いつか図書館の棚に。
自作の宣伝をどうするか、という話。
小説好きの友人、AとBはタイプが全く違い、AはWebに投稿されているアマチュアの作品をよく読み、Bは逆に出版された作品、有名な作家の作品をよく読む。
この前、私も小説を書いている点について軽い議論になった。
Bが言うには、私が自作をSNSなどで宣伝するのは、有名になりたがっているヤツだと誤解されるからやめたほうがいい、というのである。
逆にAは、作品には旬があるから知らせてもらえるのは助かる、宣伝はするべきだという。
明らかに正反対の意見になったので、二人はちょっと険悪な雰囲気になった。
結論を先に言うと、作品を書くことと宣伝することは全く別の作業なので個人の自由で良い、という普通の答え。
ただ、そこに至るまでの論争が参考になったので、二人のやりとりを載せておく。
A:「どんどん宣伝すべきだろ。今はみんなSNSやってるんだし」
B:「えっ、でも宣伝ってちょっと押し付けがましくないか? 良い作品なら自然に読者が集まるだろ?」
A:「今はな、SNSでの発信力がないと才能があっても埋もれちゃうよ。音楽業界を見てみろ。ミュージシャンを本気で目指してるやつは、動画配信もしながら音楽事務所にデモ曲を送り続けている」
B:「でも、本当に才能があれば、自然と評価されるはずだろ? 無理に宣伝する必要はないんじゃないか」
A:「商業的に考えると、プロデューサーの直感よりも、すでにファンベースを持っているアーティストの方が注目されやすい。そのファンたちは確実にお金を落とし、長期的なサポーターになる可能性が高い。SNSを通してアーティストが前もって販売路線を確保してくれていると、音楽事務所としては活動コストを抑えられる」
B:「でも、やっぱりアーティストは作品創りに集中した方が良いものができるだろ?」
A:「そうだな。でも良いものができたら、すぐに発信したくならないか? 創作作品には旬があるんだよ。名作を作り上げたとしても、もしもそれによく似た作品が先に発表されたら、どうなると思う? 後から出した方はパクリと言われても仕方がない。頑張って作って、たまたま似ていただけでも、タイミングを失うとそういうことになる」
B:「でも、それは運の問題じゃないか?」
A:「運も大事だけど、運が敵になった場合のためには、自分の作品を『とにかく早く』知ってもらうために宣伝した方が良くないか? まあ個人の自由ではあるけど」
B:「運が敵に……なったら嫌だな……」
A:「逆にさ、お前がすごく気に入るタイプの小説があるのに、その作家が『この作品は、読むべき人に必ず巡り逢える。だから宣伝はしない』というスタンスだったらどうなる? お前は作者名も書名も内容分からない状態で」
B:「それだと、例え読めたとしても、出逢えたという感覚にはならない……」
A:「だよね。お前は、名作と出逢うというゴールの話だけをしていたけど、スタートを意識したことが無かっただけなんだよ」
つまり、Bは個人の努力を評価するけど、どのような経緯で評価されるに至ったか、を考えたことはなかった。Aは、どこかから知識を得てそれを知っていた。
いつもは頑固で持論を曲げないBが、珍しく完敗したので印象深かったが、これにより私も宣伝する意識を改めるに至った。
そのときAが私に尋ねた。
A:「で、お前は自分の作品がどうなってほしいと思ってるんだ?」
私は照れながら答えた。
「もちろん、自分の小説が書籍化されて、さらにメディアミックスとして展開してくれたらすごく嬉しいよ。でも、そういう普通の憧れ以上に、願っていることがあるんだ」
A・B:「どんなの?」
「図書館の中国古典の棚に置かせたい。西遊記、水滸伝のとなりに。図書館に来た中国古典好きの人が、『次はこれ読んでみるか』って借りていくようになってほしい」
B:「いや、お前が最近書いたんだから、古典文学じゃないだろ」
私は笑って答えた。
「だから、何百年も後でいいんだよ。それだけ時間が経ったら、その時代の人には十分古典の仲間だ。まあその時代に紙の本がまだ使われてるか疑問だけど、作品の扱いとしてはそういうスタンスになってほしい」
A:「そ、そこまでのスケールで考えてるとはな……」
B:「宣伝なんかでどうにかできる話じゃなかった。俺たちの想像の斜め上を行ってやがる」
私はさらに笑いながら答えた。
「無理ではないと思うよ? 自分が生きている間になんとかメジャーになることができたら、後は自分の子孫に引き継いでもらうから」
A・B:「せいぜい長生きしろよ!」