「同じ」の暴力的な安心感、不安とその先
「自分は人とは違う」と、きっと誰もが思っている。
でも、他人と同じ部分に気づくことは難しい。
人間が群れると強気になってしまうのは迷惑なことだけれど、そこに充満する安心感は、ときに誰もを傲慢にする。
群れとは大体似たような個体で構成されるもので、その中では小さな違いばかりが目立つ。
この小さな違いに、私は悩み、また自己肯定感の種とし、価値を見出そうとしてきた。
群れに属することができている理由や恩恵には、目もくれなかった。
というか、見えなかった。
「違い」のほうが「らしさ」といえば「らしさ」なので、心から納得いくような毎日を送るためには、そちらにフォーカスして選択を重ねていくのがいいだろう。
ただこれには、同時に「同じ」から得られる恩恵を手放す必要がある。
二律背反というのか、反対のベクトルを向いた願いを一度に叶えることは難しいように思える。
群れの多数派であるというのは、とても大きな安心感をもたらしてくれる。
例えばの話だが、私の体験を書き起こしてみたい。
私は背の高い子供だった。
小学生の頃には、すでに大人の平均身長に到達していた。
同年代の子らと並ぶといつも頭が飛び出ているような、不恰好な自分が恥ずかしかった。
大人が望む可愛らしさを提供できないと感じて、肩身が狭い思いをした。
身長への無遠慮なコメントを聞くたび、長い背中を縮こめた。
ところが私の成長は、同級生が成長期を迎える頃にぴたりと止まった。
周りと目線が並び、あるいは追い抜かされ、いつしか身長のことなど、意識にものぼらなくなった。
あれほど羨ましかった”平均身長”なのに、自分が分布のどこに位置するかなんて、興味も持たなくなっていた。
実に快適。
この安心感は例えようもないほど心地よく、とてつもなく強大で、私はのびのびと振る舞える。
それまで悩みに割いていたエネルギーを、他のものに充てられる。
脅威が減ると、こんなにもストレスなく過ごせるものか。
生まれながら、この安心感に包まれて生きてきた人なら、自分のありように疑問を持たないのも、他人の思いを「気にしすぎだ」と笑い飛ばせるのも、ありうると思った。
子どもの時分、周囲の人々は脅威だった。
身長のことに限らないなら、今だってそうだ。
他人は何を考えているかわからなくて、いつどんな行動に出るか予想がつかない。
絶えず不安を掻き立てられる。
あらゆる要素から、自分とは違う――極端に言えば、わかり合えないという意識を高めてしまうからだ。
どんな姿や感性を持っていようと、自分も群れの一部でしかないのに、つい「違う」からどうだと考えてしまう。
他人との対比に一喜一憂しているのは、私の心だけだった。
平均的な背格好の人間になった。
私自身は何もしないのに、コンプレックスがひとつ消えた。
ありがたみなんて感じていない。
服や靴の展開が豊富だとか、探せばメリットはあるだろう。
けれど、探さないと気づけないのだ。
そして、群れの中で頭が引っ込んだ私は、長身の悩みには鈍感になった。
子どもと大人では、高身長であることの評価が違ってくるというのもあるが、本人が好まないなら美点とは言いづらい。
だがそもそも、群れから見上げる側に立ってみれば、飛び出た頭など気に留めるほどのことでもない。
むしろ気にしているのが不思議なくらい、ただ「そういうもの」でしかないのだ。
他人の問題ではない。自分の意識ひとつなのだ。
周りと違うこと自体が怖いのではない。
寄る辺がなくて不安なのだ。
(自分にとっての脅威を理解されないという意味で)守ってくれる存在はなく、拒否され、よもや攻撃される危険性を念頭に置きながら生活するのは堪えるもの。
怖がっていても仕方がないけれど、油断していると思わぬタイミングで痛い目を見る。
側から見ればそんなことは取るに足らないものだから、何がそんなに悩ましいのかすら想像がつかない。
肯定してほしいというよりは、否定しないでほしい。
本人が感じていることを。
だって、自意識のコントロールは難しい。
意識に上がらないものに気がつくことと同じくらい、難しいから。
「他人と同じ」ことにも「他人と違う」ことにも、特に意味はない。
それでも何かしらの価値を見出している。
受け取っているものに無自覚だと、個人差に鈍感になってしまう。
個人差を「らしさ」として受け入れ、磨いていくなら、きっとオリジナリティあふれる素晴らしい人生になるだろう。
ただしそのためには、「同じ」である安心感への渇望を手放し、「違い」による不安を昇華していかなくてはならない。
今ある安心感はあまりにも強くて、疑念すら抱けない。
わかっているからこそ、不安に過敏になってしまうのだろう。
どうせなら、その不安を突き詰めてしまえばいい。
不安の先には、まだ見ぬ別の群れがある。
想像もしなかった恩恵がある。
飛び出た頭をうつむけ、他人のつむじを恨めしく見つめるのではない。
その頭をもたげ、開けた視界の先を見据えるのだ。