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(4)勤勉な彼女

 イーダリスとルセリアの結婚式が悲惨な結末を迎え、色々な筋から王都中にルーバンス公爵家の悪評が広まってから約一か月後。漸く噂が収束したこの時期に、王宮でエルマース国第二王女ミリアの誕生記念の夜会が催される事になった。

「シェリル様、宜しくお願い致します」
「ええ、打ち合わせ通り頑張るわ。今日はジェリドが居ないけど、あんなに色々なパターンを想定して練習してきたんだもの!」
「……ええ、本当に色々頑張って頂きまして、恐縮です」
 王族の控室で、拳を握りつつ力強く請け負ったシェリルを見て、ソフィアは思わず遠い目をしてしまった。
 ソフィアの計画は、イーダリスの結婚式と自分の縁談をぶち壊して終わりでは無く、この夜会が最後の仕上げになっているのだが、その計画を聞いたエリーシアとリリスが、この一ヶ月の間ノリノリでシェリルの演技指導をしてくれた故であった。

「シェリル様! まだまだお顔が優し過ぎます! ここは毅然と、もう侮蔑する様な眼差しを向けなければ駄目ですよっ!!」
「そ、そう? リリス。こんな感じ?」
「それから、驚いた顔がわざとらしいわ。幽霊でも見たかの様な顔よ! 実際に怖い物を見せてあげるわ。当日はそれを思い出しながら、声と表情を作って」
「いっ、いやあぁぁぁぁっ!! エリー! 変な幻覚を見せないで! 眠れなくなるからっ!!」
 部屋にシェリルを尋ねて来て、うっかりその情景を目の当たりにしていたミリアとレオンは、やる気十分なシェリルに生温かい眼差しを送り、一通りの事情を聞いているミレーヌやカレンは苦笑いをしていた。
 そうこうしているうちに、侍従がやって来て開催時間が迫っている事を告げてきた為、最後に大広間に入場する国王夫妻と今夜の主役のミリアを残して、他の者は王広間へと移動する。

「じゃあシェリル、行こうか」
「ええ」
 レオンがシェリルを促して大広間へと移動するのを、ソフィアは他の侍女や侍従達と同様に頭を下げて見送り、今夜の成功を心の底から願ったのだった。

 夜会は当初順調に進行し、国王と主役であるミリアの挨拶の後、数曲のダンスタイムを経て歓談の場になった。
 招待客の貴族達は各自移動し、腹の探り合いをする者、旧交を温める者などそれぞれが有意義に時間を使っていたのだが、夜会も中盤に差し掛かった所で、会場の大広間の一角で、突如ルーバンス公爵ロナルドが怒声を発した。

「どうして貴様がここにいる!?」
 それによって一気に和やかな雰囲気が霧散した為、周囲の者達が声のした方に一斉に非難がましい視線を向けると、ロナルドに相対する形で佇む女性が、いきなり怒鳴りつけられた事で怯えた様に相手に問い返すのが目に入った。

「あ、あの……、何の事でしょう? 私が何か失礼な事をいたしましたか?」
「ルーバンス公爵、私の妻に何かご用でも?」
 その若い女性の傍らに立っていたイーダリスは、顔見知りの夫婦との会話を瞬時に中断し、気分を害した様に声の主を睨み付けた。するとロナルドは驚愕し、怒気も露わにその女性に詰め寄る。

「妻だと!? おい、ルセリア! これは一体どういう事だ!?」
「申し訳ありませんが、何の事を仰っておられるか全く分かりません」
 怯えながらも弁解した妻を庇うべく、ここで二人の間に割って入ったイーダリスは、格上の公爵に対して怯む事無く言ってのけた。

「妻の名はルーナと申します。多少見た目が似ていると言って、あの無礼極まりない、しかもお亡くなりになっているそちらのご令嬢と混同しないで頂きたい!」
「何だと!? どこが多少だ! どこをどう見ても本人だろうが! お前のせいで、我が家がどれだけ迷惑を被ったと思っている!」
 国王主催の夜会で、場も弁えずに二人が声高に言い争いを始めてしまった為、何事かと周囲に人垣ができつつあったが、その中から一際甲高い悲鳴が上がった。

「きゃあぁぁっ!!」
 その場に居合わせた者達が驚いて振り返ると、何故か第一王女のシェリルが真っ青な顔で扇を取り落としたのが目に入った。殆どの者がどうしてシェリルがそれほど動揺しているのか分からないでいると、彼女が自問自答する様に呟く。

「どうしてルセリア嬢がここに? レノーラ神殿でお亡くなりになったのでは無かったの?」
 それを耳にして、周囲の者達は先月ルーバンス公爵令嬢が引き起こした事件を思い出した。そしてどういう事かと興味津々の視線が集まる中、問題の女性が無言でシェリルに歩み寄り、扇を拾って恭しく彼女に向かって差し出す。

「どうぞ、王女殿下」
 まだ動揺しながらも扇を受け取ったシェリルは、その女性に名を尋ねた。
「あ、ありがとう。あの……、あなたのお名前は?」
「ルーナ・ライル・ステイドと申します。シェリル王女殿下には、初めてお目にかかります。私は出自が貴族ではございませんので、不作法な所がありましたら何卒ご容赦下さい」
 そう言って恭しくお辞儀をしてみせたルーナを見て、シェリルは意外そうに目を見開く。

「ルーナさん……、ええと、そうするとステイド子爵家の?」
 ここで一歩前に出たイーダリスが、シェリルに頭を下げて挨拶した。
「お久しぶりでございます、シェリル殿下。この度は領地で結婚した妻を伴って、王都に帰還致しました。その節は色々とご無礼を致しまして、誠に申し訳ございません」
 神妙に謝罪の言葉を口にしたイーダリスを、シェリルは真顔で宥める。

「あの結婚式の事を言っているのなら、あなたには全く非はありません。悪いのは全面的にルーバンス公爵令嬢ですから気にしないで。それよりもあなたが近衛軍勤務を暫く休んで、領地に引きこもったとジェリドから聞いて、心配していたのよ?」
 気遣わしげにシェリルが声をかけると、傍らのロナルドには冷ややかな視線が、イーダリスには哀れむ様な視線が集まった。そんな微妙な空気の中、イーダリスが微笑を浮かべながら穏やかに告げる。

「殿下にまでその様にご心配頂いていたとは……、恐縮ですし面目次第もございません。ですがそのおかげで、妻に巡り会う事ができました」
「それがこちらの方なのね。あの……、でも、宜しかったの? 失礼な事を言う様だけど、あなたとあなたのお家を散々貶した上、あんな暴挙に出た方と奥様が、その……、かなり似ていらっしゃる様な……」
 王女である自分にも、花婿であったイーダリスにも暴言を放った女性と、妻に迎えた女性が瓜二つだとはっきり言って良いものかどうか悩む風情で、シェリルが言葉を濁しつつ尋ねたが、イーダリスはそれを一笑に付した。

「あの女性と酷似しているからこそ、余計に妻を愛しく思っております」
「まあ……」
 素直に驚きを顔に表したシェリルに、イーダリスは改まった口調で言い出した。

「あの出来事で、確かに精神的にダメージを受けた私は、全てから逃れる様に領地に引きこもり、そこでルーナに出会った時は腹が立ちました。どうして忌々しい女と同じ顔の人間が、自分の目の前に現れるのかと」
「そうでしょうね」
 シェリルが深く頷き、周りの者達も心の中で同意する中、イーダリスの話は続いた。

「ですがルーナは確かに例の女性と外見は似ておりますが、心根は似ても似つかない程温厚で慎み深く、愛情溢れる女性です。傷付いた私の心はルーナによって完全に癒されました。それを実感した私は彼女に求婚すると同時に家族にも紹介して、全員から『あの高慢な女とは雲泥の差のできた嫁だ』と快く祝福して貰った次第です」
「まあ、そうだったの……」
 そこで深く頷いたシェリルは、ルーナに向き直って軽く頭を下げた。

「ルーナさん、先程は申し訳ありませんでした。見た目が多少似ている位で動揺して、声を上げてしまって。確かに良く見ればあの方の様に目つきが険しく無いし、声も甲高くはなくて明らかに別人ですもの」
 それを受けて、ルーナは微笑みながら返した。

「私はその方に直接お目にかかった事はありませんので、どの程度似ていらっしゃるのかは分かりませんが、既にお亡くなりになった方と伺っております。あまり悪く仰らないで下さい」
「え? どうしてかしら?」
「私が公の席に顔を出す度に、故人が悪し様に言われるのは、残されたご家族に申し訳無く思いますので……」
 そう伏し目がちにルーナが述べると、シェリルは感じ入った様に頷き返した。

「ルーナさんはとても優しい方なのね。確かにそうだわ。故人を悪し様に語るのは、如何にも品の無い事。もうこの話題はおしまいにしましょう。皆様も宜しいですね?」
 シェリルがぐるりと周囲を見回しながら声をかけ、最後にロナルドを軽蔑の眼差しで睨み付けつつ(この話をこれ以上蒸し返すなら、それ相応の報いを受けて貰います)と無言で圧力をかけると、それを察したのかロナルドは忌々しげに黙り込み、彼を除く全員が無言の頷きで応じる。それを見たシェリルは、安堵した様にルーナに微笑みかけた。

「イーダリス殿に素敵な奥様ができて、本当に良かったわ。心よりお祝い申し上げます」
「ありがとうございます」
 そんな和やかな空気の中一気に緊張が解れた周囲では、ロナルドとルーナを交互に見ながら囁き合った。

「何だ、驚いたぞ。本当に、あのルーバンス公爵の娘に生き写しだったからな」
「しかし王女殿下も言っておられた様に、話し方とか声も違うしな」
「言われてみれば、雰囲気も随分違いますしね」
 式に列席したルーバンス公爵家とは比較的近しい面々が頷いて納得すれば、噂だけを聞いていた者達も頷き合う。

「なんだ。結局他人の空似だったんだな」
「そもそもルーバンス公爵家では、即日葬儀を出して埋葬も済ませたと言う話でしょう?」
「そうそう。死人が生き返る筈も無いさ」
「王宮の管理官が遺体を調べようとしたら、それを理由に突っぱねたそうよ」
「それなのにあんな大声を上げるなんて、本当にルーバンス公爵は場を弁えない方ね」
 それらの声を耳にしたロナルドは憤然としてその場を立ち去り、ステイド子爵令息夫人と、自殺したルーバンス公爵令嬢は良く似た赤の他人という認識が、貴族間の公然の事実となったのだった。


 そんなハプニングがあったものの夜会は無事終了し、大広間から抜け出したシェリルは、隣接する部屋で控えていたソフィアと無事合流した。
「お待たせ、ソフィア」
「お疲れ様でした、シェリル様」
 恭しく頭を下げたソフィアを従えて、シェリルは後宮の自室に向かって歩き始めたが、少しして周囲に人目が無いのを確認してから、ソフィアが小さく礼を述べた。

「ご協力、ありがとうございます。今回は面倒な事をお願いして、申し訳ありませんでした」
「ううん、別に大した事では無いから気にしないで。あのルーバンス公爵が憮然として黙り込むのを見た時は、笑い出しそうになって大変だったわ。でもこれで何とか、貴族間でルセリアとルーナは別人って言う認識はできたみたいよ?」
「それは良かったです」
 そこで安堵の笑みを見せたソフィアに、シェリルは幾分心配そうに問いかけた。

「でも、ルーバンス公爵が、ルーナがルセリアだって訴えないかしら?」
「そのご心配は不要かと」
「どうして?」
 不思議そうに尋ねたシェリルに、ソフィアが小さく笑って説明を加える。

「ルーバンス公爵は謂われのない罪で追及されるのを防ぐ為、王宮に所定の手続きを踏んで死亡届けを出しています。それを取り消すとなると、それ自体が嘘の届け出をした罪になります」
「あ、そう言えばそうだったわ」
「それに、どうすればルーナがルセリアだと証明できるでしょうか? 彼女はこれまで殆ど社交界に出ていませんでしたし、恐らく絵姿を含む私物は全て、このひと月の間に公爵家が廃棄してしまっているでしょう」
 そう言って意地悪く笑ったソフィアに、シェリルは感心した様に頷いた。

「なるほどね」
「そういう訳で、今後ルーバンス公爵家がステイド子爵家に難癖を付けたり働きかける事は、金輪際不可能なわけです」
 ソフィアがそう話を纏めると、シェリルはしみじみと感想を述べた。

「本当に抜かりないわね。凄いわ、ソフィア。今日の夜会も事前に教えて貰っていたブラン織りのドレスと、クラウダーの新作の絵画と、ロマーレ国から最近入ってきた新種のミンティアの花の話題で、周りから浮かなくて済んだし。本当にソフィアのおかげよ?」
 主から感謝の言葉と眼差しを向けられて、ソフィアは何でも無い事の様に微笑んでみせた。

「これ位、どうって事ありませんわ。これも私の仕事のうちですので。私がお側に居る限り、シェリル様に恥はかかせませんから安心して下さい」
「ありがとう、ソフィア。頼りにしてるわ。結婚してモンテラード公爵家に入っても、付いて来てくれたら嬉しいけど……。元々ソフィアはファルス公爵家から派遣されている形だし、難しいわよね?」
 少し残念そうに言われて、ソフィアも一瞬困った顔付きになったが、すぐに微笑みながらシェリルを宥めた。

「そこの所は、公爵様と国王陛下にご相談しなければ、何とも言えませんが……。姫様が王宮におられる間は、全力でサポートする事をお約束致します」
「ええ、ありがとう。頼りにしているわ」
 それからは他愛も無い話をしながら二人で廊下を進んで行ったが、ソフィアは先程のやり取りを頭の中で反芻した。

(そうね……、確かにあの裏表の有り過ぎる奴が、私を姫様付きの侍女としてモンテラード公爵家に迎え入れるとは思えないし。それに万が一そうなったら、デルスとしての活動を止めなければいけないから、私としてもそれはちょっとね……)
 そこまで考えたソフィアは、あくまでも前向きに考えてみる事にした。

(だけど、姫様の降嫁を遅らせれば遅らせただけ、姫様のお世話ができるわけだし……)
 そこで更に、自分に都合の良い状況を作り出す方策について考え始める。

(陛下は本音ではまだまだシェリル様を手放す気は無さそうだし……、姫様を気に入っている王妃様を介せば、容易に説得できるわよね? 軍関係は近衛総司令官が女官長の旦那様でリリスの父親なんだから、二人から働きかけて貰ってと。……うん、何とかなりそうだわ)
「……ふふっ」
 そして思わず漏れた笑いを耳にしたシェリルが、不思議そうに尋ねてくる。

「ソフィア、どうかしたの? 黙り込んだと思ったら、急に楽しそうに笑って」
 それにソフィアは、微笑みながら謝罪した。
「失礼致しました、姫様。少々、楽しい事を思い付きまして」
「そうなの? どんな事」
「姫様にお話する程の事では……。それよりお疲れになりましたでしょう? 早く戻って休みましょう」
「ええ、そうね」
 そして二人は気分良く後宮に引き上げ、ソフィアは早速翌日から裏工作に奔走した。

 それから十日後。早くもソフィアの水面下の活動が、実を結ぶ事となった。

「サイラス! サイラスは居るか!?」
 昼下がりにドアを蹴破る勢いで、王宮専属魔術師の詰め所に押しかけたジェリドは、広い室内に足を踏み入れるなり、声を張り上げた。その鬼気迫る剣幕に、居合わせた魔術師達が思わず腰を浮かせる。

「モンテラード司令官?」
「何事ですか? サイラスならそこに」
 動揺する周囲を無視し、サイラスを発見したジェリドは、一直線に彼に突進し、思わず逃げ腰になった彼の胸倉を掴み上げて脅しつけた。

「貴様! さっさとあの腹黒女をモノにして、王宮から引きずり出せ! でないと国境の砦に飛ばしてやるぞ!!」
「はぁ!? いきなり何を言い出すんですか?」
「ちょっと、モンテラード司令官? 何でサイラスが飛ばされる事になるんですか?」
 なにやらソフィアの事を言われたとは分かったものの、その理由がさっぱり見当が付かなかったサイラスと、同じく困惑したエリーシアが尋ねると、ジェリドは怒気を露わにしながら語り始めた。

「王太子のレオンが、来月から半年間の予定で隣国グレーナダンへの遊学が決まった」
「それが?」
「お付き武官として、俺が指名された」
「それはそれは……」
「……あらまあ」
 そこまで聞いて、そうなるとこれまで延び延びになっていたシェリルの降嫁予定が、更に遅れる事になったのだろうと理解できたサイラスとエリーシアは、何とも言えない顔を見合わせた。そして苛立たしげなジェリドの悪態が続く。

「『必要最小限の人員でも、王太子を確実に警護できる人材。しかも異国で気を緩めかねない王太子を諫め、場合によっては強硬措置を取れるのは、近衛軍第四軍司令官であり、私の甥でもあるそなたしかおらん』などと如何にも尤もらしい事をほざきやがって! あのヌケサク親父がっ!!」
「もしも~し? 今あなたが貶したのは、この国の国王陛下だと思うんですけど~?」
「王太子とあんたの今後の予定は分かったが、それがどうして俺が吊し上げられる事になるんだよ!?」
 二人はそれぞれ違う方向からの正論を述べたが、ジェリドはそれを一刀両断した。

「あの女が裏から手を回して陛下を丸め込んで、わざわざ俺を国外に出して、またシェリル姫の降嫁の時期を遅らせようと画策したからに決まってるだろうが!!」
 それを聞いた二人は、瞬時に納得した。

「……ああ、そういう事か」
「あんた達、微妙に仲悪いものね。シェリルの前ではいつも二人で、気持ちが悪い位にこにこしてるけど」
「どっちも腹黒だからな」
「同族嫌悪って奴よね」
「うるさい。それよりあの女を何とかしろ」
「ちょっ……、そんなに激しく揺さぶるな!」
 そして更にサイラスを脅しにかかったジェリドに、エリーシアは何気なく尋ねてみた。

「ジェリドさん。因みにソフィアさんがサイラスと結婚して王宮勤めを辞める事になったら、サイラスを飛ばす話は無しになるわけ?」
「ああ、一人で飛ばすのは止めて、二人一緒に飛ばしてやる」
 そんな事を素っ気なく言われて、流石にサイラスが腹を立てた。

「どっちにしても飛ばすの前提かよ!? ふざけんな!! 自分で何とかしやがれ!」
 そして呪文を唱えてジェリドを弾き飛ばすと、魔術師としてもそれなりの力量を持つジェリドが、衝撃を受け止めつつ壁の手前で踏みとどまり、迷わず腰に下げていた剣を鞘から抜き去った。

「この事態はそもそもお前が不甲斐なくて、惚れた女に好き勝手させてるからだろうが!」
「その女にしてやられてる男の、負け惜しみにしか聞こえないぞ!」
「ちょっとサイラス! こんな所で暴れないで!」
「モンテラード司令官! ここで剣を抜かないで下さい! 魔術発動も禁止ですよ!」
 そして忽ち一触即発の事態に陥った魔術師棟は、その日、一部が崩壊するという不幸に見舞われた。


「あら? 今のって……」
 同じ頃、後宮の自室でソフィアに刺繍を習っていたシェリルは、微かな振動と聞き慣れない衝撃音を感じて、ふと顔を上げた。
「ねぇ、ソフィア。今何か遠くの方から、変な音がしなかった?」
 しかしその問いかけに、ソフィアは平然と応じる。

「確かに何か、変な音がしましたが、大事ではないでしょう。何かあったら後宮にも知らせがくるでしょうし」
「それもそうね」
 それで懸念を払拭したシェリルに、ソフィアは彼女の手元を指差しながら、笑顔で促した。

「それより、レオン様の遊学に同行するジェリド様の出立までに間に合う様に、そのハンカチの刺繍を仕上げてしまいましょう」
「そうね。喜んでくれるかしら?」
 幾分自信無さ気にそんな事を言ってきたシェリルに、ソフィアは満面の笑みで力強く断言した。

「勿論ですとも! 姫様がジェリド殿の道中の無事を祈って、一針一針心を込めて刺しているのですから。きっと号泣して、喜んで下さる事確実ですわ!」
「そんな……、ソフィア、大げさすぎるわよ」
 照れて赤面しながらちくちくと針を動かし続けるシェリルと、彼女を優しく見守るソフィアを先程から壁際で観察していたリリスは、思わず遠い目をしてしまった。

(モンテラード司令官が泣くとしたら、確かに半分は姫様への感謝の気持ちにでしょうけど、半分はソフィアさんにしてやられた事に対する悔し涙だと思うわ……)

 そんな些末な軋轢があったとしても、エルマース国はその日も概ね平和だった。

〔完〕

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