遭遇
目が覚めると、見覚えのある床が眼の前にあった。
「ここは......? あれ? 俺、なんで......」
朦朧とする意識の中ゆっくりと顔を上げ周りを見渡す。
そこは見慣れた教室だった。
如月高校2年A組――毎日のように通っている自分のクラスなのだから間違えるはずがない。
問題はなぜ教室の床なんかで眠ってしまっていたのか......。
「痛ッ......!」
頭に激しい痛みが走る。酷い頭痛がした。それに、両耳の奥がなんだか痛む。
「そうだ......たしか俺は......」
段々と記憶が鮮明になり、何が起こったのか思い出してきた。
そう。自分は突如鳴り響いた凄まじい音に耐えきれずに気を失ってしまったのだ。
桜や翠達と一緒に......。
しかし、いくら教室内を見渡しても桜達どころか他の生徒の姿すら一人も見当たらない。
「一体何が......? 皆は何処に行ったんだ?」
状況が全く理解できないが、何か非常事態が起こったのは間違いないだろう。
でなければ、急に気絶するなんてあり得ないし、気絶した生徒を教室に放置することも無いはずだ。
単純に俺だけ放置された可能性も......まあ、ゼロとは言い切れないが、流石に気絶しても放って置かれるほど教師やクラスメイト達に嫌われてはいないと思いたい。
それに、あのとき桜も一緒に居たはずだ。
俺の幼馴染で、小学生の頃からずっと一緒に過ごしてきた少女――桃木桜。
他の教師や生徒がどうであれ、彼女までが俺を見捨てるなどあり得ない。――はずなのだが、事実俺は教室に放置されていた。
教室の窓から差し込む光は茜色に染まっており、教室全体が薄暗い。
もう夕方なのだろうか? だとしたら、どれだけ長い時間気を失っていたのか......。
考えれば考えるほど訳の分からなくなる状況に、言い知れぬ不安だけが大きくなる。
「......とりあえず、誰かに話を聞こう」
教室で1人考えていたって何も解決しない。
教師でも生徒でもいいから誰かに会って事情を聴くべきだろう。
そう思い、教室の外へと出る。
「暗いな......」
教室から一歩出た先の廊下はより一層暗かった。
所々、教室から差し込む光のおかげで何も見えないという事はなかったが、薄暗い学校という場所はどうにも生理的な恐怖を掻き立てられた。
――カタン。
静かな廊下に突然鳴り響いた物音で、反射的に身体がビクッと硬直する。
音のした方に目をやるも、薄暗い廊下が続いてるだけで何も見当たらない。
「気のせいか......?」
薄暗い廊下の先を見つめつつ、耳を澄ます。
......ぴちゃ............ぴちゃん。
微かだが水滴の滴る様な音が聞こえてくる。
その音は2つ隣の教室から聞こえていた。
嫌な感じがした。
薄暗い学校に水の滴る音というシチュエーションのせいもあるだろうが、なんだかその教室には見てはいけない何かがある様な気がした。
しかし、好奇心が恐怖に打ち勝ってしまった。
音の正体を確かめる為、音のする教室に向かって歩き出す。足音を立てないようにゆっくりとだ。
目的の教室まであと数歩の位置まで近づき、中の様子を窺う。
教室の扉は閉まっていたが、扉は一部ガラスになっているので開けなくても中を見ることが出来た。
教室の中には一人の女生徒が立っていた。
今いる位置からでは女生徒の上半身位しか見えないが、間違いなくうちの学校の生徒だろう。少女は外を向いており顔が見えた訳ではないが、この学校指定の制服を着用していたからだ。
ピクリとも動かずに窓の外を眺める女生徒を怪訝に思ったが、俺にはどうでも良かった。
自分ひとりが取り残された訳ではない事に安堵し、女生徒の居る教室の扉を開けた。
俺は先程まで感じていた不安も、この教室から聞こえた水の音が何だったのかも既にどうでもよくなっていた。
この訳の分からない状況で自分以外の人間が居たことは、それほどまでに嬉しいことだった。
「あの! 一体何が......え?」
女生徒に声を掛けようとした俺の言葉は途中で止まってしまった。
その教室に明らかに日常には存在しない物があったからだ。
いや。正確には人があったと言うべきか――。
その女生徒自体は別に何ともなかった。
生徒の下半身――具体的には、制服のスカートから伸びる脚が赤黒い液体で濡れてはいたがそれだけだ。
問題は女生徒の足元にある物体だ。
それは、人間の下半身の様な形をしていた。
腹部から上がすべて消失しており、残っている下半身は女生徒と同じスカートを穿いていた。
周りの床には女生徒の脚に付いているのと同じ赤黒い液体が広がっていて、所々に千切れた下半身から漏れ出したであろう臓物らしきものが転がっている。
死体だった。作り物には見えない。
その下半身だけの死体の横に女生徒は静かに立っている。
ぐりん――。
俺の存在に気付いたのか女生徒が頭だけをこちらに向ける。
頭だけが……だ。
首から下は一切動いておらず、無表情な顔だけが180度回転し俺を見ている。
女生徒の顔には見覚えがあった。
桜と同じバトミントン部に所属している生徒で、『まいちゃん』と桜が呼んでる生徒だ。
本名は知らない。
何度か話したことがある程度の関係だったが、笑うとチラリと見える犬歯が印象的な可愛らしい少女だったはずだ。
しかし、今ではその面影は全くない。
こちらを見つめる瞳に生気は無く、口元からは赤黒い液体が流れ出ている。
ぴちゃん――。
あの水滴の落ちる音がした。
見るとその水滴は赤色で、『まいちゃん』のスカートの中――股の間から床の液体へと落ちていた。
ぴちゃん――。
俺は、ただただ茫然と『まいちゃん』を見つめていたが、その音で眼の前の現実へと意識が戻ってきた。
「ま、まいちゃ......まいさん? えと、な、何がどうなって......るんだ?」
言葉が上手く出てこない。脚は震え、声がうわずっているのが自分でもわかる。
「そ、それ大丈夫? 血......だよな? あ! 演劇か何かの練習だったり......する?」
その問いかけが意味のないものだとは分っていた。
だが、何か話していないと恐怖に押し潰されそうで、喋らずにはいられなかった。
『まいちゃん』はいくら話しかけても生気の無い瞳で俺を見つめるだけで、何も言わない。
俺が勇敢な人間だったら何も考えずに目の前の少女を助けようと行動しただろう。
逆に、俺がもっと臆病な人間だったら何もかも放り出して一目散に逃げだしたに違いない。
しかし、何もかも中途半端な俺は目の前の少女に手を差し伸べる事も、逃げ出す事も出来ず、ただ震えながら声を出す事しか出来なかった。
「く......ろみ......ね......?」
―――! 唐突に目の前の少女が声を発する。
「そう! ほら、よく桜と一緒に居ただろ? 覚えてるか?」
喋れるという事はちゃんと意識があるのだ。
この状況で『まいちゃん』がまともであるとは思えなかったが、少なくとも話せるだけの理性はある。
だったら、何とかなるかも知れないと僅かに希望が生まれた。
「くろみ......ね......こうや......くん?」
「ああ! そうだ!」
『まいちゃん』が笑顔を俺に向ける。
その口元からはいつも通りチャームポイントの犬歯がちらりと見える。
だが、その笑顔はぐにゃりと歪んだ不気味なものだった。
「え......?」
『まいちゃん』の身体がびくりと痙攣し、俺の方を向き始める。
今までは顔だけが180度こちらを向いた状態だったが、今度は身体だけがゆっくりとこちらへと回転する。
頭が回ったのとは逆方向にこちら側へ――。
「まい......ちゃん?」
頭と逆方向に捻じれる『まいちゃん』の身体は、ボキボキと異様な音を立てながら徐々にこちらを向く。
身体が動くたびに、捻じれた首の肉が裂け赤い液体が噴き出している。
その音を聞くたび、自分の中に生まれた僅かな希望が打ち砕かれていく様な感じがする。
俺は目の前の光景を何も理解できず、ただ茫然と見ていた。
――ボキンッ。
そして、俺の中の僅かな希望は跡形もなく崩れ去った。
『まいちゃん』の顔と身体が完全にこちらを向いた。
骨が折れ、首から血が噴き出していると言うのに『まいちゃん』の顔は歪な笑顔を浮かべたままこちらを見ていた。
今までは後ろ向きだった為に分らなかったが、『まいちゃん』の制服は前面がビリビリニ破けており、胸元には小さめの膨らみを隠す水色のブラジャーがしっかりと見えていた。
しかし、俺の目は彼女の下腹部に釘付けになってがいた。
『まいちゃん』の下腹部には大きな亀裂――と言うより大きな空洞が開いていた。
股からお腹にかけて爆発でもした様にぱっくりと割れていて、背中の部分だろう骨と肉が見えている。
その穴には内臓が殆んど残っておらず、空洞の中で千切れた腸だけがぶらぶらと揺れている。
――――やばい。やばい。やばい。やばい!
足元の死体や顔が後ろを向いただけであれば、作り物だとか身体が柔らかいとか考えて無理やり納得できた。
しかし、これは違う。
身体が柔らかいとかいう理由で片づけられるものではない。
明らかに死んでいる。完全に化け物だ。
べちゃり――。
血だまりの中『まいちゃん』の形をした化け物が一歩こちらへと踏み出した。
「――――ッ!」
俺は弾かれる様に教室の外へと飛び出す。
廊下の壁にぶつかりながらも、恐怖に震える脚で床を這いつくばる様にして全力で走る。
そんな俺の姿はさぞかしみっともないものだっただろうが、そんな事など考えてなどいられなかった。
後ろを確認する余裕なんて無かったし、ただただあの化け物から離れる事しか頭になかった。
ただ……追いつかれたら殺される。何故かそれだけは確信がある。
「うおっ⁉ ――ぐぅっ」
がむしゃらに走っていた俺は、階段を下りようとした先で何かに躓いて階段を転げ落ちた。
「くそっ!」
悪態を吐きながら、立ち上がろうと両手をつく。
ぐにゅり。
冷たい床に触れたはずの俺の手に、生温かい感触が伝わってきた。
「――ッ!」
目の前の光景に思わず息を呑む。
俺は死体の上に乗っていた。
しかも、一つじゃない。
教室にあったのと同じく身体の一部、もしくは殆どが欠損した死体が分かるだけでも4人分はあった。
よく見ると階段の途中にも、死体が転がっている。さっきはあの死体に躓いたのだろう。
「一体なにがどうなって......」
次から次へと移り変わる状況に頭が付いていかない。
いや違うだろう。何が起こっているかなんてもうどうでもいい。まずは、教室に居た化け物から逃げることが先決だ。
階段から落ちた際に、体を強く打った事による痛みで逆に少しだけ落ち着くことが出来た。
急いで学校を出なければ。
そう思い走り出そうとしたが、俺の右足は何かに固定された様に動かず、体制を崩してしまう。
見ると死体だと思っていたものの一つが俺の右足をがっしりと掴んでいた。
実際のところそれは死体で間違いはなかった。
しかし、その死体は教室に居た『まいちゃん』と同じ生気の無い瞳をして動いていた。
化け物。
そいつが『まいちゃん』と同じ化け物であると気付くのに時間は掛からなかった。
「――っくそ! 離せ!」
間髪入れずに化け物の顔面に、掴まれていない左足で蹴りを叩き込む。が、化け物は痛がる素振りすら見せない。
それどころか、蹴りを繰り出した左足も化け物に掴まれてあっけなく転ばされる。
よく考えれば首がねじ切れ、腹が裂けても平気な化け物相手にただの蹴りが通用する訳がなかった。
転ばされてしまった俺は為す術なく化け物に馬乗りされてしまう。
「がっ......」
化け物は女生徒の姿をしていたが、女子の力とは到底思えない怪力で俺の首を絞めつけてきた。
必死に抵抗するが、俺の首を絞めつける力は一向に弱まる気配がなかった。
「く......そ......」
意識が朦朧としてきた。
確実な死が身近に迫ってきているのを感じる。
死ぬ......のか? こんな形で......?
嫌だ。まだ、死にたくない......。
しかし、いくら願えども俺に化け物を退ける力は無く、体からは力が抜けていく一方だった。
意識を保っていられるのも限界が来た。
化け物は勝利を確信したのか、俺を嘲笑うかのように歪な笑みを浮かべ顔を寄せてきた。
瞬間――。
「ギィィ⁉」
突如、化け物の横から長い棒の様な何かが凄まじい速度で飛来し、化け物の頭を貫く。
「ギヤアアアァァァァ............」
化け物の断末魔が次第に小さくなっていき………そして消えた。
頭を貫かれても直ぐには死なないらしい。ほんと不死身かよ。
「ねぇ。生きてる?」
いつの間にか化け物を殺したであろう人物が、俺の横に立っていた。
薄れゆく意識の中で見えたのは、深紅に輝く長い髪だけだった。
そして、俺はまたしても意識を失った。