本編
昭和の終わり頃、都内H市のN団地にあった僕の従兄姉の家が不審火で焼失した。1987年1月半ばの週末のことであった。僕はその時大学の3年生だった。C市の駅近くに一人で間借りして住んでいた。その夜半不思議な夢を見た。伯父と伯母がその家の1階居間で布団に寝ながら言い争いをしていたのだ。やがて喧嘩になり、伯母が伯父に掴みかかった。ストーブが倒れて布団に被さった。伯父が「ストーブを消せ」と叫んでいたが伯母は何やら叫びながら逃げようとする伯父の着物の裾を掴んで逃すまいとしているようだった。やがて布団が燃え上がり、居間はあっという間に炎に包まれた。逃げようとしない伯母の手をやっと振り切った伯父が、台所を抜け勝手口から出ようとしたところで台所にも炎が吹き上がり、それきりになった。僕はそこで目が覚めた。
週明け僕は大学に行き、就職に関する学科の説明会を受けるために講義室に入った。別のクラスの学生の会話が聴こえてきた。
「お前の家H市じゃなかった?」
「うん」
「火事凄かったらしいな」
「あぁ、燃えたのはあの区画だけで隣は一応大丈夫だったらしいけどね。割と近いところだから見に行ったけど、燃え落ちて酷いもんだったよ」
…H市? 伯父の家があるところだが、特に実家からも連絡無かったし、別の家のことだろうな、と、思った。その時点では、不穏な夢を観たことなど綺麗に忘れていた。
2週間程経った頃であろうか、母から連絡があり、母の兄である伯父夫婦の不幸を知った。既に葬儀一切終わっているとのことだった。何故すぐに教えてくれなかったのだろう? と思ったが、うちの母はそういう人だったのでそのまま忘れることにした。後に母方の祖母から消防・警察からの検証結果を聞いた。居間の外の縁側や台所に暖房用の灯油が置いてあったらしく、それらに引火してからはドーーーン、ドーーーンと大きな音が響き、あっと言う間に全焼したらしいと言っていた。一人は居間で、もう一人は勝手口で死んでいたということだった。祖母はポツリと「あの嫁の膠原病って、そんなに辛い病気だったのかしらねぇ。無理心中じゃないか、って、警察に言われたわ」と、言った。この時に至って僕は初めて自分が観た夢を思い出し、その内容との符合に戦慄した。この夢の内容について、今まで誰にも語ったことは無い。
その家は団地の1区画だったのだが、2階建てのメゾネット形式で3DKであり、1階が居間と台所、洗面所、トイレで、2階に階段を挟んで和室が2つあった。小さいながらも洒落た庭と、庭に面する縁側が居間の前に付いていた。器用な伯父は、従兄姉のために庭に池を作って鯉を飼っていた。僕が幼稚園の頃の夏休みにその家に行った際にみんなでその池を造ったのを覚えている。後に池は猫に襲われないよう、金網でがっちり覆ってしまったので、鯉の姿はあまり良く見えなくなってしまったが。
また、その家には残念ながら風呂は付いてなかった。昭和の40年代前半のことなので、風呂が付いてない家があることはまあまあある話で、歩いて10分位の銭湯にみんなで通ったものだった。後に伯父はどこからかユニット・バスを入手してきて、台所の空きに設置した。中は狭いながらも湯船と洗い場があって、従兄姉と3人まだ全員小学生だった頃、一緒に入ったものだった。本来はマンションの浴室区画に設置するようなものだったのだろう。ユニットの外側が不自然にざらざらで、角張った卵のような形状だったことを覚えている。お湯は台所の給湯器からホースを引いて入れ、排水はどうやら本来洗濯機の排水口となる筈だったところに繋いでしまったようだった。じゃあ、洗濯機はと言えば、縁側に設置され、庭の水道と排水口を利用していたようだった。
従姉は小学生の頃セキセイインコを飼っていた。飼育はうまくいったようで、あっという間に数が増え、一時期は縁側に鳥かごが5,6個積まれ、中に数羽ずつセキセイインコが入って鳴いていた。随分近所や友達に配って回ったらしい。
従姉は僕より3歳年上だったが、5歳年上の従兄よりも気が合い、行く度にそこで流行っていたものや従姉が夢中になっていたものを色々と見せてくれたので面白かった。ヨーヨーやら、アメリカン・クラッカーやら、モーラーやら、スリンキーやら、スライムやら、なぞなぞの本やら、オカルトの本やら、ホラー漫画やら、それはそれは多岐に渡り、殆どが教育にうるさいうちの両親が買ってくれないようなものばかりだった。
僕が小学校3年の終わりの春休みにもその家に遊びに行った。夕方、恐らくは4時過ぎに裏の家に住む友達と共に家に戻ってきた従姉は、「良いものを見せてあげるからおいで」と言って、僕を2階の従姉の部屋に、従姉の友達と共に連れて行った。従姉と友達はそれぞれワンピースとスカートを穿いていたのだが、2人でケラケラと笑いながら相談して2人共ショートパンツに穿き替えることにしたらしく、僕は一旦部屋を追い出された。部屋に行けばすぐに「良いもの」を見せてもらえると思っていた僕は、当てが外れて何やら不思議な気分で待っていた。
やがて部屋に呼ばれるとショートパンツに穿き替えた2人が畳にペタンといわゆる女の子座りをして股を軽く開いて並んで座っていた。従姉から「そこに座って」と言われて、2人の向かいに僕は座った。従姉は友達と顔を合わせると、「じゃあ、せーの! で合わせてやろう」と言い、友達もそれに頷いた。再び従姉は僕の方を向いて、続けてこう言った。「いい? 一瞬しか見せないから、しっかり見てね」。そうして「じゃあ、いくよ? せーの!」と声を上げると、ショートパンツの股の部分に指を引っ掛け、そのまま右に引いて、0.5秒程で戻した。従姉は僕に「見えた?」と訊いたが、僕には何のことやらさっぱり分からなかった。その様子を観た従姉は「…見えなかったか、じゃあ、もう一度いくよ? せーの!」と言って、再び友達と共に0.5秒程指を右に引いて戻した。従姉に「見えた?」と訊かれたが、そもそも何が見える筈なのかさっぱり分かっていなかった僕は、やはり無言だった。
従姉と友達は繰り返し、「見えた?」と僕に訊きながら、段々と指を横に引いている時間を伸ばしていった。覗き込むように僕の顔色を伺っていたが、やはり見えて無さそうだと判断したのだろう。実際僕は何も見ていなかった。従姉は痺れを切らしたのか、遂には5秒近く指を引いたままにしてから、元に戻していた。「見えた?」と訊かれた僕は、ことこの期に及んで漸く股を見ろと言うことだと理解して、見えたものを口にした。「何か、穴みたいなのが見えた」。それを聞いた従姉とその友達にはバカ受けだったらしく、ひとしきりゲラゲラと笑い転げていた。僕には依然何のことやらさっぱり分からず、キョトンとしていた。それで再び部屋を追い出され、元の服に着替えた2人が部屋から出てきた。そのまま皆で階段を降りて1階の居間に戻った。僕は相変わらず「見せてくれる筈だった、良いものはどうなったのだろう?」と思いながらも口に出せず、ゲラゲラ笑ったままの従姉の友達が裏の家に帰るのを2人で見送っていた。
その後何度かその従姉とは会ったが、あの時のことはお互いすっかり忘れていたと思う。最後に従姉に会ったのは、伯父夫婦の3回忌であった。墓はN県N市N寺にあるはずだが、法事は都内で行われた。
あれから30年経った。僕はと言えば、結婚して、娘ができ、妻とは離婚した。ひと悶着あったが、娘は僕が引き取って育てている。この春から小5になろうとしている。そんな3月のある日、首都圏には珍しく雪が降り、仕事で帰りが遅くなった僕は玄関口で思わず悪態をつきながら、傘をポーチに置き、身体に付いた雪を払いながら家に入ろうとしていた。と、「あの…」と声をかけられ、振り返ると隣の家の奥さんだった。
「あー、すみません、夜分に、うるさかったですよね。もう黙ります」
「あ、いえ、そうではなくて、息子のことでお宅のお嬢さんにお礼を申し上げたくて」
「え? 何か、ありましたか?」
聞けば、お隣の子は幼稚園でしょっちゅう虐められていたそうで、小学校もその子達と一緒になるだろうだろうから、行きたくないと泣いていたそうだ。保育士に相談して注意してもらっていても、一時的には収まっても、結局目に付かない場所でまた違う虐められ方をされるので困っていたとのことだった。ダメ元で国立大学の附属小学校を受験したところ、何故かスムーズに受かってしまったとのこと。お隣の子を虐めていた子供も何人か受験したのに、その子達は全員落ちたので、春からはやっと縁が切れると、お隣の子は喜んでいるという話だった。
「それは良かったですね。で、そのお話とうちの娘がどう繋がるのでしょうか?」
と、僕が尋ねた所、お隣の奥さんは俯いて目を逸し、言葉を選ぶようにこう答えた。
「…そちらのお嬢さんに…励まして頂いたそうで…以降、急に色々と上手く行きだしたように見えるんです。で、お礼をと思いまして。お嬢様と2人でお召し上がり下さい。奥地に合うと良いのですけれど…」
そう言って、お隣の奥さんは小さい手提げの紙袋を差し出してきた。どうも菓子のように見える。
「それはそれは、大したことをやった訳でもないと思いますが、わざわざ有り難うございます。有り難く娘と頂きます」
「それでは、失礼致します」
そう言うと、お隣の奥さんはそそくさと自分の家に引っ込んでしまった。お隣の奥さんは時々出会して挨拶を交わすことがあるが、いつも明るい感じで振る舞っていた人なのに、今日は何か、奥歯に物が挟まった感じとでも言おうか、妙な印象を受けた。
僕は家に入り、もらった菓子の箱の包装紙を剥がした。一口サイズに個包装されたバームクーヘンだった。確かに、僕も娘も好きな菓子である。夜10時を過ぎていたので、娘は既に寝てしまったようだ。ダイニング・テーブルの隅にその箱を置き、僕は台所の鍋に娘が作ってくれたシチューがあることを確認して、それを温めて晩飯とした。
…何故か小さな空き地のようなところにいる。冬なので地面には枯れ草が少し見える。ふと気づくと、従姉がいて僕に話しかけてきた。
「ここね、ずっとこのままになっていたのだけど、もう無くなるの。この辺一体、建て替えられちゃうの」
従姉の向こうを見ると、そこは焼け落ちた伯父夫婦の家だった。
「…もう随分経つけれど、いまだにどうしてこういうことになったのか、さっぱり分からないの」
従姉はこちらに歩み寄ってくると、突如恐ろしい形相になって、僕の右腕を強い力で掴み、こう尋ねてきた。
「貴方、何か知ってるんじゃないの?」
「うわぁーーーー!」
叫び声を上げて僕は目を覚ました。暗い部屋の中、ベッドの上で呆然としていると、ベッドの脇で女が僕を覗き込んできた。かなりドキッとしたが、暗いので顔が見えない。
「大丈夫?」
あぁ、娘か。
「あーー、起こしちゃったか。ちょっと、変な夢を見てね。叫び声上げちゃったかな。ごめんね」
「うん、凄い声聴こえた」
娘はそう言うと僕の腕を掴んできた。
「ん? どうした??」
「何の夢を見たの?」
「…もう、何十年も会ってなかった従姉が出てきた。今頃どこでどうしているのやら…」
「そう…じゃあ、やっぱりお父さん何か知ってるんじゃないの?」
「えっ???」
「知ってるんなら、ちゃんと話してよ!」
と、娘はそのまま僕に掴みかかってきた。
「止めろーーー!!!」
そう叫んで僕は娘を振り払い、飛び起きた。
…飛び起きた。これも夢だったようだ。夢から覚めたら夢の中、なんて、これも何十年ぶりの経験だろうか? 枕元のタブレットを覗くと、時刻は2時前、3時間も寝てないようだ。これは、どうやら現実のようだ。喉がからからに乾いていた。起き上がり、タブレットを持って台所に向かった。タブレットをダイニング・テーブルに置き、冷蔵庫からグレープフルーツ・ジュースの紙パックを取り、コップに注いだ。そのままコップ半分程飲み干してから、再度コップにジュースを注いで、椅子に腰掛けた。タブレットでH市N団地と検索したところ、再開発に伴うリニューアル/建て替えという記事がいくつか見つかった。…なるほど。
ふとダイニングの入り口を見ると、娘が立っていた。
「こっち来て、座ったら?」
「うん…」
娘は向かいに座った。
「騒がしくして悪かったな。ちょっと怖い夢を見たもんだから、思わず叫んでしまったよ」
「うん、凄い声が聴こえた」
「お隣の奥さんが、お二人でどうぞって言って、そこのバームクーヘンくれたぞ。夜中だけど、紅茶入れて食べるか?」
「うん!」
「夜中だから、1個だけだぞ」
そう言って、僕はカップを2つ出し、ティーバッグを入れてお湯を注いだ。1つを娘の前に置いた。娘はバームクーヘンの箱を開けて、中から2袋取り出し、片方を僕の方に渡して寄越した。僕はコップに残ったグレープフルーツ・ジュースを飲み干してから、一口だけ紅茶を飲んだ。それから、バームクーヘンの袋を開けた。娘は、と見ると、生意気に僕の真似なのか、砂糖も入れずに紅茶を飲んでいた。
「これな、お前にお礼だって言ってたぞ。お前、何かしたのか?」
「…えっ…あぁ、T君が虐められてたって聞いたから、励ましてあげたことかな?」
「そう、それだ。あの子だけ小学校の受験に合格して、虐めてた連中は全員落ちたって言ってたぞ」
「そう? それは良かった」
娘の表情がいきなり明るくなった。
「で、お前は実際、何をしたんだ?」
「…」
「…何をしたんだ?」
「…言いたくない」
「どういうことだ?」
「T君のこと、何とかしてあげたいって思ってたら、夢にお姉さんが出てきて、どうすれば良いか教えてくれたの」
「なんだ、それは?」
「知らないよ、夢なんだもん。でも、お父さんにやってあげたら、すぐに虐めが無くなったって、そのお姉さんが言ってたよ?」
「何だって???」
確かに僕は小学校3年の時虐められていた。それも、クラス担任に、だ。僕はその小学校に3年生の春から転校した。大人になった今なら分かる。そういう場合、まともな担任なら、転校生が早くクラスに溶け込めるように色々と気を使ってくれるものだろう。しかし、その担任はことごとくその逆をやった。
例えば、その小学校では出席番号は男女別に生年月日順で付けられていた。本来なら僕の出席番号は、男子の真ん中あたりになると思われた。だが健康診断にしろ予防接種にしろ、出席番号順に並ぶ機会がある度に、その担任は目ざとく僕を見つけ、腕を掴んで「あんたは転校生だからこっち」と宣言して、僕を最後尾に引っ張っていったのである。1番最初の時は、男子の最後尾、つまり同じクラスの女子の前に並ばされた。僕の前の男子は少し虚言癖のある子で、そのせいかクラスの皆に嫌われていたが、僕は気にせずその子と話していた。どうやらそれすら気に入らなかったようで、その次からは男子の最後尾ではなく、クラスの最後尾、つまり女子の最後尾に並ばされるようになった。秋頃に予防接種があった時も全く同じだった。前の女子の接種が終わり、次は僕の番と思ったところで、医者が「ここまでで◯組は終わりで、ここからは☓組ね?」と、看護師に確認した。するとそれを聞いた担任は、割り込むように「いいえ、転校生のこの子も◯組です」と言って僕の腕を掴んで医者の前に突き出した。医者は流石にぎょっとした表情をしていた。
小学校3年のクラス担任と言えば、全教科を受け持つ、クラスの中では神様のような存在である。その人が率先してそういう虐めをやるものだから、僕のクラスでの存在感は無いに等しかった。クラスの女子ですら、僕が何かを発言すると「転校生のくせに」と聴こえるように陰口を叩く始末だった。
テストや通知表を僕に返す時も嫌がらせをされた。わざと僕を飛ばすのだ。僕が返してもらってないことを言うと、「この人まだ返してもらってないんだって。あーー、こんなとこにこの人の奴あったわ」みたいなことを言って、クラス全員の注意を十分に惹いてから、「点取り虫はそんなに成績が大事か?」とか、「お前より頭が良いやつなんかいくらでもいるぞ」とか、そういった色んな嫌味を言いながら漸く返してくれるような人だった。
一番酷かったのは確か冬休み前の終業式の日だった。いつものように僕だけ順番を飛ばされて、通知表を返してもらえなかった。それを訴えても「あんたに渡す通知表は無い」と皆の前で言い放ち、そのまま帰りの会をやって解散してしまった。僕は再度担任のところに行き、「親に見せないといけないから、通知表を下さい」と言った。担任は厭味ったらしく「そんなに通知表が大事ですかねー」と言って、引出しから僕の通知表を取り出した。そのまま渡してくれるのかと思ったら、やおら机の上にそれを置き、スタンプ・セットの蓋を開けた。面白いものが見られると思ったのか、教室に残っていた男子5, 6人が担任の机の周りに集まってきた。担任はその野次馬連中が見る中、そのまま僕の通知表を開いた。通知表の2学期の欄は白紙のままだった。公開処刑のようなものだった。教科毎に5段階評価の数字のスタンプを押してゆくのだが、殆どの教科で 2 か 3 を付けられた。少なくとも僕はテストの平均点は90点を超えていたと思うのだが。野次馬から歓声が上がる。「いえーーい、俺の方が全然成績いいぜ」。なぜか算数の評価だけ飛ばしていたが、最後にそこにもスタンプが押された。その算数だけが、5 だった。野次馬からは「こんな奴にそんないい成績付けちゃうの、何で?」という声が上がった。担任は、「全校朝礼でこの人は毎月表彰されているから、これだけは5を付けないといけない。本当はやりたくないんだけどね」と言い放った。その小学校では、通常のテストとは別に算数と漢字の小テストを毎月行っていて、満点を取った児童は全校朝礼で校長先生から表彰状をもらえるようになっていた。
僕の小3時代は、ずっとこんな感じだった。3年から4年に上がる時はクラス替えは行われなかった。だが、4年からは担任が変わった。たったそれだけのことで、僕に対するクラスの虐めは綺麗に無くなり、クラスの半分以上と友達になった。通知表は4と5ばかりになった。
…などということを娘が知るはずが無い。僕は娘に
「ちょっと待ってろ」
と言い放ち、ほぼ物置となっていた奥の部屋に向かった。心当たりのあるダンボール箱を1, 2つ開けると、探していたアルバムが見つかった。従姉の写真を探して、丁度庭に池を作った時の従兄姉と僕の3人の写真があったので、娘に尋ねた。
「この子か?」
「場所はそこだけど、もっと年上だった」
と答えたので、アルバムを捲って3回忌の写真を見つけた。
「この子か?」
「そう、そのお姉さん…」
「…見せたのか?」
「…」
思わず4文字卑語を口に出しそうになったが、流石にそれは飲み込んだ。
「見せたのか?? T君に」
「えっ?」
娘はえらく何とも言えない微妙な表情で、軽く頷くと、そのまま目を逸した。
「だってあのお姉さん、私がやるまで毎晩夢に出てきたんだもん…」
テーブルを見ると、娘はバームクーヘンを食べ終り、紅茶も飲み干していた。僕は娘に寝るように伝え、自分は椅子にへたり込んだ。
従姉があれをやらかしたのは、僕の小学3年の春休み、つまり、4年になる直前だ。それまで担任による虐めにあっていた僕は、4年になって担任が変わった途端、クラスメイトは変わっていないのに全く虐められなくなった。想像だが、母が伯母に虐めの件を話したのを、従姉が聞いたんじゃないだろうか? そして、今回のお隣の話だ。…そりゃ、古来から女性のアレに魔を払う効果があるという話は聞く。しかし、本当にそういう呪的な効果があるのだろうか? それともただの偶然だろうか? 効果があったとしたら、代償は何か支払う必要があるのだろうか? あるとしたら、何だ? まさか、伯父夫婦の死因はそれじゃないだろうな? じゃ、次は僕の番か? 猶予の年数がもし同じなら、今から13年後か? 娘はその頃23か24になっているから、恐らくこの家を出て一人で暮らしているだろう。僕もその頃なら70近いはずだから、まあ、諦めろと言われれば諦めはつく。実際、どうなのだろう?
3回忌の時、従姉は既に結婚していて、ベビーカーに赤ん坊を乗せて連れてきていた。従姉は近く引っ越しするとのことで、引っ越したら引越し先を教えるから遊びに来いと言っていた。従兄は板前として修行先に住み込みという仮住まいだったので、連絡先を聞かなかった。僕はと言えば会社の寮住まいですぐにでも出たいと思っていたのでやはり連絡先を伝えなかった。結果、今日に至るまで従兄姉がそれぞれどこに住んでで何をやっているのかを僕は全く知らない。母は知っていたのではないかと思うが、そういうことを僕に伝えるような人ではなかった。祖母も知っていたのかも知れないが、僕も訊かなかったし、祖母も教えてくれなかった。そのまま祖母も母も娘が生まれる前に死んでいる。
あれは呪的に意味があり、また、恩恵を受けた者の娘に、夢を介して伝染してしまうような行為なのだろうか? また実際に魔を払う効果があったのだとしたら、果たして代償を払う必要があるものなのだろうか?
従姉から話が聞ければ良かったのかも知れないが、先述の通り無理である。
今まで僕はあの従姉の春休みの一件についても、伯父夫婦の夢についても、誰にも話したことはない。だが、伯父夫婦が亡くなって32年経った今、僕は敢えてこの話を公にすることにした。そうすることによって、これを読んだ人から従姉と娘がやったことの意味を、そんなものがもしあったのなら、少しでも良いから得たいのだ。誰か、知っていることがあれば、どんな些細なことでも良いから教えて欲しい。場合によってはお隣にもこの話を伝える必要があると思うのだ。