試練の道
イヨは次の日から学校にも登校しなくなった。
登校時に捕まるかも知れない。そういう最悪の事態を警戒したからだ。
彼女の部屋は、ダイニングルームが宛がわれた。
彼女の日課は、朝5時に起床し8時まで執筆、それから学習と読書と家事の手伝い、17時から23時まで執筆と、時計のように規則的だった。
時間が来たら、文章の途中でもピタリと
途中まで書いた尻切れトンボのような文章を放置しないで、もうあと一寸なら最後まで書けばいいと思うのだが、彼女は8時と23時の時計の長針が0を指した途端、必ず筆を置くのだ。
その潔さには恐れ入る。
原稿は万年筆で書いているが、ほとんど修正した形跡がない。これは漫画以外活字本には興味のない俺でも凄いことだと思った。作家と聞くと、何度も書き直して原稿用紙を丸めて放り投げる姿を想像していたからだ。
彼女は 中学1年から推理小説、冒険小説、時代小説、SF小説、ファンタジー小説を2冊ずつ書いていて、今は恋愛小説を書いているという。
中学2年の時の初出版に際して、旧作は全面書き換えて出版したらしい。
問題となったのはSF小説の2作目とのこと。
SF小説の地震予知のことは、彼女は大嘘だと言ったが、本当は未来人と交信して未来の出来事を警鐘として書いていたのではないか。
そう思うと、彼女が時々左手で頬杖を付いてブツブツ言っているのだが、左手に隠し持っているマイクで未来人と交信しているのではないかと疑えるのだ。
彼女は執筆している最中は一切口をきかない。
背中に鬼気迫るものを感じるので、こちらも何も言わなかったし、近寄ることもしなかった。
彼女は時々天井を見つめているが、急に一気に書き始める。手が止まると、今度は頭を抱えてジッとしている。
息を止めているのではないかと心配するが、突然堰を切ったように書き始める。
そんな彼女は家から一歩も外に出ないので、インクや原稿用紙の買い出しは俺が手伝ってあげた。彼女の役に立っていると思うと、この種の手伝いは何も苦にならない。
漫画の場合はアシスタントがいるが、彼女の場合はこの俺がアシスタントである。と言っても原稿には何も触れず、世話係みたいだが。
机に向かっている時は飲食厳禁なので、差し入れも不要だ。
23時までにお湯を沸かしてちゃぶ台の上にお茶とお菓子を
お菓子を美味しそうに頬張り、お茶を啜る彼女の姿は可愛い。
この彼女の指先から壮大なストーリーが書かれていくのかと思うと、畏れまで感じる。
寝るまでにちょっとした世間話をするのだが、深夜に及ぶ。このため、妹に『眠れない』と怒られるので、小声で話すことになるのは残念だった。
今書いている恋愛小説のネタはどうしているのか聞いてみたら、彼女は真っ赤な顔をして答えてくれなかった。
想像でどうやって書くのか気になって詮索してみたが、茹で蛸のように顔が赤くなるので、気の毒になって聞くのをやめた。
もし『好きな人は?』なんて質問したら、彼女は卒倒したかも知れない。
あるとき、彼女が風呂に入っている隙に、悪いと思ったが、書きかけの原稿を見せてもらった。
原稿は裁縫台の上にある。その脇によけている2、30ページ分の原稿が大きな罰点の文字で消されている。没ということだろう。彼女にしては、没は珍しい。
裁縫台の上の原稿は整然と書かれている。清書のように修正がない。
その原稿の1ページ目を読んだ。
劇的な始まり。
『この先どうなるのだろう』とグイグイ引き込まれる。
脇目を振る隙を与えない。
思わずページを
しかし、新作の恋愛小説をこれ以上読んでは悪いなと思ったので戻そうとすると、
裏返すと以下のように書いてある。
マモルさん → 私
↑↓ ✕ ↑
妹さん ← 悪者、偽善者、恋敵
見てはいけない物を見てしまったような気がして、慌てて原稿用紙を元に戻し、端を揃えた。
ある日、俺は珍しく早めに学校を出た。イヨの好物のコロッケを買うためだ。
彼女が喜んでコロッケを頬張る姿を目に浮かべ、ちょっとニヤけながら家に向かった。
家まで20メートルくらい手前の所に来た時、玄関の前に数人の人影が見えた。
学ラン姿が二人、ブレザー姿が三人。全員うちの学校の生徒である。
(誰だ、あいつら?……もしかして、隠れ家が見つかったか!)
俺は駈けだした。
すると、玄関が内側から開いた。
妹は今日遅いから、開けたのは彼女のはずだ。
その途端、五人が我先にと中へ雪崩れ込んだ。
(ヤバい!!)
俺はダッシュして、開いたままの玄関から中に入り、ダイニングルームへ飛び込んだ。ただならぬ物音で中にいた連中は一斉にこちらを見た。その中に怯える彼女もいた。
「誰だ、お前ら! 人の家に勝手に上がり込むな!」
俺の剣幕に、中央にいた縦ロールの髪型の女生徒が扇子を片手に
「あら、御免あそばせ」
(あ、廊下で見かけるお嬢様だ。とすると、こいつらはお嬢様とその取り巻きか?)
イヨは「妹さんの友達と言うから玄関を開けたら、急に入って来られて」と言う。
「お前ら、騙したな!?」
「いえいえ、そうでもしないとこの緊急事態に扉を開けていただけませんから」
(緊急事態? 何を知っているのだろう)
「
(会長? こいつが?)
命令した女生徒は縦ロールの髪をユラユラさせながら軽くお辞儀をする。
「このようにわたくし共がご自宅まで押しかけてしまいまして、ご無礼のほど大変失礼いたしました。実は、イヨさんの緊急事態に生徒会も黙って見てはいられなくなりましたものですから」
「……」
「わたくしを覚えていらっしゃるかしら? 生徒会長の
「ガヨジマ ルイさん? 覚えがない」
「一応メンバーをご紹介いたしましょう。こちらが副会長のメグミ、書記のルミ、会計の
「俺は-」
「存じ上げておりますわ、
「たぶん、いろんな意味で有名でしょうが」
「それはもう。マモルさんが兵隊さんと大喧嘩された時などは、わたくし共も事情徴収されました」
「あの時のことは、記憶喪失なので覚えてなくて。……ところで、なぜここが分かった?」
「イヨさんが学校に来なくなったので、イヨさんの彼氏のところに同棲していらっしゃるのかしらと」
同棲という言葉を聞いて顔が熱くなった。
「そういう仲ではなくて。ちょっと事情が」
「全部分かっておりますわ。もちろん、イヨさんのペンネームも」
イヨは目を丸くした。俺も同じだった。
(何でもお見通しってやつか……)
ルイは右手に扇子を持ち、それで左の手の平をリズミカルに叩きながら言う。
「ところでさっき行ってきましたけど、イヨさんの家の周り、凄いことになっていましたわね。イヨさんは顔出しされていないですし、家も極秘ですから、あれは熱狂的なファンのはずありませんわ」
「ストーカー。妄想家の類いだ」
「あの人達のお話では、後1ヶ月で巨大地震が来るそうです」
「絶対に来ない。あれは大嘘」
「分かっていますわ。あの作品、誰が読んでもあの頭文字を拾えば『大嘘』って読めますのに。普通なら冗談みたいな話で済ませるところを、こういう世の中ですから、ちょっとおかしな方向に考えが行ってしまわれる方々が少なからずいらっしゃいます」
俺は床に座って、吐き捨てるように言う。
「そんな連中のせいで家に近づけないなんて馬鹿げた話だ!」
「本当、馬鹿げたお話ですわ」
「それで、ここで
ルイは扇子で俺を指す。
「ところが、そうも言っていられない事情があるのですわ」
ルイはイヨの方を振り返る。
「ねえ? イヨさん?」
呼ばれた彼女は下を向いて黙っている。
「イヨさんは、後方支援部隊に赴任するため、明後日の壮行会で全校生徒の前にお顔を見せた後、すぐ軍の車に乗る必要がありますの。ここにずっと隠れていらっしゃるおつもり? 隠れていらっしゃると、命令違反で営倉行きですわ。いいえ、まだ軍人ではありませんから牢獄行きですけど」
(初めて聞いた)
俺は固まって言葉が出なかった。もちろん、当の彼女も黙ったままだ。
ルイはふぅと溜息を付く。
「イヨさん。マモルさんはご存じないみたいですわ。なぜ黙っていらしたの?」
「それは……それは……」
彼女は目に涙をためた。
「お気持ちは分かりますわ。死神ってヒドいこと言われて。行く先々で誰かが傷ついて。今度の赴任先でまた誰かが、と思ったのでしょう?」
彼女は目を閉じて頷く。両目からは涙が
ルイは再びふぅと溜息を付く。
「さて、メグミ? 名案は?」
メグミと呼ばれた女生徒は目を白黒する。問いかけは予想外だったのだろう。
ルイは扇子でメグミの頭をビシッと叩く。
「名案は!?」
「はい! 会長!」
でも名案は出なかった。
ルイが重苦しい沈黙を破った。
「仮に任務に就くといたしましても、学校で全校生徒の前に立つのはそろそろ危険でしょうし、さらに赴任先にまであの変な人達が紛れ込んでいると厄介ですわ。何か良い方法がありませんかしら?」
しばらく沈黙が続いた。遠くの方で豆腐屋の呼び声が聞こえてきた。また沈黙が続いた。
(彼女を助ける……助ける……このまま行かなければ助かる……行かなければ)
俺はハッと閃いた。閃いたことをすぐに口にした。
「その任務って、誰かと交代できる?」
ルイはそれまでリズミカルに動かしていた扇子を左の手の平に置いたまま眉を八の字にする。
「交代ですって?」
「そう、交代」
「まあ……わたくしの権限で校長先生の許可をいただければ出来ないこともないかと思いますわ。軍は正直、健康であればどなたでもよいのですから。で、交代はどなたと?」
俺は深く頭を下げた。
「俺が行きます! お願いです、彼女と交代してください!」
ルイは少し考えてから口を開いた。
「分かりましたわ。掛け合ってみましょう。……それから、イヨさんはわたくしの家で預からせていただきますわ。ボディガードがたくさんおりますの。明日お迎えに参りますのでそれまでにご支度を」
その日の夕方、妹は俺に抱きついて大声で泣いていた。生徒会の連中は納得して帰って行ったが、一番納得しないのは妹だった。
「もしものことがあったらどうするの! 私の家族はお兄ちゃんだけよ! 行かないって言って!……やめるって言って!……なかったことにして!」
ワンワンと泣き止まない妹を説得するのに2時間かかった。
「……死んじゃ、いや!」
「大丈夫。後方支援部隊は戦闘にならない。俺は必ず帰ってくる。約束する。絶対だ」
「でも……でも……でも……」
「マユリの写真を一枚くれないか? お守りにするから」
妹は涙でクシャクシャになった顔をこすりながら自分の部屋へ行った。
しばらくして、写真を1枚胸に当てて持ってきた。
「これ、私の一番のお気に入り。綺麗に撮れてるでしょう?」
「ありがとう。大切にするよ」
俺はヘルメットの裏に貼り付けるつもりでいた。
イヨは涙も涸れた泣き顔で言う。
「……ゴメンなさい……私のために……なんて言えば」
「大丈夫。1ヶ月で休暇が出るらしい。その時は小説の嫌疑も晴れているだろうし。一緒にお祝いできるさ」
閃きに任せて決めてしまったが、後悔はしていなかった。