08
日常の積み重ねを、十三番は知らない。
記憶をさかのぼれば、確かに「名前も知らない誰か」の日常を実感できるのだろう。そうすれば、ニコラの言葉も分かるのかもしれない。
ただ、十三番はできるだけ、昨日より前の記憶を思い出したくはなかった。
そこにある言葉や表情は、十三番へ向けられたものではない。
応えた行為も。付随する感情も。
他人の記憶は、無遠慮に触れるには柔らかすぎる。
「だから、問題はこれからですね」
ニコラの言葉は、薄い笑みを伴っていた。
「……これから?」
「変容を求める【死神】が目覚めたのなら、この場所は少しずつでも変わっていくでしょう。そうなれば、変化のない今までの毎日なんて記憶から薄れてしまいます。……私も、十三番と似たような条件でこれからの変化に慣れていくのだと思いますよ」
聞きながら、十三番は当然のことに思い至った。
仮に、名も知らない青年の遺志を叶えたとして──そのあとはどうするのか。
積み重ねのない十三番は、自分自身に目的がない。
「さしあたっては……そう、あなたの部屋を準備しなければならないんでした」
ニコラは上機嫌に言って、周囲に散らばったハーブの袋や解体の道具を拾い集めていく。
周りに散らばっていたものがなくなり、死体だけがぽつりと残されているのは、葬式の直前のようにも見える。
「それとも、神殿の中でも案内いたしましょうか? 空室ばかりで面白味はありませんが」
「いや……しばらくはここにいる」
「そうですか」
ニコラは嫌みのない口調で承諾すると、会釈してからその場を去った。
足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなって、十三番の周囲は再び静寂に包まれる。
足元に横たわる馬は、当然ながら沈黙を保っている。毛づやも血色もなくし、内臓を取り払われ、防腐のハーブや薬品にまみれた姿は、悲惨といって差し支えない。
しかし同時に、目を離せない。
カルム。
十三番はもう一度、口の中で馬の名を繰り返す。
これが、たった一つ記憶に残された固有名詞。
再び相棒として名を呼べるようにするか、あるいは墓に刻むだけの名とするかの判断は、十三番に託されている。
中庭に吹く風に紛れ、十三番はため息を吐いた。
その風が、死体に乗っていたハーブを一枚奪っていく。風にさらわれた葉を目で追うと、神殿の二階の窓に【世界】の白髪が見えた。