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本編

「ああ、アシュトン」
「お帰りなさいませ。……クラリッサ様」

 三年ぶりの奇跡の再会。
 この光景を言葉だけ聞いていたら感動的な……まさに恋愛小説において、一番の見せ場になるわね。
 嫌になるぐらいお似合いだわ。
 白銀の長い髪は黒の軍服によく映える。彫刻のような美しい顔立ちに、蕩けるような笑顔。長身でスタイルも良く、魔法と剣に秀でた騎士団長アシュトン・クィルター。
 その隣には蜂蜜のような美しい髪に、エメラルドグリーンの瞳、豊満な胸と白い肌、おっとりした美女──。

 いつだって私に絶望と敗北を叩きつけるのは、異母姉妹の姉だ。隣国に嫁いで三年。白い結婚の後に死別した未亡人である姉を、あの人が嬉しそうに出迎える。
 彼を好きになって八年。
 婚約者になったのは五年前で、当時は浮かれていたけれど、それもすぐに婚約の本当の理由を知る。婚約の理由は姉を待つためだと噂を聞いた時は、後頭部を殴られたような感覚だった。

 姉が嫁ぐことが決まると瞬く間に、ある噂が駆け巡った。「両思いの二人を切り裂いた隣国の王子と出来損ないの末姫」と。当時、騎士と姫の報われないラブロマンスが流行りも後押しして、私は悪役を押し付けられた。
 姉が嫁いだ三年間、婚約者として自信がついた頃に、その自信ごと姉はぶち壊したのだ。

 隣国に嫁いだものの白い結婚を貫き通し、元々病弱だった第二王子の死去。隣国との国交や結びを強めるため、第四王女を我が国の公爵家が娶るなど政治的な駆け引きもあったが、両国の関係悪化は防がれ、白き結婚を貫いたことで、姉は神聖化されていた。
 そんな姉を出迎え、付き添うのは私の婚約者だ。王国騎士団長の彼は、銀髪を靡かせて恭しく姉の手を取ってエスコートをして、先ほどの抱擁。
 全てを奪いに姉は帰ってきた。ううん、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 私はそれを遠目で見るだけで、出迎えすら大臣や現王妃から禁じられたのだ。
 末姫は役に立たないお荷物。魔法学校に首席で入学しても王家の圧力を使ったと言われ、実績を積み上げて認めてもらおうと躍起になった時期もあったわ。さまざまな魔法技術の促進及び国に貢献しても、他人の功績を奪い取ったと言われ続けた。

 私の髪は灰褐色で老婆を彷彿とさせるから、忌子だとも言われた。いつだって私の周りは否定ばかり。それでも私が耐えられたのは、好きな人の存在と、魔法塔の存在だった。

 転生者として魔法のある世界は何もかも新鮮で、知識を得ることが楽しくて夢中になった。
 転生者のギフトとして、この世界の文字、語学の全てが日本語で表記されて読めるのだ。古代文字だろうと、神々の書物だろうと関係ない。その特性を生かして、私は保険をかけておいた。
 万が一、アシュトンの心が三年経った今でも姉にあるのなら、この国を出ようと。彼──侯爵家との繋がりを保つから末姫()でなくてもいいのだ。私である必要性など、この国にはない。

 普通の王女ならここで心を病むんだろうけれど、転生者である私には前世での経験や知識があり、王宮以外での生き方に抵抗もない。
 職があれば一人でも生きてはいけるし、魔法の研鑽を積んで自分の身を守る程度には強くなった。
 だから──。

「魔法塔に行くかどうか、決めるのは一週間後か」
「ウォルト」

 私の横を歩いていた黒いローブの男は、愉快そうに話しかけてきた。
 隣国の第十三王子ウォルトは我が国に留学していて、王城から魔法学院に通っている。私と同期で、彼もまた魔法塔推薦を得ている逸材だった。
 褐色の肌に、緋色の長い髪、長身で美しく整った顔立ちは芸術品のよう。
 そんな彼は魔法オタクで、私がどんな文字でも読めると知って魔法研究の協力を求められた。
 初めて誰かに期待されたことが嬉しくて、二人で色々研究をしていたら、婚約者がいるのに不倫しているという噂が流れた。

 いつものことだと諦めていたけれど、それに対して王家に抗議文を送ったのは、ウォルトだった。庇われたのも、助けようと動いてくれたのも、ウォルトだけ。今は少しだけ王宮での居心地もマシになった。魔法塔からも私の功績が他人から奪ったものでないと調査をしてくださったが、この国では公表されることはなかった。
 悪者は悪者のままでいてほしいのだろう。

「魔法塔は完全実力主義で変わり者も多いから、きっとオレーリアも気に入るよ」
「そうね。明日と一週間後には会う約束をしているから、決着を着けてくるわ」
「そこまであの騎士に執着するのは、意地?」
「……初恋だったし、ここ三年は婚約者として隣に立てるぐらいの関係は築けたと思っていたのよ」
「あれでね」

 再会に抱き合っている姿を見て、見たことを後悔した。あんな風にアシュトン様が笑うところを見たことがない。楽しそうな顔も。
 私といる時はいつも複雑そうな顔をしているだけで、会話も続かない。
 思い出しただけで、泣けてきた。
 出会った時はもっと違っていたのに、な。一目惚れして、話してもっと好きになって……。

「君の価値の素晴らしさに気付かない馬鹿どもは、そのうち後悔するだろうよ。君がどう決断するかは君が決めるべきだけれど、僕としては君がいてくれると研究が捗るし、一緒にいると楽しいとだけは言っておく」
「ありがとう。……ウォルトは、王位継承問題とかは大丈夫なの?」
「ああ、うちは兄妹が多いからさ、身内で争う前に布石を打ってあるから平気。どちらかというと、王位を継ぐ兄様が可哀想な感じかな。僕たち一族は多趣味かつ研究者気質だからさ。もっとも親世代が骨肉の争いをしてから、肉親同士の争いに関しては細心の注意を払っていた背景があるしね」

 国によって、習慣や固定概念が大きく異なる。そう考えると、この国は特権階級の横暴と腐敗が進行している気がした。
 表面上は緑と水に囲まれた国だけれど、その内面はあまりにも醜く見える。

()()()()()()
「──っ!」

 背後から諌めるような低い声が耳に届く。振り返ると、先ほどまで姉と抱き合っていた私の婚約者様が佇んでいた。
 怖いぐらい眉を吊り上げて、睨んでいる姿を見るたびに悲しくなる。姉が帰ってきた途端、露骨すぎる変化に泣きそうになった。

「アシュトン様、何か御用でしょうか?」
「クラリッサ様が役目を終えて戻ったというのに、どうして出迎えせずに離宮に向かっているのですか?」

 私が今までどんな目に遭っていたのか、話したはずだったのだけれど……。 姉が帰ってきた途端、忘れてしまった? ううん、彼の優先度は全て姉だもの。私の話などどうでもいいのだわ。

「王妃と宰相閣下から、姉の出迎えは不要と書簡が届きましたからですわ」
「だとしても、これでは周囲からの印象が悪くなるばかりです」

 確かにここ三年で私の噂が少し下火になってきた。でもだからといって王妃と宰相閣下の忠告を無視したほうが後々面倒になる。そう口にしようとしたけれど、自分の中にあるどす黒い感情を押し殺して微笑んだ。

「ご用件は……それだけなのでしょうか?」
「いえ、私は……っ」

 大股で私のすぐ傍まで歩み寄り、片膝を突いて手を差し出した。

「今から話をする時間を頂いてもよろしいでしょうか?」

 ずるい。そうやって困った顔をするばかりで、アシュトン様が微笑むことなんてなかった。眉を下げて困った顔で口元を微かに緩める程度だ。
 ああ、姉と比較する自分が嫌だわ。

 それでも婚約者として扱ってくれることが嬉しくもあって、ちょっと優しくされただけで簡単に決意が揺らいでしまう。本当に単純だわ。

「オレーリア様」
「……わかりました」
「それじゃあ、オレーリア。また学院で」
「ええ。ウォルト」

 空気を読んでウォルトは、そのまま離宮にある書庫に向かった。あそこにはまだまだ解読し切れていない魔導書がたくさんあるのだ。
 ウォルトはその書物を読み解くことしか頭にない。それでも私がアシュトン様に付いていくかどうか決断するまで待っていてくれたのだ。
 隣国の王子なのに配慮がすごい。そんな人と友人になれて、それに関しては運がよかった。


 ***


 アシュトン様と手を繋いで王宮内を歩く日が来るなんて……! いつもなら飛び上がるほど嬉しくて、浮かれていたと思う。けれど姉が戻ってきた今、私に向けられる眼差しは悪意と殺意ばかり。
 両思いである二人を引き裂こうとしている悪女。今も手を繋いでいるのは、私が彼に無理を言ったからだと歪曲して噂として広がっていくのが容易に想像できる。噂を止めようと奔走していた頃もあったわね。

「…………無駄だったけど」

 掴んでいる手はとても温かくて、何だか泣きそうだった。どうして婚約者の私が悪役にならないといけないの?
 それもこれも美しい金の髪ではなかったから?
 灰色と銀髪じゃ雲泥の差?
 最初の王妃だったお母様の子供だったから?

「オレーリア様。ウォルト殿下とはよく一緒におられるのですか?」

 唐突に声をかけられて、「はひ」と変な声が出てしまった。なんて淑女らしくない声。

「他国の王族との人脈を得ることは良いことだと思います。ですがあまり一緒に居ると変に勘ぐられますので、気をつけることを推奨します」
「……自分は、婚約者でもない異性と抱擁までするのに?」

 ポツリと呟いたけれど、運良く強い風が吹き荒れたおかげでアシュトン様の耳には届いていないだろう。
 届いたとしても彼はきっと困った顔をするだけだ。もう私の天秤は彼を諦めることに傾いていた。
 でも、もしかしたら。
 ほんのちょっとでも、なんて期待もしている。
 一週間後に、私は十八歳になる。結婚もできるし、成人として私の制限も変わってくるのだ。その一つが魔法塔への移住権。

 有能な魔法使いに与えられた特権であり、世界の中心である空中都市、地底世界樹都市の二つの都市いずれかに居住権と、魔法使いとして最高ランクの称号と仕事を得る。功績に見合った報酬を手にできるし、自分が考案した魔法技術や全ての権限が術者個人の財産となるのだ。

 まさに私にとって夢のような場所。
 婚約破棄あるいは解消になるのなら、私はその都市に行く。この国の王であっても魔法塔に移る権限は個々人が持っているので、許可なども必要ないことが心から嬉しい。
 最大の難関はあっさりパスしたので残る問題、というよりも迷っているのはアシュトン様とのことだけ。
 アシュトン様は私を侯爵夫人として、迎えるつもりは──あるのかもしれない。いつものように私を矢面に立たせて、本当に好きな人を守ろうと考えても可笑しくない。「好きになった人の役に立ちたい」なんて三年前の自分を殴ってでも婚約を止めれば良かった。
 そうすれば積み重なる想いに、押し潰されなくてすんだのに。


 ***


 アシュトン様が案内してくれたのは、宮廷の奧にあるバラ庭園のガゼボだった。私たちはよくこの場所でお茶をして会うことが多かった。
 この場所だと姉の居住区域が見える位置だと気付いたのは、ずっと後だけれど。私はバラよりも藤の花のほうが好きで、アシュトン様に話したことがあった。淡い青紫色の花がカーテンのように垂れ下がっているのがとても美しくて、季節になるとよく一人で眺めていたわ。

 アシュトン様も「一緒に見よう」と言ってくれたけれど、それを話したのが四年前。あれから一度だって一緒に見たことはないし、話題にも上がってこない。だからきっとその場凌ぎの言葉だったのに、馬鹿みたいに信じていた。本当にもっと早く気づけば、傷ついたけれど深々と傷つくことはなかったわ。

 私とアシュトン様は向き合う形で座った。本来ならお茶を用意する侍女たちがいるのだけれど、私にはそんな気の利いた侍女たちはいない。本当にこの国にとって末姫なんて、名前(悪者)しか価値のない存在なのでしょうね。
 もうどうでもいいけれど。
 どう話を切り出しましょう。明日話す予定だったから、気持ちの整理を終わらせて話したかったわ。でも早いほうがいいわよね。

「ア──」
「ここ最近は忙しくて、週に一度のお茶や面会が減って申し訳ない」
「いえ。……いろいろ、と忙しいのでしょう」
「…………」

 いつもなら一緒にいて話をしているだけで幸せなのに、今日は棘のある言葉しか口をついて出てこない。アシュトン様は弁明も、誤魔化しもしない。ただ困った顔をするだけ。
 その姿を見てまた瞳が潤んだ。

 きっと自分で好かれようという気持ちが薄れてきてしまっているのだろう。期待しても裏切られることばかりだった。
 一度だって私と交わした約束を守ってくださったことなんてないもの。それでもこの三年間だけは穏やかだった。普通の婚約者よりも距離は遠かったかもしれないけれど、それでも穏やかな時間で、救われたのも事実だ。

「来週はオレーリア様のお誕生日ですね。パーティーの準備などは進んでいるのですか?」
「──っ」

 ああ。そういえば姉が戻ってくる前に、そんな話をしたのだった。姉が帰ってこなければささやかながらパーティーを開いたのかもしれない。アシュトン様からの贈物はなにかと、喜んだだろう。
 でも──。

「その日は()()()()()()()()()()()()()()()()()()。王妃様が嬉々として教えてくださいました」
「……あ」

 ハッとしたアシュトン様に、私はにこやかに微笑んだ。悲しくても笑えるのは王女としての教育の賜物だわ。

「本当は明日の、お茶会で伝えようと思ったのだけれど……」
「そうでしたか。……けれどその日がオレーリア様の生まれた大事な日に変わりはありません。私から贈ってもよろしいでしょうか?」

 去年だったら飛び上がるほど嬉しくて、口元がニヤけていたわ。去年もお祝いをすると言って、結局、魔物の討伐で遠征に出て当日祝われることも、贈物も届かなかった。でもあれはしょうがないと思っていた自分を思い出す。
 優しい記憶、穏やかな三年間?
 思い返せば、姉がいなくなって少しだけマシになっただけ。それをさも幸せだと、そう思おうとした。
 我慢して、なんて──愚かだったのだろう。

「いいえ。その必要はありませんわ」
「え」

 泣きそうなのをグッと堪えて、口を開く。喉がカラカラで上手く声が出るか不安だけれど、言わないと。

「十八歳の誕生日の日、私は魔法塔のある空中都市に移住するつもりなのです。だから……」

『私と一緒に逃げてくれませんか?』
 なんて少し前までは考えていた。望みは薄いけれど、もし本当に愛してくれているのなら……そう一縷の望みを持っていた。でも姉との抱擁を見たら、そんな言葉は引っ込んでしまった。

「オレーリ──」
「アシュトン様、婚約解消しましょう。……面倒なことや悪役が必要でしたら、私の名前を出して構いません。どうせ何もしなくても、私が悪いことになっているのですから」

 アシュトン様は固まったまま。困った顔も、驚いた顔もしていない。
 ただ無表情で、瞬き一つしていなかった。

「これも明日お話しする予定でした。姉も戻って来た今、私がいると迷惑だという者たちも増えてきますし、また三年前の日々に戻るのは御免なのです」
「…………」
「私にとってアシュトン様が初恋でした。形だけの婚約者でしたが、淡い夢を見せてくださってありがとうございました。もう会うこともないと思いますが、姉とお幸せに」

 言いたいことは、全部言えた。
 言ってやったという満足感のまま、返事も待たずに席を立とうとした時、腕を掴まれ引き寄せられた。気付けばアシュトン様に抱きしめられている。ぎゅうぎゅうに、もみくちゃにされるような酷い抱擁だ。

「痛っ、ぷはっ、な」
「────だ。そんなの、それなら、私は──に」

 酷く取り乱したアシュトン様の言葉は途切れ途切れで、私に向けて語っているというよりは、自分に言い聞かせているようだった。
 悲痛で、震えた声。
 泣きたいのに泣けないような、そんな思いが伝わってきた。
 アシュトン様にも、何か事情が?
 ふとそう思って、本当はダメだけれど分析魔法術式を発動した瞬間、《誓約》と《隷属契約》が浮かんだ。

「え」

 その単語に目を疑った。詳しく契約内容を解析すると、一つは騎士としての誓いであり、こちらは健全というか騎士なら叙勲式で結ぶものだ。
 問題は《隷属契約》で、なんと契約者は王妃及びクラリッサ()だった。

 その内容はとてもシンプルで、優先すべきは現王妃とクラリッサであること。そして五年間、オレーリア()と婚約を結ぶ──だった。

「──あっ」

 自分の中の大事な何かが壊れた音がした。
 アシュトン様が何故、苦悶の表情を見せたのか。私を思っていたからじゃない。五年間、私と婚約を続けることが《契約内容》だったからだ。一瞬でも好意を寄せられていたのだと思って、浮かれそうになった自分が馬鹿みたい。
 だから婚約者として、最低限の接し方をしていたのね。
 だから姉を優先していた。
 だから──()()()()()()()()()()()()()()()。彼には選択肢がなかったのだから。

「……アシュトン様は《隷属契約》を結んでいたのですね」
「オレーリア」

 彼の顔が酷く歪んで、今にも泣きそうだった。ああ、この方もまた私とは違うけれど、雁字搦めの中にいたのですね。この方も被害者だったのだ。

「事情は分かりました。今まで気付かずにいて申し訳ございません。……私がもっと早く気づいて婚約を結ばなければ、五年もの間、貴方様を縛り付けることはなかった」
「……っ、それは」
「今直ぐに婚約解消ではなく、五年目となる私の誕生日に婚約解消はいたしましょう。それならなんのペナルティもなく契約解除されますわ」

 被害者は彼だったのだから、泣きそうになるな。なんでもない風に振る舞うの。王女の仮面を付けていれば笑顔を保てるわ。オレーリア、あと少しだから。

「オレーリア様、……っ、私は」
「いいのです。これで吹っ切れましたし、この国にも未練はなくなりました。私の今までの努力も、実績も、名誉も全部、取り戻してからいなくなります。その後この国がどうなろうと私には関係ありません。……アシュトン様も、《隷属契約》が解除されたら、自身の身の安全を第一に考えてくださいませ」

 抱きしめられた温もりが温かくて、心地よくて離れがたかった。本当にこの人が好きだったのだと実感しつつも、失恋したのだと認めたくない自分がいた。
 《隷属契約》のせいで私を大切にできなかったとか、契約が終わったら私を自由にするとか、そんな夢みたいな想像を一瞬だけして──頭を振った。そんな訳が無い。

 彼は王妃と姉に気に入られて、《隷属契約》を結ばれて、都合のいい人形にさせられた被害者だ。もしかしたら私が彼を好きにならなければ、このような傀儡にならなかったかもしれない。五年間、望まぬことばかりをさせられたアシュトン様に申し訳ない。

「アシュトン様、巻き込んで申し訳ありませんでした」
「……っ、オレーリア、私は……っ」

 苦悶の声に胸が痛くなる。これ以上、彼の口からどんな残酷な言葉が出てくるのか、考えたら体が震えた。
 そうよね。知らなかったとはいえ、私が彼を見つけなければ……ここまではされなかったはずだわ。私の味方は引き離され、裏切られて離れていった。そうやって私の陣営を真綿で首を締める形に追い込んだのは、現王妃だ。
 静かに王国を去るつもりだったが、遠慮はいらないようね。最後に復讐ができそうで良かった。

「私の功績の全てを、この国に支払ってもらいますわ」

 国のためと思っていたけれど、もうどうでもいいわ。私の心はぐちゃぐちゃで、ひび割れて元には戻れない。歪んで、壊れてしまった。もともと前世の記憶を取り戻したのも、オレーリア自身の心が摩耗して、壊れてしまったからだ。前世の私が補填する形で保っていたようなもの。

 ずっと前から私は壊れて、歪で、それでもいじらしくも信じてみようと手を伸ばした。この国の人たちには誰も届かなかったけれど。
 でもウォルトや、空中都市の人たちはそんな私を凄い人だと認めてくれたから、いいのだわ。
 結局最後までアシュトン様の笑顔を見ることはなかった。
 翌日のお茶会はキャンセルして、部屋の荷物をまとめる。もちろん魔法塔への移住の書類も朝イチで提出済だ。あと一週間は自分の離宮から出ずに、魔導書の翻訳や研究に時間を当てて過ごした。

 私に会いに来る奇特な人間は、ウォルト殿下ぐらいだ。けれど今回は断り、「一週間後に」と手紙を書いたら、それで全てを察したようだった。


 ***


「オレーリア! どうして帰ってきたのに、一度も会ってくれないの!? 出迎えの時もいなかったし!」

 明日、姉の帰国を祝うパーティーに不参加の知らせを送ったら、姉が部屋に乗り込んできた。侍女も王女相手では追い返せなかったのだろう。いや、むしろスキャンダルにならないか、喜んで迎え入れた可能性だってある。

「現王妃と宰相閣下から会うなと、通達があったからですよ」
「まあ! 姉妹の再会なのに、お母様は一体何を考えているのかしら!」

 私としては姉も何を考えているのか、サッパリわからない。

「それで、ご用件は?」
「明日のパーティーに出て欲しいの! それで私からオレーリアと仲良しだって話すわ。お母様が何か言ってきても私が守るもの」
「お断りしますわ」
「え」
「明日は大事な用がありますから、貴女のパーティーには出ません」
「酷いわ。三年の間に何があったの? 嫁ぐ前は、あんなに一緒にいたのに……」

 ぐすんと涙する姉に心底、心が冷え冷えとしたものに変わっていく。どうせ私をパーティーに呼びたいのは、アシュトン様と婚約破棄を一方的にさせて自分が婚約する宣言をするためでしょうに。

「一緒に? 私と婚約者様とのお茶会に乱入してきたことですか? それとも市井のデートに勝手についてきたことですか?」
「あれは違うのよ! 私はオレーリアのために」
「私のために明日のパーティーで、私の婚約者を自分の婚約者にする気ですか? 明日が私の誕生日だと知っていて、よくそんな悪魔のようなことを思いつきましたね」
「酷いわっ……そんなこと……。お母様がそのほうが良いっていうから……違うの?」
「当たり前でしょう」

 姉は真っ青になって黙った。何にショックを受けたのか知らないけれど、そんなこともどうでもいい。血縁の情などとっくの昔に消え失せているのだから。オレーリアが苦しんだ対価だけはしっかり取り立てさせて貰うわ。


 ***


 翌日、私の十八歳の誕生日。
 国王と王妃に挨拶を早々に済ませて、王宮を出た。引き止める言葉も、今までの功績を褒めるでもなく数分もかからずに終わった。それで良かったのだ。
 この後、国がどうなるのか胸を痛める必要もない。転移魔法で空中都市の門扉前に飛んだ。
 聳え立つ銀色の門は、レリーフや装飾が凝っていて美しい。
 手続きをすませるのに、時間がかかって気づけば門扉が閉まるギリギリの時間になった。結局、アシュトン様をお誘いすることはできなかったけれど、それで良かったのよ。

 むせ返るようなオレンジ色の夕焼けが美しく、自分の中で心が動いたことが嬉しかった。これからは顔を上げて、楽しもう。
 あの国での全てを忘れて──。
 巨大な門扉が閉まる寸前、誰かが私の名前を呼んだ気がした気がして振り返ったけれど、分厚い門が閉じた後だった。

『オレーリア様』

 一瞬アシュトン様の声がしたような?
 気のせいね。荷物はすでに部屋においてあるし、夜にはウォルトと食事の約束がある。そう思って街に向かって歩き出した時だった。
 ギギギギ……と閉まった門が開く。
 そこには血塗れのアシュトン様の姿があった。

「え」
「オレーリア……様」

 アシュトン様は駆け寄ると私を抱きしめるような形で倒れ込み、膝を突いた。彼がこの都市に入るためには、魔法塔からの認可が必要だったはずだ。
 いやそれよりも傷の手当が先だと治癒魔法をかける。淡い光によって、彼の額から流れ落ちていた血が止まった。

「一体何が!?」
「……クローディア様の形見を、やっと貴女にお戻しできる。本当はもっとたくさんの遺産があったのですが、取り返せずに申し訳ありません……」
「え……」

 クローディア。私の母の名前だわ。
 アシュトン様の手に握られていたのは、お母様の……首飾りだった。

「どうして……これは没収されて……」
「取り返すための取引材料が《隷属契約》でした……」

 お母様の形見を取り戻すために、《隷属契約》を?

「そこまでするのは……騎士として?」
「クローディア様が病死される前に、私の叔父にオレーリア様をお守りするように、命じられました……しかし……叔父も遠征で亡くなり……私は……。叔父の意思を継ぎましたが…………貴女に惹かれて……っ」
「アシュトン様……もう喋らないでください。傷口が……」
「…………っ」

 最後のほうは声が掠れて聞こえなかったけれど、アシュトン様の覚悟はひしひしと伝わってきた。意識を失ったアシュトン様が私に覆い被さり、その時に唇が微かに触れる。微かに触れただけなのに、心臓がバクバクと音を鳴らしてうるさい。

 それからすぐに衛兵さんたちが手伝ってくれて、彼を都市病院に運んでもらった。偶然触れただけなのに、唇の感触がいつまでも残っていて忘れられない。
 こんなことでアシュトン様への気持ちが復活するなんて、我ながら単純だわ。


 ***アシュトンの視点***


 叔父はクローディア様の護衛騎士だった。そして当時私は見習い騎士として、オレーリア様の傍で従者の真似事をしていた。
 あの頃は、宮廷内も穏やかで明るかった。側室のエリザベート様が王子たちの教育に熱心で、離宮からでなかったからでもあったのだと思う。

 オレーリア様は幼い頃から魔法の才能があり、青い蝶を再現しては私に見せてくれた。愛らしくて、心優しいオレーリア様が大好きで、この方に剣も心臓も捧げると心に誓った。
 結婚式ごっこで私を選んでくれたことも嬉しかった。まあライバルとは彼女の抱き枕の黒猫なのだが……。
 僅差で私が勝ったらしい。お転婆で好きなことに夢中になると本人が納得いくまで調べ続けた。しかも八歳でさまざまな言語を理解して、いかなる文字も読み解ける天才だった。彼女の能力の高さが悪用されることを叔父とクローディア様は懸念していた。

「いずれこの子の能力に気づいた者が悪用しないように、アシュトン、どうかこの子を導いてあげてくださいね」
「はい。私の全身全霊をかけても、オレーリア様をお守りします」

 そうクローディア様と叔父の前で、誓ったのだ。誓ったのに……っ。
 クローディア様が病死して、叔父が後ろ盾になろうとした矢先に事故死。オレーリア様の傍にいるために侯爵家の力を使っても、全ての悪意から守ることはできないどころか、敵は的確に私の弱みを握り契約を持ちかけてきた。

 オレーリア様に危害を加えないこと。婚約者として傍にいること、亡きクローディア様の形見を正当な所有者に返却することを条件に《隷属契約》を選んだ。
 それすら現王妃の罠だったと知ったのは、しばらくした後だった。オレーリア様は私のことを覚えておらず、騎士として出会ったと思い込んでいた。
 度重なる不幸に耐えきれず、記憶を消したのだろう。私のことを忘れてしまったのは悲しかったけれど、オレーリア様の生活を守ることだけに尽力した。しかし狡猾な王妃の策略に、何度もオレーリア様に悲しい顔をさせて──私は騎士失格だった。何度、叔父とクローディア様の墓標の前で謝罪の言葉を口にしただろう。私には貴女に笑いかける資格などないのに、諦めきれずに貴女を思い続けてしまった。

「オレーリア様……っ、」

 私がオレーリア様を思えば思うほど現王妃が酷いことを考えて、彼女の心を抉る。本当はもっと傍で貴女を存分に甘やかしたかった。
 もっと笑って、怯えも苦しみも悲しみも取り払った場所に……貴女を魔法塔に連れ出したいと言ったら、受け入れてくれるだろうか?
 あそこならオレーリア様の能力を生かしつつ、庇護下に入ることだってできる。推薦状を用意して、あと私にできることはあるだろうか。

 あの方が笑えるような居場所を、私が用意できれば……あの方の逃げ道だけ。
 愛している、と告げることも許されない。
 脆弱で、愚かな私とは違って、オレーリア様が自分の口から魔法塔に行くと行った時、嬉しくてなんと言葉を返せば良いのか分からなくなった。「私も一緒について行きたい」とは口が裂けても言えなかった、言えるはずもない。今まで散々、オレーリア様を傷つけた私を貴女は許さないだろう。当然だ。許されるわけがない。けれど、あの方の物を返させてもらう。


 ***


 まだ日はでているのに、王城内は闇の帷が降りたように薄暗い。澱んだ空気が充満しているようだ。別空間、いや結界の中か。発生源はおそらく……。

「お前の探し物はこれか?」

 美しく煌めく空を閉じ込めたようなネックレスを見て、全身がカッとなった。それはあの方が持つに相応しい物。

「……出たな。魔術師」

 闇の中から姿を見せたのは、床に付くほど長いローブを纏った男だった。影のある顔にはありありと敵意が向けられる。この男がクローディア様と叔父を呪い殺した元凶であり、王妃の剣であり盾。私に結んだ《隷属契約》もこの男の発案だったのだろう。

「契約解除おめでとう。最高に良い舞台だったよ。私の求愛を拒んだクローディアも、その騎士も、娘も不幸になる。騎士として守るはずだったお前が、あの娘を苦しめて最高だった」
「その茶番も今日までだ。契約通り、そのネックレスを返してもらおう」
「そうだな。約束通り、お前に返そう」

 適当に放り投げたネックレスは弧を描き地面に落ちる。その前に両手でネックレスを受け取った。ああ、ようやくクローディア様の形見を、オレーリア様にお返しできる。
 受け取った瞬間、床に数十の魔法陣が展開。
 逃げる暇も、防御も間に合わず──爆音は轟いた。土煙と壁が崩れ落ちる音の中で、魔術師の高笑いが耳に届く。

「バカが! 罠に決まっているだろう! これだから脳筋の騎士は! 魔術師は術式を組み替え紡ぐ芸術品。特に人を傷つけて、壊すことこそ究極の美!」
「────っ」
「殺しはしないさ、《隷属契約》が切れた後は、お前に惚れ薬を飲ませる計画だからな!」

 ポタポタと絨毯を血で汚すが、手にしていたネックレスが本物であるのを確認して、ホッとした。最初から一撃はくらうつもりだったが、思いのほか反射魔法防御が間に合ったようだ。
 なるほど。一度契約を切ったのは、惚れ薬でオレーリア様への思いを上書きする気だったのか。

「くだらない」
「なっ……バカな」

 魔術と魔法の違いは、体内に魔力器官があるか、ないか。内側から魔力を練り上げて解き放つ威力は、魔術の数倍。
 魔法は生まれた時から神々から贈られるギフトの一つ。だからこそ魔法塔は、魔法使いを保護するため、その力の使い道を導くために設立した。

「ところで……。今のが、全力か?」
「なっ……ありえない……。直撃して五体満足でいるはずがない……」
「ああ、そういえば私の力をあまり王都では見せていなかったな。情報規制を徹底しておいて良かった」

 今までは補助魔法の《肉体強化》ばかりを使っていた。それは騎士としてであって、全力ではない。魔法騎士としての力を使うのは、あの方のためだけ──。

騎士の(エクエス・)誓い(ユーラーレ)

 だから、ようやく使うことができる。あの方のために鍛え上げた魔法武装。
 背に生じる漆黒の光が三対六翼の形となって、顕現する。盾であり刃となる攻防一体型でもあり、あの方をお守りしつつ活路を見出すために代々受け継がれた魔法の一つ。

「な、なんだ、そのバカみたいな魔力の塊は! ふざけるな!! 獣よ、我の敵を食い殺せ! 漆黒(ジェットブラック)の獣たち(ビースト)

 後ろから襲いかかってきた四足獣を素早く感知して、羽根が槍となって獣を貫く。数が増えようと、一定の距離に入った瞬間──獣は貫かれ床に転がり落ちる。

「後ろからとは本当に屑だな」
「うるさい、勝てばいいんだよ。卑怯な手を使ってクローディアも、その騎士も殺したんだ!」

 本当は剣で倒したほうが手っ取り早いけれど、大事なネックレスが傷つかないように両手で包み込むほうが大事だ。正面から勝てなかったから策を弄したのは、戦術的に正しい。ただそれだけだ。
 死ぬ瞬間まで、後悔させてやる。

「まずは足だな」

 そう呟いた瞬間、羽根の一つが矢の如く飛び出し、魔術師の左足を貫き、床に縫い留めた。
 「ヒッ、ぎゃあああああ!」と喚き声まで聞くに堪えない。あの方の痛みはもっと、苦しみはそんなものではなかった。

 次々と襲いかかる四足獣を肩翼の刃が貫く。
 間合に入った段階で死角からだろうと獣を感知して一撃で屠る。
 獣の死体が三十を超えたところで、魔術師の顔色が土色に変わっていく。

「わ、私の結界であり、私の世界なのになぜ!?」
「お前のチープな結界の中に私の特殊結界を張っているのだが、ああ、それすら気づかなかったのか」
「なっ、魔法塔の人間でもないお前が、そんな訳──っ、ああああああ! もうそんなことはどうでもいい! お前を殺す。命令と違うがお前さえ殺せば、そのネックレスは主人の元に戻らずに済むのだからな!! 暗き闇の王よ、我を贄に捧げて世界を滅ぼしたまえ──(ディマイズ)(・エンド)!!」

 ゴオオオオオオオオ!
 闇が泥として具現化することで、この空間を泥で覆うつもりなのだろう。その泥も触れるもの全てを溶かしていく。

「お前も、あの娘も、不幸に!あはははっははは」

 そう言って男は泥に呑まれた。術式による簡易召喚の劣化版か。これを結界の外に出すのはまずい。最後の最後まで非常に面倒な男だ。いやそれがわかっていたのに、できるだけ時間をかけて復讐しようとした私の慢心が招いたもの。
 許せなかった。叔父を、クローディア様を害した者に苦痛と凄惨な死を与えるつもりだったのに……私はどこまでも、完遂できずに……。

『アシュトン様』

 私の名を呼ぶ方の声が聞こえた気がした。完遂すべきことはまだ残っている。私はどうなろうともいい。けれどこの両手にあるクローディア様の形見だけは、オレーリア様に届けなければ……。
 その一心で、魔法塔まで辿り着けた。
 夕暮れの闇夜が迫る中。オレンジ色の夕焼けが美しくて、最後にオレーリア様の腕の中で逝くとは贅沢なことだと、自己満足してしまった。
 本当に私は騎士失格だ。


 ***


 オレーリア様をお守りできず……本当に……申し訳ありませんでした……。心からそう思って目を閉じた。この先、オレーリア様が前を向いて進むためにも、幼かった頃の楽しい記憶だけでも取り戻して差し上げたかった。
 オレーリア様……。
 ふと目が覚めると私は生きながらえているだけではなく、視界いっぱいにオレーリア様のご尊顔が!

「!?」

 え、な、寝顔を見るのは久し振りだけれど、もの凄く可愛い。天使? いや女神がどうしてこんな超至近距離に!?
 ハッ、まさか天国!? いや、オレーリア様は生きておられる!
 いや待て。全く覚えがないけれど、私は今、オレーリア様を抱きしめている?
 無意識に? こ、これは事故です。事故なのですが……肌の温もりや柔らかさが伝わって……。

「愛しています、オレーリア様」

 思っていたことがスッと声に出た。今まで《隷属契約》のせいで言えなかった言葉がすんなり口から零れ──胸を熱くした。

「オレーリア様、好きです、愛しています。ああ、やっぱり、オレーリア様への思いを声に出せている。ずっと、貴女様に言いたかった。貴女と藤の花を見に行く約束も、誕生日に一緒にダンスをする約束も、市井でデートする約束も全部、覚えています。何一つ叶えられず、貴女の全てを取り戻せるように奮闘したのに、居場所を作ることすらできませんでした。……本当に申し訳ありません」

 すうすう、と眠っている愛おしい人。
 こんなに近くにいるのは、いつぶりだろう。睫毛も長くて、長い髪に触れたらサラサラして、愛おしくてたまらない。キスしたいが、さすがに寝込みを襲うなど恐れ多い。いや、この状況がすでに死罪にあたる。しかし死ぬ前に、オレーリア様を別のベッドで寝かせるべきだ。でないと私の理性が蒸発するまでそう長くは保たない。オレーリア様を抱き上げて……。

「むうっ……!」
「──っ!?」

 起き上がってオレーリア様を抱き上げようとしたが、寝ぼけていたのか私に抱きついて離れない。なんですか、そのあざとさ! 可愛い。
 どこで覚えたんです!!? ハッ、あれですか、黒猫のぬいぐるみを抱き枕にして眠っているのですね。わかりますよ、アレは私の生涯のライバルでしたから!
 それともあの留学生──。

「アシュトン様……」

 私!? 私を思って?
 あの留学生でも、黒猫のぬいぐるみでもない!?
 勝った! そう思うと口元が緩んでしまう。
 ぎゅっと、抱きついてくる。良い香りがするし、想像以上に柔らかい。抱きしめ返しても? いや、しかし……。幸せ過ぎる悩みに、理性もすり切れ寸前だった。

「おいて……いかないで……」
「──っ」

 そんな切ない声で言われたら、もう騎士の矜持などどうでもいい。オレーリア様を抱きしめて、「大丈夫、私は何処にも行きませんよ」から、「愛しています」とか「好き、可愛い」と愛も囁く。
 さすがにキスは我慢したが。そんなことをしていればオレーリア様が目覚めないわけもなく……。目覚めたオレーリア様は声にならない声を上げて、目を白黒させていた。

「あ、アシュトン様が壊れてしまった?」
「オレーリア様、狼狽する姿も実に愛らしい。愛しています。愛おしくて言語化が難しい。……貴女に触れても良いでしょうか?」
「……すでに触れています……よ」
「では、口づけまでは許して頂けますか」
「くち……くちづけ!?」

 野いちごのように顔を真っ赤にして、なんて愛くるしいのだろう。もう何も我慢しなくていいということが嬉しくて、口元が緩んだ。


 ***


 それはとても幸福な夢で、アシュトン様が私のことを何度も「愛している」と囁くのだ。自分に都合の良い夢にちょっと胸が痛んだけれど、まだ彼のことが好きだったのだと、再認識してしまう。
 アシュトン様のお日様のような香りに、抱きしめられた温もりは本物のよう。ああ、これが現実だったら、どれだけ幸せかしら。

 ふと彼が離れそうな気配があって、必死で抱き留めた。もう少し。夢だったとしても、もう少しだけこの温もりを感じていたい。
 そんな大胆なことができたのは夢だと思っていたからで、実際にアシュトン様に抱きついていたことなど知らなかった。アシュトン様の声がハッキリ聞こえて、温もりも吐息も掛かる距離で「アレ?」と思って目を開けたら、現実だった。

「!?」

 アシュトン様って、思っていた以上に情熱的な方だったのね。ううん、それだけじゃない。私のことを影ながらずっと守ってくれていた。
 だから──。

「アシュトン様、剣を自分の喉元に当てないでください。自害もダメです!」
「ですが、オレーリア様に無許可で抱きしめて、キスまで強請るなど……本来、命を以て貴女様をお守りする役割を果たせず、その上自分の欲望をオレーリア様に……。やはりここは命をもって罪を償うべき──」
「私が泣いてもいいのですか!?」
「それは非常に困りますので、自害を止めます!」

 自分でもよくわからない説得をしたけれど、アシュトン様には効果絶大だったらしい。あっさりと剣を収めてくれた。
 ビックリするぐらいアシュトン様は私に罪悪感を抱いていたようだ。ここ三日、ずっとうなされていたし、何度も私の名を呼んで謝っていた。その声を聞くたびに自分の想いが独りよがりではなかったのだと実感して、嬉しかったと同時に、彼の苦悩に気づかなかった自分を恥じた。なにが婚約者だ。私はアシュトン様のことを見ていたのに、気づけなかった。

「私は……どれぐらい眠っていたのでしょうか?」
「丸三日です。空中都市で魔素(マナ)が充実していたこと、回復薬と治癒魔法の使い手が多かったから助かったのです。……あ、暫くは安静にしていてください。清浄魔法をかけていますが、あと数日したらお風呂にも入れると思います」

 治癒師に言われたことを伝えただけなのに、アシュトン様は嬉しそうに何度も頷いて答えてくれた。いつもの困った顔じゃない。
 蕩けるような笑みに、心臓がバクバクしてしまう。

「オレーリア様がずっと傍に?」
「は……はい」
「私は今までオレーリア様に酷い態度をとっていたのに、貴女は天使、いや女神でしょうか?」
「え? わ、私は天使なんかじゃ」
「そんなことありません。私にとってオレーリア様は出会った頃から、愛らしくて、傍にいるだけで花や木々が明るく、世界は柔らかくなるのです。これはもう神の御使いだからこそなせる御業で間違いありません」

 私にそんな能力も魅力もないのですが……。そう言ってもダメそう。天使フィルターが掛かっているのか、あるいは今まで言動を制限されていた反動か。アシュトン様が上機嫌で、蕩けるような笑みを私に向けた。
 耐性がないので、キュン死しそう。ずるい!
 私だけドキドキするのは、なんだかずるいですわ!

「あの……首飾り。ありがとうございました! あの首飾り(ネックレス)を見て薄らとお母様のことを思い出せるようになったのです……!」
「それは良かった……。オレーリア様に何か返すことができて嬉しいです」

 後光が射すほど眩い笑顔に、クリーンヒットしてこっちのHPはすでにゼロに近い。やっぱりアシュトン様は素敵すぎる! ああ、私ってなんて単純なのかしら。

「アシュトン様。もうこんな無茶はしませんよね?」
「オレーリア様のためなら、今後も無茶をしてしまうかもしれません……。お傍に居させていただけなくとも、私の剣と命は貴女様のために」

 騎士として完璧な答えだけれど、私が求めるのは違う。ようやくアシュトン様に聞く勇気が持てた。それは先ほどまで愛を囁いてくれたから。

「そ、それは……騎士としてだけ? その……私のことを婚約者として……す、好いてくれているから?」
「騎士として貴女様をお守りしたい。そして婚約者として……いえ、一人の男として、オレーリア様を……ずっと前からお慕いしております。貴女様が覚えていなくとも、一緒に結婚ごっこをして、黒猫のぬいぐるみと夫の座を巡ってくだらない嫉妬心を燃やしたこと、強くなってオレーリア様をお守りしようと思ったのも、本当です。もし叶うのなら、今すぐにでも結婚を前提とした恋人として、抱きしめてキスをしたいです!」
「──っ!」

 赤裸々すぎる告白に、自分の頬に熱が集まる。ああ、こんなに情熱的な方だったなんて! わなわなと震えていると、私が困っていると思ったのかアシュトン様はシュンと悲しげに微笑んだ。その顔を見た瞬間、胸がキュンとしてしまった。やっぱりアシュトン様は卑怯だわ。

「わ、私だってアシュトン様が大好きなのです。ずっとずっと好きで、姉に笑顔を向けている時は胸が潰れそうになるぐらい好きです! 全部を捨てて、空中都市で一緒に暮らしてほしいと思うぐらい大好きです」
「オレーリア様! ……その、触れても?」
「はい! 私もアシュトン様に触れたいですわ!」

 お互いにテンションが爆上がりした中で、ヒシッと抱き合う。なんだかおかしなテンションだけれど、この熱量があるからこそ大胆な行動ができたといってもいい。
 ここからはずっとお互いに好きだと言いあって、アシュトン様のキスの嵐がすごかった。愛されまくって、大事にされているのがわかったらまた泣いてしまったけれど、アシュトン様はそんな私を嫌うことなくデレデレに甘やかしてくれた。

「……私もオレーリア様と同じく、あの国ではなく空中都市で暮らすほうが伸び伸びできるのではと思い、数年前からの魔法塔の資格を持っておりまして」
「え、すごい」
「実は新居も……用意しておりまして……」
「まあ! だから私が空中都市の話を切り出した時に固まっていたのですね」
「はい。……それとその時はまだ《隷属契約》中でしたので。今は解放されて、オレーリア様に愛の言葉を囁けることが嬉しくてたまりません」
「アシュトン様……」

 再び頬にキスをするアシュトン様は、私を膝の上に乗せてギュッと抱きしめて離さない。甘すぎる現状に過剰摂取気味な気がするけれど、今まで愛情に飢えていたからこそ、重苦しい愛情も執着も、嬉しく感じてしまう。

 キスを返したら二倍になって返ってくるし、啄むキスから深いキスまで私を翻弄する。
 とても幸せで、まだ夢のよう。昨日まではあんなに胸が痛かったのに、アシュトン様の愛に溺れてしまいそうだわ。抱きしめられていることが嬉しくて、胸元に寄りかかってみたが、拒絶されなかった。

「(だ、大胆にも寄りかかってみたけど、破廉恥だって思われない?)……ア、アシュトン様は騎士なのにどうして魔法を学ぼうとしたのですか?」
「(オレーリア様が私に寄り掛かって……夢じゃない? 幸せすぎる。思わず頭にキスしてしまった……ああ。好きだ)……」
「アシュトン様?」
「あ、はい。……元々魔法は得意でしたからね。幻影魔法で昔、クローディア様や叔父、貴女様も喜んでくださったのです」

 そういうと、青い光と共に美しい蝶が部屋を舞った。とても綺麗で、なんだかとても懐かしい。私も真似しようと魔法術式を展開する。

『大きくなったら、アシュトンのお嫁さんになる!』

 朧気ながら、そんな約束をした遠い昔の記憶が蘇る。王宮の庭だろうか。幻想的な蝶を作り出してお披露目をした──ような。
 懐かしさと胸の温かさに、涙がポロリと溢れた。

「オレーリア様!?」
「あら……。なんだか、懐かしくて……」
「懐かしい……そう思ってくれるのなら、嬉しい限りです」

 アシュトン様は目を細めて、頬にキスを落とす。もはやキスへの抵抗はない。恥ずかしいけれど、嬉しさと愛おしさが募るばかりだ。ここには私を蔑んだ目で見る人はいないし、王女らしく感情を抑え続ける必要も無い。今の私はただのオレーリアなのだから。

 だからちょっと大胆になってアシュトン様に自分から抱きついて、唇にキスをする。ドキドキしたけれど、好きだという気持ちが溢れるのを抑えられない。

「オレーリア様……っ!」
「大好きです。……大好きです。何度だって言います。何度も言わせてください」
「それは私のセリフです。今まで抑え込んでいた重苦しくて引くかもしれない愛情を覚悟してください」
「あら、私だってアシュトン様に負けないぐらい、私の愛はえっと、溺れるほどすごいのですよ!」

 何を張り合っているのだろうと、お互いに笑ってしまった。王女であることを捨てただけでこんな幸福が待っていたなんて。でもそれは今まで積み重ねて、耐えて、願いを諦めきれずにいたから。アシュトン様の繋がりは綱渡りのように危うかったけれど、ギリギリまで粘って諦めながらも未練がましくいたことが良かったのかも?

 どちらともなく唇に触れたキスは、今までで一番甘い気がした。


 ***ウォルトの視点***


「それでは魔法使いオレーリアが編み出した魔法術式、功績及び所有権は彼女個人のものとし、今後彼女の許可なしに無断利用を行った場合、罰金対象となることをここに宣言します」

 僕の上司かつ師匠である大魔法使いレニーは王の間で宣言した。良く通る声で有無を言わせない威圧感に、国王も王妃も青ざめるばかりだった。ああ、こんなことなら記録用魔導具で一部始終を録画しておけば良かった。オレーリアもきっとこの場にいたかっただろうし。
 師匠は魔法使いに甘い。超甘い。万が一にもオレーリアが傷つくかもしれないと慮って、魔法塔の主人自ら動くのだから国王も王妃も驚いただろう。

 なんの価値もないと思っていた末姫がこの国にとって、もっとも価値のある人間だったと今さら知った顔は傑作だった。魔法使いを守ることこそが魔法塔の存在意義であり、それこそが世界をよりよい道に進めるための《調停者》としての役割でもある。
 それを王族が知らないはずがないだろうに。それでもオレーリアの功績ではないと思いたかったのか、誤魔化せるとでも思ったのか。

 師匠は基本感情を表に出さない。だが今回はオレーリアのことで珍しく怒っていた。下手すれば国丸ごと焦土にする気満々の武装だったので、兄弟子からお目付役として同行を命じられた。
 師匠もオレーリアと似た灰褐色の髪、陶器のような真っ白な肌、緋色の瞳の美女だ。黒のドレスにローブ姿で、いつもながら美しい。怒っている姿も凜としていい。

「魔法使いは世界の宝。それを貶めた罪は重い。魔法使いは貴重であり、国に富と繁栄をもたらすのをお前たちは知らないのか?」
「そ、それは……。しかしオレーリアが他の者の功績を盗んだと報告があったからで」
「だから? 再三、魔法塔で結論を伝えてきたはずだが? 貴公らは文字が読めないのか?」
「なっ……」
「はぁ。どうして、こんなことに……。オレーリアを虐げていれば全て上手くいくと、そなたが言っていたのは嘘だったのか」
「陛下……っ、あの女の娘は虐げられ、誰からも疎まれ、愛されない存在でなければならないのですわ。ああ……惚れ薬を使ってあの騎士から婚約破棄されて、惨めな思いをさせるつもりが……どうしてこうなったの!?」

 うわあ。王妃も屑だが、実の娘なのにとんでもないことをいう父親だな。王としても父としても最低すぎる。これ以上会話を続けていたら師匠が王の間を消し炭にしそうなので、しゃしゃりでることにした。

「オレーリアがこの国に貢献したことで、この国の魔法術式の八割はこれより一時間後にストップします。もし今後もご利用するのなら、正規値段で利用料を払って頂くことになりますが、どうなさいますか?」
「この国で育ったからこそ生み出された魔法術式を、個人が所有するなど」
「魔法塔もむやみやたらに個々人の所有権にするつもりはありません──が、所有者に対してこの国は対価を支払ってきていない。そしてオレーリアを貶める言葉や噂の数々。僕がこの国に留学に来たのは本当ですが、もう一つ魔法塔から監査役としても来ていたのですよ。だから言い逃れはしないほうが良いかと。利用料が嵩みますからね」

 国王と王妃はそれぞれ顔が青くなったり、赤くなったりと忙しいようだ。そんな中、王の間に乱入してきたのは帝国から出戻った王女クラリッサだった。よくこの場に顔を出せたものだ。

「お母様、お父様、アシュトンの姿が見えませんわ。先日のパーティーでも姿を見なくて……何かご存じですか?」

 わぁお。客人がいても自分優先か。相変わらずとんでもない世間知らずなお姫様だ。そんなんだから兄様とソリが合わなくて離縁を突きつけられたのだよな。なぜかこの国では兄様が死んだことになっているし、情報規制が徹底しているというかなんというか。
 白い結婚?
 浮気三昧で豪遊していたくせに。今度はオレーリアの婚約者にまで手を出そうとするのだから質が悪い。王妃の言われるままに動く頭空っぽの人形姫だって自覚がないのは、憐れだな。まあ、どう転んでもあの婚約者はずっと前からオレーリア一途で、魔法塔にも籍を置いていたから心配はしていなかったけれど。
 今頃二人で空中都市を見て回っているだろう。うん、同僚となる僕としても最高の結末だな。もっともこの国の者たちはこの先、国としていつまで維持できるか見物だ。

 僕としては魔法術式の永久凍結でも良かったのだけれど、オレーリアは甘いからな。署名のサインを確認した後、師匠は転移門を召喚する。
 転移魔法で帰るのも良いけれど、魔法塔の凄さを見せるためらしい。パフォーマンスも大事なことだ。

「ああ、それとこの魔法術式を使う場合、必ず誰に所有権があるか国が公表しないといけない。契約書にも記載してあった通りだ。三日で国中に通達しなければ罰則となるので注意してくれ」
「は!?」
「そんなこと一言も……」
「口にはしていないが、契約書をよく読めば分かるだろう。本当に同じ人間なのかと疑うほど頭が悪い王だな。このままではもって八年といったところか」

 聞いていないと騒ぎ立てるが、そんなのは事前に書類も渡していたのに、しっかりと内容を読まなかった王族が悪い。本当にこの国は大丈夫なのだろうか。まあ、王太子はまともだったし、国王王妃の尻拭いに奔走して各地を走り回っているとか。そんな暇があるなら妹を守ってやれよと思ったが、大分溜飲が下がったし僕が出る幕はない。
 あのいけ好かない魔術師はオレーリアの婚約者が潰してしまったし、本当に出番がなくてかなしいな。……涙ぐんだら師匠が頭を撫でてくれないかな? 昔はよく撫でてくれたのになぁ。

 はあ、誰か不敬なことを言って騒いでくれたら、少しは憂さ晴らしができるのに。まあ、どちらにしてもこのままだと帝国に滅ぼされるか、自滅だからいいか。これからはオレーリアに未解読な写本とかも読み解いて貰えるなんて、あーワクワクしてきた! 本当にこの国がクズで良かった。


 ***


 数日後の空中都市。
 王国での公式発表(新聞)に目を通しながら、アシュトン様は怖い顔をしていた。私は気付かないふりをして美味しそうなオレンジタルトを頬張る。美味しい。ここのカフェも当たりだわ!
 今はアシュトン様と今までできなかったことをしようとなって、カフェ巡りデートを楽しんでいる。普段着のアシュトン様も凜として素敵だわ。
 ルンルン気分だったのだが、アシュトン様は新聞をテーブルに置くと珈琲カップに口を付けた。眉間に皺が寄っている。

 思ったよりも怒っているようね。私の功績だと言いつつも、悪意のある書き方をしているので魔法塔から注意勧告がいくだろう。私としては毎月の利用料+超過料金も振り込まれるのでホクホクだけれど。傍にいない人に何を言われても別に気にしないし、どうでもいい。

「オレーリア様。毎月の利用料だけとは、あの国への報復は甘くありませんか? 使用不可にして……なんなら今からでも巨大魔法を使って王城を落としてきますよ?」
「物騒すぎますわ! 絶対にダメです。私を侮辱して嘲笑った方々も、毎月城一つ買えるぐらいの利用料を払っていかなければならないのですよ。勝手に自滅していくので、このぐらいでいいのです。アシュトン様が大事な物は全部掬い上げてくださいましたし」
「しかし……」
「アシュトン様の気がすまないというのなら、近くに可愛いぬいぐるみ専門店があるのです。そこで抱き枕を買って……アシュトン様?」
「抱き枕……黒猫のぬいぐるみ(ライバル)は……、もういないのですか?」
「黒い猫? ああ……ずっと昔に現王妃に取り上げられてしまったのですよ」

 できるだけ明るく言ったつもりだったけれど、アシュトン様は途端に笑顔になった。これはガチギレの笑顔だわ。優しさの欠片もない目をしている。

「オレーリア様、五分ほど席を外しても?」
「アシュトン様、滅ぼしに行くとかダメですよ!」
「ダメですか?」
「ダメです!」

 ションボリしてもダメなものはダメだ。あまりにも悲しそうに言うので「ダメじゃない」と言いそうになった。狡い。

「わ、私とのデートをそっちのけで行くほどのことですか?」
「そうでした。オレーリア様とのデート以上に優先事項などありません」

 ちょろい。いやこの場合はそれで助かったけれど!
 私とアシュトン様は魔法塔の一員として働くのはもう少し先となる。というのも、新居から新しい生活とやることが多々あるので、その準備期間を設けて貰っているのだ。
 だから私たちは今までできなかったことを一つずつ叶えていこうとなり、空中都市の散策に、デートを重ねて、生活サイクルを二人で作っていく。
 こういう時、王女ではなく前世の記憶や知識が役に立つ。料理も普通にできるのでアシュトン様に振る舞ってみたら号泣されて、食べるまで一時間は掛かった。

「オレーリア様」
「アシュトン様、もう様を付けるのは、……その、やめてみませんか? こ、婚約者ですし! よ、呼び捨てなど……」
「オレーリア様。それはダメです。私の心臓が保ちません。せめて183日ぐらいは心の整理が必要です」
「うん、ほぼ半年ですね。……手を繋いで、キスやハグはするのに」
「それとこれとはまた違います。そんな愛らしいことばかりですと、押し倒してしまいます」
「アシュトン様なら別に良いですよ」
「──っ!?」

 ちょっと恥ずかしいけれど、本心だもの。この先も、この人と一緒に居られると思うと、ちょっぴり大胆にもなれる。
 とびきり幸福を噛みしめながら、お互いに耳まで真っ赤になりながら照れ合ったのだ。これからとびきり幸福な時間が待っていると思うと、嬉しくてしょうがないわ。

 END

しおり