マーフィーの法則 ~Ωの命運
引っ越し準備で一つ収穫があった。
手始めに、災害備蓄用もかねた保存食料から減らそうと、流しの下をのぞいてみたら、越してきた年に漬けたきり奥に押しこめられていた梅酒が出てきたのだ。忘れられたまま熟成し、五年ものの古酒になっている。
ヤッホー、今夜のメニューは梅酒三昧で決まり。
・主菜:豚バラ角煮の梅酒風味‥といきたいけど安いカレー用肉でもいいよね
・副菜:ゆで野菜サラダには、煮きった梅酒の醤油ドレッシングをかける
・デザート:もちろん、ことこと炊いたとろける煮梅で
・食後酒:琥珀色した掘りだし物の梅酒・オンザロック(甘くて辛くて超まったり!)
荷物を減らすのを口実に、しまいには風呂にも大瓶ごと持ちこんで、もうストレートでストレス発散だ。
うう、しみるー。粘膜が灼けるような酒だから、ヤケ酒? あれ、入浴しながらアルコールってやばいんだっけ。まあ、ぬるめの半身浴ならいいかー。風呂と酒とで身も心もほかほかだー。
鼻唄を歌うと、Ωもフォ~と長い音を出す。店長みたいに上手くはないけど、誰も聞いてなければ歌うのは嫌いじゃない。Ωは唯一の例外。
「Ωー、引っ越したらあんたは連れてけないねえ。次の人は可愛がってくれっかなあ」
「フォォー」
きれいなお姉さんが、排水口のフタがはずれているのに気づいてのぞきこみ・・‥。
その場面を想像するうちに、胸騒ぎがしてきた。こんなのカビの固まりとまちがわれて、パイプクリーナーかカビ取り剤で、あっさり駆除されちゃうかもしれないじゃない。
「はあぁ、こりゃ私もあんたも前途多難だなー。だいたい、なんでいつもフタをはずすかなあ。だれもがあんたを気に入ってくれるとは限らないんだよ」
Ωに向かって、私は人差し指をふりながら言い聞かせた。
「言っとくけど、私だってここに住みつづけたいと思って、一応ちゃんとがんばったんだからね。あとは、こんなとこに生えちゃったあんたの自己責任なんだからね」
「ボォォォォ」
船の汽笛に似たその声で、せっかくのほっこり気分が、厳冬の海なみに冷えきってしまった。私自身だって、予算内じゃ次はベランダなしの部屋しか見つからなかった。小窓からの光だけじゃ、脳がますます冬眠状態になるんじゃないかと、憂うつになる。
「でもね、猛暑の夏には過ごしやすいと思うわけよ。東向きの出窓だからさ、プランターに水やり忘れたってダメージも少ないじゃない?」
「ボォォォォ」
「私はねえ、もう趣味に生きることにする。引っ越したらあの生ゴミ処理機で、今度こそ有機堆肥を成功させる!」
「ボォォォォ」
「売ってる消毒された土じゃなくて、その堆肥でミニハーブガーデンにするんだ」
「ボォォォォ」
シソも満足に実らせられないくせに、なに言ってるんだ私。‥鼻がつうんとして涙がでる。鼻水もでる。ちょうどいいから浴槽の湯で顔を洗う。顔の内も外もお湯びたしだ。
「なんでもシソや山椒で代用の和風ナントカじゃなくってー」
「ボォォォォ」
「ちゃんとバジルを使ったアクアパッツァやカルパッチョを作ってー」
「ボォォォォ」
「山ほどのミントをつぶしたモヒートも飲んでー‥」
「ボォォォォ」
夢を語りながら涙がぼろぼろこぼれた。何かに熱中するふりをするのは何かをあきらめたことだと、自分で気づいていたから。
「だから、私は大‥」丈夫、とはもう声にならなかった、が、
「ボォォォォ」
「‥うるさい、意味もわかんないくせに、いちいちマネすんな! もうアルコール消毒しちゃる」
たて続けにしゃべったら舌までかんでしまった。苛だちまぎれに、私は浴槽からΩの巣に腕を伸ばし、コップの梅酒をぶちまけた。
と、穴から黒い頭がぬうっと起ちあがった。
「ブォオオオオオン!!」
今まで聞いたことのない大声。私はたまげて湯舟で尻もちをついた。いっぺんに酔いが覚めた。と思ったけれど、湯舟から出ようとしたらふらついて、体はやっぱりまだ酔っている。
しまった、梅エキスで少し薄まったとはいえ、元は35度のホワイトリカー。現に私の胃だって熱くなったじゃないか。
洗い流そうと、あわててシャワーをザーザーかけた。なかなか排水しない。かえって溺れさせたか。今度はタオルをつっ込んで、梅酒の水割りを吸いとらせる。
Ωは朱の蛍光色を帯びてうっすらと発光しはじめた。攻撃されて怒っているんだろうか、それとも熱をもっているのだろうか。火傷の薬?‥って何を塗ればいいんだろう。氷で冷やす? いや、Ωには冷たすぎて凍傷になるかもしれない。
なにかといえば無駄な動きの多い私だけど、このときほど高速で右往左往したことはない。
落ちつけ。今まで風呂で飲むなんて無茶しなかったから、私はたまたまアルコールをあげずに済んでたんだ。似た経験をした先達がいないかどうか聞いてみよう。でも手遅れにならないように早く。
バスタオルも巻かないまま、ベッド脇に立て膝でパソコンを起ちあげた。
「SOS! 梅酒をストレートでΩにあげてしまいました。すごい声で鳴いて巣から出たと思ったら、またしぼんでしまって、今もなんかうなってます。どうしたらいいでしょう」(風に舞う木の葉)
「起て、剣闘士スピリタス!! 96度ウォッカで、宇宙人をセンメツせよ!」(嵐を呼ぶ使者)
「スパルタクスにかけたつもりでしょうけど、かの剣闘士は負けたのですよ? 残念でした」(人呼んでリケジョ)
「スパルタ国家と混同してるんじゃね?」(その名も生ゴミ男)
ああ、そんなオタクな古代史はどうでもいい。だれか早く答えを。
「残念な御報告である。拙宅の黒主も復活しないのである。拙者が酒精度数20程度のリキュールのカクテルに凝っておった頃は、機嫌よく相伴しておった。ところが、45度以上の蒸留酒に手を染め〈マイ・タイ〉という名の飾りたてたカクテルで誕生日の祝杯をあげたところ、どうやら御陀仏した。下戸ではないが、度数が高いとダメージが大きいようである」(黒主の主)
「アルハラ反対!! Ωに休肝日を!」(嵐を呼ぶ使者)
「さっきと矛盾してるじゃない('◇')」(ヌクラ☆らぶ)
「皆さん無視しましょう」(自称ジェントルマン)
「そういうあんたも、じつは結構ウザイよ。仕切んなって」(その名も生ゴミ男)
「‥それは不運でしたね、風に舞う木の葉さん。ご無事を祈ります。皆さん、アルコールと合成洗剤には注意しましょう」(人呼んでリケジョ)
浴室からは、酔っているのか苦しんでいるのか、かぼそく歌うような声が一晩中響いていた。
氷山が解け落ちたかと思うと、深海から熱水が沸きあがり、鯨が腹を向けて次つぎと浮かびあがる夢を見て、はね起きた。
Ωの色は黒く戻ったものの、ヨーグルトを受けつけない。白カビも別の所に復活している。これはまだ新しいせいか、水でふやかしただけで取れたので助かった。負担になるとは思いつつ、そっとつついてみると、わずかに動いた。でも、声はたてない。
さらに翌日、白カビが広がってきた。純石けんを泡だててぬぐうとカビは取れたものの、その下に潰瘍のようなくぼみが見つかった。
排水のスピードも極端に悪くなっている。縁になにかを差しこんですき間を空けたらどうだろう。水没しかけなので助けたいのだけど、また逆効果になりそうで怖い。我慢しきれずつついてみても、もう動かない。
入浴は浴槽の中だけでシャワーを浴びることにする。
そして一週間後、緑や赤、黄、黒のカビにΩはおおわれた。シワやへこみが目につき、どんなに強くつついても、身動きしなくなってしまった。つついた部分はくぼんで、しまいには裂けてしまった。
私は風呂掃除用アルカリ水のスプレーをはずして、中身をありったけΩの穴に空けた。もはや無駄もしくは逆効果だとわかっていたが、トイレ掃除用クエン酸も持ってきて、ことごとくぶちまけた。消毒用ミョウバンも残らずぶっかけた。三つ混ぜたら危険かとも頭のどこかで思うが止まらない。
だって、どうせもうΩは死んでいる。いつか失敗したあの堆肥のように、カビて腐っている。
‥穴がシュワシュワと泡だちはじめる。私はその辺のタオルを穴にぎゅーぎゅー詰めこみ、泡をΩの死骸ごと封じこめた。長らくはずしたままだった排水口のフタで押さえつけたが、盛りあがって閉まらない。代わりに部屋のゴミの山を、手当たりしだいに抱えては浴室に放りこんだ。
昔の地層があらわになるにつれて、気に入っていた横縞のTシャツや、探していた弾性ストッキングが出てくる。あ、と思う自分もいるが、手が勝手に放りこんでしまう。未練のあるお気に入りのハンカチは、せめて乱暴に涙をぬぐってから使い捨てにして放りこんだ。
そうして、最後に音をたててドアを閉め、私はΩの墓を封印した。
黒い守り神のいなくなったこの部屋は、きっと廃れるに違いない。私自身の人生はこの後もまだまだ続くのかと思うと、ぞっとする。