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福笑い ~私の適性は何

藤林君が復活した。‥したのだけど、脇目もふらずに仕事に取り組んでいるかと思うと、ときどき奇妙に機能停止した。
例1:「レジ見てて」と言われると、正しい位置に立ったものの、客が品物を持ってきても、そのまま立っていた。
例2:倉庫の南京錠を「鍵かけといて」と渡されたら、金具に掛けただけで放置した。
例3:値札付けを命じられて、商品に器具で貼りつけはじめたが、シールが足りなくなる
とそこでやめてしまった。

「お客さんが来てるでしょう」
「鍵かけてっていったら、鍵を締めることじゃない」
「なんで新しいのをもらいに来ないの」
谷沢さんにそう聞かれても、本人は困惑して黙っている。
およそ現場では、はしょった言い方が数多い。業界用語で「レジを見てて」といえば、レジ担当者としての仕事をすることだ。藤林君は、「見てて」といわれたから、その言葉に忠実に従っただけなのだろう。あるいは強盗などから「見守ろう」と構えていたのかもしれない。

店長は初めこそ「来たか長さん待ってたほいほい」と浮かれていたが、しだいに顔がくもってきた。最上段の棚への荷あげも、今日は谷沢さんが脚立の上で、藤林君が下でやっている。これは私以上かも‥とすこし同情。

いやいや、他人事じゃない、私だって次の派遣先の連絡はまだこない。五年で80万円近くは貯金したけど、無職のままじゃ、じきに底をついてしまう。
友人たちのなかには節約のため、実家にいて食費と光熱費だけ払い、休日の家事を担当している子も多い。私はせっかく独立したというのに、父だけ残っている家に、今さら出戻るなんてごめんだ。

そのとき、ドアが開いて背の高い男性が、一番側にいた私に声をかけた。
「おう、店長いる?」
この口のきき方は誰だろう。横柄なただの客か、それとも私が覚えているべき本社の上司か。じつは私は、人の顔を覚えるのが大の苦手だ。この店になってからも、背広で上から目線のおっさんを、きっと内部の人に違いないと推測して店長に取り次いだら、
「あれくらいの客は、Qちゃん屁の河童で、自分でさばけるようになってほしいなあ」
と言われた。今日はどっちだ。

「いらっしゃいませ」
と知っているかのような笑顔でごまかして、店長のところへ行ったものの、
「店長、あのう‥」
と言ったきり、なんと取り次げばいいものか。もじもじしながら視線を訪問者の方へ送ると、店長が察して、
「あ、地区長。御足労様です!」
ぽんと跳びあがり駆けていった。地区長は、忘れたころにぬき打ちで見回りにくるから厄介だ。店長は、いつも以上に腰を低くして応対している。谷沢さんや菊池さんもぴりっとして、それぞれの持ち場についたまま黙礼をした。

地区長が帰ったあと、店長に聞かれた。
「前にいらしたことあったのに、三日見ざれば日々に疎しで忘れちゃった?」
「宮内地区長、ですね」
「そうそう、名にし負う地区長の宮内様、しっかり覚えといてね。自分でご挨拶するときに呼べるように」
名前を覚えていないわけじゃない。覚えられないのは顔なのだ。

休憩の十分間、私はトイレにこもって今日もおまじないをくり返す。
子どもの私に、母はよく「柚香、大丈夫?」と聞いたものだ。幼いころは気にならなかったその言葉が、高校になってから無性に鼻につくようになった。それで、一人になれた瞬間に、自分で逆を言って打ち消すことに決めたのだ。
「私ハ大丈夫、私ハ大丈夫、カイクグッテ生キルンダ」
‥でもね、がんばってもできないことが多すぎる。

将来の職業を決めるさい、最初に考えたのが保育士だった。お絵かきもできるし、キャンプリーダーの経験もアピールできるし、おあつらえ向きだと思った。「保育士なら人手不足だし食いっぱぐれないね」という現実路線で母も賛成してくれた。
学課は順調に単位がとれた。ところが、最終の実習でつまずいた。
そもそも小中学生とは勝手が違い、幼児は猿山の群れより統率がとりにくかった。そしてなにより、保育所では名札がないうえ私服のため毎日印象が変わり、クラス写真を見ても十日や二十日間では顔を覚えられなかったのだ。

私は見ためでわからない配慮が必要な子どもを見分けられず、卵アレルギーのある子に一般用のおやつを配ってしまい、担任が気づかなければあやうく食べるところだった。虐待を受けている子のケンカに素早く反応しなかったため、相手の子にひっかき傷ができてしまった。ADHDの子とは馬が合ったけれど、自分の幼稚園時代のノリでいっしょに木に登ったら、たしなめられた。

そうしたヒヤリハットをくり返したあげく、保育所長からゼミの教授に連絡がいき、学生保健管理センターから大学病院の精神神経科を紹介され、自分もADHDの診断名がついた。
実習は教授のお情けで単位をもらえたけれど、大学の就職支援課からはやんわりと釘をさされた。
「安全を預かる仕事ではないほうが、向いているでしょうね」

現場を見ていない母は、突然の進路変更に面くらい未練をのこした。
「せっかく資格も取れたのに、今から進路変更なんて大丈夫? 私の導き方も適切じゃなかったのかねえ」
注意されればいつも、「だって、」となにかしら言い訳してきたのに、母自身の責任にされてしまうと口答えすらできなかった。

‥いやいや、めげてる場合じゃない、今日はまだ終わってない、しっかり挽回しないと。
私はトイレで深呼吸を三回して、ほっぺたを二回叩いて活を入れた。
あんまり勢いこんで売り場に向かったもので、戻るなり藤林君と真っ正面に出っくわしてしまった。すり抜けようとしたら、
「お呼び止めして申し訳ありません。失礼とは存じますが、南さん、大丈夫でいらっしゃいますか」
藤林君が店中に届いてしまう声でいった。

あんたにまで言われたくない、とにらみつけたが、ものともせずに藤林君は続けた。
「私はよく、人の気持ちがわからないと言われますが、今、南さんが大丈夫でなさそうなのはわかります。南さんのトレードマークは商売の基本であるスマイルだと、谷沢さんにお聞きしました。だから私もお手本にして見習っているのですが、それが今は消えています」

つくづく勘に障ることを‥。よし、それなら、とびきりのやつを見せてやろうじゃない!
「いいえ、どうぞお気遣いなく」
と意気ごんで見返したはずなのに、五才も年下の新米のまえで、不覚にもへんてこな泣き笑いになってしまった。

私は初対面で顔を覚えられないだけではない。顔見知りのクラスメートや近所の人でも、髪型が変わると見知らぬ人にみえた。そして、それは何回も下宿に泊まりにいった仲でも、例外ではなかった。

就職活動が始まった時季、リクルートカットにした小杉君に、私は気づかずに通り過ぎたのだ。いや、小杉君が持ってるのと同じ服‥とまでは気づいていた。そしたら、
「冗談きついぜ」
と追いかけてきた声まで小杉君で、びっくりした。小杉君は髪型を茶化すジョークだと思ったようで、
「コントはもういいから」
と笑っていた。けど、私がきょとんとしていると、だんだんと冷めていった。
「おまえ、まじかよ!」
声を裏返しにすると、くるりと向こうに歩きだした。さすがに悪いと気づいて、追いかけて謝ろうとしたけれど、
「昨日も声かけたのに、上の空だったろ。いつ気づくかなーって楽しみにしてたんだぞ。おまえ、ほんと、マジで、なんか変!」

それ以降の小杉君は、謝ろうにもとりつく島がなかった。
もっとも、私にとっても、前髪で隠れていた額が露わになった彼は、まるで別人になってしまったので、ふられたのとも微妙に違っていた。私の知っている小杉君は私のなかで永久不滅なのに、恋心が相手を見失ったのだ。こういうのも面食いっていうんだろうか。

くわえて、ほぼ時を同じくしてサークルの別の女子からも絶交された。小杉君と付き合いはじめたのかと疑ったけれど、そうではなかった。なんで、と本人に聞いたら、恨みがましい目で見られた。
「自分でわかるでしょ‥」
わからなかったから、別の友達にたずねたら、
「まーた、不用意に本当のこと言ったかなんかしたんでしょ」
と同じ目つきで見られた。

世界的不況と大震災の余波で、大学生の三割が職の決まらぬまま卒業することになったその年度。誰もがぴりぴりして誰もが自信を失っていた。このタイミングでなければ見逃してもらえていたことが、もう許されなくなっていた。
子どものころから失敗は腐るほどあったのに、それでも怖さしらずだった私。今まで皆が我慢してくれていたことに気づくと、私はぽつんと一人、96%暗黒物質の宇宙にとり残されていた。
たて続けに絶交されたことより、「まーた」の声音が何年も耳にこだまして、深入りには尻込みするようになった。

複数あったらしい「まーた」の中身は、大人になった今も解らない。解らないから、謝ったこともない。謝れないから、引きずる‥。
「今なら、『私って気がきかないもんだから、うっかり傷つけちゃったのならごめんね』とぐらい言えたかなあ‥」

Ωに話しかけると、巣穴からにじりだして長いことうごめいていたかと思うと、一瞬、小杉君らしき顔になった。でも、いまひとつあいまいな輪郭。私は頭のなかで顔だちを描いて、Ωを操ろうと試みた。
一重まぶたで、眉は男にしては薄めで、鼻も細くてやや上向き、唇は上下とも同じくらいの厚さ、笑うと上の前歯が二枚ほど凸凹で‥。
パーツは覚えているのだけど、それを組み合わせようとすると位置が定まらず、ずれてしまう。今はどんな顔だちになってるんだろう、二十代の男性は年々頬がこけて人相が変わっていくけれど‥

「メールアドレスはもう変わってるだろな。卒業名簿の住所にももういないかな。うっかり過去の亡霊から手紙なんか出したら、迷惑以外のなにものでもないよね」
自嘲気味に笑うと、Ωがまた動いて今度は封筒を作りはじめた。あぶりだしのように文字が浮きでてくる。小杉君宛かと思ったら「南柚香様」。なにそれ、宛名まちがってるよ。
「また狐さんの葉っぱ? ご苦労さん」
すると、文字が崩れて、今度は差出人の位置に小杉君のフルネームが浮かびあがった。
小杉充。

もしも、もしも中身も書かれているのなら、せめて読みおわるまで形を保ってくれないか。それは現実の彼の言葉ではない、私の気持ちの反映でしかないとわかっていても。自分がどう折り合いをつけるつもりでいるのか、それが知りたい‥
小杉君の名が崩れるのが惜しくて、床に置かれた封筒に、私は手を触れることができなかった。

「悪気もなく傷つけてしまった元カレの顔を、Ωが作ってくれました。けど、何年もつき合ってたのに、私自身がおぼろげにしか覚えていなくて、せつなかったです」(風に舞う木の葉)
「オレも顔覚えるのは苦手。学校時代は三学期になっても、名前と顔が一致しないクラスメートが何人もいた。せっかく覚えても、髪切られたり染められるとわかんなくなるのな(汗)。朝の教室に見慣れない奴がいると、誰かが名前を呼んでくれるの待ってた」(その名も生ゴミ男)
「大学になると、突然キャンパスで出っくわすから困るよね~。至近距離になってからだと、『ごめん、あたし目悪くって』ていう言い逃れも通用しないし(~_~;」(ヌクラ☆らぶ)
「拙者も、美人といわれる女性ほど特徴がなくて記憶できず、不思議がられたものである。八重歯、団子鼻、ホクロ、ゲジゲジ眉、タラコ唇、癖毛等、その人物にしかない部品を所有しておれば、それを手掛かりにするのであるが」(黒主の主)

「相貌失認って統計では2%もいるらしいのに、ほとんど知られてないですよね。マスコミでもっと取りあげてくれないものでしょうか」(人呼んでリケジョ)
「今のところ、自分で自分の伝道師になる以外ないですかねえ」(自称ジェントルマン)

一つ投げかけるたびに、いくつもの応えが返ってくる。今まで私は、感覚や能力のアンバランスについて、これほど話が合う人々に出会ったことはなかった。この集団は私にとても似てる。ちょっとうす気味わるいほどに‥。

翌朝の夢では、小杉君は老けるかわりに中学生みたいな年頃に若返っていた。おなじく子どもの私は謝るどころか、
「あ、そうか。次は鬼ごっこするんだね」
と脈絡のないことを、すごく納得したつもりで言っていた。背中に追いついてデンしたら、ふり返った顔は、なぜか藤林君で、
「あんたとじゃないもん!」
と子どもの私が叫んだところで、目が覚めた。
これが私のケリのつけ方?‥って意味わかんないんですけど。

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