プロローグ:カルマシティの影
「そう、あれは……」
奈落が膨らみ始めたのは、凛《りん》が香奈を失った日からだった――。
夜の闇が都市を覆い、冷たい風がビルの隙間を抜けていく。月も星も隠れ、漆黒の空が凛と巨大な影を見下ろすかのように広がっていた。
「――逃がさん!」
張り詰めた静寂を切り裂き、二つの影が疾走する。刃がぶつかり合い、火花が暗闇に散った。
短めの黒髪が風を切り、深紅の瞳が鋭く敵を射抜く。凛の表情には迷いはなく、闇を裂くような力強さが浮かんでいる。その整った顔立ちは、冷たい戦場の中で一際凛々しく映えていた。
背後から冷たい声が響き、凛は反射的に身を翻した。迫り来る剣を受け止めた瞬間、刃が重くぶつかり合い、金属音が夜空に響く。
その時――。
背中を撫でるような微かな温かさが、一瞬だけ凛の集中を乱した。それは、冷え切った闇の中で感じるはずのない、不思議な温もりだった。
だが、それに気を取られる暇はない。敵の攻撃が一瞬の隙を突いて迫り、凛は再び刀を振るう。火花が散り、全身に衝撃が走る。
防御に精一杯の凛。敵の猛攻に押し返されそうになりながらも必死に耐えた。目の前の男は冷笑を浮かべ、凛を値踏みするように見下ろしている。
「妹の死が必然だった理由を知りたいか?」
「お前が妹を失ったあの日、新たな奈落が目覚めた――だが、その本質をまだ知らないだろう? それを知れば、お前の存在が奈落そのものである理由が分かるはずだ」
その言葉が、凛の胸を突き刺す。冷や汗が背を流れ、脳裏に閉じ込めていた過去が不意に甦る。
「……どういうことだ?」
凛は歯を食いしばり、震える手で刀を握り直した。男は薄く笑みを浮かべ、鋭い眼差しを凛に突き刺した。
「守れなかったんだろう? 無力なままで。妹が死んだ、次は誰だ?」
冷ややかな言葉が、凛の記憶の扉をこじ開ける。目の前に、香奈が絶望の中で必死に手を伸ばしていた姿が蘇る。助けを求めていた彼女に、凛はただ見ていることしかできなかった。
「……香奈……俺は……」
凛が呟くと、男は冷たく笑い、剣の先を凛の胸元へ向けた。
「なぜ気が付かない。妹の死すら、お前の選択が引き起こしたと言うことを!」
「黙れ!」
横一文字に刀を振り払うが後ろに跳躍し避けられる。
その刹那、凛の体が揺らぎ、残像が敵の周囲を包むように散った。
「速いな……さすが夜叉か」男は冷笑を浮かべながらも、一瞬の隙を見逃さなかった。
残像の一つが敵の背後に現れる――だが、その刃が振り下ろされる直前、男の剣はまるで生き物のように軌跡を描き、凛の刃をはじき返した。
「夜叉であるお前自身が奈落その物だ。足掻けば足掻くほど、奈落は広がる。それが、お前の罪の証明だ」
その瞬間、男の姿がかすかに揺らぎ始めた。凛は刀を振りかざしたが、刃は空を切り、影は霧のように掻き消えていった。
「待て!」
凛の叫びも虚しく、敵の姿は風に溶けるように消えた。
「お前の力が奈落を肥やしているのを知らないのか? それはお前の宿命だ――否定したいなら見せてみろ、その足掻きを」
敵の言葉だけが残り、冷たい汗が背中を流れた。
静寂が広がる中で冷たい風が傷ついた体に刺さり、背筋に寒気が広がる。ふと顔を上げると、闇の中に異様に大きな影がゆっくりと浮かび上がってきた。
――影獣。
影獣の禍々しい姿を見た瞬間、凛の胸に重く押し寄せる感覚があった。それは、自分自身の罪が形を持って迫ってくるような感覚だった――影獣が、凛の心に巣食う闇そのものだと直感する。
その奈落は街を覆う闇その物でもあり、異次元に位置する力の存在でもあった。
なぜ今ここに――。
そう思っても始まらない。すでに現れてしまったのが現実。
視界を埋める姿に凛の心臓が跳ね、全身が硬直する。漆黒の体表が波打ち、触れるものすべてを飲み込むような暗黒の粒子が滴り落ちる。その周囲からは、かすかな悲鳴のような声が漏れ、足元には影が絡みついて消えない。
目の前に立つ影獣の姿には、かすかな記憶の輪郭があった。それは、凛が長く心の奥に封じ込めていた影――守れなかった母親の面影。
影獣の目が凛を射抜くたび、体内の血が凍り付くような感覚が全身を貫いた。その瞳には、かつて彼を優しく見守っていた母親そのものが宿っているようだったが、今は冷酷な光を宿し、凛の全身を縛りつけるようだった。
「……母さん……?」
凛のかすれた声が漏れた瞬間、体から力が抜け、足が震える。影獣はゆっくりと一歩ずつ近づいてくる。重々しい足音が地を震わせるたびに、凛の奥底に沈んでいた罪悪感が波のように湧き上がる。
「なぜ……どうしてここに……」
信じがたい思いで影獣を見つめる。巨体が影を引きずり、母親の面影が恐ろしい怪物へと変貌していく。凛は無意識に後ずさり、冷や汗が全身を伝っていくのを感じた。
「また俺は……やるしかないのか」
影獣は口を開かず、ただ凛を凝視し、罪を問いかけるように立ちはだかっている。凛の胸が激しく脈打ち、冷たい汗が重く滲む。罪悪感が体を締めつけ、彼は一歩も動けない。
「何が……希なんだ……」
凛の震える声が闇に消えたその時、影獣の瞳が強く光を放ち、巨大な腕がゆっくりと凛に向かって伸びてくる。動けない凛に冷たく迫る怪物の手。大切な人を守れなかったという罪が、体を深く縛り、反撃する力さえ奪っていく。
――その時。
影獣の体が不意に揺らぎ、凛の目の前で霧散して消えた。凛は立ち尽くし、闇に沈む無音の都市を見上げた。そこに残されていたのは、己の弱さを映し出す凛自身の影だけだった。
「……俺は……」
凛はうつむき、自嘲の笑みがこぼれたが、それもすぐに消え、無音が周囲を包んでいた。
「また……俺が、引き起こしたのか……」
その時、背後からふと柔らかな光が差し込み、かすかな声が耳に届く。
「本当に、そう思うの?」
驚いて振り返ると、淡い光に包まれた一人の女性が立っていた。彼女の輪郭は柔らかく光を放ち、その瞳には深い優しさが宿っている。見覚えはないが、どこか懐かしさを感じる存在だった。
「影獣は負の感情が極限まで高まった者の末路よ。奈落は、人々の心に潜む影を具現化する力。そして、それが街全体を覆えば、全てが終わる。あなたが抱える闇だけではない、全ての闇が奈落を肥やしているの」
そう、それは確か何度か夢に出て何かを語りかけてきた者だった。何を語っていたのかはわからない。ただ、敵ではないことははっきりしていた。
「君は……夢で……結女なのか?」
戸惑う凛に、彼女は静かに歩み寄り、そっと彼の手を取った。冷え切った心に温もりがじんわりと染み渡る。
「私は……君の“希望”よ。君の中に眠る光。それは、この奈落を裂く唯一の力よ。私はその光を守るためにここにいる――君がそれを見失わないために」
その言葉に、凛の胸の奥で何かが震え、わずかながら新しい感情が芽生え始める。
「希望……?」
彼女は優しく頷き、凛の目を見つめる。その穏やかな視線であっても人の心の闇を具現化する都市では、これもまた心から生み出された存在なのだろうと思いに至る。
「君の心の奥で、小さな光が闇に揺れているのが見えるわ。その灯火はか細くても、深い夜の中で君を導いてくれる」
彼女の声が静かに響き、凛の心の暗闇に少しずつ光が差し込んでいく。
「君がその光を見失わなければ、夜を裂く輝きにきっとなる」
凛は彼女の言葉を胸に抱き、微かに心に灯る光を感じ取った。重く暗かった心に、ほんの一筋の温かな光が宿っていく。
その光を糧に、凛の中に決意が生まれ始める。彼はゆっくりと深呼吸し、全身に力が戻ってくるのを感じる。
頭の中に、香奈が必死に手を伸ばしていた最後の瞬間が浮かび上がる。涙に濡れた瞳、そして掴めなかったその手――。あの時、自分が立ち尽くしたことで彼女を失った。
「俺が足を止めるたび、何かが消えていく……」
次いで、影獣の中に見えた母の姿が脳裏に蘇る。優しく微笑んでいた彼女の面影が、今では冷酷な怪物へと変わり果ててしまった。何も守れず、ただ失い続けるだけの自分――その弱さに凛は歯を食いしばった。
だが、淡い光に包まれた女性の手が自分の手を包む感触が、冷え切った心にじわりと広がる。彼女の言葉が胸に染みる。
「君がその光を見失わなければ、夜を裂く輝きにきっとなる」
光が広がる感覚とともに、凛の胸に一つの思いが生まれる――逃げなければ、守れるものがあるのではないか。失ったものの重さに押し潰されるのではなく、その上に立ち、未来を掴むために前に進むべきではないのか。
凛は目を閉じ、静かに拳を握りしめた。そして目を開き、前を見据える。
「……俺はもう逃げない。だが……」
その一言が静寂に響き、凛の中に燃えるような情熱が湧き上がった。決意が闇を押し返し、光が彼の周囲に広がるように感じられる。
「断る。俺が……俺自身の意思で選ぶ」
香奈を失った自分が許せない揺るぎない気持ちは変わらなかった。
凛は小さく呟き、闇の中へと再び歩みを進めた。闇に沈む都市の奥で、次の戦いの舞台が静かに彼を待っていた。