兎は満月に何を見るか
「月が綺麗だから、ちょっとでてこない?」
彼のそんな言葉がただの口実であろうことはわかっていたのだけど、私は気づいたら家をでて自転車にまたがっていた。
日が沈んでもだいぶ温い風に身を包まれながら自転車を漕ぐ。
ふと空を見上げると、そこには確かにまあるくて光り輝く月の姿があった。
小さな太陽系の中にある小さな地球よりもはるかにちっぽけで、自分の力では輝くこともできないで、ただひたすらに同じところを今日もぐるぐると無意味に廻り続けている。
なんだか私みたいだ。真っ暗な闇の中にぽつりと浮かぶその姿を見ながら私はいつのまにかそんなことを考えていた。
裏側半分を絶対に人に見せないところなんかもよく似ている気がしてくる。
と、そこまで考えて、私は思わず自分自身の考えに嘲りの混ざった苦笑いを浮かべた。
高校生にもなって、なに馬鹿なことを考えているんだ私は。
そんなことを考えているうちに、彼の待つ河川敷へとたどり着いていた。
この河川敷は、二人の家の中間あたりで人通りも少なく、二人で会って話をするのにはちょうどいい場所だった。
自転車をとめて彼のもとへ行こうとすると、ちょうど彼もこちらに近づいてくるところだった。
手を振って、「おまたせ」とでも言おうと口を開きかけたそのとき。
それはあまりに突然で
思考が追いつかなくなった。
「ふぇ?」
とか変な声を出してしまった気がする。
だって、それくらいに驚いたのだ。
気がつくと私は、彼の腕の中に抱きしめられていた。
正面から抱きしめられているので、幸いにも彼の顔は見えない。
混乱と緊張と、いろいろなものが混ざり合ってぐちゃぐちゃになっている私のもとに彼の声が届く。
「いなくなったり、しないから」
その言葉は、思いを伝えられたときよりも、初めて唇を重ねたときよりも大きな衝撃となって私に届いた。
いままで、そんなことを言ってくれた人は居なかったから。ずっと、独りだと思ってたから。
闇夜に浮かぶ、月のように。独りで。誰も全部を見てくれる人なんか居なくて。みんな半分だけで。ぐるぐるぐるぐる堂々巡りで。成長もしないで。ちっぽけで、矮小で。
そんな私にそんな言葉をかけてくれる人が居るなんて思ってもいなかったから、すごく嬉しかった。
ここで抱きつきかえして、肩に顔をうずめて、「ありがと」なんて言えればよかったのだろうけど、人に触れることが苦手な私にはそんなことはできない。
だから、行き場を探して、両の腕を空にさまよわせる。
人に触れるのは、物理的にも、そして心に触れることも苦手だった。
私が触れたら、すべてが壊れてしまいそうで。汚してしまいそうで。
だから、
「ねぇ」
だから私は、
「とっても」
こんなことしか言えないのだ。
「綺麗ね、月」
かつて文豪が、なんて言葉をこう訳したかなんてきっと彼は知らないんだろうな、と思いながら。