姉ちゃんと風呂入ってる?
「ねえ、ちゃんと風呂入ってる?」
小学校からのいつもの帰り道、隣を歩いている友達の勇太がにやにやしながら俺に訊いてきた。一体どこでそんな話を聞きつけてきたのやら。
「普通に一緒に入ってるけど。つーか姉ちゃんが勝手に入ってくるんだよ。光熱費の節約とかなんとか言ってるけどさ、一緒に入るとお湯が溢れちまって余計にもったいねえんだよな」
僕の返事を聞いて、勇太は目を見開いて絶句している。どうも予想外の答えだったらしい。さっきまでのにやけ顔は、すっかり消え失せていた。自分で質問しておいて、なんでそんなに動揺してるんだ。
「え……マジで……? 菜月さんだっけ、凄い美人のお姉ちゃんだよね?」
まあ俺の姉は顔は文句なく美人だし、社交的で愛想もいい。俺にとってはいわゆる自慢の姉だ。基本的には。知り合いがあちこちにいて、あの山瀬菜月の弟だって言っただけで羨ましがられることもあるくらいだ。
「一緒にお風呂に入るってことはさ……おっぱいとか見たの!?」
「そりゃ見えるに決まってるじゃん。見えるどころか、揉んだことだってあるし。触ってもいいっていうからさ」
「揉っ!?」
それだけ呻くと、勇太は顔を赤くして口をパクパクさせる。なんだよ、胸を揉んだくらいで。勇太はまだガキだから、そういうエッチっぽい話題は恥ずかしいんだろう。じゃあなんで姉ちゃんと風呂なんて話を振ったんだ、お前は。
「……どっ、どうなの? 柔らかいの?」
そんなこと聞いてどうするんだ、こいつ。話を聞いたところで、自分が揉んだことにはならないぞ。まあそんなことしたことがあるのは、クラスでも俺くらいなものかもしれない。はっきり言ってクラスの男子はガキばっかだし、こういうときは俺だけがリードしている感じでちょっと気分がいい。
「水風船みたいな? でももっとすべすべしていて、ぽにゃぽにゃしてる感じ」
勇太は大きく口をあんぐり開けて、自分の両の手のひらを開いたり閉じたりしている。呆然としてその仕草をしばらく繰り返したあと、勇太はすごく真剣な顔をして俺に向き直った。
「……いいな、遼のお姉ちゃん」
「やらねえぞ。つーか、お前んちも姉ちゃんいるじゃん」
勇太にも春香という姉がいる。背が大きくて髪は短め、なんか目つきも鋭くて男っぽい感じの人だ。うちの姉ちゃんはよくウチに友達をたくさん連れてくるんだけど、その中によく春香さんが混じっているから一応顔見知りなのだ。
「うちの姉ちゃんは絶対にそんなことさせてくれないよ。一緒に風呂入ったのもずっと昔で覚えてない。……なんか超羨ましい。僕の姉ちゃんなんて、殴るし蹴るし、おやつは勝手に食べるし。ガサツでぜんぜん美人じゃないのに」
勇太はあまりの境遇の差に憮然としている。勇太が羨めば羨むほど、俺は得意になっていった。こういう時ばかりは、自分の姉が菜月で良かったと思うのだが。やがてコンビニのある交差点まで辿り着いて、そこでいつものように俺は勇太と別れた。ひとりになって、自宅が近づくに連れて、だんだん気が重くなっていく。
自宅の玄関のドアを開けると、姉ちゃんの新品みたいに磨かれた黒いローファーが綺麗に揃えて並べられているのが見えた。もう先に帰って来ているらしい。俺は息を殺すと、静かに靴を脱いで早足で廊下を抜ける。リビングのドアが開いていて、通り際に一瞬だけ目をやると、ソファに座って携帯電話を耳に当てた姉ちゃんと目が合った。やばい。
「あっ、遼くん帰ってきた。じゃあね」
背後で姉ちゃんの声が聞こえた。俺はもう足音も気にせずドタドタと階段を駆け上がる。背後からパタパタとスリッパを鳴らして階段を登ってくる音が聞こえる。登り切ったところでちらりと振り返ると、満面の笑みを浮かべた姉ちゃんともう一度目があった。俺は自分の部屋に飛び込み、急いでドアノブを押し、ドアが閉じる寸前——ドアと枠の隙間に、フリルがたくさんついたピンクのスリッパの先が素早く差し込まれた。ドアの端に白くて細い指先が掛かる。
「遼くん、今日ちょっと暑かったし、汗かいたでしょ。一緒にお風呂入ろっか」
ドアの隙間から、半分だけ姉ちゃんの笑顔が覗く。誰がどう見ても、いつも通りの明るくて優しい姉ちゃんにしか見えないだろう。みしり、とドアが鳴った。
「いや、俺は後でいい。先に姉ちゃんだけ風呂に……」
俺の体がずるずると押されていき、ドアがゆっくり開いていく。その小柄な身体のどこに、そんな力があるんだろう。俺のほうが年下とはいえ、完全に力負けしていた。誰か、この姉ちゃんを貰ってくれ。
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「——うん。一緒に入ってるけど。春香は弟と一緒に入らないの?」
電話の向こうで菜月がそう言ったのを聞いて、私は絶句した。高校生にもなれば、弟とはいえ一緒に風呂に入るなんてありえないだろう。百歩譲って、姉と妹なら女どうしだからまだわかる。でも弟だ。男だ。ありえない。少なくとも私は、そう思っていた。
「——あっ、遼くん帰ってきた。じゃあね」
「えっ、ちょっ……待っ……」
一方的に電話が切られ、私はホーム画面に戻ったスマートフォンをぼんやりと見つめる。遼くんは私の高校の隣のクラスの菜月の弟で、小学生なのにやけにクールで大人っぽくて、いわゆるイケメンだ。美男美女の姉弟だともっぱらの評判である。あの目立つ姉があちこちで弟の話をするので、弟もけっこう有名なのだ。私も何度か菜月の家に遊びに行って会ったことがあるが、確かにイケメンというのは頷ける気がした。
私も一応、遼くん狙い、ってことになっている。高校で遼くんファンクラブなるものに加入しているのだ。遼くんはみんなのもの、抜け駆けしたら許さない、というわけだ。高校生の女子が何人も集まって小学生の男子に熱を上げるというのは流石にどうかと思うのだが、まあそれは私にとってただの隠れ蓑にすぎない。その変なファンクラブなるものの存在をクラスメイトから聞いて、私はとっさに話を合わせてそれに加わった。その子と一緒に遼くんの家に行って、その姉の菜月と会った。ただ遠くから菜月を見つめるだけだった私に、初めての接点ができた。
菜月の部屋に入れてもらうと、私の部屋とはぜんぜん違う華やかな香りがしたんだった。窓際にはミニチュアのインテリアが綺麗に並んでいた。なんとか話を合わせ、お菓子に手を伸ばして何気ないふうを装って、私は時折隣に座った菜月の顔をこっそりと盗み見るのだ。
菜月は美人で女の子らしいし、かなり背が高い私がボーイッシュなショートカットにして並べば、わりとカップルっぽく見えると思う。問題は——女の子どうしだということか。私は深くため息をつく。まあ、そういうことだ。女の子どうしで何がいけないのか。でも世間じゃそう話は簡単ではないのだ。
私は携帯電話をベッドの上に放り投げると、部屋をでて風呂場に向かう。もやもやした気分の時は風呂に入るのがいい。さっき勇太がお湯を張っていたのを見た。そろそろ入れるようになるころだろう。
脱衣所の引き戸を開けると、勇太がシャツを脱ごうと裾をまくりあげていた。勇太が顔をしかめて抗議の声をあげようとしたが、私は有無を言わさない。
「何勝手に入ろうとしてんだ。出ろ。私が先。男が浸かったお湯とか、汚くて最悪だから」
私は勇太のケツを蹴り飛ばした。勇太は不満そうに私を睨む。出ようとしないのでもう一度蹴ると、勇太はすごすごと自分の着替えを抱える。
「僕がお湯を張ったのに……女のほうが汚いじゃん」
私は勇太の頭をごんと叩くと、勇太の目に涙が浮かんだ。勇太は何か思い出したような顔をした。
「……姉ちゃん、知ってる? 遼は自分の姉ちゃんと風呂に入っているらしいよ」
「……で?」
「うちは一緒に入らないの?」
「は? なんで私があんたみたいに小便臭い男と、風呂に入らなきゃいけないわけ?」
勇太を風呂からたたき出すのはいつものことだったが、私がそう言うと少し意外なことに勇太は両の目に涙をいっぱいためた。しかし涙はこぼさずになんとか耐えると、肩を落としてとぼとぼと脱衣所を出て行った。さすがにちょっと、かわいそうだったか。風呂あがりにコンビニ行って、勇太のぶんもアイス買ってきてやろう。一緒に風呂なんか絶対ダメだけど。
風呂あがりにいつもの散歩がてら、コンビニでレーズンバニラアイスを買ってきた。今日は珍しくふたつ。自分のぶんと、勇太のぶん。親には風呂あがりに出歩くのは風邪をひくからやめろと言われるが、これだけはやめられない。風呂あがりの散歩とアイスが私の趣味なのだ。
キッチンに行って、冷凍庫に勇太のぶんのアイスを放り込んでおく。そして、自分のアイスの蓋をとって、ティースプーンでひとすくい。口に含むと、舌の上でバニラの乳臭い甘みとレーズンの酸っぱさが交じり合った。この時に、私はこの瞬間のために生きているのかもしれないと思うのだ。そんなはずはないけれど。
ちょうど風呂からあがってきた勇太がリビングに入ってきて、スポーツ刈りの頭をバスタオルで拭きながらどかりとソファに座り込んだ。
「……そういえばさ、姉ちゃん。僕の友達にちょっかいだすの止めてくれない。高校生と小学生じゃ変でしょ」
勇太がテレビに向かったまま言った。せっかく頭をまっしろにしてのんびりアイスを味わっていたのに、予想外の話を振られて私の頭が急にぐるぐる回り出す。
「……は? 小学生なんて興味な……じゃなかった、私、遼くんのこと好き? かも?」
あやうく自分の『設定』を間違えるところだった。今のところ、私と菜月の接点はそれしかない。『設定』が嘘だとバレたら、私と菜月の関係はどうなるのだろうか。まあ一応もう知り合いなのだから、私が自分で菜月を誘えば……いや、私には無理だ。勇太は振り返って、変な言い淀みかたをした私を怪訝な顔で睨む。
「だからさ、好きなら誰でもいいってわけじゃないでしょ。恋愛とかしちゃダメな相手もいるでしょ」
ぎくりとした。何か言い返そうとして、口を開けて……言葉に詰まった。いつか部屋で盗み見た得意げな菜月の顔を思い出して、耳がかっと熱くなって、それから胸の奥がぎゅうっと苦しくなって、思わず喉の奥から出かかった言い訳を、自分自身ですべて噛み潰してゆく。
「……バカ死ね勇太」
私はなんとか言葉を絞り出してそれだけ言い捨てると、階段をばたばたと駆け上がってく。何か急に大人ぶって説教垂れやがって。小学生のくせに。風呂でスッキリしたはずの私の胸は、もやもやではちきれそうだった。アイスで甘く満たされてた私の口の中に、唇を伝って塩辛いものが混じった。最低の、弟だ。死ね。
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僕があんなふうに言った途端、姉ちゃんの両方の頬を大粒の涙がつうっと伝ったのが見えた。姉ちゃんはそれを拭うこともせず、僕に悪口を言い残すと走って自分の部屋に戻っていった。いつも強気な姉ちゃんが久しぶりに泣いたのを見て、僕はソファに座り込んだまま、テレビに流れ続けるコマーシャルをぼうっと眺めて考え事をした。
珍しく僕が口喧嘩に勝った。普段だったら、またあの鉄拳が飛んでくるところだ。でもさっきの姉ちゃんはすごく悲しそうな顔をしていて、誰が姉ちゃんを泣かせたのかと思った。僕か。あんなに簡単に姉ちゃんが泣いてしまうとは思わなくて、急に罪悪感が湧いてきた。
テレビの中では相変わらず芸人が無駄にはしゃぎながら海外の珍風景をレポートしていて、僕の姉ちゃんが泣いているっていうのにヘラヘラしてしゃべりまくっているそいつが気に入らなくて、リモコンを掴むと電源スイッチを押した。プチッとテレビの画面が真っ暗になり、リビングが急に静かになった。
遼が姉ちゃんたちにちょっかいを出されて迷惑していると言っていたから、姉ちゃんに文句つけてやったんだけど、僕はなんだか遼にも怒りを感じていた。姉ちゃんが遼に手を出そうとしているとも言えるし、それは遼が僕の姉ちゃんをたぶらかしているとも言えるわけだ。僕も悪いが、遼も悪いんじゃないだろうか。でもまあ、いま姉ちゃんを泣かせたのは僕だ。僕はこれでも男だし、姉ちゃんは女だし、女を泣かせる男は最低だって、誰かがそう言ってた気がする。そういうことだ。だから僕はソファから立ち上がるとキッチンに行き、戸棚から姉ちゃんがよく飲んでいる紙パックの豆乳を取り出した。
姉ちゃんの部屋の前まで来て、ノックした。部屋の外から声をかける。
「姉ちゃん、ジュース持ってきた」
すぐにドアがガチャリと開いて、姉ちゃんが顔を覗かせた。目が真っ赤で、それを見たら僕の胸もきゅっと締め付けられた。僕が紙パックを差し出すと、姉ちゃんは無言でそれを受け取った。
「さっきはさ、僕が悪かったよ。好きなら、しょうがないよ」
僕らはいつもこうだ。いつもくだらないことで喧嘩して、その後、自分が悪いと思ったほうが、お菓子とかジュースとか持ってくる。それで、チャラ。僕らは喧嘩をたくさんするが、仲直りもたくさんするのだ。だから、案外仲がいいきょうだいなのかもしれない。
「ちょっと入って」
急に襟首を掴まれて部屋に引きずり込まれる。姉ちゃんの部屋に入ったのは何年ぶりだろう。ひと呼吸した瞬間に、同じ家なのにここは僕の部屋とはぜんぜん違う空間だと感じた。なんていうか、女の人の臭いがする。
学習机の上にさっき姉ちゃんが食べていたアイスのカップが放置されていて、中にはどろどろに溶けてただの甘い汁になったバニラアイスがたっぷりと残っていた。姉ちゃんはこのアイスが好物だったのに、結局最後まで食べなかったのか。
姉ちゃんは僕を座布団の上に座らせる。姉ちゃんもぺたんと床に座って、背をベッドにもたれて膝を抱えた。
「……勇太、冷凍庫にもうひとつアイスあるから」
「ふうん」
「何その反応。だから食べていいって言ってるの。それやるから、姉ちゃんの相談に乗れ」
「……は?」
なんだがよくわからないが、顔をあげた姉ちゃんの目はやけに真剣で、とにかく真面目に話を聞かなければならないと思った。
「……もしさ、私が遼くんじゃない人を好きでさ……。いや、本当のことをいうと、べつに遼くんはどうでもよくて。私は別の人が好きで。それで。その人はぜったいに私のことを好きになってくれそうになくて、それならさ……勇太は私のこと、応援してくれる?」
姉ちゃんの言葉はまとまっていなくて、よく意味がわからなかった。だが、どうやら姉ちゃんの好きな相手は、本当は遼ではないらしいことがわかった。でも、姉ちゃんが誰のことを好きだろうが、そんなことは関係ない。僕は男で、遼も男で、姉ちゃんは女だ。だから、僕は姉ちゃんを慰めてやらなくちゃならない。
「さっき言ったじゃん。好きならしょうがないって」
僕がそう言うと、姉ちゃんは肩を震わせて、ちょっとだけ鼻をすすった。そして、黙ってこくんと頷いた。それからずっと目を伏せて、何かにずっと耐えているようだった。姉ちゃんの胸を詰まらせているものが流れ落ちるまで、僕も座布団のうえで正座をしてずっと待った。ずっと、ずっと待った。時折、姉ちゃんは俯いたまま肩を震わせて、だから僕は自分の呼吸を整えて、ずっと待った。
「なんか、勇太、大人になってねえ?」
「……わかんない」
姉ちゃんがなんでそんなことを聞いたのかはわからないし、僕が大人っぽいかはわからない。けど、姉ちゃんはなんか子どもみたいに泣いていたから、今だけは僕のほうが年上っぽい気がする。子どもはすぐ泣く。すぐ泣くのは、子どもだ。だから、姉ちゃんは姉で、僕は弟で、でもそんなことは関係がない。姉ちゃんを守るのが、僕の役目だからだ。
「……大人になったら、姉ちゃんのおっぱい揉ませてやる」
「へ?」
姉ちゃんの唐突な言葉に僕は戸惑った。そういえば姉ちゃんは薄着で、セクシーってやつかもしれないけど、そんなことぜんぜん気が付かなかった。ちょっと考えて、でも首の上に乗ってるのが僕の姉ちゃんの顔だと思うと、別にちっとも触りたいとも思わなかった。
「別にいい。興味ない」
それになんていうか、揉んだ経験があるとすごく大人っぽい感じがして、遼がちょっと羨ましかっただけだ。でも、本当に揉みたいのかというとよくわからない。どちらかというと、たぶんただの好奇心というやつだ。大人の世界を覗きこんでみたかっただけだ。大人っぽい遼に追いつきたかっただけ。
「……大人になったら勇太も揉みたくなるんだよ。だから、揉みたくなったら、姉ちゃんに言え。ちょっとだけ揉ませてやる。大人にしてやる。私だって男に触られるのは嫌だけど、勇太だけ、特別だ。友達に自慢できるぞ。俺おっぱい揉んだことあるぜって」
なんか姉ちゃんが、すげえ男らしいような女らしいような、わけのわからないことを言い出した。ただ、姉ちゃんはすごく勇気を出して言ったらしいことがわかって、お礼を言うのも変だし、なんて言ったらいいのかわからなくて、姉ちゃんのシャツの袖をちょっとだけつまんで、頭を垂れてじっと考えていた。
姉ちゃんもずっと黙っていたけど、別に気まずくはなかった。お互いが考えていることは、なんとなくわかったからだ。きょうだいだから。それで、僕と姉ちゃんの男と女の約束は終わり、僕は立ち上がって姉ちゃんの部屋を出た。
僕と姉ちゃんは男と女だけど、きょうだいなので、男と女ではない。言ってみれば、姉ちゃんにとって僕は特別な男だ。それがちょっとだけ誇らしかった。冷凍庫を開けると、バニラレーズンアイスが入っていた。だからレーズンはあんまり好きじゃないと何度いえば僕の姉はわかるのだろうか。何年一緒に暮らしていると思っているのか。
試しにひとすくいしてレーズンを口に含むと、すっぱい香りが鼻の奥をついた。僕にはまだ早すぎる大人の味だ。それで先にレーズンを片付けて、あとで残ったバニラアイスをゆっくり堪能する作戦に出ることにする。このレーズンアイスは、僕に早く大人になれってことかもしれない。やっぱり僕は、春香姉ちゃんでいい。
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春香がまたウチに来たがっているらしいので電話をしていると、玄関のドアが開く音が聞こえてきて、そんなどうでもいい話は私の頭から一瞬で消し飛んだ。私のセンサーが敏感に反応する。間違いない、遼くんが帰ってきた。廊下をずっと睨んでいると、早足で通りすぎようとする遼くんと目があった。
「あっ、遼くん帰ってきた。じゃあね」
私は一方的に電話を切る。電話の向こうで春香が何か言いかけていたが、またあとで電話すればいい話だ。私はソファから素早く立ち上がって、逃げるように廊下を抜ける遼くんを追った。遼くんとのお風呂タイムが、私の日々の一番の楽しみなのだ。
遼くんファンクラブなるものを私が作ったのも、遼くんにつく悪い虫をコントロールするための工夫だ。叩き潰すことは簡単だが、それでは私の印象が悪くなるし、ああいう子たちはどうせ次から次へと現れる。潰さずに、適度に欲望を吐き出させつつ制御する。これがうまくやっていくコツなのだ。
それに、あれは遼くん自慢パーティーでもある。みんなが口を揃えて遼くんを褒めそやすのは気持ちがいい。まあ、春香はちょっと「違う」ようだけど。遼くんの話をするとき、あの子だけちょっと上の空で、私はすぐにピンときた。私は男の子から告白されることも多いが、女の子からも時々そういうことがあるのだ。だから、そういう子はすぐわかる。でも誰に告白されても関係ない。私は遼くん一筋だからだ。
帰宅した途端になぜか自室に慌てて逃げ込もうとした遼くんを無事に捕まえると、私は手を引いて脱衣所に連れてくる。遼くんはなぜか嫌がって暴れたが、お風呂は毎日入ったほうがいい。どうせ入るのだから、遼くんに拒否する理由はない。私は遼くんを脱衣所の奥に押し込むと、出口を背にして逃げ道を塞ぐ。
「姉ちゃん! もうそろそろ一緒に風呂はいるの止めない? やっぱ変だよ。きょうだいで一緒に風呂なんて」
遼くんは必死に私に訴える。遼くんの緊張を和らげるように、私は大げさなくらいに優しくにっこりと笑った。遼くんもつられて、引きつった笑いを浮かべる。
「だって一緒に入ったほうが効率がいいじゃない。まさかと思うけどあなた、自分のお姉ちゃんを嫌らしい目で見てるとでもいうの?」
そう言って私は制服のスカートのファスナーを引き下げると、スカートをストンと足元に落とす。遼くんが慌てて目を逸らした。照れ屋さんでかわいい。
「そんなわけないじゃん! 自分の姉ちゃんだし!」
「つまり、やましい気持ちはないんでしょ。だから一緒に入っても問題ないわよね」
遼くんは絶望的な表情で立ち尽くす。遼くんが固まってしまったので、服を脱ぐのを手伝うべく、私は遼くんのシャツのボタンに手をかける。
「やめろよ姉ちゃん!」
遼くんが慌ててシャツの胸元をかき寄せる。遼くんの両手が塞がったその隙をついて、私は今度は素早くズボンに手をかけて一気に足元まで引き下げた。危ういところで一緒にパンツもずり落ちそうになる。
「自分で脱ぐ! 自分で脱ぐから!」
遼くんは観念した様子で、私に背を向けると渋々自分で服を脱ぎだした。それを見て私も安心して自分の服を脱ぐ。ふたりとも裸になったところで、私は遼くんの背中を押すようにして風呂場に入った。
先に湯船に浸かって体を温めることにする。かかり湯をすると、遼くんを湯船に押し込んで、自分も湯船に体を沈めた。ざあっとお湯が溢れるのを見て、遼くんがため息をついた。お湯の中で向き合って、遼くんの疲れきった表情を眺める。きっと今日も学校生活がすごく疲れたんだろう。きっと。
「ねえねえ、最近ちょっと胸が大きくなった気がするんだけど、また触って調べてみてくれない?」
「知らねえよ! やだよ!」
遼くんが叫んで、浴室に声が響いた。そういえば、お風呂に入るたびに遼くんが大声で叫ぶせいで、一緒にお風呂に入っているという噂が近所に流れて、恥ずかしいやら誇らしいやら、ちょっと楽しいことになったのだった。
ふとお湯の中を見ると、水面が揺らめいていて見えにくいが、遼くんの体が、反応、しているのがわかった。なんとなく腕で隠して気づかれないようにしているが、私にはバレバレだ。遼くんと一緒にお風呂にはいると、よくこういうことがある。年頃の男の子なのだ。むしろ美人のお姉さんと一緒にお風呂に入ってそうならないほうが心配だ。
「もう出る」
ナニからナニが出そうなのかと思ってちょっと期待したら、風呂から出るという意味らしい。遼くんは湯船の中で背を向けると、ばしゃりとお湯を跳ね除けて立ち上がった。そっちも立ち上がっているので、背を向けて立ち上がることでそれをさり気なく隠したわけだ。そのままカニ歩きすれば、誰にもナニも見られずに済む。さすが私の弟、頭が切れる。でも私は逃がさない。
「駄目。夏だってちゃんと湯船で温まったほうがいいのよ。副交感神経が活発になって、リラックス効果があるんだから」
私は無慈悲にも遼くんの手首を掴んでひっぱり、強引に座らせた。ばちゃりとお湯が飛び散る。いつもクールな遼くんは泣きそうな顔をして、私に背を向けたまますごすごと湯船の中で丸まった。必死に冷静さを取り戻し、元に戻そうとしているのだろう。もし体を洗うために湯から上がったら、このままではもう隠し切れない。遼くん的には大ピンチというわけだ。でも大丈夫。そのときは、私はゆっくり湯に浸かっているふりをして、目を閉じていてあげるから。ちょっと横目で盗み見るかもしれないけど。あくまで一緒に風呂に入っているだけという前提は維持しなくてはならない。
今度は白い濁り湯の入浴剤を買ってきて入れてみよう。そうすれば今日みたいにうっかり反応しちゃっても私に気づかれることがないから、遼くんも安心してゆっくりお湯に浸かれるだろう。それに、お湯の中でうっかり私の手が遼くんの何かに当たっちゃった、指よりは太いけど、腕よりは細いね、いったい何だろうね、というイベントができる。まだ小学生だし、そこはとても敏感かもしれない。うっかりわたしの手が当たった時に、うっかり何が出ちゃっても、濁ったお湯の中ならわからないから遼くんも安心だ。むしろ安心して出していい。一旦出しちゃえば元に戻るので、遼くんも安心して風呂から出れる。お湯が白く濁っていてよく見えなかったね、白くて、ね。それで残った私は、特殊な入浴剤が追加された白い濁り湯をゆっくり堪能し、いい湯だなあ、とひとりごちるわけだ。何という完璧なプラン。学年でもトップクラスの成績を収めている私だけある。あるね。これは。さすが私の自慢の弟の自慢の姉だ。さすがにちょっとだけ頭がおかしいかも。
私たちは、間違いなく風呂に入っているだけだ。それ以上の一線を超えた行為は何ひとつない。誰かに告げ口したら、困るのは遼くんのほうだ。姉はただ純粋に弟を風呂に入れただけなのに、弟は姉の裸を見て何かが大変なことになってしまったわけだ。これが知れたら、社会的立場が悪化するのは遼くんのほうだけなのだ。
「お風呂で温まると、身体の血行が良くなるんだよね」
男の子に恥をかかせてはいけない。私はさりげない言い訳を用意してフォローする。どんなときもクールな遼くんは、背を向けたまま、ふうん、と何気ない感じを装って相槌をうった。ちょっと遅れて何かに気づいたらしく、耳まで赤くなったのが背中越しに見えた。お湯の中で、遼くんの身体に私はゆっくりと自分の身体を寄せた。遼くんは背中に、不思議に柔らかいふたつの膨らみを感じただろう。私の弟は、かわいい。
(了)