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6.白き閃光

 シェイラはただひたすら駆けた。バチャバチャと音を立て、跳ねた黒い泥が顔についた。
 不快だった靴の中も、今では全く気にならない。肺が釣り上がるような痛みも忘れ、ただ一点に向かって土を蹴り続けた。

 畑を荒らす《キングクラブ》達は、土の地面を打つ強い足音に気づいてなかった。
 雨音に紛れていたのもあったが、彼らは警戒をなおざりに、ただ目の前の作物を食う事に集中している。
 ――その中の一匹が、影が差すのを感じ、赤茶色の頭をあげた時だ、

「ヤァァッ!!」

 黒真珠のような目に、闇を裂く、鋭い閃光が飛び込む――。
 それはまるで、地を走る稲妻のようでもあった。
 人間の言葉もだが、目の前のそれに《キングクラブ》は理解できないでいる。
 理解できたのは、それは硬く、口から腹を突き抜け……己の命が失われてゆく事だけだ。
 ガシュッと仲間が貫かれた音に、初めて《キングクラブ》はその存在に気づいた。

 ――仲間が死んだ
 ――どうして死んだ?

 カニの黒眼に映ったのは、長い髪が頬や身体に張り付き、脚から胴にかけて泥だらけの女だった。
 女が手にしている槍は、小刻みに震える仲間を貫き、落雷の如く大地に突き刺さっている――。

「アナタ達が荒らしていい畑じゃないのよッ!!」

 女を凝視する目に気づいたシェイラは、強く叫んだ。彼女の目は強い意思を覗かせ、これまでの弱々しさは見受けられない。
 続けざまに、槍がヒュンと音を立て、白い槍の穂先は二匹目のカニを刺し貫く。
 全部で五匹、残り三匹――。その三匹は巨大なハサミを開き、高く構えて向かって来る。
 三匹の《キングクラブ》は、円を描くようにチョロチョロと駆け回り、シェイラとの距離をじわじわと詰めてゆく。
 素早く横に動き回るそれは、シェイラの狙いを定めさせず、槍の穂先が地面に突き刺さるだけだった。

 ――《キングクラブ》は、地を踏みしめる脚の腱を切りに来るため、決して背後を取られてはならない。獲物が動けなくなれば、樫の木の枝ですら容易く切り落とすハサミで、その肉を切り刻んでくるからだ。
 ベルグが言う『グリーブが必要』との理由はここにあった。

「――なら、これはどうッ!」

 ブンッと振り上げられた槍に、一匹のカニが吹き飛ばされた。
 重いそれにスイングされたカニは、強硬な甲羅が砕かれ、バチャッと音を立てた地面の上で、仰向けに悶えている。
 《キングクラブ》は、一方向に等速で移動するため、狙いもタイミングを合わせるのも容易い。反対側から振り抜けば、自ら当りに来てくれるのだった。

「残り二匹――ッ!」

 脚を狙いに来たそれを躱し、蹴っ飛ばす。
 息が粗いが、疲労感は感じない。彼女の中で、湧き立つ何かがそれを感じさせなかった。
 荒らされた畑、そこに広がる食い散らかされた野菜の残骸……それを見るたびに、シェイラに怒りがこみ上げてくる。

 ――無力な者は、ただ見守るしかない。

 単身乗り込む事の無謀さは重々承知していたが、“怒り”が彼女を突き動かした。
 悪党に村を奪われた時も、このように畑を無茶苦茶にされるのを黙って見ているしかなかった。
 守ってくれる者はいないのか、野放しにされている悪い人を捕まえ、罰を与えてくれないのか……幼な心に、シェイラは震えながら神に呪詛を述べた事もある。

(私が……私が守るんだから――ッ)

 シェイラのその意思は、かつて攻撃する事に躊躇した自分を打ち破っていた。
 集中していれば、相手の攻撃を避けられる――チャンスを見つけても、『痛いかも』と心のどこかで相手を気遣ってしまう。見知った者であればあるほど、叩く事ができなかったのである。
 痛みを知るからこそ、相手に与える痛みを知っている……シェイラの心根が優しすぎるのが、“弱さ”の一つであった。
 相手はモンスターだから、ではないが、それ以上にこの《キングクラブ》が許せない。彼女の意志の中には、“復讐心”があった――。
 左右のハサミで突き刺しに来たのを躱し、槍の石突きでコロンとひっくり返す。
 そのまま槍をくるりと回転させ、カニの白い腹に穂先を突きたてた。

「はぁッ……はぁッ……!」

 動き回るものはもういない。一人で全部倒した――シェイラはそう思った。
 生まれて初めてモンスターを倒したが、それはカニであるのもあってか、特にこれと言った感想はない。爽快感もなく、ただ妙な感覚だけが手に残っている。

 ――しかし、シェイラは『全て倒した』と思っているだけだ。
 その後ろから、シャカシャカと近づいて来るモノに気づいていない。
 今まさに、先ほど蹴っ飛ばされたカニがハサミを広げ、雨音に紛れて忍び寄ろうかとしている。

「全部……有罪よ……」

 その言葉と同時に、シェイラの後ろでザンッ――と言う音が一つ鳴った。
 響いた音がその背をくすぐる。聞き慣れない音をだったが、それは何かを切断した音だ。
 シェイラはどこか恐ろしい何かを感じながら、恐る恐る振り返ると――

「す、スリーラインッ!?」

 そこにはハサミを広げたまま真っ二つに両断されたカニの姿と、大柄な、赤い眼の《ワーウルフ》がそこに立っていたのである。
 手に握られている斧が、闇の中でギラリ……と不気味に輝いた。

「ふむ。最後は油断したが……四匹か、初めてにしては上出来だった」
「――三匹だバカ犬。一匹は甲羅割られて、ただ気絶してただけじゃねェか」

 大粒の雨が強く地面を叩きつける中、短刀にカニを突き刺したままのカートが姿を現した。
 詰めが甘いが、との評価と共に、カートの輪を作った指がすっと伸び――降りしきる雨音の中、ベチンッ……と音が鳴った。

「痛ッたぁぁいッ!? な、何するのよっ!」
「『何するの』じゃねェよ! ナニ一人で勝手に突っ込んでんだバカッ!
 この犬っころが『一度任せてみよう』って言うから、本来ならぶん殴ってやる所をデコピンに堪えてやったんだろうが」
「うっ……」

 結果的にモンスターを討伐できたと言えど、感情で動きスタンドプレーした事には変わりない。下手するとパーティー全員を危険に晒す行為……シェイラはその事の大きさに気づいた。

「その……二人とも、ご、ごめんなさいっ……」
「感情で動いたのは褒められんが、よく頑張った」
「ま、三食の飯代で勘弁ってとこだな」
「え、ぇぇぇー……も、もうちょ、くしゅっ……」

 全身ビチャビチャに濡らしたシェイラの身体は冷え、吹き荒れる風に身体を震わせ始めた。
 どこか喉も渇く。身体はふやけるほど水を浴びているのに、喉だけは砂漠のように乾きを覚えていた。
 戦っていた時は全く気にならなかったが、靴の中まで泥だらけであり、靴下の中の指の間まで泥が詰まっているようにも感じてしまっている。

 ・
 ・
 ・

「マッシャ―さん、お風呂ありがとうございました!」
「いえいえ、畑を守ってくれたんだから当然だよお」

 漁師町であるため、湯の中で身体を温めるタイプの風呂が多い。
 事情を聞いたマッシャ―婆さんが、大急ぎで用意してくれていたそれには、薬草の葉まで浮かべられており、身体から立ち込める熱気に薬草のいい香りが混じっている。

(もっと浸かっていたかったなぁ……)

 初めて湯を張るタイプの風呂に入ったシェイラは、冷え・疲れた身体に染みわたるその湯の温もりに、のぼせる寸前まで浸かっていたのだった。

「それにしても、水も滴るいい女ってこの事かねえ。
 この町の男どもが見たら、嫁を捨ててでも結婚を申し込むよ、ひゃっひゃ」
「えぇぇぇっ!? そ、そんなことないですよっ!」

 マッシャ―婆さんの言葉通り、シェイラの赤く色づいた顔、水気の残る濡れ髪は艶めかしく、湯あたりしたようなぼうっとした気だるげな目は、見る男を虜にしそうなほどの官能的な色気を持っていた。
 だが、“弟”であるオス一匹と、恋愛するつもりのない悪党一人には何の効果もない――。

「それで……これは?」
「シェイラが倒した、《キングクラブ》だ」

 テーブルの上には、鍋と言う風呂に入った《キングクラブ》が並べられており、その甲羅はシェイラと同じく赤く色づいている。
 もう既に三匹平らげられており、シェイラの前には二匹のそれが置かれていた。

「ひゃっひゃ、まさかあのカニがこんなに美味しいとはねぇ。
 安定して獲れたら、うちの新たな名産品になりそうだよ」
「まぁ、数が取れねェから高級品なんだけどな。このサイズでも一匹で金貨二枚はするぞ」

 シェイラはごくりと喉を鳴らした。
 ベルグから食べ方を仰ぎながら、まだ熱いカニの足をもぎ取り、切れ込みを入れたそれをパキッと割る――すると、殻の下からは赤と白のコントラストが綺麗な、ぷりぷりとした肉厚の身が姿を現していた。
 そのままで食べても良いが、“カニみそ”を付けて食べるともっと美味い、とベルグが言う。
 まずはそのままで、とシェイラはその身を人繰り頬張ると――

「んっ!? んんーっ!!」

 シェイラの口の中でカニの身がほどけ、歯ごたえのあるそれは、噛めば噛むほど美味さが口一杯に広がっているくるのであった。ベルグの言う“カニみそ”をつけてみれば、トロりとしたカニみその風味が身の混じり合い、最高の調和を生み出している。
 こんなに美味しい物があるのか、と思えるほどのそれに舌鼓を打ち、口に運ぶ度に歓声を上げて喜んでいた。

「それにしても、畑を荒らしに来たとなると、これから大変な事になるねぇ」
「今回は中型のが少数だったが、この先数が増えればますます厄介になってくる。
 どうにかして、親玉だけでも叩かねば……」
「末端は苦労はするだろうが、シェイラでも倒せるんだ。何とかならァ」
「むぉっと、むぉうぅうももっ!」
「食うのか喋るのかどっちかにしろ……」

 シェイラは口にカニを頬張ったままである。
 黙々とその身を食べているのを尻目に、ベルグとカートは思案していた。
 美味い上に高いと分かれば、人間の“欲”が原動力となって|《キングクラブ》の数を減らす事が出来るだろう。
 しかし、その中心に君臨する親玉・ヌシを倒さねば、この町は危険な状態のままであると。

「それに、まだ“調査”は終わっていない――」

 ベルグは『その()盗<<・>>()が何か知っている』と踏んでいる。
 森の中に潜む者――調査のついでに、それを聞き出すつもりでいた。

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