがね。アタシの部屋の警報音は気にするな。無視していいから二度と来なくていいと突っぱねていたな。酒を飲んでいるところを邪魔されるのが、とことん嫌いだった。それで殺されたんだから目もあてられないがね。でも、まぁ気持ちは解らんでもないがな。システムとしちゃザルもいいとこだ」
「そうなんス。システム側で設定できる癖にプライバシー保護の為に退室時間までは記録されないってのが、こちらとしても本当に気に入らないんスよ。
だったら“入退室システムなんて書くなよ、誤解与えるだろうが”とか、気の短い奴なら突っ込むかも知れませんが正式名称がこうなんだし、退室システムを顧客が必要としてないんだから仕方ありませんよね。
…まぁ、ンなことはどうでもいいか。
…そこで政孝さん、あなたにお聞きしたい。あなたがカードを紛失したのは、いつのことですか?」
「なるほど、刑事さんもなかなかの策士だ。判っていて聞いているようだから、私も話そう。私がカードを紛失したのは1月の3日…犯行のあった日だ」
「…ありがとうございます。どの段階で紛失したことに気付きましたか?」
「昼の休憩の時だ。前日の夕方に大同集会に政樹のロールスロイスに乗っていた時には確かにあったんだ。首に巻くカードの赤いストラップの紐がかさばらないように、カード自体にグルグル巻きにしておいたからよく覚えている。その日は自分の部屋にそのカードで入ったのだからな。
三斉勤行で使うのは袈裟と法具くらいだが、身の回りのものは愛用しているものを使いたいってのが性分でね、忘れ物がないか車の中でチェックしていた。事件当日と思われる3日の日は朝に部屋を出る時は勤行に邪魔になるから部屋の中にカードを置いておいた」
「中で間違いありませんね?」
「間違いない。美也子や憲仁君からもよく言われていたが、私は割と神経質なんだ。役に立ったかな?」
「大変にね。犯人の行動を証明する情報になるかもしれませんからね。因みに政孝さんは誰かにテンキーのナンバーを教えたりはしていませんか?」
「それはないよ。娘にだって教えたりはしていない。自分の部屋には家族だって本当は入って来てほしくないくらいだよ。犯人が私の部屋にカードを盗みに入った…あるいは、この私が犯人である。西園寺さんといったか、君はそう考えているのじゃないかな? 」
「そいつは調査を進めてみないことには何とも言えませんな。政孝さん自身はこのヤマ…失礼、この事件は誰がやったと考えていますか?」
「どういう意味かね? 幹部である家族の誰かが憲仁君や祐介兄さんや麻未義姉さんを殺したと?」
「そうは言ってませんよ。言ってませんが、政孝さんは引っ掛かりましたね。俺は“誰がやったのか”としか聞いていませんよ? 近所の田中さんかもしれないし肉屋の高木さんかもしれませんよ?」
「誘導尋問はやめてくれんかね。連想したことが言葉に出ても、それがイコール考えていることじゃない」
「だが、少なくともあなたはそれを疑ってはいたはずだ。あなたの反応とカードを今頃になってここに探しに来たことで、それがはっきりした」
「ほぉ。なぜ、そう思う?」
「部屋の中でカードキーが盗まれている以上、犯人はそれを盗む為には部屋に入らなきゃならない。あなたは部屋を開けるテンキーの4ケタのナンバーは娘の美也子さんにすら教えていないという。犯人が家族の中にいないのだとしたら、犯人は麻未さんから盗んだカードキーを使ってあなたの部屋に入り、あなたのカードを盗まなきゃ辻褄が合わない。
記録によれば犯人がカードを盗みにあなたの部屋に入った時間は、あなたが部屋を出た直後なんです。時間は3日の8:17分。神経質なあなたは部屋に忘れ物を取りに戻ったりしていませんね?」
「やれやれ…。まるで刑事コロンボだな。相手がどう出るかまで含めて調査という訳か。嫌な商売だな」
「俺もそう思いますよ。人間性を失う為にやってるような商売が刑事です。
A棟に防犯カメラがないのが悔やまれますよ。セキュリティーホールはどこにでもある。今後は自分達のプライバシーより身の安全に配慮することですね。世間は思った以上にあなた方には冷たいようだ」
「そうするとしよう。誘導尋問されたついでだからという訳じゃないが、私からも質問させてはもらえないかな?」
「何でしょう。お答えできることでしたら何なりと」
「犯人が私のカードキーを奪った理由だ。西園寺さんはどう考えているのかな?」
「その質問には“二人を計画的に殺害する為に盗んだ”としか答えられません。あなたが誰か、特定の人を疑っていることを答えられないのと同様にね」
「なるほど、若いのにキャリアだけある。それなりに場数は踏んでいるという訳か」
「あなたも麻未さんも、必要以上に人を疑ったり他人からの自分の評価ってヤツを気にし過ぎるのはよくありませんな。
あなた達がセキュリティーカードを紛失したと真っ先に教主の太輔さんなり警備員なりに伝えていれば、少なくとも手は打てたはずだ。カード自体を失効させてしまえばセキュリティーカードで全員が入室できないデメリットは生じたでしょうが、少なくとも殺しは防げたかもしれないんだ。結果論だし一番悪いのは人殺しの犯人の方なんだから、別に責めるつもりはありませんがね」
「今後は気をつけることにしよう。カードは回収してもかまわないのかね?」
「かまいませんよ。指紋その他の調査は既に終わっています。…最後に一つだけ、いいでしょうか?」
「何かな? コロンボ君」
「事件当日の1月3日の23時17分に、あなたはどこで何をしていましたか?」
「部屋にいたよ。コンビニに飲み物を買いに一度出たが10時半頃には部屋に入った。入室記録を調べてみるといい」
「そうですか。色々とご協力、ありがとうございました」
(コンクリートを歩いていく一つの乾いた足音と共に音声はここで途切れている)
※※※
聖創学協会幹部の入室記録一覧
【1/3~1/4】18:00~06:00
ステータス
【SC=セキュリティーカード】
【 TK=テンキー】
氏名(年令)/ 居住区
検出時刻 / ステータス
木村 太輔(86)/A棟3F・AB区
2014.01.03 18:12 /MSC
2014.01.03 20:37 /MSC
2014.01.03 23:57 /MSC
河西 祐介(59)/A棟2F・B区
2014.01.03 18:48 /SC
2014.01.03 23:17 /SC
河西 麻未(57)/A棟4F・A区
2014.01.03 18:29 /TK
2014.01.03 19:07 /TK
2014.01.03 21:08 /TK
2014.01.03 23:17 /SC
2014.01.03 23:26 /TK
真鍋 政義(56)/A棟4F・B区
2014.01.03 18:48 /SC
2014.01.03 19:17 /SC
2014.01.03 19:34 /SC
2014.01.03 23:25 /SC
木村 政孝(52)/A棟1F・B区
2014.01.03 18:48 /TK
2014.01.03 22:32 /TK
木村 政樹(47)/ A棟2F・A区
2014.01.03 19:24 /SC
木村美也子(25)/A棟1F・A区
2014.01.03 18:07 /SC
※※※
5
私が一通り関係者達の証言やアリバイに関する資料を眺めながら唸っていると、西園寺はちょうど上品なバーテンダーに私達が最初に注文したバッファロートレースとメーカーズマークをロックで注文してくれている最中だった。
“締めの一杯は始めの一杯に返ってくるといい。祝い酒の心地よい陶酔は、回り続ける車輪のように我らの運命を走らせる”。
西園寺と私が好きなハードボイルド小説の一節だった。要するにこの一杯で最後だぞ、という私達共通の合図のようなものだった。だが、今夜の酔いはなかなかに心地よいとは言えなかった。車輪に絡まった蔦のように、謎が私を唸らせ、轍に溜まった泥土のように空回りし足止めしている。
唸る私をよそに、西園寺は届いたロックグラスのスクエア型の模様を眺め、透明な満月のように丸い氷と薫り高い琥珀色の液体をグラスの中でカラリと弄びながら私に言った。
「よぉ、ずいぶんとお悩みのようだな。ここらでお前も一息つかねぇか?
…おいおい、スクープにはまっしぐらで止まらない東城記者ともあろう者が、この事件には唸りっぱなしだな。一週間くらいお通じがない女みたいに険しい顔してるぜ」
私は資料をカウンターにパサリと投げてため息をつくと、毒舌家で皮肉屋の友人に応えた。
「あいにくとバランスのいい食生活は心掛けてるから、僕は悩まされてないよ。皮肉屋の肉好きの親友に心配されない程度にはね。
…いやなに、関係者のアリバイを一通り眺めていたんだけど、いまいち突破口が見いだせなくてね。推理小説じゃアリバイ崩しと密室は舞台の花形みたいなものだけど、現実の事件となるとどうもいけないな。
…ねぇ、この教団幹部の家族が特殊な宗教の管理団体であり、一つの迷信を信奉している集団ってところに制約や何らかの作為なんかは見出だせないものなのかな?」
「今のとこカードキーの件もあるし、テンキーにだって河西麻未の指紋が一つ二つついてた程度だからな。部屋は同時に開けられていてカードは全部屋共通だから、盗まれたカードを使った複数犯や、幹部同士なら誰でもあり得るとしか言えないぜ。
やれやれ…我らが頼みの綱の東城記者もお手上げじゃ、記事にして名探偵の到来を待つってのも期待薄だな。下手したら、この事件も褒賞金が出るくらいまで長期化しちまうかもしれんなぁ…。東城には記事にしてもらうとして、明日は水野上人の件でもあたってみるか」
私は聞き慣れない名前に顔を上げた。
「水野上人?」
「ん? ああ、木村憲仁に関する訳がわからん噂の類だよ。奴は信者達からかなり信頼されてたらしくてな、要するに教団の悪口だよ。主に年寄りの信者達が騒いでるらしいんだがな。
“あの尊いお方は教団に入信する前の名前は本当は水野憲仁といって今や憲仁上人と呼ばれる人となってござる、いやいや水野上人と呼ぶべきだ、木村家はとんだ紛い物の団体だ偽物だインチキだ”と信者達から、そう叩かれ始めてるらしいんだよ。
教祖の木村太輔もウチの若い奴の話じゃ、聴取にはとても応じられないほど精神的に参っちまってるらしい。噂じゃ発狂して入院するほど追い込まれてるって話だ。それもこれも、あの怠惰な死体のせいでな。あの腐らない死体の噂は凄まじいぜ。警視庁への問い合わせや抗議の電話が鳴りっぱなしだ。丸の内署のホームページへの書き込みもな」
「ネットの炎上の仕方はかなり凄まじいね。怪しい宗教儀式のようにも思えるとか他宗からも恨みを買ってるような団体だからその意趣返しだろうとか、もっとやれとか、教団を壊滅させろとか犯人を応援するような過激な書き込みがやたらと目立つな。腐らない死体だなんてさすがに教団以外はどこも取り上げてないのか、木村憲仁は殺されてキャリーバッグに遺棄されたと思われてるようだね」
あ、と頬杖をついていた西園寺は、急に何かを思い出したように声を上げた。
「…どうしたんだい?」
「あ…いや、他殺の証拠といえるかは解らないんだが司法解剖の結果、妙なものが体内から見つかったのを思い出してな…。ほら見てみろよ、コイツが今日あがってきた解剖所見の最新版だ」
西園寺は写真の下にあった書類の該当ページを捲って私の方へ寄越した。私はそれを受け取りながら彼に訊ねた。
「妙なもの? 木村憲仁の体内…というと胃の中かい?」
「ああ、鉛と漆なんだ。こいつもまた妙な話だろ? 鉛に関しちゃ食い物にも含まれてるが漆器の材料になる漆となるとな…。重金属による中毒死と呼べるかは解らないほどの微妙な量なんだが胃の内壁と小腸から検出されてる。他殺されたにしても致死量には到底達する量じゃないときてる。
だから訳がわからなくて困ってる訳さ。捜査本部じゃ飲まず食わずの状態で監禁された上に毒でも盛られてたんじゃないかって話も出てき…」
その時だった。
「なぜ、それを早く言わないのですッ!」
突然、凛とした叱責の声が店中、いやビル中に響き渡った。空気が一瞬で凍りつくほどの咎めるような、それでいてどこか上品な、厳しくも恐ろしい叱責の声だった。キーンという物凄い残響音とハウリング音を残して辺り一帯に響き渡った、そのとんでもない声に、私と西園寺はびっくりして思わず顔を見合わせて声のした方…つまり後ろの方を同時に振り返った。
そこには車椅子に座り、鈍色に光る銀色の杖を王錫のように両手でしっかりと斜めに携え、人形のように整った顔をした女が一人、わなわなと唇を震わせ、今しも手にしたその杖を大上段に振りかぶって、私達に殴りかからんばかりの形相で睨み付けていた。
「あ、アンタは…」
「だ、誰…?」
西園寺と私は切れ切れに問いかけた。私に至っては恐怖で声が裏返っていた。
私の本能が“この女はとても危ない!”とレッドアラートで訴えかけている。
「そンなことはァ…どうでもよイのですッ!」
と言うや否や、車椅子の女は手にした杖を傍らに盛大にぶん投げると突然、後ろへと倒れ込んだ。
私はそこにとんでもないものを見た。
車輪が…回転しているのだ!
それはもう、物凄い速さで!
それも…縦回りに!
勢いよく! 凄まじく空回りしているッ!
「ちょ、ちょっと…」
「マ、マジかよ…」
さながら西部劇のカウボーイのように、はたまた160キロで爆走するライダーのように、車椅子を盛大にウィリー回転させた女は突然、元の位置へと、今しも倒れ込もうとしている。
ということは…。
「う、嘘でしょ…」
「お、おいおい…まさか…」
文字通り殺人的な力で勢いよく回転する車輪の、その恐ろしい車椅子は案の定、何とまっしぐらに私達の方へと突進してきた!
私はこの時、心底恐怖した。
車椅子に…!?
…牽き殺される!
「危ないっ!」
「避けろっ! 東城!」
私と西園寺はマイケル・ベイ監督の映像作品のように、思わずダイブして横に飛び退いていた!
ギキイイイィッという交通事故直前のようなド派手なブレーキ音が辺り一帯に響き渡った!
シューッという音と共に焦げ臭いような、タイヤの焦げる匂いと白い煙が辺りに立ち込めている。
私の頭は既に恐慌状態だった。
事故だ! 交通事故だ!
丸の内のショットバーで人身事故だ!
いや、火事だ! 火事になる!
消防だ! 救急だ! 警察だ!
いや、警察ならいる!
刑事は西園寺の警察官で日本だ!
…あぁ、私の日本語までバグっている!
…と、パニックに陥ったのは一瞬の気のせいで私が怖々と目を開けると、女は私が取り落とした書類を引ったくるようにして素早く取り上げただけだったようで、身を引いて唖然としている私と西園寺を尻目にひたすら捜査資料に目を走らせていた。
私は慄然たる思いで突如として現れた、その台風のような女を凝視した。
女はまさに“狂気じみた”と形容するのがふさわしいような鬼気迫る般若か鬼女のような、それは凄まじい表情で、視線がそれはもう病的なほど物凄い勢いで活字を追い、これまた恐ろしくも物凄い速度でパラパラと書類を捲っては貪るようにして読んでいる。
いきなり降って湧いた名状し難い悪夢のような女のもたらした影響は甚大だった。
カウンターにいた上品なバーテンダーは、今やメデューサかゴルゴーンの眼光をまともに直視した憐れな被害者のようにかっと目を見開き、顎が外れるほど口をあんぐりと開けたまま、手にしたシャンパングラスごと石化したような格好で硬直していた。
中国人のカップル達は幸いにも震度6の直下型地震が訪れた直後のように、いち早くテーブル席の下へと無事避難しており、二人はジャパニーズホラーの名作映画を観るように恐怖の眼差しで抱き合ったまま、突如として狂気の発作に蝕まれた、異国の若い女の動向を戦々恐々と固唾を飲んで見守っている。
本当に今さらだが、私はようやくそこで、この得体の知れない女が、先ほど入口で私の方を見てクスクスと笑い、隅の席で黙々とタブレットの画面を見つめていた女なのだと理解した。
女はやおら呆気に取られている西園寺の方にグルンと首を向けた。まるで鎌首をもたげた蛇が今しも獲物に飛びかからんとしている挙動にさえ感じ、私は再びビクリとした。動作のいちいちが俊敏で、とにかく心臓に悪い女である。車椅子に乗っているという先入観がそうさせるものか、どうにも身障者にしては動きが痙攣的で思わず身構えてしまう。
「あなた…答えてくださらない?」
「俺か? な、なんだよ…?」
あの西園寺が動揺している。
「この報告書にある生首を発見した犬ですが、名前は何というのですか?」
「あ、ああ…確かサヤだ。サヤって名前で呼ばれてたな」
「そのコが掘り出したビニール袋はどうでした? 例えば唾液がかなり付着しているというようなことはありませんでしたか?」
おかしなことを聞く女である。都会の一人暮らしは寂しさからペットを飼う女性が多いと聞くが、愛犬家には気になるものなのだろうか。
「あん? ああ、小さい犬だが唾液は凄かったぞ。白いビニール袋がヨダレでべちゃべちゃだったらしい。俺の知り合いの刑事が聞き込みに行ったから間違いない。
…ってか、アンタ何なんだ? さっきから」
という西園寺の問い掛けは、彼女には既に全く届いていなかった。というのも女は車椅子ごと背中を向け、店の中央付近のテーブル席とカウンター周辺の境界にある、やや狭い空間を突然クルクルとゆっくり反時計回りに旋回し始めていたからである。車椅子にいるのに猫のように動作が素早い。テーブル席に隠れていた中国人達は、彼女の接近と同時に何事か叫びながら店の隅の方へと素早く避難していた。すこぶる賢明な判断である。
女は天井を見上げて目を閉じながら、コーヒーカップのアトラクションに乗るようにひたすらクルクルと回り続けている。
これは大丈夫なのか、と私もさすがに心配になってくる。隅の席に彼女のタブレットとカクテルグラスがある。青い液体が入っているところを見るとブルームーンでも飲んでいたのだろうが、あれで酔わないものだろうか?
大きな車輪を回す腕だけが一定の動きでゆっくりと前後に動いていたかと思うと、突然彼女はピタリと止まってかっと目を見開き、突然クルリと人形のように反転した。
女はやや引き気味にした顎の辺りに握り拳をあて、突然何かを企んでいるような上目使いになると、にっこりと微笑んで言った。
「解けましたわ」
「は?」
私と西園寺の声がハモった。女はゆっくりと先ほど派手にぶん投げた己の銀色の杖を拾いあげると、私と西園寺の方へと近づいてきて言った。
「なかなか素敵な謎でしたわ。日々退屈で飽き飽きな都会暮らしにはちょうどよい刺激になりました。お二人とも、御苦労様でした」
まるで家来を労う王女のようなやや尊大で高飛車な口ぶりにカチンときたのか、西園寺が真っ先に反応した。
「…おい、アンタ。本当にさっきから何なんだ? 悪いがここは病院じゃねぇぞ。黄色い救急車が必要ならすぐに手配してやってもいいがな。俺達は大事な話をしてたんだ。どこのお嬢様か知らねぇが、何が解けたってんだ?」
「もちろん全てですわ」
当たり前でしょう、とでも言いたげな口ぶりである。
私と西園寺は思わず顔を見合わせていた。
「お二人とも混乱しているようですから問題を整理する上で改めて事件の謎を列挙して差し上げますわね?
テンキーかカードキーでしか開けられないはずの密室となった部屋にいる河西祐介と彼の妻の川西麻未を殺害できて且つ、その死体をバラバラに解体し、一都三県あらゆる場所の教団信者達に送りつけたのは誰だったのか?
“怠惰な死体”と名付けられた木村憲仁の死体は、なぜキャリーバッグの中に詰め込まれた状態で遺棄されたのか? なぜ腐敗していないのか? その理由は?
冷凍庫から発見された河西佑介の生首が声を上げた奇怪な謎の答えは?
…誰が、なぜ、どのようにして一連の犯行を成し得たのか? 至ってシンプルで王道的なテーマでしたわね」
「ほぉ…インパクト抜群な登場の仕方をしてくれた上に盗み聞きとは感心しないが、お嬢さんは一体何者だ?
俺はきわめて現実主義なんでな。名探偵なんてふざけた人種は現実になんかいる訳がないと思ってるクチだ。
お嬢様は俺やコイツが頭を抱えてる、その諸々の謎が全部解けたとでもいうのかい?」
一連の場の騒動からようやく持ち直した西園寺が、嘲るような口調でグラスの中で解け始めたウィスキーの丸い氷をカラカラと鳴らして彼女をやんわりとねめつけた。上品で職務に忠実なバーテンダーは、その音でようやく石化の呪いから解き放たれた。
だから解けましたわ、と突然割り込んできた女は小首を傾げながら悪びれる訳でもなく、さらりとした口調でそう言った。
最初は度肝を抜かれた表情と言動だったが酩酊している様子もなく、至って自然な口調である。幸いにも強迫神経症の発作やヒステリーを発症するタイプの患者ではなかったようで、私と西園寺が訝しそうに再び顔を見合わせているのを見てとると女は続けた。
「これはもう簡単な消去法になるのですわ。ただし非常に特殊なケースだからこそ私も解り得たのですけどね」
「解らないな。消去法というのも解らないし、そもそもあなたは誰なんです? そこからして僕らには解らない」
「ふふっ…二人とも困惑しておりますわね。私がどこの誰かなど、この事件の謎の前では些末なことですわ。そちらの方…東城さん、と仰いましたわね。貴方…なかなか面白い方ですわね。貴方は先ほど、いいところを突いていましたのよ。
その教団幹部の家族が特殊な宗教の管理団体であり、一つの迷信を信奉している集団というところに制約や何らかの作為は見出だせないのか、と先ほどそちらの西園寺さんに訊ねていらしたでしょう?」
「それがどうしたと? …ってか、いつから僕らの話を聞いていたんです?」
「だからその通りだったというのですわ。
…え、いつから聞いていた…? それはもう、最初から聞いておりましたとも! 貴重な捜査資料とインパクトのある遺体の写真も、全てまるっと拝見させて頂きましたわ」
彼女はそう言って呆気に取られる私と西園寺にタブレットの画面を見せた。そこには呆気に取られる私と西園寺の顔が今まさに、そのままの状態で鏡に映し込まれていた。鏡のアプリである。西園寺は心底しまった、という表情で額と目元を覆い隠すようにぴしゃりと手を当てて盛大に顔をしかめ、薄暗い天井を仰ぎ見た。私もやや呆れて壁際の鏡をねめつけて、ため息をついていた。
合わせ鏡だ。隅の席にいた彼女の位置から壁の鏡の位置、そして私達のいる席はちょうど対角線状に等間隔の位置にある。彼女は手元のタブレットの角度を変え、壁の鏡を通して私達の様子を覗き見ていたのだ。
アプリケーションであるから鏡の設定を予め裏写りの反転方式に変更してやれば、彼女の席からは完全に私達の手元の状態や捜査資料や写真などは完全に丸見えで、会話は筒抜けの状態だったことになる。
動画の映像を観ているようにしか見えなかったが、彼女はただイヤフォンを耳にあてていただけなのだ。だが、これは彼女を責められないだろう。こちらが勝手に勘違いして隅の席にいた彼女など全く気にせずに事件の話をしていたのだから。
「ふふん…壁に耳あり障子にミャアリーですわよ?」
「目ありな。猫かよ」
「噛んだね。大事なとこで」
「うるさいでしゅわよ! ちょっと噛んだだけでしゅわ!」
言った先から女はまた台詞を噛んだ。
女は一向に気にせずに続けた。
「ふふん…心配せずとも誰にもお漏らししたりしませんわ」
「お漏らしって…」
「小便でも漏らすのか?」
「もう! 話が進みませんわ! 下げ足ばかりとらないで!」
「揚げ足ね」
「アンタの語彙が滅茶苦茶だからだろ」
「と・に・か・く! 私もメイクを直そうかと思ったところに、たまたま見えていただけですし、会話をつい盗み聞きしてしまった負い目もありますしね。
ここはおあいこ、ということにしといてあげますわ。
西園寺さんも事件のディテール部分をもっと掘り下げて調査して、事件の顛末をきっちりと整理して推理すれば真相はもっと簡単に見抜けたはずですのよ?」
「刑事の癖に迂闊だったと取り敢えず反省はしてやるけどな、真相が見抜けたとは聞き捨てならねぇな。間抜けたついでに俺やコイツが簡単に見抜けない理由ってのも聞いておきてぇな」
「人は見たいと思うものを見たいようにしか見ない…」
「あぁん? 俺らが勘違いしてるって言いたいのか?」
「まるで先入観に捕らわれてるとでも言いたげだね」
名前を描写できない女は車椅子のステップから伸ばした両足をブラブラさせながら私と西園寺に向けて言った。
「そう。人は思い込みで出来ていて、自分が見た視覚情報はそのまま事実で真実だと思い込む。けれど、それは実は視覚だけの話ではありませんわね。獲得形質である味覚や嗅覚は元より、聴覚や触覚ですら人間の思い込みから全てが始まる限りはそうなってしまうのですわ。人はあくまで人を越えられないというのは、とても悲しい無知な思い込み。
「我ら血に依りて人となり、獣となりて、また人を失う。知らぬ者よ。かねて血を畏れたまえ…。人の血は緩やかに全てを溶かし、そこから全てが始まるのです…」
何かからの引用であろうか。不思議と妙に腑に落ちるような奇妙な沈黙が場に生まれた。私と西園寺は再び顔を見合わせていた。女は訝しむ私達の様子など一向に顧みずに続けた。
「まだ解ってもらえませんか? 死体が発見された聖創学協会本部とそれを取り巻くバラバラ死体に腐らない死体と、これら聖創学協会を巡る謎全てに共通している、ある法則性。
事件のアウトラインと木村憲仁の死体の状態。発見されたバラバラ死体とパーツまでバラバラになって、あちこちの家から発見されたその理由。
家族の構成員とその立ち位置と事件当日の関係者のアリバイを考えれば、比較的優しい難易度の問題なのですが…。大ヒントまで転がっていましたわよ」
そう言うと名無しの女はやや夢見がちな少女のような表情で目をキラキラさせながら微笑むと、天井から釣り下がったアイアン製のランタンの照明を見上げた。
猫のようだと最前私はこの女をそう思ったものだが、これは正に卓見ですこぶる的を射ていた表現であったろう。本当にクルクルと面白いほど表情が変わる女である。
年の頃は23、4才くらいだろうか? 少女のようにも妙齢のようにも思えるこの女が実年齢をまったく解らなくさせているのは、どうやらこうした部分部分の表情と全体から受けとる印象の乖離が夥しく、実に多用なバリエーションを見せるからではないだろうか。
健常者ではない、と考えると普通は能動的なアクションを相手に与えにくいものだが、この女に限っては逆である。その場その場で思いつく限りの動きを見せ、それでいて絵画や美術品のように美しく固定されている。
端的に言えば動作の一つ一つが優雅で気品があり、無駄がないのだ。初見の様子を含めて言動自体は落ち着きがない子供のようにも思えるのだが、単純にそれは彼女の反応の仕方が恐ろしく早いせいだ。回転速度の異常に早いヘリのローターがあたかも静止した状態で固定されて見えるのに似ている。
彼女のそれは静の持つ気品の美であり、動の持つ躍動の美はその場限りで世にも奇妙な形で発露し、常人からはやや度し難い形に見えてしまうようだ。彼女自身は動ではあるが、静の美意識の只中にいる。矛盾しているのだが、ここが味噌だ。
まるで片時も目を離せない子供を眺めているように退屈に感じさせない魅力があった。いい意味でも悪い意味でも色々と目が離せない。全くの初対面な上に奇天烈きわまりないファーストコンタクトだったのだが不思議なもので、私はこの妙に知的で饒舌な、それでいて身障者だと感じさせない彼女の言動に大いに興味を持った。
女は左下に艶ボクロのある特徴的でインパクトのある唇に人差し指をあて、意味ありげにこちらへと微笑んでくる。と、こう書くとややエキゾックでいかにも艶めいたセクシーな女性特有の印象を読み手に与えそうなものだが、実際はおませな女子中学生がやや無理をして背伸びをしたような、悪戯好きな少女のような、ややコケティッシュな表情になるのである。本当に年齢不詳で不思議な女性だ。
「素敵ですわね。私がこの場に居合わせた偶然は神様の悪戯で、この状態はひょっとしたら世の中に呆れるほど溢れ返っているミステリーでいうところの、あの“読者への挑戦”とかいう厳かな、お遊びができそうなシチュエーションですわ。
だってこのまま私が会計を済ませていなくなってもまったく誰も困らないのに、貴方方ときたら、こんな社会に何の役にも立たず盗み聞きまでしていた泥棒猫のような私の言葉を、今か今かとお腹をすかせた仔猫のように健気に待っているのですもの。可笑しいですわ」
まぁ意地悪はこの辺にして、と女は突如、正にいきなり唐突に、それこそ何気なく、“ある名前”を告げた。
すれ違い様に斬られた感覚。
斬られたことすら気づかない。
そう表現すればよいだろうか。
その瞬間に私と西園寺は雷に打たれたようにビクリとなって痙攣し、それこそ一瞬の光と共に焼け焦げ、歪にひしゃげた憐れな大木が、厭な音を立ててゆっくりと地面にくず折れるがごとく、真相の脅威に打ちのめされることになるのである。
Personal Data
Name :?
Age :?
Profile:東城と西園寺の前に突如現れた女。
氏名、年令、職業等一切が謎。
身障者と感じさせない身のこなしで、感情の表出や思考の回転速度が恐ろしいほどに速く、大概が相手に痙攣的な印象を与えやすい。
上品でお嬢様然とした物腰だが、感情の起伏が激しく、思考や記憶の仕方が恐ろしく速いせいか、語彙が時折、滅茶苦茶になる欠点も。
彼女の愛用する銀色の杖と車椅子にはどうやら秘密があるようだが…。