300 ムスタファの小心、アブドの野心
ムスタファは、手に持っていた書類を置いた。
「アブド、君とは、若い頃からの付き合いだ。そこまで仲のいい間柄ではなかったが、どんな運命のいたずらか、こうして一緒に公爵の地位につき、働いている」
「ははは、どうしたのだ。急に改まって」
アブドが笑いながら、ムスタファに言った。対して、ムスタファに笑顔はなかった。
「たまに、君のことが、むしょうに羨ましく思うときがあるのだ」
「私のことが、だと?」
「この、ジンの驚異が迫り来る、メロ共和国始まって以来の国難という状況を……」
すると、ムスタファは、少し笑った。
「むしろ、楽しんでいるように思うぞ」
「……ククっ」
「どうして、そんなに、強いのだ?」
「……言っておくが、」
すると、アブドは立ち上がった。部屋の扉から、奥にある窓まで、行ったり来たり、アブドは繰り返している。
「今の状況を、楽観している訳ではないぞ?私にも、恐怖心はあるのだ」
「分かっている」
ムスタファは歩き回るアブドを目線では追わず、またテーブルの上の書簡を取り、それを見つめた。
「……それでも、数多の国民がいるのにも関わらず、知っているのは十数人の公爵と、その下で動く一部の人間のみ。私のようなものは、なんと孤独なものだろうかと、思わずには、いられない」
「へぇ」
「私は、ジンが、こわい」
「それは、私だって、こわいぞ、ムスタファ」
「しかも、私の娘のもとに、ジンは現れた。……国民はおろか、自らの家族を守れるかすら、私は時おり、考えずには、いられない」
「家族と国民は、違うものだ」
「似ている。そう、思う」
「はっは!私には、家族は、いないからな。……いや、いたとしても、私はやはり、割りきって考えていると思うぞ。しかし、ムスタファのその姿勢は、嫌いじゃない」
「……」
ムスタファは、書簡に目を通しながら、そこに書かれている内容には一切触れることなく、言った。
「ジンとは、なんなのだろうな……」
「ムスタファは、どう、思うのだ?」
「我々、人類の、生の歩みを、妨害するもの」
「生の歩みを、妨害するもの、か。なるほど、たしかに、そういう面も、あるのかもしれない。……だが、」
アブドは立ち止まった。壁にもたれかかって、腕を組み、ムスタファを見た。
「ジンは、いまを変える、絶好の機会だ」
「いまを、変える?」
「私は……」
そして、公爵緊急会議の時にも見せた、不適な笑みをアブドは浮かべた。
「私は、変わることを躊躇わない。どんなに自らの立場が苦境に陥っていたとしても、それを、私の中にある巨人的な精神の糧にしていくのだと、決めている」
「……ジンに、勝てるだろうか?」
「勝つのだ」
「弱点が、見つかって、いない」
「それでも、勝つのだ」
アブドの言葉が、宮殿の小さな一室に溶け込んだ。