03
話す内容も、景色も、ろくに変わらない。住宅街側に見えていた小学校がはるか後方に去って、代わりに六階建てのマンション群が見えてきたくらいだ。太陽の位置だって、なかなか動かない。
田舎のゆっくりとした時間、というには抵抗があった。惰性で続く、退屈な時間だ。私には、その惰性を振り切ることすらできない。
「あ──そろそろ、仕事戻らないと」
話のネタでも切れたのか、と言いたくなるタイミングで、彼が唐突に言った。
「え、抜け出して来てんの? 無理しなくていいのに」
「いや、会う機会なんて全然ないからさ」
思わず冷めた目を向けてしまいそうで、私は彼から視線を反らした。
夕焼け、とまではいかないものの、赤みを増し始めた空が山の向こうに見える。けれど、冬独特の灰色がかった青い空の中では、差し色のような暖色も寒々しさを助長させる一要素でしかなかった。
「じゃ、これ。返すよ」
会話の間に挟まった沈黙が致命的な長さになる前に用事を思い出すことができたのは、私にとっても幸運だった。わけの分からない気まずさと罪悪感を、わざわざ感じたいなんて思ったことはないのだから。
紺色のビニール袋に戻しておいた本を取り出し、彼に渡したところで、ようやく一息つけたような気がした。やらなければならないことがずっと心の隅にあるのは、思いのほか気が重い。
ビニール袋が彼の鞄に入るのを見届ける。自転車の前かごに収まっている鞄は、確かに仕事用らしい飾り気のないものだった。元々彼に飾り気なんてない、という話はさておき。
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がさがさとビニールの擦れる音が続く。彼は腕で自転車のハンドルを抑えたまま、鞄の中を覗きこんでなにかを探しているらしかった。
「ん、じゃあこれ貸すよ。面白かったからさ」
鞄の中から彼が取り出したのは、見覚えのありすぎる紺色のビニール袋だった。
「いやいやいや、今やっと返せたところなんだし」
「気にしないでいいって」
「ほら、返すの遅くなるし」
「適当に返してくれればいいから」
そう言って、彼は押しつけるようにして紺色のビニール袋を渡してきた。ただ、さっきの『北欧神話物語』がハードカバーだったのに対して、今回は文庫本サイズだ。
だからなんだ、という話なのだが、彼は聞く耳を持っていないらしい。
「じゃ、また今度」
今度がいつになるのかも分からないのに、さらりと言って彼は自転車にまたがり、ペダルをこぎ始めてしまった。
ひとけのない、たんぼの真ん中に取り残される。わざわざこんな所に呼び出して、普通の話をして、本を返したと思ったらまた借りることになって──一体、私がなにをしたというのだ。
長く息をはいて、私はビニール袋にぴったりととめられたテープをはがす。新しいそれは粘着力が強く、接着面に触れていたビニールが伸びて紺色が薄くなってしまった。
中から取り出した本の表紙は、濃い水色の中に赤いキンギョが映える色使いだった。神話、じゃない。タイトルは、『伊豆の踊子』とあった。
なにを考えているのか、まるで分からない。
真意を問おうにも、彼の自転車はすでに遠くの住宅街に入っていくところで、足で追いつくことなどできそうになかった。