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本編

 土曜日の昼前に目を覚ました私は、突如「青年団セット」を食べに行こうと思った。カラリと揚がったメンチカツ定食のことだ。貧乏学生の懐にも優しい、味も良く清潔で雰囲気も良いとんかつ屋のメニューである。他のメニューも命名が一風変わっていて、ミルフィーユ肉のカツなら「村の三役セット」、ヒレカツなら「村長セット」、といった具合だった。
 店は地下1階にあり、歩道から入り口を潜り左手の階段を降りる必要がある。階段を降りようとしながら、首だけ右に回して店の様子を伺おうとした。満席で入れないことも多いのだ。が、それがいけなかった。気づいた時には右足を階段から踏み外し、身体が宙に浮いていた。
 そのまま2段位飛ばした左足が階段にかすった。見下ろすと、残り4段程にはもう足が届きそうもない位身体が高く浮いていた。階段の左側の壁には頑丈な金枠に嵌った40cm四方位の店名看板が並んで取り付けられていて掴むことができない。右側の手摺は遠く、とても手が届かない。
 正面踊り場には床から50cm程空けて、同様の金枠入り店名看板が縦に4行横に3列程ズラリと並んでいる。看板自体はプラスチックに見えるが中には蛍光灯が光っている。まずい、このままでは看板に頭から突っ込んで大怪我をしてしまう。ついでに感電もしかねない。看板は一般に高価なので、その弁償も辛いだろう。何とかしなければ!
 みるみる内に近づいてくる看板を見つめながら必死に考えた。と、少し前に読んだ「人間凶器」の受け身のシーンが思い浮かんだ。主人公が叩きつけられる寸前に、地面に肘打ちを入れて衝撃を緩和していた。咄嗟に正面真ん中一番下の黄色い看板に狙いを定めた。もう看板まで50cmも無い。看板1枚、右腕を1本犠牲にして身体を守れれば御の字と覚悟を決め、宙に浮いたまま身体を左に捻り、身体を軽く丸めた。破片が目に入るといけないので目を瞑り、左腕で目を庇った。看板にぶつかる寸前に胴体につけた右肘を、そのまま横向きに広げるように、思い切り盤面に叩き込んだ。とても大きな音が聴こえた。
 気がつくと私は踊り場に半ばしゃがんだ格好で、看板に右肩で寄りかかった状態で立っていた。息は荒く、鼓動も早かった。固く瞑っていた目をゆっくりと開いて、看板を確認したが1枚も割れていなかった。
 看板に寄りかかったまま、ゆっくりと立ち上がり自分の身体を確認した。どこにも怪我は無かった。命拾いした。踏み外してからぶつかるまで、2秒も無かったと思う。
 店で食べた「青年団セット」は格別で、とても美味かった。これ以降、「青年団セット」以外のメンチカツ定食を食べたことは無い。

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