時は江戸末期。安政(あんせい)四年。津領――初春。津の港湾。
江戸の大樹樣(たいじゅざま)が日本各国領に、遊学の沙汰を出して、数年。波は津にもやって来た。
――己(おれ)は長崎海軍伝習所と呼ばれる教育機関に入る。そこで船や、蘭学、最新記述を学んで、いち早く知識を得、藤堂高猷(たかゆき)こと和泉(いずみ)守(かみ)のお役に立つが目標だ。
選ばれた十二名が一、堀江(ほりえ)鍬(くわ)次郎(じろう)は、今より船旅で長崎に発つ!
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(和泉守樣と奥方樣がまたドンパチや。仲がいいのか、はたまた、悪いのか……)
「ここにいたのか、鍬」
何処に行ったと思えば、何してやがる――と、皮肉が聞こえそうな口調に振り向いた。堀江鍬次郎の黒髪の丸いボサ頭から、桜の花びらが、ゆっくりと滑り落ちて来た。
声の主は津国の国主、和泉(いずみ)守(かみ)、藤堂高猷である。べべべん、と聞こえるは、奥方、瞳子(とうこ)樣の怒りの三味線の音。安堵を滲ませて、鍬次郎は高猷に訊いた。
「和泉守様。さすがに、物思う部分が。己、ほんまに長崎(ながさき)遊学(ゆうがく)に?」
「嘘言ってどうするんや。小猿の丸頭にまた要らん不安を詰め込みよったな」
「また小猿の丸頭言う。気にしてるんや! 背も低いし、手垢付きの小猿や、己は」
「お猿はお利口さんやで。果物剥いて、勝手に食う」
皮肉上手な高猷だが、憎めない愛嬌(あいきょう)がある。高猷は、穏やかだが、津の元締めの気っ風の良さがある。しかし奥方には頭が上がらない。
粋な着物が良く似合う、人情に厚い、どこか温かみのある男だった。
「津もすっかり春の色やなあ、物思いには丁度ええ。な、鍬次郎」
山荘に春風が吹き抜けた。くねった細道の堀の水辺には葦がびっしりと生えていた。赤い丸橋を渡ると、染井吉野の桜が出迎える。京の貴族舘を思わせる造りだった。
それもそのはず。津は、京の都にごく近く、文化の影響も大きい。
大振りの染井吉野の真下に、椅子が三つ。婆さまたちが花見準備に置いたのだろう。
――津という日本のど真ん中は、今や海禁と開国に挟まれ、大きく揺れていた。
(いちはやく、開国の頸城(くびき)を上げた人物が、この和泉守樣。己は先進的な考えは大賛成だ)
大人たちは違う様子。高猷という奔放な国主に対し、厳しい目を向けている。
(まあな。侍である津の藤堂家の家臣が、異国の勉強をする必要はないと主張する父とは相容(あいい)れられず、顔を合わせれば罵り合い、譲歩もできない。母は、おろおろと見守るだけ。兄は父の逆鱗(げきりん)を怖れ、いいなりの人形や)
鍬次郎が、己の劣悪な環境にも凹まずに、前向きになれたは、高猷の存在が大きい。
――兄様のようにはならん。己の道は、己が決める。
鍬次郎は透ける陽光に目を向けた。眩い光の中、高猷が空に向かって両腕を広げた。
「長崎へゆくで! 鍬次郎! 今更、不安と言われようと、俺は、おまえを連れて行く。鍬次郎。侍より、蘭学者として生きる覚悟はあるんやろ? いずれ子は旅立つ。数えで十八歳なら、旅立ってもおかしくない」
力強い言葉に、いつだって導かれる。高猷について行けば、未来は拓ける。
(親父の話は、考えたくない。前だけ、見よ。ついて行くんや、この人に)
「和泉守樣。また、奥方樣とやりおうた? 凄い音の、三味線が鳴ってるやないですか」
高猷は鍬次郎の言葉にニッと笑って、「ええ曲やろ」と男らしい横顔を向けた。
❀2❀
江戸上屋敷を構えるほどの大名である藤堂家には、家宝と呼ばれる品々が多い。
(みなが、もう集まっている)
鞍(くら)の置かれた飾り棚の前には、わらわらと少年たちが群がっていた。皆、年はさほど変わらないが、恐らく、十八歳の鍬次郎が年長者。既に少年たちには仲間の輪があるらしく、鍬次郎が駆けつけると同時に、去って行った。
囲炉裏(いろり)の側には、二匹の猿、もとい、二人の婆さまが暖を取っていた。
〝この鞍は、儂の愛する人が贈ってくれた宝物ぞえ〟
津の婆様が一、靜婆(しずかばあ)の言葉だが、婆さんの思い人が誰かなどとは、とんと興味がない。(適当でいいか)とぱんぱん、と軽く手を叩いたところで、囲炉裏(いろり)の側のお猿が動いた。
「くぉら! 鍬次郎! なんじゃ、その手の合わせようは!」
靜婆は顔が四角い。小顔だが、ひしゃげた顔をしている。ひゃひゃひゃと笑って、囲炉裏から這い出てきた。
「ばさま、こんな汚れた鞍に、うっとりしろというほうが無理じゃ」
「なんだと! このバチ当たりの小童!」靜婆の声に、囲炉裏で転(うた)た寝こいていた、津の三婆が二、淸水婆が目を醒ました。一番元気なゑつ婆は、いないらしい。
「うひゃ、この鞍には、儂の素敵な浪漫があってな。その昔、儂は可愛らしい豆腐売りじゃった。ひゃひゃひゃ、甘酸っぱいのぅ」
(しまった。始まった)と鍬次郎は足を後に引いた。靜婆の昔語りは長い。呆れたところで、竹の破片と、短剣が目に入った。
竹蜻蛉(たけとんぼ)造りは難しい。今朝、良い若竹が手に入ったので、削ろうとしたところだった。
木の湿り気もさることながら、良く飛ぶ竹蜻蛉は未だ作れない。
竹を切り出して羽状の竹片と、硬い竹籤(たけひご)を軸となる心棒として取り付けて……作り方も、原理も判っている。持ち前の負けず嫌いの性分で、鍬次郎はせっせと竹を削っては、屋敷の回廊の一角に並べていた。通算三十二個目の竹蜻蛉。名前は〝安濃〟
(竹蜻蛉は親父がよく教えてくれたんやったか……持っていくか)
削り始めたばかりの竹と、短剣と一緒に風呂敷に包んで、もう一度、鞍に手を合わせた。
ふと、高猷の姿が、ちらりと見えた。ばさまの話が嫌で、戸口で様子を窺っているらしい。目ざとい淸水婆の目が向いた。
「和泉よ。その年で、離縁(りえん)されたら、どうするつもりじゃ。べんべんべんべん。うるさくて敵わぬ。昼寝の邪魔ぞ」
「奥! 俺は長崎に向かうぞ! 俺の着替えは、どこだ」
奥座敷からの三味線がピタリと止んだ。鍬次郎はさっと頭を腕に隠した。
しゅっと手裏剣のように風呂敷包みが飛んできた。くわんと鍬次郎に当たった。
当たった衝撃で風呂敷が解け、褌(ふんどし)が飛んだ。続いて、高猷の大切にしている煙管(きせる)がくるくる回って飛んできて、高猷の足の間に落ちた。
見ていた淸水婆が、ぶは、と笑って口を押さえた。
「この、恐妻! 長崎のとっときの土産と共に、今度こそ、立派に俺の子を産ませるぞ!」
(あ、靜婆がこっちを見た)
「こりゃ、和泉! 儂の恋話を聞け!」
高猷は鍬次郎に「船におるで」と耳打ちし、どたどたと逃げて行った。(全く、落ち着きがない。子供みたいだ。己のが大人や)鍬次郎は笑いの混じった息を吐いた。
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「あ、三味線」
港を離れる直前、優雅なる春の箏曲が聞こえてきた。怒りを引っ込めた、代わりの優しい旋律。奥方樣だ。高猷も気付いたらしく、空を煽いでいたが、やがて気にするを止めた。
「台風の季節にはほど遠い。春雷もないやろ。よい風や。穏やかな船出やな」
高猷の声に、鍬次郎は空を見上げた。日々、お天道様も高く登ってゆく。冬は明けた。
津を離れる港の埠頭の遠くに、父、堀江忠一の姿を認めた。同じボサ頭に唇をへの字にした鍬次郎の肩を、高猷が叩いた。鍬次郎は唇を尖らせ、ボソとぼやいた。
「来なくてええのに。偏屈(へんくつ)な親父じゃ」
「父とは息子にゃ、なかなか素直にはなれねぇモンよ。息子もそうや。父には素直になれんが、どこかで尊敬しているもんだ。俺がそうやったよ」
目ざとい高猷は、鍬次郎が無造作に輿(こし)紐(ひも)に突っ込んだ腰の刀を突いた。
「忠一は驚いたろうな。愛刀がねえぞってな。んで、無事を刀に託すしかなくなった。憐れな男やなぁ、そして、幸せな親父や」
胸に染みる言葉だった。親父の言葉は遠くても、高猷の言葉でなら伝わる気がした。
鍬次郎は刀を抜いて、刃先を真っ直ぐに親父に向けた。
(超えてやる、おまえを。侍ではない生き方を、己は見つけてみせるで! 見てろや!)
「行ってくんで! あほんだら親父! 母ちゃん泣かしたら、ただじゃ済まさん!」
怒鳴ってすっきりして、刀を鞘に納めた。
海風に顔を攫われながら、拓けた広い世界に、心ごと飛び込んだ――。