2-1-14
(いけねぃ、いけねぃ。おかしいこと考えてましたねぃ)
内心で自責的に舌を出し、イルは地図を漁っていく。
東の国の言葉のあるものは、その中に数枚あった。
隣国の名前と地理とを確認し、何となくの要領で繋げていく。
やはり縮尺が合っていないため、小さく見えた陸がもう一つの地図では大きく描かれていたりと、チグハグな大きな地図として展開されていく。
「あれ? 本当に文字ダメなんだね?」
魔王が意外そうに投げかけるのは、テオ。
テオは苦戦しながら、ようやっと自身が扱う言葉に似た言葉を抽出している。
「言葉なんて聞き取りと発音とコミュニケーションが取れればいいだろ……」
「よくないって。教育係は何してたの」
「他国の言語を学ぶ前に離別した……」
「ご愁傷」
そうとは思ってない軽さで、哀愁漂うテオの手から、地図をひったくっていく。
「やっとくよ」
「あ、ありがとう」
「君に任せてたら、地図が完成する前におじいちゃんになっちゃう」
「そんなには掛からないだろ」
拗ねたようにいじけるテオを横に、パッパと並べていく魔王。
東の方は既にイルが並べた後のため、それに接続する形で展開されていく。
「――できた」
机には入り切らず、側面に流れ落ちている大きな地図は、大まかな世界の情報を描いていた。
その地図を興味深げに眺めていたウミが、突如忙しなく地図の隅から隅を確認していく。
二度、三度。
地図と魔王の顔を見比べていたウミは、茫然自失と言った風に呟いた。
「ニホンがない」
聞いたことのない単語であった。
誰も彼もが首を傾げる中、魔王だけは理由知った風に頷いている。
「ニホン?」
テオが聞き返す。
「私のいたところ」
ウミは答えた。
彼女は魔王の顔を見て、忙しない口調のまま、彼に問いかける。
「この地図、これで全部?」
「僕のところにあるものは」
「ここに無い地形は無い?」
「あるかもしれないし、無いかもしれない。地図がそれ以上無い限り、僕には分からないけど」
でも。魔王は続ける。
「君のいた場所はここにはない。それだけは分かるよ」
「何故」
口を挟んだテオに視線を向ける魔王の顔は、遠くのものを懐かしむようにひどく穏やかだった。
「この国に伝わる文献。遥か昔に生きた先代の王の記録」
コツ、部屋に響くのは魔王の靴音。
「遥か昔、勇者と呼ばれる人間に斃《たお》された魔王がいた」
朗々と狭い部屋に響くのは語り部の声。
「その時代、悪天候が続いたこともあり、人々の生活が苦しかった時代」
彼の言葉が近くて遠い。
イルはそんな錯覚をしてしまう。
「人間から溢れる負の感情が、魔石に収まりきらなくなってしまった」
それほど、彼の声は細かった。
細くて、それなのにしっかりと耳に残るものだから、何某かの劇でも観ているようだと、錯覚する。
「割を食ったのは先代の王。彼は、狂化と呼ばれる症状を発症し、見るもの全てを破壊し、喰らい尽くす病に掛かってしまった」
狂化。
思わず呟いたイルの言葉も、まるでチラとも聞こえぬよう、彼はスラスラ続けていた。
「人間たちの住まう世界にも、その魔の手が及んでしまう」
彼は地図の前で足を止める。
その顔には何の表情も浮かんでいない。
ただ、無の顔をして、彼は終幕を謳い上げる。
「それを打ち破りしは勇者の一撃。人間の世界には平和が戻りました。めでたし、めでたし」
彼の目の前には地図。
人間の世界、その大陸にある国を目下に、ぽつんと呟く。
「……お伽噺に伝わる勇者。彼も、彼女と同じ所から来たと伝わっているんだ」
「……ニホン」
「そう。そして、城へと戻った勇者を見た者は、以降現れなかった」
彼はウミを見るために視線を上げる。
無の表情に仮面を被り、彼は微笑んでいるように見えた。
「彼女を元の場所に戻す方法が、リガルドの城の中にある。きっと」
テオは頭をかきむしりながら呻く。
やがて、諦めがついたかのようにその動作をパタリと止め、仕方がない。と呟いた。
「どちらにせよ、わたしたちは城内へと潜り込まなければならないわけだな」
魔王はテオの言葉に、にんまりと笑う。
「無事に情報を持って戻ってきたら僕らの軍が、君たち民間勢のバックについてあげよう」
「はっ。ずいぶん気前のいいニンジンだな」
「名軍馬が手に入るのなら、少し高めのニンジンくらい、いくらでもぶら下げよう」
「高く見ていただき、恐悦至極」
皮肉げに笑い合う兄妹を見て、イルは内心ビビり散らかしていた。
ふふふ、あははと笑い合っていた魔王は一瞬の間を置き、す、と真顔になる。
「テオ。これは君の兄としての忠告と餞別だ」
魔王、ノイヴ。
彼はようやく、面と面で向かって、テオの顔を見た。
皮肉も一切含まず、ノイヴとしてまっすぐに、テオの顔だけを。
「周りをもっと頼りなさい。君の周りにいるのは、君を助けてくれる人たちだ」
テオが身動ぎするのを感じる。
イルはテオの背中、衣服をそっと掴むウミを見る。
彼自身も、テオの横へ並び立ち、魔王をじっと見つめた。
彼は満足そうに頷いた後、棚に鎮座する小さな箱を取り出した。
「それから、このペンダントをあげよう」
箱から取り出したのは、空色の石。
それが、飾らないシンプルな銀の台座に嵌め込まれ、革の紐で首に通すよう仕上げられたペンダント。
訝しむテオが、恐る恐る受け取り、首を通す。
空色の石は、たちまち黄金の光を放った。
「これは……?」
「聖女を選別する石だよ。その時代の本当の聖女が触れると、黄金に光るんだ」
その黄金の光は、イルもよく知る色をしている。
――テオの瞳の色とよく似た色をしたその石は、テオの胸元で光り、揺れる。
「これで、君が今代の聖女ということは証明された。何も憂うことはない」
「このペンダントは一体どこで」
「……どう見ても偽物が、声高に己がそれと叫んでいたからね。ムカついて引き剥がしてきちゃった」
テオが驚いたように魔王を見る。
彼は小さく舌を出し、いたずらっ子の笑みを浮かべる。
「冗談だよ」
テオは肩をすくめた。
「人間が嫌いって言う割に、こちらのことを心配するなんて。良く分からない奴だな」
「言っただろう。君は人間である前に、僕の妹だって」
「普通は妹にあんな圧は掛けないはずなんだがな」
「許してよ。僕にだって抑えつけられた反抗期くらいはあるんだって」
嘘か誠か真偽は分からず。
しかし今までのやり取り全てが嘘だったとも思えず、イルは苦く顔を顰めた。
「さて、長居をさせてしまったが。君たちの拠点に送ってあげよう」
「拠点に送る?」
はて、と首を傾げるイル。
そうした時間も束の間、彼らの足下に次々と文字が現れ、囲むように円となる。
魔法陣だ。
気がついた時には、縁から彼らを包み込むよう、黒い光が立ち上る。
まるでカーテンのように隠されていく視界。
その隙間から、魔王の人を食ったような笑顔が見えた。
「次会う時は、その邪魔くさい仮面を剥いでお話しようね」
そんな声に、イルは隣から、ああ、とくぐもった声が聞こえた気がした。
気が付けば、彼らは見知った喧騒がくぐもる、店の裏手にいた。
いつもの酒場。
人の気配のない酒場の裏手に、ゴミを捨てに来た女将と目が合う。
「あンれ、お客さん。どうしてそんなとこにいるんだい。中に入ったらどうだい、ほら、ほら!」
彼女に背を押され、背中を反らしながら店の中に入る。
先導するテオに、ウミは問いかける。
「瞬間移動の魔法。テオ、できる?」
「……無理だ。バケモノだな、あいつ」
酒場の喧騒に紛れ、テオは乾いた笑いを漏らした。