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独房の中

「66号! 起きろ66号!」
 66号と呼ばれた男は、ようやく独房の中で目を覚ました。意識がまだ朦朧としている。
「66号? 66号とは俺のことか? 俺の名は確か柳沢……」
 ずいぶん長い間夢を見ていたようである。しかしその内容のほとんどは忘れた。ただ平安時代の十二単に身を包んだ女の言葉だけが、鮮明に記憶に残っていた。
「お前はこの先、幾度生まれ変わったとしても、最後は罪人として牢に入ることとなるのだ」
 そして、おぼろげながら記憶が蘇っていく。己は軽い傷害の罪により、この東京拘置所に罪人として入れられることとなったのだ。今回は労役受刑者としてである。しかしすでに一度、殺人の罪により懲役刑をくらった、いわば前科者であった。
「66号! 今は睡眠の時間ではないぞ!」
 看守が怒号をあげた。この日は労役のない土曜の日である。しかし休みの日であろうと、受刑者は許された時間以外に横になることはできない。ただ座っているか、もしくは朝、借りた本を読むしかないのである。
 ここに来て十日ほどが過ぎた。労役受刑者であるこの「受刑者番号66号」の刑事罰というのは、拍子抜けするほど簡単なものだった。頭も体も使わない単純な紙作業でしかない。
 むしろ仕事のある日の方が、休みの日より楽といえば楽であった。休みの日ともなると、ひたすら本を読む以外やることがなく、とにかく退屈なのである。
 土日の休みの日は、一日が通常の倍ほど長く感じられる。夜になっても照明は点灯したままで、そのため中々眠ることができず、朝をむかえても鬱病気味であった。
 
 これは一週間に数度だけ、運動のため牢の外に出ることができた際、他の囚人に聞いた話である。
 長くいると時々、夜中に他の囚人が叫ぶ声を聞くことがあるという。何事かと看守がたずねる。すると囚人は、己しかいないはずの独房に、他に誰かがいたと告げるのだそうだ。
 この拘置所に幽霊が出ることは、決して珍しいことではないらしい。幽霊がでると囚人は他の部屋にうつされ、その部屋は無人の房になるという。66号自身もまた、夜、独房で何者かの影を感じて目を覚ますことがあった。
 
 拘置所生活での唯一の楽しみは食事である。しかしこれがあまりにまずい。特に朝食は麦飯に味噌汁と漬物、そしておかずは必ず納豆、海苔、ふりかけ、梅干しのいずれかであった。
 66号が最初に入所した日のことである。朝食の際、配膳係が新入りであるせいか、66号の部屋だけ麦飯を置き忘れてしまった。机の上には、海苔と味噌汁と漬物だけが置かれた。
「いかに囚人とはいえ、あまりにひどい……」
 事情をよく知らない66号がすべてを食べ終わる頃、ようやく配膳係があやまりに気づき、机の上に麦飯だけが乗せられた。この時はさすがに普段は温厚な66号も、麦飯を地にたたきつけてしまいたい衝動にかられた。
 さて、ようやく目を覚ました66号の机の上には、朝借りた本が並んでいた。「完訳源氏物語」、「江戸城と大奥」、「徳川将軍のすべて」、なにしろこの66号は、子供の頃からの歴史好きなのである。
 そしてその中から、徳川五代将軍綱吉を主人公として小説を手に取った。付箋が挟んであり、いよいよ残りはわずか、綱吉の最期の場面へとさしかかろうとしていた。


(この小説を書くにあたって、柳沢吉保のことをいろいろ調べました。現在の東京拘置所にあたる場所が、吉保の晩年の隠居所だったようです。次はいよいよ最終話となります)

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